July
Music Feature
音楽ファンの心をつかんでこそ本物なんだ..音楽の役割
アニメーションの音楽を語る時、 先ず頭に浮かぶのは、ウォルト・デ ィズニーの作品でしょう。 「ファンタジア」の、あの見事なア ニメーションと音楽のドッキングは、 絵と音楽の交響詩でした。 又、この夏、公開される、ディズ ニー最初の長編アニメーション「白 雪姫」 でも、音楽を大変効果的に使 っています。森の中で七人の小人が 口笛を吹きながら、コミカルに楽し く歩くシーンがありますが、この場 面なども、登場人物の動きと、音楽 の流れがピッタリと合っていて、実 に見事な出来ばえです。 画面の動きだけでも十分に楽し いのですが、それに音楽が加わるこ とによって、一層その楽しさ、面白 さに、巾と深みが増えるので、見て いる者を、グイグイとその画面の世 界へと引き込んでしまうのです。 こ れは何もアニメーションばかりでは なく、他の、いわゆる実写と呼ばれ 俳優達の出る映画でも、音楽の 持つ効果は、大きいものがあります が、特に、アニメーションにおいて は、音楽がより重要な働きをすると 言えます。 ウォルト・ディズニーは、長編の アニメーションの作品ばかりでなく、 それ以前の、ミッキーマウスやドナ ルドダックを主人公にした短編アニ メーションの頃から、音楽を大切に していました。恐らくディズニーは、 絵を動かすとき、音楽が見る人々の 気持ちを、より夢の中へさそうのに、 大きな力があると感じていたのでは ないでしょうか......。 音楽もここまで考えて、作られれ ば、ただ単なる効果音楽としてでは なく、音楽作品として完成されたも のになると言えます。ウォルト・デ ィズニーは今から四十年以上も前に、 その事に気づき、実行していました。 それだけに偉大なプロデューサーで あったと言えるのです。 ところで、日本のアニメーション の場合はどうでしょうか。 幾つかの例をのぞいては、あまり 。 音楽を大事にしているとは言えな い様です。なる程テレビ番組のアニ メーションで作られるテーマ音楽は、 沢山ヒットしています。でも、それ はあくまでもヒットソングとしての 人気です。画面にピッタリ合った音 楽、それ以上に、画面を引き立たせ る為の音楽作り、という点に関して は、まだまだと言った感じです。 でも、近頃では音楽の効果を十分 に考えて作曲して、それを又、上手 に使いこなしている作品もボツボツ 見られるようになりました。 そのきっかけになったのは、大ヒ ットした作品、「宇宙戦艦ヤマト」 でしょう。その証拠に、アニメーシ ョンにはそれ程興味なくても、その 音楽がすばらしいといって、サウン ドトラックのレコードを買った、音 楽マニアが多くいたのです。 ですから、作品の内容を盛り上げ 音楽、そして、音楽としても、十 分に聞いて楽しめるもの・・・。 そうい う音楽を、これからはアニメーショ ンの為に作り出さなくてはいけない と思うのです。 ところで音楽の効果をはっきり とってもらう為のヒントとして、 こんな話しをしましょう。 これはある小学校高学年の少年の 話しなのです。少年がまだ幼稚園の 頃に見たアニメーションで、今では 題名も、内容もすっかり忘れてしま っているのに、その作品の一場面に 流れていた音楽を覚えていて、その メロディーを口笛で吹いてくれたの です。 この例でも解ると思いますが、い ったん感動して、聞いた音楽は、長 い月日が過ぎても、なかなか忘れな いものなのです。場合によっては、 場面さえも忘れてしまっていても、 音楽は耳の底に残っています。 ここに、音楽の持つ素晴しさと、 又、重要性があります。 言い方を変えれば、その作品を生 かすも殺すも「音楽しだい......」 なのです。 今迄、音楽といってきたものは、 いわゆる一口でゲキバン(劇の伴奏 用の音楽)と呼ばれている音楽のこ とです。が、これからは、作品の伴 奏用の為に作られた作品でも、それ が、音楽としても作品を離れて生き て行けるもの…つまり、人々に音 楽としても愛される作品を作る事が 必要だと言えます。 今迄、音楽といってきたものは、 いわゆる一口でゲキバン(劇の伴奏 用の音楽)と呼ばれている音楽のこ とです。が、これからは、作品の伴 奏用の為に作られた作品でも、それ が、音楽としても作品を離れて生き て行けるもの…つまり、人々に音 楽としても愛される作品を作る事が 必要だと言えます。 それが、又、そのアニメーション の作品としての重みや、価値といっ たものを、より大きくすると考える からです。 アニメーション音楽の現状
今、日本のテレビ番組の中で、 ア ニメーションの占める位置は、かな り大きなものです。 逆に言えば、日本のアニメーショ ンを、今日のように盛んにしたのは、 テレビであるとも言えるのです。 その結果、近頃では、劇場用アニ メーションも続々と制作され、多く のファンを楽しませています。 これは、良く言われるアニメーシ ョンブーム、という言葉ではかたづ けられないもので、今ではテレビ、 それに映画の中で重要なジャンルと して確立したと考えていいでしょう。 その上、日本のアニメーションは、 外国でも十分に通用する作品として、 沢山のロボットものやギャグもの少 女ものなど色々な種類のテレビ用ア ニメーションが、外国で買い取られ て、その国のブラウン管にのって、 子供達を楽しませています。 このように、日本のアニメーショ ンは、世界の国々で高く評価される ようになりましたが、では、アニメ ーション音楽の方はどうでしょう...。 これが残念なことに、あまり高く 評価されていないのです。 その良い例をお伝えしましょう。 日本で制作されたアニメーション を買った国々で、必ず、音楽を別に 新しく作るということです。勿論、 国によって国民性が違いますから全 部が全部、日本で作った音楽を使う というのは、無理な話です。 ですが、音楽は先ずほとんどと言 って良い位い、日本で放送する為に 作られた作品を、外国では、そのま ま受け入れてはくれないのです......。 ある外国のテレビ局のプロデュー サーは、はっきりとこう言っていま す。 「日本のアニメーションは、大変、 作品として良く出来ているが・・・・・ 一つ大きな欠点がある・・・・・・それは音 楽が全般的に、もう一つ我々にアッ ピールしないことだ!」 そしてー。尚 「もし、その音楽が気に入るものだ ったら、我々はわざわざ自分の国の 作曲家を使って、新しく音楽を作っ たりはしない……なぜなら、その が手間とお金がよけいにかかるのだ から.......」 と、言葉をつづけました。 確かに、アメリカや、ヨーロッパ は、音楽的には、日本より先進国だ ということが言えますが、それだけ が大きな理由ではありません。 はっきりしているのは、今の音楽の 作り方では私達、日本人には良くっ ても、外国の人には良いと言われな い事です。 なぜ、それでは外国の人に良いと 言われないのでしょう。 先ず第一に外国の人達に受ける、 メロディーの足りない事。 第二に、外国の人達の心をゆさぶ るハーモニー(オーケストレーショ ンとサウンズと言った方が良いかも 知れませんが••••••)が足りない事... この二つです。 これは、何も日本の作曲家の実力 が足りなくて、能力が無いというの ではありません。 実力を持った作曲家は大勢います。 では、なぜ、外国の人達に受け入 れられないのでしょうか......。 その理由の一つ......これが一番大 きな原因なのですが、アニメーショ ンが完成して、いよいよその作品に 合わせて音楽を作るということにな った時に、そのほとんどが、外国の 人達に通用するような音楽を製作し ようとして、作曲、編曲にとりかか ろうとしないからです......。 当然、 日本のテレビ、又、映画館で放送や 映写される作品ですから、日本のお 客さんに受けることが第一と考えて、 音楽を作る為です。・・・・・それはそれ で良いのですが......。 そこに、日本だけでしか通用しな い、アニメーション音楽の生れるわ けがあるのです。 一つの体験をお知らせしましょう。 日本人とアメリカやヨーロッパの 人達の感情の違いの例です。 ヨーロッパのある国と、日本との 合作アニメーションを作った時の事 です。 主人公が泣くという場面の時・・・・ 日本でしたら、泣くと言えば当然、 目から顔に涙が流れると考えます。 そして、その作品でも、日本のアニ メーターはそうしたシーンを作りま した。なかなか良く出来たシーンだ ったのですが・・・、外国のプロデュ ーサーから、リテーク(やり直し) が出されたのです。そのプロデュー サーの言うのには、泣くというのは、 目に涙をためることで十分だ、顔に 涙を流してしまっては、泣かせ過ぎ るというわけです。 同じ泣くという表現でも、日本と その国とではこれだけ違うのです。 もちろん、これはほんの一例で、 全てではありませんが、なんとなく、 その国民性による感情の違いが、解 ってもらえるのではないかと思って 紹介したエピソードなのです。 絵でさえ、これ程違うのですから、 音楽で いや、絵よりも音楽の方が、もっ と違うでしょう。 感じ方・・・・・これは国民性によって ずいぶん違うのです。 例えば、悲しいというのでも. アメリカやヨーロッパの人々は、 日本人以上に、悲しいという感情の 中に流れている美しさ、というもの に目を向けます。 美しさ、ばかりではありません。 楽しさ、喜び、淋しさ等の感情にも、 日本人とは違う受けとり方をする部 分があるのです。 ですから、音楽を作る時に、メロ ディーや、サウンズもその点を十分 に頭に置いて、外国で喜ばれるよう な作り方を初めからしなくては、い けないというわけなのです。 それでなければ、外国では、せっ かく日本で作った音楽をそのまま使 ったアニメーションを放送する事が、 なかなか出来ないでしょう。 確実に今、日本のアニメーション が、外国で高く評価され始めたので すから、その作品の為に作曲された 音楽も、外国で高く評価されて使っ てもらえたらと思うのは、誰の気特 ちも同じではないでしょうか・・・・
これからのアニメ ーションと音楽
アニメーションの為に作られた音 楽が、ポピュラーとして、いつまで も長く、人々に歌われ、聞かれるよ うになったら・・・・・・そんな事をフト考 える時があります。 今の状態は、よほどの例外でない かぎり、その音楽の生命は(テーマ ソングを中心にして) アニメーショ ンが、テレビで放送されている時だ けで、放送が終るとそのまま、 てしまうのがほとんどです。 テーマソングがそうなのですから、 ゲキバンとして作られた音楽は、全 く人々の記憶にも残らないといって もいいでしょう。 初めに音楽によって、その作品が 生きることも、死ぬこともあると言 いましたが、もう一歩、この考えを すすめて、アニメーションより、音 楽が話題になるような作品が出来て も良いのではないかと思うのです。 外国の劇場用映画においては、過 去にこの様な例はいくらでもありま した。 又、アニメーションの作品によっ て、テーマ曲のメロディーの特色は 当然ですが、テーマ曲のサウンズも、 ゲキバン用の音楽のサウンズも、そ れぞれ特色のあるものにしたら、も っと多くの人々にアニメーションを 楽しんでもらえるのではないかと考 えるのです。 今、音楽はヤングの、ファッショ ンであり、興味の一番あるものの一 つです。 ロックから始まって、ポピュラー ニューミュージック、クロスオーバ ー、フュージョンと、様々な音楽が、 それぞれにファンの心をとらえてい ます。 この感覚を、アニメーションの音 楽にもっと自由にとり入れて、音楽 作りをしたなら、音楽ファンも、ア ニメーションのファンになってもら えるのではないだろうか......そんな 夢を見るのです。 技術的な面では、日本のアニメー う。 ションは世界に通用する程です。 し かし、音楽の面では、もう一歩も、 二歩も考え方を変えて大きく前進し ないと、世界には通用しないでしょ これは全く残念なことです。 効果音楽としてだけでなく、欲を 言えば、アニメーションの音楽の中 から、新しい感覚のサウンズが生ま れ、それが音楽ファンに受け入れら れる……そうなったらどんなに素晴 しいことかと思うのです。 もう一つ、アニメーションの音楽 が、外国で認められるようにする為 に、場面につける効果音楽の選び方 があります 思いつきだけで考えれば、面白い シーンには面白い音楽、美しいシー ンには美しい音楽、淋しいシーンに は淋しい音楽を選んで、効果音楽と してつければ、その場面、場面が、 より生きると考えるものです。 もちろん、それはそれで正しいの です。 です。 ですが、そこでもうひとひねりし て、 音楽を選ぶ必要があると思うの 特に音楽的先進国といわれるヨー ロッパやアメリカでは、なかなか思 い切った効果音楽を、場面、場面に つけます。又、その音楽の選び方も、 演出をする人の評価につながり、実 力と考えられるのです。 簡単な例として上げると......、 バカバカしい位いの、ドタバタの おかしいシーンに、わざと甘く美し い音楽をたっぷりとつけたり、美し いシーンに、明るい音楽をつけたり します。 一寸考えると、まるで逆のような す。 感じがするのですが、意外とこれが 効果的だったりするのです。 ですから、場面場面にどんな音 楽をつけるかという事も、これから アニメーションの音楽を外国で認め させる為の、重要な鍵の一つとなり ます。 もし、 出来たら、次のような実験 をしてみるのも面白いでしょう。 誰かが写して来た8ミリのフィル ムを借りて来て、映写しながら、そ のフィルムに合う、合わないを考え ずに、好き勝手にレコードかテープ から音楽をかけてみるのです。そう すると、音楽によって、同じ内容の フィルムの感じが、全く違ってしま うことに気がつくでしょう・・・・・・。 クラシックのシンフォニーなら、 それなりに・・・ビレッジ・ピープルの ディスコサウンズなら、又、それな りに······感じ方が違ってしまうので これは、音楽の一つの魔力なので そして、もう一つ気づくことは、 どんな音楽を選んでかけても、それ は又、それなりに、フィルムと合っ てしまうという事です。 これが、音楽の一つの魅力なので す。 ですから、場面に合わせて音楽を 作り、選ぶ・・・・・・と言うのは、思った より大変な仕事なのです。 又、それだけやりがいのある仕事 でもあります。 今迄、もし何気なくアニメーショ ンを見ていたのでしたら、これから は次のことに注意して、音楽の方も 聞いてみて下さい。 先ず、テーマ曲とサブテーマ曲(最 後に流れる曲)のメロディーとサウ ンズ。 次に、色々な場面に流れる音楽の メロディとサウンズ。 これを良く聞きながら、アニメー ションを見ると、又、今迄と違った 見方、楽しみ方が出来るはずです...。 その気持ちをもっと広げたい人は、 こんなアイディアはどうでしょう...。 よく、アニメーションは、何ヵ月 か後に再放送がありますね。 その時 に、初めの放送の時に見て筋も音楽 も、一応耳と頭に入っているわけで すから再放送の時は、テレビをつけ ても、ボリュームは落すのです。 その後、レコードなり、カセット テープなりで、自分が選んで来た音 楽を、色んな場面に流してみます。 そうすると、初め見た時とはずい 分違った感じで、同じアニメーショ ンが見られます。 これはテレビで放送されてるアニ メーションに、見る人が参加してい るという感じになります。 こんな遊び方をして、アニメーシ ョンを楽しむと、きっと、アニメー ションの音楽の大切さや、アニメー ションの為に作る音楽のむずかしさ が、解るだろうと思います。 そして、そのことに気づいてくれ る、アニメーションのファンが多く なればなる程、アニメーションの音 楽ばかりでなく、アニメーションそ のものも、良い作品が沢山生れるこ とに、つながっていくと考えるので す。 それを又、楽しみにしているので す。
Hisayuki Toriumi Feature
演出家が一番大事にしなければ
ならないことは、自分が演出する
ということに対してプライドを
持つことだと思う「ニルス―」は冒険的な作品
TA.「ニルス」、好調のようですね。
Toriumi. そうですね。予想してたよりはかなり いいようです。視聴率の方も平均一二%、最 高では一七%まで達したそうです。NHKが 同じ時間帯でこれまで放送した、例えば「キ ャプテンフューチャー」 「未来少年コナン」 など、話題になったものがありますが、それ より視聴率ではいいみたいですね。
TA. 番組の終わりに「ご意見をお寄せ下さい」 とありますが、かなり届いていますか?
Toriumi. 一日にどのくらいくるのか、くわしい 数字は聞いていませんが、とにかくすごい数 の手紙が届いていますね。本当にありがたい と思います。
TA. なるほど。ところで、今、鳥海さんは「予 想してたより……」とおっしゃいましたが、 予想を下に置かれた理由は?
Toriumi. いや、もちろん今ぐらいの視聴率を確 得する自信はありましたよ(笑)。ただ、現在 のTVアニメの状況は(いい悪いは別にして)、 ストーリー主義全盛ですよね。どんどん、ど んどん複雑にストーリーをくるんでいって、 ドンデン返して人を驚かす(笑)。そうしたや り方が受けているわけです。ところが、「二 ルス」の場合は、小人にされたニルスが 旅に出て良い子になって戻ってくる、たった それだけ(笑)。人をビックリさせるストーリ なんてどこにもない。
TA. ...ええ.....。
Toriumi. それで、それでというか”見せて行く" 方法には、そうしたストーリーを中心にクラ イマックスを目指して行くやり方も一つです が、一方ではひとつの状況の中でのキャラク ターのリアクション(対応)を主体に描いて 行くやり方もあると思うのですね。
TA. つまり、心の動きを中心にした・・・
Toriumi. そうですね。ひとつの事件(事件とい ってももちろん作為的なものでなく、あくま でも自然界の出来事ですが)があったとしま すと、それに対しニルスたちがどう考え、ど 対応して行くかという、そのプロセスを主 体に描いて行く方法です。もちろん、この場 合”見せる"要素が強くなるというか、見 せて行く"ことが中心になりますので、動き や色彩については、ひとつひとつていねいに 作ってきているわけです。説明が少し長くな りましたが(笑)、つまり、こうした方法とい うのは、現在のストーリー全盛の流れに逆行 しているということなんですよ。
TA. なるほど。そうしますと、鳥海さんはこ の「ニルス――」をお引き受けになる時、か はり躊躇されたのですか?
Toriumi. そういった意味では少し不安みたいな ものはありましたね、正直なところ。しかし、 それ以上に、いや、それだからこそ逆にチャ レンジしてみようという気持が強かった。ど こまでやれるかわからないが、自分に与えら れたのですし、とにかく一生懸命やってみよ うというね。それに「ニルス――」みたいな 作品に興味を持っていたこともあるし......
TA. ーといいますとー。
Toriumi. 実は、五一年の時でしたか、その頃僕 は「竜の子プロ」の社員だったのですが、そ の「竜の子」にフランスから合作の話が持ち 込まれ僕がそれを担当することになったんで す。日本語名を「昔、昔、人類は」というの。 人類の誕生から未来までを描いたものなんで すが、このアニメには台詞が全くないんです。 もちろん絵の意味を見る人に伝え、しかも飽 きさせない工夫をしなければならないわけで すが、それを“動き”でやったのです。台詞やナ レーションがなくても"動き"で、その意味 はもちろんスピリットまでわかるようにした。
TA. ええ......。
Toriumi. そのために一本につきセルを一万二千 枚ぐらい使いました。そんなの僕も始めての ことです。でも完成したのを見てそれが出来 ているのですね。それまでは、濃縮ストーリ もの(笑)ばっかりで、そんなことあまり考 えなかった。
TA. こんな方法もあるかという-。
Toriumi. そう、こんなやり方もあるのかと思い ましたね。それに、私はこの「昔、昔 を二年間担当し、その間、フランスにも行っ て向うのアニメ制作者と話す機会があったの ですが、アニメに対する考え方が僕ら日本人 (少なくとも僕自身を)とは全然違うのですね。 彼らは、アニメというのは楽しいものでなけ ればいけない、ワンカット、ワンカットが心 踊るようなものでなければならない。なのに、 日本のアニメはどうしてあんなに深刻に悩ん だものばかりなんだと僕に言うのですよ。 これには僕もこたえました。心当りがありま すしね(笑)。それからそのことについていろ いろ考えていたのです。
TA. なるほど、そんな時に「ニルス」の 話があったわけですね。
Toriumi. そうです。
TA. ところで、その「昔、昔――」 は、現在 もフランスで放送されているのですか。
Toriumi. フランスだけでなく、ヨーロッパのそ の他の国でも放送されていて、かなりの好評 を得ているということを聞いています。
TA. ――日本ではー
Toriumi. いえ、まだです。
印象深い「科学忍 者ガッチャマン」
TA. 次に、鳥海さんのアニメ歴について伺い たいのですが・・・・・・
Toriumi. そうですね……僕の場合はアニメが好 きで好きでということではないんですよ。 そもそも僕は、シナリオ(アニメじゃなく実 写の)を書くのが好き 中学 ど友だちと一緒に同人誌みたいなもの 書いたりしていたんです。 大学 中央大学 法学部) でもESSに入って英語劇などを っていました。それで四年生の時、なんとか シナリオライターになりたいと、「シナリオ 作家協会」のシナリオ講座を半年間受講した んです。ところが、あの頃は映画がテレビに 押されっぱなしの時でしたから、どこの映画 会社も採用者ゼロ。どうしようかなと、こま っていた時に友人の一人がアニメの会社が人 を募集しているが、と話を持ってきてくれた のです。それで大学卒業と同時に入ったので す。四一年でした。
TA. それが「竜の子プロ」なわけですね。
Toriumi. そうです。丁度その時、例の「宇宙工 ース」の最終部分をやっていた時でしたね。
TA. 入られてからは?
Toriumi. とにかくそれまでは、アニメについて は、大学の時、友人の下宿で「ジャングル大 帝」を一、二度見た程度で興味もありません でしたので何ひとつ知らないわけです。です から半年間ぐらいは何もせずに、アニメ作り を覚えました。もっとも会社の方も、「宇宙エ ース」が終わり、「マッハGO GO GO」の 準備時期でしたのでかなりヒマだったですね。 それで、三ヶ月に一本ぐらい、各演出家が「マ ッハー」を作っているうちに、自分にもそ の順番 回ってきて作ったのが最初でした。 丁度三クールめからでしたね。
TA. それからはどんな作品を
Toriumi. それ以外では、「科学忍者隊ガッチャ マン」「破裏拳ポリマー」 「宇宙の騎士テッ カマン」「ゴワッパー5ゴーダム」などです。
TA. その中で印象に残っているのはどんな作品ですか?
Toriumi. やはりいろんな意味で「ガッチャマン」 でしょうね。
TA. いろんな意味とは?
Toriumi. まず、この「ガッチャマン」が総監督 として僕がかかわった最初の作品であるとい うこと。とにかく二年間必死でやったことを 覚えています。それから、この作品が、それ までの、いわゆる、マンガマンガしたストー リーから脱却してシリアスなものにしたこと から、かなりの抵抗があったようなことです。
TA. と言いますと?
Toriumi. お前が作っているのはアニメじゃない と言うんですね。アニメは子供が見るものだ からストーリーなんかはやさしくなければい けない。難かし過ぎると言うんですよ。それ 僕もその頃はまだ若かったものですから、 子供だけでなく中には大人も見ているであろ う。アニメだって大人の眼にも十分耐えられ るものでなければいけないとそれを通し たんです。しかしそれも完全に、ということ でなく、部分的にはマンガ的なところも入っ たりしましたが......。 そういう意味では中途 半端だったのかもしれませんね。それでも二 年めに入ってかなりの反響を呼ぶことができ、 僕自身も気をよくしたのですが、それ以来、 鳥海はシリアスものが向いている、といった 評価が竜の子内で定着しまして非常にこまっ たわけです。
各作品の全責任は 各担当の演出家に
TA. それから、最後の質問ですが、総監督の やり方”についてはどんなお考えですか?
Toriumi. 今の「ニルス」の場合を話してみ ますと、演出家は僕を含めて五人いるのです が、それぞれに僕の意図を伝える方法として、 は、まず自分で演出したものを何本か先に作 りまして「こういったものを作ってほしい」 とそれを見せることをやっています。本当は 皆の前で一席ぶてばいいのですが、僕はそう したことが、どうもニガテなものでしてね。
TA. なるほど。
Toriumi. それから演出”ということですが、 僕はそれぞれの演出家に絵コンテを切らせ、 最後の処理までやってもらうようにしていま す。つまり、各一話一話はその担当の演出家 が全責任を持つ、という方法です。 最近です と、絵コンテは絵コンテマンガ、処理は処理 マンガというように役割を分担するやり方が 多いのですが基本的に僕は反対なんですね。 絵コンテというのは演出家のいわば〝演出メ モ”だと思うのです。メモですからそれは書 いた本人しかわからないわけですよね。この 絵コンテに対する考え方は僕は竜の子で教わ りました。それから、これが一番大事なこと だろうと思うのですが、演出家は自分が演出 するということに対してプライドを持つこと ですね。
TA. 最後に、これからどんなアニメをやって 行きたいですか?
Toriumi. とにかくスケールの大きいものをやっ てみたいですね。実写で言えば中、高校時代 に観た「ベンハー」とか「モーゼの十戒」と か「椿三十郎」みたいなものね。そういった ものであれば、SFだろうが時代ものであろ うが何でもいいですね。 本当にぜひやっていただきたいですね。 今日はありがとうございました。
Information Pack
スペシャル!森功至スペシャル!バードゴォー!! 雨などものとも せずに、今月もジ・アニメ情報パ ック隊は発進! ガッチャマンは、 大鷲の健でおなじみの森功至さんが ようやくレコードを制作するという のだ。ファン待望〟というフレー ズはよっく使われるが、森さんの場 合、ホントーに待望のアルバムとい う感じがする。 それだけに制作スタッフの人たち も相当な力の入れようだ。全体の構 成について、ディレクターの高塚俊 記氏にお話をうかがった。 「A面は宇宙の旅へ"というサ ブ・タイトルのもとに、彼自身が演 じたアニメ・キャラ、例えばガッチ ヤマンの健、ドカベンの土井垣など やってらっしゃいますね、歌の合間 に、そういったキャラをコミカルに 入れて構成します。B面の方は〝は じめまして・・・あなたの部屋に"とし て、彼自身の生のキャラクターを打 ち出したものです。 彼自身の人生を フリートークで大いに語ってもらい ます。 ウワー!ダイタンな企画!ファン ならずとも楽しめるアルバムになり そう。タイトルは「森功至スペシャ と ル〜ふれあいの時流を求めて」。キン グから7月24日発売予定。 そんなに 待てないよー! と、考えていると、森功至さんが 登場。スリムで長身で、ガッチャマ ン健もブットブかっこよさ。 「生来、あがり症なので前の晩は 眠れませんでした。ともかく初めて の経験で、とても緊張しています。 上手な人はより上手に、そうでない 人はそれなりにといった心境です。 でも、全体の構想も凝っているし、 完成度の高いアルバムにしたいと思 ってます。」 森さん自身の入れ込みようもかな りのもの。「宇宙の旅へ」「君よ」「ガ ラス張りの喫茶店」「狼の証し」「ぼく とあなたと」と全10曲中、半分の5 曲を作している。作曲、アレンジ は、ガンダムでおなじみの松山祐士 氏が担当。 写真の左側の、リズムを とっていらっしゃるのが松山先生で すぞ!モチロン、右側のサングラ スの人が森功至さん。 ジャケット・ デザインは、人気漫画家であり、奥 サマである鈴賀レニさんが担当。大 大期待作といって過言なし!
この夏は、トロピカルにGO!スラップスティック!!
ジャーン!! スラップスティック の3枚目のアルバム「トロピカル/ スラップスティック」がいよいよ発 売されます。先月号でもお知らせし た通り、キャニオン・レコードから 6月21日に一斉発売されます。 海、青春、といった今までのスラ ップスティックのイメージに、夏の 明るさ、すがすがしさが加わり、ア ルバム・タイトル通り、トロピカル なムードいっぱいのゴキゲンなレコ ードです。ここで、全10曲のライン ナップとボーカルでリードをとるメ ンバーを紹介しちゃいましょう。 真夏の38度(メンバー全員) ココナッツ・エンジェル 夕陽の恋人(古谷徹) (古谷徹&古川登志夫) クリスタル・ムーン(三ツ矢雄二) 永遠の葉山(曾我部和行) 夜間飛行 (古谷徹) デッキ・チェア(古川登志夫) ピンナップ・レディー (野島昭生) テレスコープ (曾我部和行) 流星80 (三ツ矢雄二) それぞれのメンバーの 持ち味を生かしたステキ な曲ばかりです。 作詩には、宮下智さん 森雪之丞さん、さがらよ しあきさん、小林和子さ んといった顔ぶれ。作曲 は、すぎやまこういちさ ん、弾厚作(加山雄三) さん、大瀧詠一さんに、 宮下さん、森さんといっ た陣容。いけない!ガベ さんも「テレスコープ」 の作曲をしています。何 だか、発売日まで待ちき れない気がしてきません か?
神谷明、オリジナルLPを発売!! 日本橋三越でコン サートも!
「燃えろアーサー・白馬の王子」 アーサー役で、りりしい声を聞かせ てくれている神谷明さん。本誌の「人 「気投票」 男性声優部門でも、常にト ップの座を維持し、あいかわらず、 人気絶頂!といったところです。ま た、内田直哉さん、福沢良さん、中 尾隆聖さんらと始められた小劇団「ふ おーいんわん」も、軌道にのり順調 です。 さて 今度の神谷さんの新LPは タイトルを「まわり灯篭~青春の伝 説」といい、6月25日に日本コロム ビアから発売されます。歌と語りを 中心としたスタジオ録音盤で、これ までの「日劇ライブ」や詩の朗読で あった「抒情断章~青春のモノロー グ」とはひと味違った、魅力あふれ るアルバムです。 海野洋司氏が構成と作詞を担当、 音楽は田辺信一氏。全10曲で、この内 「ミス・スニーカー/まわり灯篭」 がシングル・カットされます。 この新アルバム披露ステージが左 記のように行なわれます。 日時 6月25日(日)11:30AM 場所 日本橋三越屋上ステージ 問243311 三越まで。 〔神谷明プロ フィール〕 9月18日生 まれ。「勇者 ライディーン」 「闘将ダイモ ス」など。ぷ ろだくしょん バオバブ所属。
クライマックス!! 全国縦断声優大会
4月から続いていた全国縦断声優 大会も、残りのステージはあと3回 になってしまいました。これだけの 豪華なメンバーが一堂にそろうこと は滅多にないことです。声優ファン ならずとも、一度は見ておきたいも のですね。 ヤマトフェスティ バル愛読者御招待 この夏の話題は何といっても「ヤ マトよ永遠に」です。映画封切直前 にヤマトを支えてきたファンのため に、大イベントが催されます。 80 ヤマトフェスティバル・イン・武 道館〜ヤマト誕生からヤマトよ永遠 にまで~ 出演=西崎義展氏、松本零士氏 舛田利雄氏の他、佐々木功 さんやキャラ声優さんの多 数出演が予定されています。 内容は「ヤマトよ永遠に」の部分 上映をメインに、声優さんのアテレ コ風景実演、大オーケストラによる ヤマト音楽のコンサートなど盛り沢 山の企画が用意されています。 ジ・アニメでは、この「ヤマトフ エスティバル」に、読者の皆さんを 御招待いたします。人数は、昼の部 夜の部各々100名づつです。招待希望 の方は、ハガキに、住所、氏名、年 齢と、昼と夜と どちらを希望す るか明記して、 30日までに到着 するように出し て下さい。あて 先は、〒160 東 京都港区西新橋 2の7の4 第 20森ビル 近代 映画社 「ヤマ トフェスティバ ル」招待係。
August
Ippei Kuri Feature
「海底大戦争」で
久々の現場登場!
TA. 九里さんは現在、竜の子プロの専務取締 役をなさっておられますが、最近は制作現場 のお仕事はなさらないのですか。
Kuri. 管理職としての仕事の方がけっこう忙 しいので、ひとつひとつの作品に関しては現 場に出て直接タッチするということは少なく なってますね。長年現場でやってきたので少 し淋しい気持もしますが、ま、現在は後輩を 指導するという意味を含めて、すべてに対す るアドバイザー役というところですね。
TA. でも 「海底大戦争」では総監督を・・・。
Kuri. そうなんです。久々に現場に出て、企 画の段階から先頭に立ってやりました。竜の 子プロの場合、連続アニメには長いものが多 いでしょ、例えば「ガッチャマン」とか「タ イムボカン」等のシリーズものなんかがそう ですね。ですから、時間的にどうしてもそれ にのみたずさわるということができなくって ...。 でも「海底大戦争」のようなものは単発 ですから、これからは、こういういいものを つくるためにドンドン現場に出てガンバリた いと思っています。僕だってまだまだ若い人 たちには負けたくありませんからね(笑)。
TA. たいへん心強いですね(笑)。ところでこ 「海底大戦争」は、いつ放映されるんです か、見どころなんかも教えてください。
Kuri. 放送日はまだ正式には決っていないん ですが、おそらくお子さんたちが夏休みに入 った7月か8月頃になると思います。キー局 は日本テレビで、30分もののスペシャルアニ です。 音声多重放送でオンエアされるというのも 特徴のひとつですね。見どころといいますと いろい カニックが出てくるんですが、 絵的にそれらの重量感が出せたということが あげられます。普通、色のきれいさは出せる んだが、重量感・質感といったものはなかな 出しにくいんですね。今回は「これがアニ 「メか」と驚く程に重量感のあふれる場面がた くさんでてきます。ぜひご覧になってください。
マンガのプロダクシ ヨンが竜の子の前身
TA. とても楽しみですね。ところで、九里さ んがアニメーションの世界に入られたキッカ ケは何だったんですか、そこいら辺のことを お話ししてください。
Kuri. もともと僕は雑誌にマンガを描いてい たんです。少年マガジンが創刊されてから一 年目ぐらいに連載した「マッハ三四郎」とい う作品があったんですが、これがロングラン の人気マンガになりましてね。少しおくれて 少年サンデーの「大空の誓い」とか・・・。トン トントンという感じで結構忙しくなってきた んです。 ちょうどその頃、挿絵家だった兄(編集部註・ 竜の子プロ初代社長の故・吉田竜夫氏。九里 一平さんの長兄にあたる)が、アルバイトで やはりマンガを描いていたんですが、僕が少 忙しくなってきたもんで、あい間をみて僕 の作品を手伝ってくれたりしたんですね。も ちろん当時の僕にはアシスタントを雇うよう な余裕もなかったので、たいへん助かりまし た。兄は僕よりも絵がうまかったし、絵柄も 僕の絵と似ていました。 そんなある日「ふたりで別々のマンガを描く より、絵柄をあわせて共同で作品をつくった 方が、なにかといいんじゃないか」というこ とになりましてね。そこに次兄(竜の子プロ 現社長・吉田健二氏)も加わって、三人の力 を結集し、お陰様でいろいろな作品をこなし てきたわけです。いってみれば、これが現在 の竜の子プロの前身に当るわけですね。
「鉄腕アトム」に 刺激されて・・・
TA. なるほど、今でこそ雑誌マンガのプロダ クションはめずらしくありませんが、兄弟三 人で力をあわせて作品をつくるというのは、 そのはしりだったんでしょうね。さて、雑誌 マンガからテレビアニメーションへ移られた 直接のキッカケというのは何だったのですか
Kuri. 昔からディズニーなんかは観ていたん ですが、一漫画家としては大勢の人を指揮し てアニメをつくるなどということは夢のまた 夢みたいな気がしたものです。 それが、手塚治虫さんが日本初の国産テレビ アニメをやったでしょ。昭和38年に放映され 「鉄腕アトム」ですね。その頃、雑誌では それこそ隣り同士で載っている人のテレビ・ アニメですからね。どうしても注目せざるを えないですよね。毎回そうやって観ているう ちに、段々とあこがれのまなざしで観るよう になってきたんです。相当刺激されたわけで すよ。 手塚さんは天才ですからね。しかし彼は一人、 われわれは三人いるじゃないか、ひとつアニ メをやってみようじゃないか、ということに なったわけなんです。マンガ仲間だった笹川 ひろしさんを誘いまして、いろいろ検討した 結果、宇宙ものがいいだろうということで、 さっそく「宇宙エース」のアニメ化を手がけ たんです。たしか昭和38年の10月でした。
TA. 今と違っていろいろとご苦労があったん じゃないかと思いますが・・・。
Kuri. そうなんですね。今でこそ、たとえば 竜の子から出た人たちでも比較的簡単に下請 けの子会社やプロダクションをつくっていま すが、当時としては全く新しいジャンルの事 業でしたし、今の感覚とは全然違いましたか らね。当時としてはすごく冒険でしたね。
TA. 当時のエピソードなどを。
Kuri. いま考えてみるとバカげたことなんで すが、当時の僕たちは商売感覚というよりも 作家根性みたいなものが旺盛だったんですね。 それで、作ったものはわれわれのものなんだ というような考え方を持っていたんです。と ころが作品というのは、ま、いまもそうなん ですが、買い取りの状態でしてね。そんなの ではつまらない、ということで、せっかく作 った「宇宙エース」を局側に渡さないでひき あげてきたこともありましたね。ですから「宇 宙エース」に限っていえば、でき上ってから 放映されるまで一年近く間があったことにな るんです。で、当初はアニメづくりと併行し 雑誌マンガの連載もやっていたので、今思 えば、大変忙しかったですね。
忘れられない 「みなしごハッチ」
TA. その後、竜の子プロのあゆみとともに、 たくさんの作品を手がけてこられた九里さん なんですが、いちばん印象深いものをあげる とすれば、どの作品になりますか。
Kuri. ひとつあげろといえば、やはり「みな しごハッチ」(昭和45~46年)ですね。この作 品にはのめりこみました。当時の社会性にマ ッチした作品でしたね。そのころ、ちょうど 高度成長期で子供たちもカギッ子時代。また 教育ママが出た時代だったんです。いわゆる ツメコミ教育の最たる時代だったんですよ。 子供に感情がない、涙を知らない、情操教育 的なものが欠けているんじゃないか、という ようなことが社会問題にもなったころなんで すね。あまりにも淋しいこういう情勢のなか 僕たち自身も「このままでいいわけがない」 という具合に、世の中に疑問を持っていたん です。そこで子供たちにメルヘンを与えよう という気持でもってこの作品をつくったんで す。そういう意味では、われわれのポリシー が本当に芽ばえたという印象のある作品でし たね。
TA. アニメの技術面でもいろいろと変革があ ったかと思いますが、その点で印象に残った 作品もあると思いますが・・・。
Kuri. そうですね。そういう意味からいえば 昭和46年に作った「アニメンタリー決断」と いう作品が印象深いですね。これは、太平洋 戦争のことをドキュメンタリータッチで描い アニメ作品なんですが、撮影段階でのカメ ラワーク等、超リアリズムの方法などを駆使 したりして、技術的には当時としては他社の ものよりも数段とび離れていましたね。この 時期、技術的にものすごく発展しましたね。 業界でも独走していた感じです。T社などは 恥じらいもなく教えて欲しいと申し込んでき ましたしね。
アニメは非常に 地味な仕事です
TA. 最近はどうなんですか。
Kuri. 別段、おごった意識でものをいうわけ ではありませんが、最近では当時のスタッフ も独立したりして竜の子プロの個性が流出し 技術面でのレベルはどこも平均化しています ね。それはそれで広い目でみれば大変いいこ とだと思うんです。ただ、くやしいことには そのような技術者をかかえきれない経済状態 うらめしく思いますね。アニメ制作のアレ は安いですからねぇ(笑)。
TA. そういう話を、各所で耳にしますが(笑)。
Kuri. アニメの連中はみんな非常にひたすら でしてね。本来、アニメの仕事というのは、 そういう人たちが支えてくれて成立するもの で、地味な仕事なんですね。しかし考えてみ れば非常に技術のいる仕事なんですよ。大概 の仕事だったら10年も続けていれば一人前に 認められるというのに、アニメーターの場合 10年で一人前かというとそうでもない。苦労 の割にはめぐまれていない、という職業です ね。お金だけの問題ではないけれど、もう少 報酬があってもいい仕事だと思いますね。
TA. 最近のアニメブームについてはどう思 いますか。
Kuri. ブラウン管のお陰でブームが生じたん ですがね。先程もいったように、一時、業界 自体がひどくひもじかったんですが、そうい う時期がちょ よっと 過ぎたような感じはします ね。がむしゃらに作っていた時期を経て、今 では、いい仕事をしたい、いい仕事を残した いというふうに、ものを作る責任感というか 自覚みたいなものがでてきたようですね。舞 台さえあればいい作品がつくれるという希望 がわいてきましたね。
TA. さんがアニメづくりの上で心がけて きたことというのは・・・。
Kuri. 作品的にいうと、泣かせるためにつく るというようなことをしたくない、というこ とですね。同じ泣きでも、あたたかい涙とい うか感動の涙というか、つまりハーモニーな んですが、それを心がけてきました。 涙の中に笑いが広がってくるようなものです ね。これはマンガを描いていたときから変り ません。渋くても笑わせたい、どんなに苦し いときでもニッコリ笑いたい。自分自身が常 にそう心掛けているもので、そういう気持が 分身となって絵にあらわれてくるんですね。
TA. さんの尊敬する人は?
Kuri. 目標にした人は8歳年上の兄(註・前 出の故・吉田竜夫氏を指す)ですね。絵もう まかったし、ま、僕は親を早く亡くしました ので彼に対しては兄であり、父であり、友人 であるという感じですね。迷いなくついてい けた人です。 先生といえば彼だけですね。そ の他笹川ひろしさんとか宮本貞雄さん等、 品としても人格としても尊敬できる人に僕は めぐまれましたね。
TA. 最後になりますが、 こんごどんな作品を つくっていきたいですか?
Kuri. 夢夢に近いものとは違いますからね。 夢として話せば、そうですね。 ま、世界に通用 するという意味を含めて、やはり長編をやり たいですね。スタッフが「やろうじゃないか」 と集まって、一年でもいいです。ドロドロに なってやっとあげる。はじめがあっておわり がある。そしていくらの安らぎがある、とい うような形でね、ぜいたくなはなしですが、 そういうふうな仕事をしてみたいですね。も ちろんオリジナル、あるいは名作みたいなも のを、自分なりの発想を入れて、制作・プロ デューサー・チーフディレクターというふう にスーパースターとしてやってみたいなあ(笑)。
TA. 素晴しいですね。ぜひ実現して欲しいと 思います。今日はどうもありがとうございました。
October
Kazuo Komatsubara Feature
動きの中で見せる本モノのギャグをつくりたい絵を描いたり踊り狂ったりの 少年時代だった
TA. 子供の頃の話から聞かせていただきたい のですが、どんな少年だったんですか?
Komatsubara. そうですね、比較的家の中で黙って 絵を描いていることが多かったですね。紙と エンピツさえあれば、それで一日過ごせた。
TA. 子供の頃から絵を?
Komatsubara. ええ、幼稚園の頃から絵を描くのが 好きでしたし、子供にしては上手だったんじ ゃないですかね。僕の親父は描くのはダメだ ったんだけど、絵を見たり、批評したりする のが好きだったんですよ。ですから血のつな りというか、影響はありますよね。妹なん かも絵が上手だったんですからね。
TA. 外で遊ぶことは、ほとんどなかった?
Komatsubara. そうでもないですよ。僕は一風変っ 子供でしてね。外で遊ぶときなんか、たと えば、近所の連中を集めて、兄貴のたたくカ ンカラに合わせて、皆んなでフルチンになっ て踊りまわったりね(笑)
TA. ...!?
Komatsubara. 両極端なんですね。家の中で一人で 絵を描いているときと。今でもそういう面が ありますよ(笑)。ちょっと酒なんか入ると、 ひょっとこ踊りとか、考えられないことをや りますからね。お祭りの演芸大会にとび入り で参加したり、そういうことが好きなんです ね。ですから、もしアニメーターになってい なかったら、芸能関係にすすんでいたんじゃ ないかと思ってるぐらいです。ノド自慢大会 にもよくでましたしね。
TA. へえ、どんな歌を?
Komatsubara. えー、美空ひばりとか、三橋美智也 とか、もっと古いところでは高田浩吉とか、 年がわかるなあ(笑)。とにかく、僕の生ま れが昭和18年の12月24日で、クリスマス・イ ヴですから、人間がめでたくできてるんです よね(笑)。
TA. 子供の頃、好きだった絵に関する思い出 といいますと。
Komatsubara. そうですね、小学校のときは描けば 必ず教室に貼られたというのを覚えています ね。なにしろ絵の授業でなくとも、絵を描い て、先生のところへもっていくんです。そし てほめてもらって教室に貼ってもらったほど ですから。クラスのヤツらに嫌な顔されたり ね(笑)。
TA. そのほかには、
Komatsubara. 休みの日などは、父親によく写生に 連れてってもらいました。家が横浜でしたか 横浜とか、山下公園とか、鎌倉とかへね。 今から三十年近く前のことですけど、その当 時のことっていうのは、今でも思いだせます ね。絵っていうのは写真と違って、同じ風景 を何時間も見続けて、どういう木があって、 どんな形の屋根があって、どうのこうのって 描いていくので、色彩感覚が養われたり、も のに対する観察力が育てられたりして、今の 仕事に役立っているんじゃないかと思ってい ます。月に一、二回、あとは夏休みなんか、 弁当をもって写生へ行ったことを覚えていま す。そのほかの思い出としては、雑誌の似顔 絵コンクールに投稿して、よく掲載されたこ とかなあ......。
TA. その頃アニメについても関心がありまし たか?
Komatsubara. いえいえ、今の子供はアニメで育っ ているけど、僕らの時代は、テレビもなかっ たし、雑誌も月刊誌が数冊あったぐらいで、 今と比べると情報量が全然違いましたから、 アニメのアの字も知りませんでした。 マンガ も好きだったけど、それも人並みで、ですか らアニメーターになろうとか、マンガ家にな ろうなんて気持は全然なかったですね。
TA. 中学、高校時代は?
Komatsubara. 中学の頃は、もちろん絵も描いてい ましたけど、テニス部に入りまして三年間夢 中になっていました。 中学二、三年の頃かな 肖像画に凝りだしましてね。 その当時縁日で 肖像画を描く拡大器を売っていましてね。
TA. 拡大器?
Komatsubara. ええ、小さな顔写真を上からなぞっ て描くと、その筆と連動している木の枠の中 に写真そのままの絵が拡大されて描けるって いうヤツですよ。それにエンピツで描きたし 肖像画を描いていたわけですけど、そのう 拡大器なしで、写真を見ながら描くように なってね。とにかくもう凝ってしまって、松 竹の肖像画コンクールにだして入選したり、 両親や兄妹の肖像画を描きまくって、縁起で もない!なんて怒られたりね(笑)。 中学を卒業したあと、本当は神奈川工業高 校の図案科にいきたかったんですけど、受験・ に見事失敗しました。 神奈川にある職業訓練 所で塗装工の訓練を四ヵ月ぐらい受けたのち 三菱電機へ就職したんです。夜は横浜工業高 校の定時制へ通っていました。
TA. やはり絵に関する勉強を?
Komatsubara. いや、なぜか全然関係のない電機通 信科でしてね。今考えても何を勉強したのか 覚えてません。何しろ今だにラジオひとつ組 み立てることができないんですから(笑)。で も定時制での四年間というのは、今思えば、 すごく勉強になりましたね。 働きながら学ぶ っていう経験と、学生は、大工さんとか、い ろいろな人がきてるわけですけど、そういう 人たちと接触ができたという面ですね。
TA. 学校を退めましたね。
Komatsubara. そうです。仕事も毎日同じことの繰 り返してもの足りなかったし、ちょうど、そ の頃、新聞に虫プロの募集広告があったんで それで応募してみたんですけど、採用試 験でみごとに落ちました。四十人ぐらいの募 集に千何百人来ていましたね。僕は未経験だ ったし、専門学校も出ていませんでしたから、 そのあとも三、四回受けたけど、みんなダメ でした。
夜中にバイトした頃が いちばん苦しかった
TA. そうしますと、仕事としてのアニメの最初の仕事は?
Komatsubara. 東映動画の分室のようなものが大森 にできまして、そこの募集に応募したら受か ったんです。二十歳ぐらいだったかなその頃。
TA. 入社してまずはじめにやらされたことと いいますと?
Komatsubara. 4ヵ月間は、走りとか歩きとかいう 動きの基本の教材十種類ぐらいを毎月描かさ れました。 東映動画から先生が来ましてね。 その頃は必死でしたよ。とにかく食えるよう にならなくちゃという一心で、朝早く出勤し 掃除したりお茶を沸かして先生を待った ものでした。今の若い人たちには、そういう 精神が足りないような気がしますね。 もっと も今は、仕事もたくさんありますから、一つ のところで断られても、別のところへ行けば いけますからね、あの当時は、「狼少年ケン」 とか「鉄腕アトム」とか二、三本でしたから ね。
TA. はじめての仕事は?
Komatsubara. 東映動画の下請けですから「少年」 ケン」の動画ですよ。今考えると、夜も5時 ぐらいに終っていましたし、徹夜することも なかったし、健康的でしたね。毎日弁当持参 で通っていましたもんね。
TA. そこでは東映以外の仕事は?
Komatsubara. 今のエイケンの「鉄人28号」とか、 「宇宙少年ソラン」、虫プロの「W3」 や 「オ バQ」なんかもやってましたね。
TA. 何年間そこにいらっしゃったのですか?
Komatsubara. そうですね、四、五年ぐらいかな。 ちょうど、そこのプロダクションの企画で、 赤塚不二夫さんの「オソ松くん」をはじめた んですけど、それがブームにも乗って受けま して、会社としても多少蓄えができたんです ね。それでつぎに、アメリカの小さなプロダ クションとの合作もので「ジョニー・サイフ 「アー」というSFの5分ぐらいの短い番組を やったんですけど、これが大赤字で会社もつ ぶれて、僕も、おっぱりだされたかたちにな ってしまったんです。 そのあと、そこの会社の人の紹介で銀座の 朝日フィルムというところで六ヵ月ぐらい、 「巨人の星」の原動画をやったんですけど 給料を貰えなくて、夜中に汐留の駅で荷物下 しのアルバイトをしたりして、今考えてみる といちばん苦しかった時期ですね。 安定して 三菱電機を退社して、両親の猛反対を押 切って、自活するっていって出てきたわけ ですから、家に帰ろうにも帰れませんしね。
TA. その後は?
Komatsubara. やっぱり友達の紹介でハテナ・プロ というところへ入りました。そこは、30人ぐ らいスタッフがいて、東映を主体として「ひ みつのアッコちゃん」「もーれつア太郎」「巨 人の星」「ゲゲゲの鬼太郎」などをやっ てました。 僕は原画で入りまして、 「タイガ ーマスク」を担当したんですけど、 はじめて 二本でまた会社が潰れてしまったんです よ。よくよくついてなかった(笑)。そしてそ れならということでその会社の有志が集まっ て新しい会社をつくろうということになった んですね。それが三つのプロダクションに分 散しましてね。今僕のいるOHプロ、スタジ オ・ジュニオ、スタジオ・メイツの三つにね。 それぞれ麻雀の好きな同士が集ったり、酒呑 み同士が集ってね。
TA. OHプロには?
Komatsubara. もちろん酒呑み集団です(笑)。でも あれから10年過ぎたけど、三つともいまだに 健在なんですよね。
「タイガーマスク」がその後の作品の基盤になった
TA. OHプロでの初仕事は?
Komatsubara. ハテナプロから引き継いだ「タイガ ーマスク」で、僕のはじめての作監の仕事で した。四~六週間に一本の割合でやりました ね。当時OHプロは「タイガーマスク」と「ア タックNO1」を軸にして仕事してました。
TA. そうすると「タイガーマスク」は小松原 さんにとって思い出となる作品になるわけで すね。
Komatsubara. そうですね。まだ作監は早いと思っ ていたんですけど、どういうわけかなってし まいまして・・・・。それと、この作品は、今ま で僕がやってきた作品とは絵柄が全然違った もので、劇画タッチで、動きもオーバーアク ションで映画的だったので、いろいろな面で たいへんでしたからね。
TA. 具体的にいいますと、どのへんですか。
Komatsubara. 当時のテレビアニメは、ほとんど フィックス(カメラ固定)で撮ってましたけ どこの作品では、人物の動きに合わせてカ メラがついていく、いわゆるフォローがふん だんにでてくるわけです。ですから目盛りを 切って撮影したので、少々戸惑いましたね。 それと絵の角度といったものも、従来のもの より、かなり大胆なものを多用しました。ま た内容がプロレスものなので、プロレスの技 も覚えなくちゃならないですしね。よく実際 のプロレスを見にいったものですよ。とにか く番組が終了する頃になって、やっと要領が つかめるようになったほどですから......。
TA. そうしますと「タイガーマスク」がその 後の作品をやる上でも、相当にプラスになっ たということですか?
Komatsubara. そうですね。ちょうど、そのあとの 「キックの鬼」や「デビルマン」の頃から、 サイクルが早くなってきまして、「ゲッター ロボ」や「グレンダイザー」などの、いわゆ るロボット物になるんですけど、ロボット物 なんかでも、どちらかといえば劇画調に近い ですから、そのスケールの大きさとか、おと なしくない絵にする、という面で「タイガー マスク」をやったことが、ずいぶん参考にな っていましたよ。
TA. ロボット物も、はしりの頃ですね。
Komatsubara. ええ、「ゲッターロボ」の場合、そ れより前に「マジンガーZ」がありましたけ ど、「マジンガーZ」は単なるロボットでし だけど、「ゲッターロボ」は、いわゆる合体 もので、そのはしりでした。そのあと超合金 合体もののブームになるわけですからね。で も正直いって、僕はメカものはあまり得意じ ゃないんです。好みからいっても人物のほう が好きだし向いていますね。メカはとにかく 難しいですね。余談ですけど、いま日本のア ニメで戦闘シーンやメカを描かせたら、金田 伊功がいちばん上手いんじゃないかなあ・・・・・・ 彼は若いけど、そりゃあ上手いもんですよ。
TA. 松本零士さんの作品としては、まず「キ ャプテン・ハーロック」があるわけですけど はじめて松本作品に触れたときの印象はどう だったのですか?
Komatsubara. まず、松本さんの作品ていうのは独 特の絵と不思議な雰囲気がありますよね。そ の世界に馴じむことからはじめました。なか なかできませんでしたけどね。僕がそれまで やってきた仕事とは違って神秘的な魅力があ りましたからね。でも生理的にあの人の作品 が好きなんです。ですから「ハーロック」の ときも、まず松本さんのキャラを見て、これ はいいと思って、僕なりにキャラクターをつ くったんですけど、それを松本さん御自身に 見てもらって一発でOKになりました。それ もやっぱり、それまでいろいろな作品をやっ てきたことが、かなりプラスになっているん じゃないかと思いますね。今やっている「が 「んばれ元気」も絵柄が全然違いますし、それ なりに難しいんですよ。
TA. そのあとが、「999」ですね。
Komatsubara. ええ。僕の場合、劇場用がはじめて だったんですね。その前にすでにテレビ放映 がされてましたから。テレビ版が前にあると いうことで、ちょっと意識しちゃいましたね。 まあ、テレビ版からは独立した長編というこ とで、違った感じをだそうという気持はあり ました。 鉄郎なんかは、テレビのものより相 当年令が上っていましたし、メーテルにして もテレビのとは、微妙に違っていたでしょ。 松本さんに見せたら、どちらかというと僕の 描いたメーテルのほうが、松本さん好みだっ て言ってもらいましたけれどね。そのあとテ レビ版の「999」も担当することになった んですけど、今度はテレビ用のメーテルを描 かなくてはいけないんですけど、描くとどう しても前に描いた劇場用のメーテルになって しまうんで困りました。他の人に合わせなく てはいけないので、意識して変えるようにし ましたけれどね。
絵が上手でも芝居が ダメな場合もある
TA. 今までいっしょに仕事をしてきた方で印 象に残っている人は?
Komatsubara. 演出のりんたろうさんとか、美術の 椋尾(篁)さんとか、いろいろな方がいます ね。りんさんは、僕がそれまで会った人には 感じられなかった独得のムードをもっている んですね。演出的な面でも、いろいろ勉強に なりましたしね。感性が豊かなんでしょうね。 いろいろ勉強もしている方だと思いますね。 僕らは絵コンテみればわかりますよね。あの 人は絵が描ける人でしょ。だから絵コンテも きちんと描いてありますし、その一コマ一コ マに彼の感性がにじみでているんですね。 椋尾さんは技術的な面もさることながら、 あの人間性ですね。アニメーターというのは はっきりいって、仕事柄どうしても時間にル ーズになりがちなんですね。僕も含めて(笑) その点、椋尾さんはプロ意識に徹しているっ ていうのか、時間はちゃんと守りますし、仕 事もかなりつっこんできて、いいかげんなこ とはしません。単純なことかもしれませんけ ど、なかなかできないんですよ。そういう面 ですごく尊敬している人です。
TA. そのほかでは?
Komatsubara. 東映の勝間田さんは、バイタリティ があるし、言いたいことをハッキリ言ってく れますから、僕らも延びますし、勉強になる 方だと思いますね。
TA. 作画、あるいは作監の難しさについて話 して下さい。
Komatsubara. まずアニメの場合は、マンガと違っ て他人の描いたキャラを何枚も似せて描き、 かつ動きを加えるということが、いちばん難 しいですね。横を向いた顔、正面を向いた顔 後姿のキャラを統一しなくてはいけませんか らね。作監というのは、たとえば今やってい る「元気」の場合で言えば、五、六のプロダ クションからあがってきた原画を、一枚一枚 見て統一させるために修正しなくてはならな いんです。 かんたんに直せるものならいいけ プロポーションから何から全然違う絵も あるんですね。そういう場合は全面的に描き 直さなくてはなりませんよね。でも一人でや ってますとやっぱり限界があって、メインキ ャラだけは直しますけど、ゲストキャラにつ いてはノーチェックということもありますね。 また、絵が上手であっても、芝居がダメな場 合もありますよね。動きが悪かったり、タイ ミングが悪かったりね。タイミングっていう のは微妙なんですね。一コマ狂うとめちゃく ちゃになっちゃう。だから絵と同時に動きの 修正もしていくんですけど、正直いって今の ペースで全部直すということは不可能ですね。
TA. ご自身のベスト作品は?
Komatsubara. 「タイガーマスク」か「ハーロック」ですね。
TA. 他の人の作品でお好きなものは?
Komatsubara. そうですね。「未来少年コナン」は 好きですね。演出も作画もすぐれています。 話の設定なども、はじめから終りまで一貫し ていて、しっかりしたものになっていますか らすばらしいと思います。
TA. 最後に、これからやってみたい作品の傾 向を聞かせてください。
Komatsubara. 僕は、まだやったことがないんです けど、ギャグ物をぜひやりたいですね。今は ギャグ物も少ないですからね。しゃべりで笑 わせるギャグじゃなくて、動きの中で見せる ギャグをね。キャラクターもストーリーも単 純なヤツでね。そういうのを誰か企画してく れないかな(笑)。
TA. そういう企画が出てくることを期待して います。どうもありがとうございました。
November
Akira Daikubara Feature
とにかく絵の描ける仕事が
したかった
≈ アニメーターの方は皆さん、そうだった
と思うんですけど、子供のころから絵を描く
ことが好きだったのですか?
Daikubara. ええ、当時の俳優の写真を見ながら 似顔絵を描いたり、まわりのものをスケッチ したり、よくやってましたね。それで子供っ ていうのは、描いていて、他人から〝上手だ ね”ってほめられると、うれしくなって夢中
TA. になって、どんどん描いちゃうんですね。 マンガも?
Daikubara. マンガばかりでなく、ボクはだいた い気が多いほうですから、さし絵も描きまし たし、とにかく描くことが好きで、絵を描く 仕事につきたいと、つねづね思っていました。 戦前には、よく雑誌に描いたものを投稿して ました。なんていったかな、近藤日出造さん がだしていた雑誌なんですけど・・・・・・。 その雑 誌には、現在週刊新潮の表紙を描いている谷 内六郎さんなどもよく投稿していましたよ。
TA. そうしますと、アニメの世界に入るきっ かけは?
Daikubara. とにかく当時は戦前ですし、アニメ をテレビはもちろん、劇場でも見る機会って いうのは、それほどないわけでしょ。アニメ ーションは漫画映画といったわけなんですけ ど、ボクなど、その漫画映画がどんなものか も知らなかったんですから。いまもいいまし たように、とにかく絵の描ける仕事をしたい と思っていましてね。あるとき新聞の募集広 告に漫画映画というのがあったんですよ。そ れで、どんなものなんだろうって興味をひか れて、とりあえず行ってみたんです。 そこが、ボクが初めてアニメの仕事をした 鈴木宏昌漫画映画研究所だったんですね。そ こへ行って鈴木さん―この人は芦田いわお という名前ももっているんですけど に会 って、いろいろ話をしてみたんですけど、ボ クより六つぐらい年上で、とってもいい人な んですね。それで話を聞いているうちに、こ れならやっていけるなって思ったわけです。
TA. そこでは、どんな仕事をされたわけですか?
Daikubara. 鈴木さんのところには、2年ぐらい いたのかなあ……。先輩が2人いましてね。 ボクは興味がありましたから、タイトルから 背景から撮影まで、いろんなことをやりまし たね。いまから考えると、なんとも幼稚なも のですけど、一生懸命つくっていましたね。 それで、そのうち芦田さんが戦争で兵隊にと られちゃいまして、困っているところに山本 (早苗)さんから誘いがあって、山本さんの ところへ行ったんですけど、戦争でもう漫画 映画どころじゃないわけですよ。その間、ボ クは山本さんなんかといっしょに、海軍省で 絵の仕事をしていたんです。 終戦後は、昭和20年の終りごろだったか、 山本さんが、政岡憲三さんとか村田安司さん 日本漫画映画株式会社"を雑司ヶ谷につ くったんですけど、すぐ山本さんと政岡さん が日本漫画映画”から離れて”日本動画株 式会社"をつくったんです。そこへ現在、日 本アニメーションにいる森やすじさんが入り、 遅れて僕が入ったわけなんです。
TA. そのころと現在では、製作システムでも だいぶ違っていたと思うんですけど。
Daikubara. そうですねえ。セル一枚とってみて も、いまのように使い捨ての時代じゃないで すから、使っては洗い、使っては洗いで五、 六回は使いましたよ。もちろんトレスマシン もありませんから、手でトレスするんですけ ど洗ってもトレス線の跡が残っちゃうんです。 もうセルが黄色くなるまで使ってましたよ。 動画用紙にしても、いまのようにキレイなヤ ツじゃな てワラ半紙ですから、消しゴムで ささくれちゃったりね。ひどいときは、キャ ラクターに穴があいてしまったりね(笑)。そ れからカメラにしたって、いまみたいにいい ものではなくて、ドイツ製のチャチなもので ね、トラック・バックなんていっても戸の敷 を利用して、カメラを押していくんですか ら(笑)。実に幼稚なことをやっていましたよ ね。
TA. そのときにはもう、アニメーションを一 生やっていこうと?
Daikubara. 入りたてのころは、さし絵を描くの が好きなものですから、動画よりも背景を描 くほうが好きでした。当時はカラーじゃなか ったものですから、白黒でその陰影を表わす んですけど、村田安司さんがとても上手なん ですね。だから背景は、村田さんに教わった というか、盗んだというか、とにかく影響さ れました。 本格的にアニメーションでやっていこうと 思ったのは日動に入ってからですね。でもあ のころがいちばん経済的に苦しい時で、アニ メだけでは食べていけないものですから、い ろいろな雑誌にさし絵をずいぶん描いたもの です。ほかの人もみんな、いろいろなアルバ イトをやりながらアニメをつくっていた時代 なんですよ。
TA. 日動時代の同期の方には、どんな方がい らっしゃったんですか。
Daikubara. 森さんのほかには、寺 ( 勝井) 千賀 雄さん、中村和子さん、紺野修司さんたちが いましたね。
"ライブ・アクション"で作 った「白蛇伝」
TA. そのあと、東映動画の時代になるわけで すか。
Daikubara. ええ、日動は当時、東映教育映画の 委託で作品をつくっていたんですけど、それ が評判がよかったもので、 日動を丸ごと吸収 してしまい、東映動画を設立したわけなんで す。そして新しい人の養成をはじめたんです ね。大塚康生さんも東映動画になってから入 ってきましてね。ボクは当時四十歳ぐらいで 年配の方で、あとは二〇代ぐらいの人ばかり で、とても活気がありました。 いまから考えれば、東映の大川 ( 博) 社長 が漫画映画が好きだったんですね。当時とし たらいまのようにブームじゃありませんし、 冒険だったと思いますよ。まあ東映が、実写 の劇場を確保していたから成功したんだと思 いますね。
TA. そこでの長編第1作が「白蛇伝」になる わけですね。
Daikubara. そうです。あの作品は、はじめに企 画書を見たとき、その表紙にイラストが描い てあったんですけど、ヘビのグロテスクな絵 でしたね、こんなものが漫画映画になるのか って思ったものでしたよ。スタッフは演出が 藪下泰司さんで、原画がボクと森さん、美術 岡部 (一彦)さんと橋本(潔)さんで、み んな、どういうふうにつくろうかって、手さ ぐりでやってましたね。
TA. どんなところで戸惑われたわけですか。
Daikubara. まず、中国が舞台の話ということで すね。日本人ですから日本のものは慣れてい ましたけど、中国のものははじめてで、それ こそ時代考証も調べなければなりませんから ね。話の中にパンダがでてくるんですけど、 かわいい動物だなって思ったものの、その当 時ボクもふくめて、ほとんど一般の人はパン ダなんて知りませんしね。そういうものもふ くめて、動き、コスチューム、背景など、知 らないものを、ある程度調べて、それなりに つくりだして くわけですから大変なことで した。
TA. 内容的にはどうでしたか。
Daikubara. 話しそのものが、白い蛇の妖精がで てくるファンタジックなものですから、それ ほどリアルなものを要求されるわけではあり ませんし、漫画映画の素材としては、うって つけだったと思いますね。いま考えてみても ああいう素材を選んだという企画は、素晴し いと思いますね。そのあと何本かつくりまし だけど、企画の面からいえば、ボクは「白蛇 伝」がいちばんよかったんじゃないかと思い ます。劇映画ではなくて、アニメーションと して表現するものとしてはね。 話だって、いつまでも心に残るような愛が テーマの話ですし、いまのアニメのように暴 力や殺ばつとしたものがありませんでしたし ね。白娘(パイニャン)という蛇の化身と許 仙(シューシェン)という人間の若者の恋物 語なんですけど、そのほか少青(シャオチン) という魚の精やパンダなんかの動物がでてき て本当にアニメ向けなんですね。
TA. ライブ・アクションもつかわれていまし たね。
Daikubara. ライブ・アクションでつくるという ことで、ボクと岡部さんと橋本さんの三人で 当時の東映ニューフェイスの中から、写真で 白娘のイメージに似た人を選んだわけですけ ど、それが佐久間良子なんです。許仙が水木 で、佐久間良子は「安寿と厨子王丸」 でも つかったんですけど、当時1か1でキレイで したよ。 そのころのライブ・アクションていうのは 実写で撮った動きを一コマ一コマ、まあ二コ マの場合もありましたけど、動画用紙の大き に拡大して写してもらい、それを作画した わけなんです。何コマ目の動きはどうか、と いうことは、すぐわかりますしね。ただ漫画 映画ですから、それをそのままトレースする のではなくて、顔を大きくしたり、足を短く したりデフォルメしていくわけなんです。い まは、技術的にもうまくなっていますから、 その必要もないのでしょうが、それでも動き なんか、とてもいい勉強になりましたね。ま あ、そのころはお金もかけてまして、実写を 1本つくれるぐらいのライブ・アクションを 撮ってました。いまじゃ、とてもそれだけの 手間ヒマかけてつくるということは無理でし ょうね。
はじめてのシネスコ作品 「少年猿飛佐助」
TA. そのあとの作品は?
Daikubara. つぎの年の昭和34年に「少年猿飛佐 助」をつくってます。これはアニメとしては、 はじめてのシネスコなんです。ワイドですか 動画用紙が倍になるというか、横長になる わけなんですね。それまでスタンダードばか りやってましたから、はじめはすごく描きに くかったです。ある意味では、ワイドにする ということが観客を呼ぶことにつながるんだ と思いますけど、実写なら、〝アラビアのロ レンス"などのスケールの大きな作品には、 うってつけなんでしょうけど、アニメの場合 はちょっと違いますからね。といいますのは 作画の方からいいますとね、絵っていうのは 横長に描くということはあまりなくて、ワイ ドというのは変形なんですよね。だいたいが スタンダードサイズなんです。でも横へ走っ ていくシーンなどは、それなりに臨場感がで ますし、いい面もありましたけど、だから高 い山に登るシーンなどは、たて長の画面にし たら面白いですよね(笑)。とにかく「猿飛佐 助」は横長にする必要はなかったという気が してますね。 そのあとの「西遊記」もそうですけど、「少 年猿飛佐助」以降はみんなシネスコでつくってます。
TA. 「西遊記」のあとの作品が「安寿と厨子 王丸」ですね。
Daikubara. 「安寿と厨子王丸」はとてもリアル な作品なんですね。劇映画でもできる素材で すから、劇映画に近いアニメーションだとい えると思います。写実というのは、作画にと って基本ですから、絵を描く人間にとっては デッサンなんかとても勉強になるんですよ。 写実であっても、アニメですから、デフォル メして、動きも違ったものにしていくんです けど、リアルな作品であればあるほど、デッ サンの狂いとか、動きの悪さが目立つんです。 それだけに、この作品は、時間もかかったし 難しかったという印象があります。
キャラのまとめ役が必要に なり作監のシステムができた
TA. 出版されている東映動画全集を見ますと 「西遊記」で森やすじさんといっしょに作監 ということになっていますけど。
Daikubara. そうなんですけど、たしか森さんは 作監だと思うんですけど、僕は原画だったよ うに記憶してます。
TA. そうしますと、はじめて作監をやられた 作品といいますと?
Daikubara. 「わんわん忠臣蔵」からですね。
TA. 作監を担当された感想は?
Daikubara. 原画をやっていたころと、そんなに 違わないですよ。その当時の長編は、原画や 動画のアニメーターが七〇人ぐらいいまして 原画は、七、八人いるわけなんです。もちろ んはじめに、全体を統一するためにキャラク ター設定表をつくるんですけど、原画担当者 の個性が、それぞれ違いますから、それを修 正して統一する、いわゆるまとめ役が必要に なってくるんですね。それで作監というシス テムができてきたんだと思います。
TA. それ以前は、どういうシステムでやって いたのですか?
Daikubara. 作監がなかった前は、ばらばらでや っていたのかというと、そうではなくて、そ 以前にも、作監という名称ではなかったで すけど、修正したりまとめたりすることは、 やっていたわけなんです。東映動画の場合は ボクと森さんが分担を決めて、やっていたわ けなんです。その方法は、とてもうまくいき ましたね。一人でやるよりも、二人でお互い に個性をだしあって、それぞれの得意のキャ ラクターを担当することで、いいものができ る場合があるんですね。キャラクターにそれ ぞれ個性があるように、七人だったら七人の 原画家が、各キャラクターを一人ずつ担当す るということも考えられるわけですけど。
TA. キャラクター制ということですね。
Daikubara. ええ、それもやってみようと思った ことはあるんですけど、たとえば、あるシー ンにAというキャラクターとBというキャラ クターがいたとして、そこにC、Dというキ ャラクターが入ってくるとすると、原画を描 くのに、アニメーターのところへもっていっ て、つぎのアニメーターに渡して、またつぎ に渡すというように、とても時間がかかるわ けですよね。そんなんで能率的でないために やめたわけなんです。
「技術は幼稚でものんびり 楽しくやっていた」
TA. いまは、テレビ・アニメが全盛なのです けど、大工原さんも初期のテレビ・アニメに は参加されてますね。
Daikubara. 月岡(貞夫)くんがやった「少年 「ケン」からテレビがはじまって、それからテ レビが多くなりました。ボクも、「ゲゲゲの鬼 太郎」とか「風のフジ丸」なんかをやりまし た。それと「デビルマン」もちょっと手伝い ましたね。それほどテレビはやってないんで すよ。 とにかくテレビのアニメが放映されるころ から製作本数もふえてきましたし、一つの 作品でも短い時間で多くのスタッフをつかっ てつくるようになって、だいぶそれまでとは 違ってきました。
TA. いまのブームを目のあたりにされますと 隔世の観があるでしょうね。
Daikubara. ええ、カラーひとつとってみてもね。 はじめのころのカラーっていうのは、カメラ に三色のフィルターをつけて、同じカットを 三回撮影したわけですからね。だからフィル ムが三本できるわけですよ。それをあわせて 一本のフィルムにプリントして天然色といっ てたんです。カメラもまだ手回しでしたしね。 ワンカットまちがえたら全部やり直しでしょ。 露出だってまちがうと大変だから、とても神 経をつかったものでしたよ。 まあ、いまは、むかしと違ってプロダクシ ョンの数も増えましたし、テレビの視聴率が 大きな比重を占めて作品を左右するようにな り、競争になってきていますよね。だけど、 むかしは、競争はなかったですし、一週間に 一本というペースじゃなく、長編ですから一 年に一本いいものをつくるということで、楽 しかったように思いますね。
TA. 技術的にはどうですか。
Daikubara. いまのほうが技術は上ですね。うま くて速いですよ。しいて欠点をあげるならば 物マネになりやすいということでしょうか。 「白蛇伝」でもボクらは若い人たちを教えな がらつくっていたわけですけど、動きも今の テレビ・アニメの水準からみると、たしかに 幼稚なところがあります。しかし技術的には 幼稚でも、スタッフが和気アイアイというの かな、いまのように明日の昼までに仕上げな くちゃということはなくて、のんびり、楽しく やってましたから、ボクはやっぱり、いまで も初期のころにつくった作品が好きですね。 それに劇場にかかれば、かならずもうかった という時代ですしね(笑)。
TA. 今日は、どうもありがとうございました。
December
Roundtable
Roundtable Participants:Yasuji Mori
Ippei Kuri
Leiji Matsumoto
Shotaro Ishinomori
Osamu Tezuka
「火の鳥」の手塚治虫、 「ホルス」の森康二 「ガッチャマン」の九里一平、「銀河鉄道9 99」の松本零士、 そして 「サイボーグ00 「9」の石森章太郎が一堂に会して、アニメ界 に鋭く切りこむ!! ジ・アニメ創刊一周年記 特別座談会は、思い出話から、夢に描くア ニメーションまで、話題満載!!
何の話から始めようか!?
Tezuka. 今日は、ジ・アニメの創刊一周年と いうことで、みなさんにお集まりいただい たわけですが、ご指名により、僕が司会を つとめさせていただくことになりました。 アニメーション全般について、堅苦しくな く、少しは話をおとしてもいいと許可を得 ましたので(笑)、よろしく。 まあ、いろっ ぽい話でアニメーションを語るのは、この 座談会がはじめてでしょうけど(笑)。
Ishinomori. あまりおとしようがないのと、違い ますか(笑)。
Tezuka. アニメーション関係の方は、まじめ な方が多いですからね。
Ishinomori. しかし、外国なんかだと、名作アニ メのポルノ版というか、パロディーもある ようですね。
Matsumoto. 日本でもありましたよ。最近、東映 で見たけど「㊙劇画・浮世絵千一夜」って 作品。(レオ・プロダクション 年度作品 レオ西村演出/編注)
Tezuka. 僕も10分ぐらい見たけど、あとは疲 れてしまって見なかった。ところで、あれ、 面白かったの?
Matsumoto. うーん。
Ishinomori. あのフィルム、僕は持ってるよ(笑)。
Kuri. あれは、レオ西村さんて方の作品で すね。もともとは実写関係のプロダクショ ンですよ。
Tezuka. そういえば、日本画の和田三蔵さん が、ライフワークとしてポルノ・アニメを 作るってうわさを聞いたけど、聞いていま せんか?
Ishinomori. 聞いていますけど······ずいぶん前の 話ですよ。東映 (東映動画)の初期の頃じ ゃないですか。
Matsumoto. 当時は、よもやま話でも、そういう 話をするとしかられましたよ。描く方は純 粋なんだからって(笑)。それをポルノ化な んて、とんでもないって。
Ishinomori. その頃の新漫画党 (寺田ヒロオ、石 森章太郎、つのだじろう、藤子不二夫、森 安直也ら当時の若手漫画家の集団)のつの だじろうなんて、おこりましたよ。
Tezuka. 今は彼、描いてるんじゃない(笑)。
Ishinomori. 新漫画党は、まじめな人が多かった ですよ。少し色っぽい話といっても、せい ぜい女の子の話それで、ドキドキして たんだから。
Tezuka. いつから不まじめになったの(笑)。 しかし、ポルノ・アニメって分野が、あっ てもいいと思うけど......。
Kuri. そうですね。単にポルノっていうだ けではなくて、芸術としてもずっと残るよ うなものを手がけてみたいと思います。
Tezuka. アニメーションのロマンポルノ版 かな(笑)。
オタスケマンヌ・は誰の趣味!?
Ishinomori. 手塚さんの 「クルオバトラ」は、ボル ノじゃないですね。
Tezuka. あれは、お色気アニメ(笑)。だって、 ズバリはないですよ。
Ishinomori. そう言えばそうですね。でも、あの作 品を外国向けにする時は、 ベリもという話が...。。
Tezuka. それは、お金がたまれば(笑)。しかし あの作品を作っている時は、アニメーターの みんなが、どんどんエスカレートしまして (笑)。
Ishinomori. よくわかります(笑)。
Tezuka. ところで、 「オタスケマン」などのお 色気シーンは、誰のアイデアですか。
Kuri. あれはもう、笹川(ひろし)氏の趣味 でして(笑)。彼は普段まじめで、お酒なども 飲まない人ですから、作品の方で発散してし まう(笑)。
Ishinomori. アーシャのヌードなんか、テレビコ ードにひっかかりませんか。
Kuri. いや、見えたようで見えないから、ひ っかかりません。何しろヌードといっても、 フィルムのコマ数にして、2~3コマですか ら、アッという間に通り過ぎちゃう。
Tezuka. テレビだと気づかないけど、劇場のよ うな大画面だとわかっちゃうかな。
Kuri. そうですね。
Ishinomori. 実はね、虫プロ(旧虫プロ/編注)で 作っていただいた「佐武と市捕物控」で、 本だけクレームがつきましてね。パッと見た だけではわからなくても、写真を送ってきて 「けしからん!」 というわけで......(笑)。 だから、たまたま写真を撮っていたら、そこ が写ったというところでしょう。
Matsumoto. すると、今はビデオが普及しているか ら、すぐわかっちゃう(笑)。
Tezuka. そういう人は、かえって楽しんでいた りして(笑)。ところで、色っぽいといえば、 「白蛇伝」(東映動画 1958年度作品 藪下泰司演出/編注)などは、すごく色っぽ かったと思いますよ、あの当時、厳しいコー ドの中で、ギリギリだったんじゃなかったで すか。
Mori. たしかにそうかもしれませんねェ。
Kuri. 大人っぽい作品でしたよ。
Tezuka.「白蛇伝」では、森さんはどのあたりの 原画を担当されましたか。
Mori. だいたい動物のところですね。わりと昔 から動物が多くて、まあ、出世しませんねェ (笑)。
Tezuka. でも、「わんぱく王子の大蛇退治」(東映 動画 1963年度作品 芹川有吾演出/編 注)では、キャラクターの全部をデザインさ れたのでは。
Mori. ええ。キャラクターは、大工原(章)さ んとふたりで。
Ishinomori. ほう、おふたりだけですか。
Mori. 経験者が少なかったものですから......。
Tezuka. 古沢日出夫さんは。
Mori. の方は後からですね。たしか次の企画 の関係できていたと思いますよ。流れてしま ったけどアリババ"が何か…・・・…・・。
Matsumoto. ずっとそれ以前に、「バクダット姫」 (三幸映画社、1948年度作品 芦田巌演 出編注)というのがありませんでしたか。
Tezuka. ええ。あれは芦田巌さんの作品ですよ。
Matsumoto. あれは看板だけで、中身を見ていない のですよね(笑)。 クロのやつですね。
Mori. 昭和27~28年頃かな。(正確には製作 は昭和29年、公開は自主製作に近かったため かなり間をおいて 90年頃まであちこちで上 映された/編注)
Tezuka. そうだ。僕が芦田映画に入りたくて、 芦田さんのところをたずねた時、企画されて いた作品ですよ!
Mori. それは何年頃?
Tezuka. 昭和33年頃だったと思います。
Mori. 大学生の頃?
Tezuka. ええ。あれは、どこから頼まれたわけ 自主的に作られた作品ですよ。あの こころのアニメってのは、作って置いといたん ですね。
Matsumoto. ああ、それで地方で適当な時期に、公 開したわけですが。
日本初のアニメ関係者の集い!?
Tezuka. 森さんが最初に参加された作品は何 ですか。
Mori. 動画を描いたのは、ポッポやさんの んき駅長日本動画社 1948年度作品 演出 )でした。熊川さんの演 出でいます。その後は「トラちゃんと花嫁」 (日本社 1948年度作品 政岡憲三 演出/編)を・・・・・・。政岡先生のもとでした。
Tezuka.「トラちゃんと花嫁」 すごい力作で 背景動画がすごい!!!
Mori. やらされましたね(笑)。
Tezuka. の作品は、ご覧になってませんか。
Ishinomori. 見てないんですよね。
Tezuka.「すて猫トラちゃん」(日本動画社、1 947年度作品 政岡憲三演出/編注)の第 2作でしたね。当時は日動(日本動画社)で すか。
Mori. ええ、場所は若松町にありました。十数 人のスタッフがいたように記憶しています。
Tezuka. 大工原さんも?
Mori. いえ、大工原さんは、当時は日漫(日本 漫画映画社)で、背景を描いていたと思いますか。
Tezuka. たしか当時、アニメ関係者が大同団結 しょうと、どこかの学校の講堂に集まったこ とがありましたね。たしか村田安司さん(戦 前から戦後にかけて活躍したアニメーション 演出家)が、音頭をとられましてね。
Mori. ああ、芦田さんも行きましたよ。でも、 手塚さんも参加されたんですか。
Tezuka. 私は古いんですよ(笑)。
Ishinomori. アニメをやってたんですか。
Tezuka. あの頃、京都でアニメーションの真似 ごとをしていましたね。 ま、プライベート製 作ですが。しかし、あの会合は、一回だけで したね。50人ほど集まりましたけど、あの人 数が当時のアニメ関係者のほとんどではなか ったでしょうか。
Mori. 日本中から集めても、そんなものだった でしょう。
Tezuka. あの時来なかったのは、持永(只仁) さんぐらいかな。そうだ。持永さんと言えば 今、中国の上海で、アニメを教えているそう ですよ。 先日、漫画集団が訪中した時、 横山 隆一さんが会われたと言っていました。 「フ クちゃんの潜水艦」(朝日映画社 年度作品 関屋五十二・横山隆一演出/編注) で、横山さんと働かれた方ですから、すごく なつかしがっていたとか......。
Mori. そうですか。
Tezuka. アレ! なんか、まじめな話になっち やったなァ(笑)。
ディズニーの影響は大きかった!!
Tezuka. 九里さんが、アニメーションを始めら れたいきさつは。
Kuri. もともとディズニーが好きで、絵が好 きで、マンガが好きでした。「白雪姫」なん かは、特に感動しましたね。しかし、最初は とても自分たちだけでは、できないだろうと 思ってました。夢はありましたけど......。そ の上、当時は兄貴 (故吉田竜夫氏)とふたり、 連載マンガに追われて、夜昼逆の生活でした からね(笑)。ところが、そんな時に、手塚さ んが「鉄腕アトム」を作られたのを見て、日 本でもTVシリーズができるんだなと思いま した。その、より合理的なリミッテッド・ア ニメの方式に、すごく興味をおぼえましたね。
Tezuka. たしか、九里さんが京都に行かれた時、 笹川さんも一緒だったので、これはアニメー ション製作の準備ではないか とうわさが ありましてね。僕もてっきり、そうだと.......
Kuri. いや、アニメーション製作を本格的に 考えたのは、東京でですよ、火つけ役は笹川 さんですけどね。
Tezuka. ああ、そうだったんですか。彼のギャ グは、マンガを描いていた頃から、アニメむ きだったものね。
Kuri. 彼としては、少々マンガに疲れていた ところが、あったんじゃないでしょうか。あ まり、体力のある方でもないし。
Tezuka. アニメのギャグマンは、今の日本には 少いから、笹川さんは貴重な存在ですよ。
Kuri. ええ。すばらしいアイデアマンですね。
Tezuka. 現在の竜の子ギャグのアイデアも、 川さんが?
Kuri. 一応ギャグは笹川氏、ちょっとシリア スになってくると我々が重点的にという具合 に、うまいぐあいにやってきてますね。
Tezuka. 今でも、竜の子ファンクラブの人の ファンじゃないんですか。
Kuri. そういう人もいますよ。あとは、ガッ チャマンのファンも多いですね。
Tezuka. 今度は石森さん、あなたが最初に参加 されたアニメーションは、なんでしたか。
Ishinomori.「西遊記」(東映動画 1960年度作品 手塚治虫構成/編注) です。
Tezuka. あれですか(笑)。あれの前は、なかっ たんですか。
Ishinomori. あの前は-自分で8ミリで作ったんです。
Tezuka. そうだ!その話をしましょう。 詳し (笑)。
Ishinomori. あまり話せることもないんですが、当 時はディズニーのファンで、崇拝してました。 ま、みなさんも、そうですが......。 アニメを やりたい、いつになるかわからないけど、お 金をためて、そのうちやりましょうというわ けで、準備だけはしておいたんです。
Tezuka. ほう。
Ishinomori. 自分でマルチの撮影台を作ったり ミリを買ってきたりしましてね。
Tezuka. それは東映 (動画) が、始まってから ですか。
Ishinomori. いえ。そのちょっと前。 ときわ荘(当 時の新進漫画家が、多数住んでいた東京・豊 島区にあったアパート/編注)にいた頃です
Tezuka. 昭和30年頃かな?
Matsumoto. そうですね。我々が卒業(高校)した のが、20年だと思うから …やはり、30年頃 ですね。
Ishinomori. 東京へ出てきて、すぐに8ミリを買い ましてね。
Tezuka. そのころの8ミリって、1コマずつ撮 れたんですか?
Matsumoto. できましたよ。切り換えのレバーがつ いてましてね。
Ishinomori. 3本ぐらいついてんのね、レバーが。
Tezuka. 撮影台のワク組みは、石森さんが作ら れたわけ?
Ishinomori. そうです。
Tezuka. 日曜大工 !? (笑)
Ishinomori. ええ(笑)。ただ、セルを置く台の間隔 がわからないもんで、マルチで何段もガラス が置けるように作ってあるわけですよ。それ で、上からカメラをのぞいて......。
Tezuka. でも、あそこ (ときわ荘)で撮影する としても、石森さんの部屋は2階で、誰かが 階段を上ったりすると、アパート全体がゆれ たでしょう(笑)ああいう所で、よく撮影が できましたね(笑)。
Ishinomori. ライトをつけると、ヒューズがとぶん じゃないかって、ずいぶん心配しましたね。
Tezuka. じゃ、あそこでセルの色ぬりまでやっ たんですか。
Ishinomori. ええ、やりました。
Tezuka. うーん、すごいですね。
Ishinomori. でも、結局でき上ったのは、犬が土管 中に入って、出てきてアクビして、背伸び する(笑)その程度の短いやつしかできません でした。
Tezuka. いや、大変なもんですよ。 フルアニメ でしょう。
Ishinomori. フルアニメです。 Tezuka. で、そのフィルム、今はどこにあるんですか。
Ishinomori. どっかにあるはずなんですが(笑)。行 方不明なんですよ。
Tezuka. カラーですか。
Ishinomori. カラーですよ。
Tezuka. すごいなァ。東映より前にカラー・ア ニメだもの(笑)。 名作「黒いきこりと白いきこり」
Tezuka. 「黒いきこりと白いきこり」(日動映画 1956年度作品 藪下泰司演出/編注)は、 何年でしたか。あのあたりが公称の、日本最 初のカラー・アニメじゃないですか。
Mori. そうですね。あれは、ネガが3本ありま してね。それを重ねて焼くんですよ。
Tezuka. それじゃ、テクニカラーじゃないです か? ネガを3本作って、それを同時に焼く んでしょう。
Mori. 技術的なことは、藪下さんがやってまし たが。
Tezuka. 当時のフジカラーは、アグファカラ (アグファー・ゲバルト社で作っているフィ ルム/編注)系統でしょう。ネガ1本で焼け るんだけど、だんだん色がハゲてくるのね(笑)。 それが、まず青系統が落ちるから、しまいに 全体が赤くなっちゃう。だから、ネガが3本 あるというのは、完全にテクニカラーですよ。 ディズニーと同じじゃないかな。ところが、 そのフィルムが、今行方不明なんですよ。誰 も持っていない、幻のフィルムです。森さん も、最近ご覧になっていませんか。
Mori. 見ていませんね。
Tezuka. 上映会で森さんの特集をやっても、あ れだけは入っていないんです。あの作品は、 何分ぐらいでしたっけ。
Mori. 15分だったと思いますよ。
Tezuka. あれは本当に最高傑作ですよ。詩情が あふれてましてね。
Mori. いや、とんでもない。
Tezuka. 森さんは、今までも長編のキャラを作 ったり、一部をアニメートされてますけど、 全部おやりになったのは、「黒いきこりと白 いきこり」を含めて、3本ですか。
Mori. そうですね。
Tezuka. これと「こねこのらくがき」(東映教育 映画部 1957年度作品 藪下泰司演出 注)と「こねこのスタジオ」(東映動画 1959年度作品 森康二演出/編注)ですね。 「スタジオ」の方は、カラーで東映の人が多 参加していますけど、「らくがき」の方は 森さんでなくてはできませんね。そして、そ の前の「黒いきこりと白いきこり」 これは ねェ、宮沢賢治の世界ですね。
Mori. いや・・・・・・。
Tezuka. 宮沢賢治に、今のアニメ「日本昔ばな し」をプラスしたような、そんな感じの作品 ですよ。
Ishinomori. それは、映画館で見たんですか。
Tezuka. いや、自動で見せてもらったんです。 あの話は、雪女が出てきて、いろりであたっ ている黒いきこりを楽しちゃうんですよね。 この黒いきこりは、森の動物たちをたくさ ん殺していて、動物の幽霊というか、霊が白 いきこりのころへきて、寒いからあたらせ てくれっていうんですよね。
Mori. クマとウサギとキツネとリス・・・・・・でした か。
Tezuka. そうそう。で、白いきこりは、この動 物の霊を中に入れてやる、動物たちがいろり のまわりで、あたっているのを見て、白いき こりも凍らせてやろうと思っていた雪女が、 これはかなわんって顔をして、逃げていくん ですよ。
Ishinomori. よく覚えてますね。
Matsumoto. その話は、手塚さんから初台でうかが いましたよ。
Tezuka. で、作品は見ましたか。
Matsumoto. いや、話だけで......。
Mori. あれは浜田広介(ヒロスケ童話で有名な 童話作家)さんの作品ですよ。
Ishinomori. アニメ用に作られたものですか。
Mori. いえ、そうではないんです。
Tezuka. でも、あれは完全に森さんの世界です ね、森さん 自由に作られたという感じで。
Mori. しかし、 雪というと「西遊記」の五行 山の場面を思い出すんですよ。あと「太陽の 王子 夏の大冒険」(東映動画 1968 年度作品 高畑勲演出/編注)の吹雪ね。な んだか、吹雪ばっかり描いてる(笑)。でも、 あの「きこり」の吹雪が、勉強になってます
Tezuka. あれはよかったですよあれ、だいぶ リテークされたでしょう。
Mori. 聞いたところでは 女のところのスー がうまくいかなくて、何度もやりなおし たと言っていましたよ。
Tezuka. あんな名作が行方不明なんて、本当に ガックリしますね。そのあとが「ハヌマンの 「冒険」(東映 1957年度作品 藪下泰司 演出/編注)ですか。
Mori. いえ。あれには参加していません。あれ は大塚康生さんがやってます。
Tezuka. あれは、日本非公開のタイ向け作品で したか。
Mori. ええ、タイ国あたりでした。
Tezuka. 東映が依頼を受けましてね。叙情詩の ラーマヤーナの中の、ハヌマンというサルを 主人公にした話でしたね。
Mori. ご覧になりましたか。
Tezuka. いいえ。あれはでき上るとすぐ、送ら れてしまいましたから。あれは「白蛇伝」の 前ですか。 ええそうです。
Ishinomori. めずらしいですね。 むこうからの依頼 のも。
Mori. たしか、CIA(米国中央情報局)の依 頼でした。
Matsumoto. エア CIAですか。
Mori. いわば反共映画ですよね。
Tezuka. ひょっとすると、今でも上映してるか もしれないね。あちらの方では。
アニメ界の現状やいかに!?
Tezuka. 昔話が続きましたが、ここらで、アニメ 特に日本の現状についてのご感想な どを、歯に衣をきせずに(笑)お話ねがいた いんですが。あ、それはもちろん、ほめてい ただいてもいいんですよ(笑)。
Ishinomori. ここに集まっていらっしゃる皆さんと 同じだと思うんですが、ディズニーで育った わけですから、今のアニメは動かなすぎると いう気がしてならないんです。リミッテッド すよね。 アニメでもないんですよね。リミッテッドと いうのは、時間や効果を計算した上でのリミ ッテッドですから。手抜きという気がして、 その点が不満ですね。
Mori.「白雪姫」なんか、線がブルブルふるえて るんですよね。パッと止まっちゃうと、 なぜ かおかしな気がして、僕たちも〝止メ"であ っても、わざわざ引き写してブルブルふるわ せたものですよ。
Tezuka. 最近のファンの中では、「白雪姫」な んか、動きすぎて気味が悪いという人もいま すよ(笑)。
Ishinomori. フライシャーなんかも、よく動いてま
Mori. 止まってるところがないんですよね。
Tezuka. 昔は、アニメといえば動く楽しさ、線 の面白さだったでしょう。そのあたりまで、 今の若い人たちに目をむけてほしいですね。
Ishinomori. キャラクター・アニメというか、雑誌 のヒット作からアニメになるのが多いでしょ う。そうではなくて、アニメ独自の作品を作 らないといけないんではないですか。
Tezuka. 石森さんは、そういう企画があれば、 参加されますか。
Ishinomori. そうですね。また、自分で作るとすれ ば、そういった作品を作りたいですね。
Tezuka. 松本さんは、現状についてどうお考え ですか。
Matsumoto. それが、なにしろ自分のことで手いっ ぱいなもので(笑)、アニメの現状といっても ね......。 しかし、自分のことに目をつぶらせ てもらって、棚に上げて話させていただけれ ば、石森さんと同じです。ディズニーなんか を見ると、アニメーションに対する情熱が感 じられるんですね。ああいう情熱がほしいで すね。ところが、アニメーションに参加して みると、赤字がズラリと並んで、今まで想像 もつかなかった世界でして(笑)。現状は自分 のところで手いっぱいで(笑)。
Tezuka. うーん。では、九里さんひとつ。経営 者として、またアニメーターとしてお話くだ さい。経営者としては、どうですか。
Kuri. 大変ですよねぇ(笑)。
Tezuka. 実感ですね(笑)。
Kuri. でも、今後のアニメ界の展望は、明る いと思いますね。アニメファンも増えている ことですし、また彼らはアニメを掘り下げて 見てくれてますからね。設定とか、音楽、企 画と深いんですよね、ですから、ごまかしが きかない。そういった意味では、やりがいが あるし、アニメを本当に見てくれるファンが いるというのは、嬉しいことです。ですから、 仮にお金があったら、こういう企画でやりた いというものをリサーチして、やってのけれ ば損はしないんじゃないですかね。つまり、 いいものは残るということです。
Tezuka. では、九里さん個人としては、どうで すか。経営者としてではなしに。
Kuri. 同じく、非常にやりがいがありますよ。 これからは、自分がやりたいことを、やって のけられる時代が来ると思っています。たと えば、ジ・アニメさんのような雑誌ができて、 アニメを本当に見る目のあるファンに、宣伝 してくれているわけです。今まで、見ていた 人が、やりたい、作りたいということで入っ てきてくれていますしね。
Tezuka. 今、養成されているのは、何人くらい ですか。
Kuri. 若い人が60名くらいです。男女半々で すね。その若い人たちが育ってくれた時、 々の本当にやりたいものができるんじゃな いかと思うんです。でも、まだTV局などで アニメを選ぶ側になった若い人たちが、その 段階までいっていないんです。その人たちが 成長したら、もう少しいいアニメができると 思いますね。
Tezuka. なるほど。
Kuri. ただ、もっとインターナショナルなも のを作らないと......。外国へ行くと言われる んですが、日本のやり方はへただ、今や日本 だけで考えている時代ではないと。たとえば ヨーロッパでは、多くの国がより集まってア ニメを作っていますよね。そういうことを、 なぜ日本はやらないか。あまりにも、日本だ けで甘んじすぎている、と言われますよね。 もっともっと、インターナショナルに作って もいいんじゃないでしょうか。日本だけとい う考えではないんですよね。 手では、結局、輸出を考えるんですか。
Kuri. 輸出というか、もっと国際的にという ことです。外国にも市場が広がれば、それだ 見てくれる人も増えるわけですから、 も入って、費用も使えますしね。
Tezuka. やっぱり、経営者だ!(笑)それでは、 森さん。どんなにケチをつけてもいいですよ。 言ったあとで、これは書くなと言えばいいん ですから(笑)。 (それはひどい!"と編集部の声あり) まず、もうからないと作らないこれ は、たしかに正論なんですが、もうちょっと 幼児向けのアニメがあってもいいと思います。 たとえば「くもとちゅうりっぷ」(松竹動画研 究所 1943年度作品 政岡憲三演出/編 注)みたいな作品があってもいいんじゃない ですか。
Tezuka. 今、森さんがご覧になっている中では、 それに近いものはありますが。
Mori. 「日本昔ばなし」でしょうかね。それに 今のアニメは、動かなすぎますでしょう。
Ishinomori. そうですねェ。
Mori. 昔、アニメーションは、演技の部分が多 かったつまり、動きですよね、ところが、 今は絵の部分が多いですよ。絵ばかり大切に して、動きを考えないんじゃないですか。し かし、枚数が制限されている以上、しかたな いとは思いますけどね。
Tezuka. 当たる作品ができれば、それでもペイ すると思うんですがね。
アニメファンに望むこと
Tezuka. 今、アニメのファンの人たちは、声優 さんに憧がれたり、主題歌に憧れたり つまり、アニメをアニメとして見ないという ところがあると思うのですが。
Ishinomori. たしかに、そういうところもあります ね。
Tezuka. そんな中で、我々がファンに何を望む か。どのように、アニメを見てほしいかをう かがいたいのですか
Ishinomori. 僕は、見方は自由だと思います。ただ、 もっと視点を広げてほしい。アニメーション なに広いと知ってほしいですね。 それは、声優さんに憧がれたり、キャラに ひとつの広がりかもしれない エメーションをメディアとして見て たいですね。 今中学生あたりの人でファンになった人 が、自分で作れるくらいになるま あさないでほしいという気が
Tezuka. なるほどね。松本さんは 松本送り手側の場として、 見方は要求 できないんだ るしょうか。料理して、 だまって皿にのせて出すしかない。 だまって 出して見てもらっ まあ、マナ板の鯉 といったところですか。その中で、やはり自 分で描きたいものを描くしか方法はないと 思います。
Tezuka. う -ん。むずかしいですね。
Matsumoto. それと、現在の、特にテレビアニメは 僕たちが戦後に見てきた、あのマンガブーム というか、赤本ブームに近い状態だと思うん です。山のようにあるマンガの中から、好き 手に選んで何を見ても送り手側からの要 かった。しかし、その中で今も残って いるのは、やはり質のいいものでしたよ。そ の筆頭は手塚さんでした(笑)。今のテレビア ニメも、その中からいいものが残ると思いま す。その土台は、できつつあるんじゃないで すか。
Tezuka. 百鬼夜行ですな(笑)。
Matsumoto. 混沌としてますよ。
Tezuka. ずいぶん長いこと、混沌としてますけ どね(笑)。ところで九里さん、今は東映とか ムービー、それに竜の子さんなど、ファンク ラブがあるというのひとつの現象だと思 いますが、そういうファンを大切にされてい る立場から、身近にいるファンの気質みたい なものは、いかがですか。
Kuri. まあ、アニメというのは娯楽ですから ね。アニメで人生を語るようなのは、大げさ すぎると思いますよ。それより、今はアニメ ーターの中から、作り手としての情熱が燃え はじめているような気がします。こういう時 に、いいものができると思うんです。 特に手 塚さんが、情熱的にアニメ界をもり上げてく だされば (笑)。
Tezuka. まあ、それは別にして(笑)。森さんは 今のファンの人たちを、どう見ますか。
Mori. セルを買いにいくのに、朝行列している ような人を見ますけどね。まあ、それはそれ なりにいいんですが、できることなら、その 費用を自主製作の方にまわしたら、と思うん ですよね。アニメってのは、案外誰にでもで きるものですしね。
Tezuka. 何がセルブームのきっかけですかね。 昔は捨てていたんですがね。
Ishinomori. 見学に来た人にあげたり......。
Tezuka. 裏庭に穴を掘ってうめたり(笑)。
Kuri. 今でも、たいしたことのないような 柄のものは、埋立 手家 まだ、埋立地を探してい 人がいるらしいですよ(笑)。
Kuri. しかし、セルをほしがるか ますよ。僕もディズニーのみほ からね。結局、本物に戻したいという でしょうか。
Mori. ただセルという は、動きのほんの一級 ですからね。1枚1枚で見ると、中途とんぼ ですよ。
Tezuka. そういえば、アメリカで「ウィザーズ」 のセルを売ってましてね。これがフルアニメ の1カット -100枚近くをまとめて売ってる んです。だから、1枚1枚、少しずつ動きが 違うんですね。こんなのを、まとめて買って きたらいいですよ。
Matsumoto. それはほしいなァ。
未来へ! アニメにかける夢!
Tezuka. ここらで夢というか、今本当に心の底 から作りたい作品があったら、教えてくださ い。
Mori.「桃太郎」なんです。これを長編で。
Tezuka. ほう、長編で「桃太郎」ですか。
Mori. これは、昔からの夢なんです。
Tezuka.「日本昔ばなし」みたいなタッチで?
Mori. いえ、もうちょっと違うと思います。
Tezuka. 森さんが今までご覧になったアニメで、 一番感動したものを教えてください。
Mori. ソ連のアニメで「雪の女王」、あと「やぶ にらみの暴君」、ディズニーでは「バンビ」で すか。
Tezuka. 日本のでは?
Mori.政岡さんの「くもとちゅうりっぷ」です
Tezuka. なるほど。では、九里さん、感動したね。 アニメは何ですか。
Kuri.「白雪姫」 -これは、感動しました。 でも、今見てしまうと、違った感じを受けそ なので、なるべく見ないようにしてますが (笑)。あと「覧会の絵」(プロダクション 1965年度作品 大夫、杉山卓演出 注)「ファンタジア」もいいです ね。 「ファンタジア」は、よく動いてますね。 でも、技術的にどう作ったのかわ かりませんね。
Kuri. テクニカル・ミスがないでしょう。 一カ所だけあるんですよ(笑)。 撮影ミスか、シートの記入ミスでしょうが ほんイラッと(笑)。 でもありましたね。 ああ、あれは、長セルでパンするから、 そのあいだに見えないところで、動かしたん 事のシーンで、アライグマが子ど をくわえて川を渡るんだけど、こっちの岸 な作品ですか。 子どもがいなくなっちゃうんです さんは、今作りたいものは、どん
Kuri. やはりSFコマンです。あまりハード にならず、日本のSFを基本にしたインター ナショナルなくといったところですか。
Tezuka.「タイムボカン」?(笑)。
Kuri. もっと大河的なものですね。
Tezuka. たとえば・・・・ 「地球へ・・・」みたいな?
Kuri. そうですね。手塚さんの「火の鳥」の ような感じですか。
Tezuka. テレビアニメでは。
Kuri. やはり、SFロマンです。
Tezuka. ずいぶんSF指向ですね。
Kuri. アニメって想像の世界でしょう。SF だと、色々な制約がありませんから、思いき り作れると思うんです。
Tezuka. なるほど。では、石森さん、好きなア ニメを。
Ishinomori. うーん、むずかしいなァ。「ファンタ ジア」「やぶにらみの暴君」、それにディズ 一。 ニーの「ブカドン」なんか、わりと好きです あと「風車小屋の一日」。
Tezuka. 作るとしたら?
Ishinomori.「風車小屋」のような感じのものを。 僕 生まれた村の四季のたたずまいなんかを、 アニメで描いてみたいですね。
Tezuka. それ、SFとは関係なしですか。
Ishinomori. ええ。ただ淡々と、村の風物を......。
Tezuka. そこに、円盤が飛んで来たりして(笑)。
Mori. 石森さんにしては、こういうのはめずらしい ですね。それでは、松本さんは。
Matsumoto. 僕の好きな作品は、フライシャーの「ガ リバー旅行記」と「バッタ君町へ行く」、そ れに「不思議な国のアリス」までのディズニ 「白雪姫」「バンビ」 「ピノキオ」は文 句なしに好きです。 ましょう。
Kuri.「アリス」もよかったね。
Tezuka. 少し時代が早すぎた感がありますね。
Matsumoto.「バッタ君」なんかは、暗記しているく いです。
Tezuka. 松本さんの作りたい作品は?
Matsumoto.「蜜峰マーヤ」を死ぬまでには! マン ガ的にデフォルメした絵で。それと、24時間 ぐらいの長さで、地球の歴史をテーマに、こ れはクソリアリズムでやりたいですね。
Tezuka.「ヤマト」みたいなものは?
Matsumoto. きや、戦艦はひとつでたくさん(笑)。
Tezuka.でも以前「宇宙戦艦マーヤ」というう わさも(笑)。
Matsumoto. それはな ですよ(笑)。
Tezuka. ところで、先日”オッタワ映画祭"を 見て来たのですが、すごい力作ぞろいでして ね。全編これ背景動画、それも魚眼レンズ風 なんてのもありました。外国とくらべると、 今日本の一 界は、このままでは袋小路に 入りかねないという気がするんです。ここで やはりみなさんにがんばっていただいて、す ばらしいアニメを見せていただきたいと思い ます。今後とも、みんなでよい作品をめざし ましよう。
Yoko Asagami & Kei Tomiyama: Anime Jockey
正月映画にアニメを
ぶつける映画会社まで現わ
れ、アニメ人気はますます
高まり、アニメファンもグ
インと増えているが、そん
なアニメファンにビッグニ
ュースが一つ。(会場の都
合などで)これまで、ほん
の一部の人しか観ることが
できなかった。世界のすば
らしいアニメ作品が、なん
と、テレビで観られること
になったのだ!“世界の優
秀アニメをテレビで"とい
う声は以前から大きかった
がなかなか実現できないで
いた。だが、今回、その夢
がとうとう現実のものとな
ったのだ。そこで、ジ・ア
ニメでは早速、この話題に
注目し、番組の内容を徹底
取材するとともに、この企
画を実現させた人たちにも
お会いし抱負などをお聞き
した。すばらしい作品ばかりぜひみていただきたいね
番組名からもおわかりのように、「アニメジョッキー」の声 を担当するのが、あの“ヤマト”でおなじみの富山敬さんと 麻上洋子さん。そこで早速、アフレコが行われている「新坂 スタジオ」にお二人を訪ねた。
Q. 先ほどから見てて、お二人の息 がピッタリですし、それにとっても 楽しそうなんですが、こういうかた ちでやられるのは初めて?
Tomiyama. かなりやってるように思われ てるらしいんですけど、まったく初 めてなんですよ。
Asagami. ラジオドラマかなんかでは、 一緒にやったことはありましたけど、 テレビで、しかもアニメ番組でとい うことではなかったですね。残念で すけど(笑)。
Tomiyama. そう思われるのは、やはり”ヤ マト”のイメージが大きいんじゃな いかな。どういうわけかあれに限っ てアフレコ風景の写真があちこちの 雑誌にずいぶん紹介されたから。
Asagami. そうですね。
Q. アフレコの方、順調に進んでい るということですが、これまでやら れて、感想は?テレビのシリーズア ニメと比べていかがですか?
Asagami. シリーズアニメの場合ですと 一人のキャラクターの声だけやって いればいいわけですが、この「アニ メジョッキー」では、一人で何人も のキャラの声を出さなければならな い。それに、女性ばかりでなく、男 の子もいればおじいさんなどもいる その辺の声替りが、私自身あまりそ うした経験がないのでたいへんです ね。
Tomiyama. 時には動物の鳴き声もやらな ければならないしね(笑)。
Asagami. そう、それと、テレビシリー ズのようにつづきものでないでしょ 一本一本が独立した作品ですし、キ ャラクターもちがう(中には『今に 見てろ』などキャラクターが同じの もあるが)それで、毎回、演出の水 本さんにお聞きしながら自分なりの イメージをつかんでいくのですが、 その辺がシリーズアニメとちがって むづかしいですね。 でも逆に、今は それが、すごい励みになっています ね。私にそうした経験があまりなか っただけに作品もすばらしいも のばかりですしね。
Q. 富山さんはいかがですか
Tomiyama. 僕は以前からこうした作品を やってみたかったので、すごくうれ しいですね。相棒もすばらしいし。 (笑)とにかく、麻上さんも今いって ましたが、作品がいいんですね。 重 きが非常になめらかですし、絵も美 しくしっかりしてる。それに音楽が バツグンにいい。
Asagami. いかにも時間とお金をたっぷ りかけて作ったという感じ
Tomiyama. そう、実にキメ細かいという かていねえに作ってある。やってて 不思議なくらいイメージがわいてく るんです。
Asagami. それに、テーマ自体かなりむ づかしいものもあるんだけど、すご くわかりやすいんですよね。絵だけ 見ててもわかっちゃうというか・・・
Tomiyama. そう、その辺の構成はよく考 えているなと思いますね。僕らにと ってはそこがむづかしいわけですけ
Asagami. そうですね。ガンバラなくっ ちゃ。(笑) 富山さんが、今イメージ がわいてくるといいましたけど、実 は私もそうなんです。イメージがど んどんわき上ってきて、これまで引 っかかっていたアイディとか着想が 次々出てくるんです。
Tomiyama. 作品がそれだけ基本的な部分 を大切に作ってあるんだよね。
Q. 最後に抱負をひと言......
Tomiyama. そうですね・・・・・・やはりいつま でも心に残るような作品にできれば と思いますね。
Asagami. 私はとにかく富山さんの足手 まといにならないように(笑) ガンバ りたいと思っています。
試写会のお知らせ
ジ・アニメでは「富山敬と麻上洋 子のアニメジョッキー」のテレビ放 映に先立ち、この番組を企画推進さ れた三社、「日本海映画株式会社」「ヘ ラルドエンタープライズ株式会社」 「㈱ザック・プロモーション」のご 協力をいただき、世界の優秀アニメ 作品の試写会を行います。希望者は、 葉書に、住所・氏名、年齢を書き、 〒16東京都港区西新橋2の7の4 第20森ビル 近代映画社 ジ・アニ 編集部「富山敬と麻上洋子のアニ メジョッキ」試写係までお寄せください。 ただ、試写室がそれほど広くなく 席数も少ないので、応募多数の場合 は抽選させていただきます。 抽選結 果ならびに、場所等詳しくは当人に ハガキでお知らせいたします。 また、当日はゲストとして「アニ メジョッキー」の富山敬さんと麻上 洋子さんをお招きする予定です。 ●試写会開催日 12月3日(水 ●時間 PM3:00からと5:00から (どちらにするか明記して下さい) ●場所 ヘラルド試写室 ※なお、今回は席数も少く、それに 遠くからですと負担をかけてしまい ますので、東京近効の方に限らせて いただきます。
公開のチャンスがなく倉庫に眠った ままだった… (大森紀子氏)
当社は、ソ 連を中心に東 欧諸国から映 画(もちろん アニメも含ま れる)等を輸入しています。いちば ん最初に輸入し劇場にかけたのが、 十五~六年前の〝戦場”(ヘラルド 配給)という映画でした。アニメも そのころから輸入しているのですが そのストックが現在、三百本近くあ ると思います。 私自身、入って来たフィルムは全 部観ていますが本当に、素晴しい作 品ばかりなんです。しかし残念なこ とに今までに劇場公開のチャンスが なく、倉庫に眠ったままだったので す。それを、三年前から、せっかく の作品だし、できるだけ多くの人に 見ていただこうと、アニメ同好会や 日ソ協会の主催で年二回、都内のホ ールなどで公開するようになったの です。 これがたいへんな反響で、その年 に、今回のようにテレビでやろうと いう企画が持ち上ったのですがその 時は結局ダメになってしまった。 その意味でも、今回のテレビ放映 には大いに期待しています。ただ残 念なのは、今回は二十六本だけしか お観せできないこと。これ以外にも 素晴しいアニメ作品がたくさんある んです。チャンスがありましたらま た、ぜひご覧いただきたいと思って います。今回の中では「島」「フィ ルムフィルム」「イカルスは空を飛 んだ」「狼軍団と半軍団」が特にお すすめしたい作品ですね。
さまざまな手法の素晴しいアニメばかり (ザック・プロ) 水本 完氏
現在、アニ メ番組は、再 放送を含めて 一日四~五本 一週間に実に 三十本前後の作品が放映されている (地方によって多少本数に差がある が)といったように、たいへんなア ニメ人気。多少なりとも、アニメ制 作にたずさわっている者にとっては それ自体非常に喜ばしいことなんで すが、ただ、現在の日本のアニメ界 の情況を見た場合、必ずしも誉めら れたものばかりではないのですね。 アニメは、実写ではとても描きき れない表現方法を持っており、その 大胆な表現とファンタジックな拡が りは子供たちに限りない夢を与えま すが、現在のような情況の中ではそ れもなかなかむづかしい。 それに、日本のアニメの場合(少 くとも現在放映中のアニメについて は)手法がほとんど同じ。これでは 子供たちにアニメとはこういうも のだ"と固定した見方を植えつけて しまいます。そうでなく、アニメは 手法にしろなんにしろ、もっと自由 で素晴しいものであるはずです。(放 映されているアニメが素晴しくない ということではないが)。 そんな風に考えて、ちょっと外に 目を向けると、外国には、それこそ 時間と金と才能をたっぷりつぎ込ん だ、素晴らしい短編アニメがたくさ んあるんですね。聞いてみますと、 「日本海映画」さんの倉庫には、そ うしたアニメが三百本も眠っている というんです。そこで、早速、ヘラ ルドエンタープライズさんにも協力 していただいてぜひ、と今回の放映 にこぎつけたわけです。 今回放映するのは、三百本のうち の二十六本だけですが、機会があり ましたら、ぜひまた企画したいと考 えています。作品は、どれも素晴し いものばかりです。ご家族みんなで お楽しみください。
Akio Sugino Feature
北見で月2本マンガを描いて投稿していた
TA. 型どおりなんですけど、まず杉野さんの 生いたちあたりから話してもらえますか。
Sugino. そうですねえ……生まれたのは札幌で 昭和19年の9月19日です。小学校の3年まで そこにいまして、それから父の仕事の関係で 同じ北海道の北見へ移ったんです。そして1 の歳に上京するまで、ずっと北見で過しまし た。
TA. 多感な10代の頃をほとんど過された北見 というのは、どんなところですか。
Sugino. とにかく何もないところなんです。 盆 地でしてね。冬なんかものすごく寒い。まる 冷蔵庫の中にいるような感じですね。風が ひじょうに強く吹くものですから、雪なんか 横から降ってくるっていう感じなんです。 と にかくそういう厳しいところで、いまは、も うダメになってしまったみたいだけど、当時 は特産物としてハッカが有名でした。
TA. 子供の頃は、どういう少年だったですか?
Sugino. そうですね。どちらかといえば、あま 外に出て活発に遊びまわるという子供では なかった。それより家の中で何か描いたり、 遊んだりすることのほうが多かったです。
TA. 描くというと、マンガを?
Sugino. そうです。
TA. いくつぐらいから、またどんなものを描 いていたのですか。
Sugino. はじめは、マンガといっても手塚治虫 さんなどの模写なんですけど、小学校へ上が 前から描いてましたよ。ま、僕の場合、外 で遊ぶより、家の中のほうが好きだといって も女きょうだいが多かったもので、あまり相 手にもされず一人でボソボソと描いているし かなかったんですけどね(笑)。 当時やっぱり「鉄腕アトム」がヒットして いてね。もう「アトム」ばっかり描いていた。 だけどどういうわけか飽きちゃったんですね。 それよりも寺田ヒロオさんとか、関谷ひさし さんのものが好きになった。なんとなく暖み が伝わってくるようでね。
TA. 上級へいくにしたがって描くほうもエス カレートして?
Sugino. ええ、でも北見へ移ってからは、近所 に同じ年齢ぐらいの友だちがいましたから、 けっこう外でも遊んでいましたけどね。もち ろんマンガのほうも、より一生懸命描くよう になりました。 ちょうど中学の頃だったかな。いわゆる劇 画というのが出てきましたよね。単行本とか、 雑誌でも「影」とか「街」とか貸本向けのも のがね。そういう劇画のようなものを、月に 2本ぐらい描いていたのかなあ・・・・・・。
TA. 月に2本というと、すごいペースですね。
Sugino. 乱作だってよくいわれました(笑)。で も、その頃は、なんていうのか、どうしても 描きたい衝動にかられていたし、描きたいも ののイメージがどんどん湧いてくるんですよ。
TA. 内容は、どういう傾向のものが多かった んでしょう。
Sugino. いわゆる青春ものばかりでした。ただ 僕は、その頃劇画という言葉にとてもこだわ っていたし、反発していたんです。マンガと 劇画とかって区別する必要はないんじゃな いかってね。同人誌の集まりなんかで、その ことについて一席ぶったこともありましたよ (笑)。つまり、劇画といったって、そのスト ーリーは当時の日活アクションみたいなもの ばかりなんですよ。それを劇画なんだ、なん てオゴってはいけないってね。(笑)。
TA. なるほど、なるほど(笑)。それで描いた ものは、どこかへ投稿されたわけですか。
Sugino. ええ。今はもうありませんけど、先ほ どいった「街」というマンガ雑誌が、セント ラル文庫という出版社から出ていましてね。 そこへよく投稿してました。 二回ぐらい掲載されたのかなあ......。それ からすぐ、その雑誌は廃刊になってしまいま したけど(笑)。 アニメーターになってから知ったんですけ 当時「街」に、やっぱり僕みたいに投稿 していた人で、現在アニメーターになってい る人が何人かいるんですよ。 たとえば荒木伸吾さんとか、金山明博さん もそうですしね。
TA. やっぱりそうやって投稿するということ はマンガ家を志していたわけですか。
Sugino. ええもちろんそういう気持は、はじめ からありました。
教科書にしていた手塚治虫の虫プロへ入社
TA. そもそも、マンガを読むだけではなく、 描いてみようと思ったのは、どなたか回りの 人の影響があったのですか?
Sugino. それがないんですよね。もちろん好き で読んでいたわけですけど、絵を描いている ような友だちもいませんでしたし、家族にも そういう人間はいませんでしたし、どうして でしょうね?(笑) まったくの突然変異なん じゃないんですか(笑)。
TA. そうしますと、とくに先生について絵を 勉強したという経験はないわけですか。
Sugino. ええ全然ありません。デッサンにして も直接勉強したというわけではなくて、まっ たくの自己流なんです。勉強といえば、前に もいったように、マンガの本の模写をするこ とが、そうだったのかもしれませんね。それ 僕が小学生の頃でしたけど、手塚治虫さん が「マンガの描き方」という本を出していた んですけど、その本を買ってきて宝モノのよ うに大事にしていました。その本でいろいろ 勉強しましたね。
TA. それからどうされたわけですか。
Sugino. とにかく投稿を続けながら高校を卒業 しました。 僕の希望としては、美術学校へ進 学したいという気持があったんですけど、家 庭の事情がゆるさず、卒業して一年ぐらいは 兄貴の仕事の手伝いなんかをやっていました。 それでもやっぱりマンガ家になりたいという 気持は捨てきれませんでね。あるとき札幌に マンガを出している出版社がありまして、そ こへ原稿を送ったわけなんです。まあ、その 出版社も、僕が原稿を送ったからというわけ ではないんですけど、ほぼ同じぐらいに雑誌 が廃刊になってしまった(笑)。まあ、よっぽ どついてなかったんでしょうけど。でも、そ この出版社に、たまたま手塚治虫)さんの アシスタントをやっていたという人がいまし てね。親切にも、もしどうしてもマンガを描 いてみたいのなら、東京に手塚さんの虫プロ ダクションというアニメーションをつくって いる会社があるけどどうだってすすめてくれ たんです。そのことがキッカケになりまして 上京する決心がついたわけです。その人の名 刺をもらったんですけど、その頃はまだ若か ったもんですから、この名刺さえあれば東京 へ出ても食いっぱぐれることはない、なんて、 単純に考えていましてね(笑)。 ちょうど僕が上京するのと、いきちがいに なってしまったんですけど、当時虫プロにい 真崎守さんが、マンガ雑誌に投稿した僕の 作品を見て、 虫プロへ来ないかって北見の方 へ手紙をくれていたんです。そのころ虫プロ は忙しくて、アニメーターをずいぶん募集 していましたからね。
TA. それで上京してすぐ虫プロへ?
Sugino. いや、やっぱりはじめはアニメーター ということより、どうしてもマンガ家になり たいという気持のほうが強かったものですか ら、上京してしばらくはマンガを描いていま した。そうしているうちに、どうやらマンガでは食えそうもないなって思ったものですか ら、 その札幌の出版社の方の名刺をもって虫 プロへたずねていったわけです。 実は、上京するすこし前に、アニメのいわ ゆる動画のようなものを描いて、虫プロの手 塚さんに送っていたんです。 それを山本暎一さんなんかが見ていてくれ たらしくて、なんとか動画ぐらいなら描ける んじゃないかということで、採用されたわけ なんです。
出崎統、矢吹ジョーとの熱い出会い
TA. 入社して、すぐ動画を描かせてもらえたのですか?
Sugino. はい、どういうわけかすぐ動画を描か せてもらいました。 初めての作品が「鉄腕ア トム」だったんですけど、とにかく描くこと ができてうれしい、というよりも、もう無我 夢中で描きつづけていました。アニメの面白 さっていうのは、やっぱりだんだん慣れて要 領がわかってくるにしたがってでてきました ね。
TA.「アトム」のつぎが「ジャングル大帝」ですね。
Sugino. ええ。「ジャングル大帝」 「リボンの 騎士」で動画だけではなく、原画も描くよう になったんです。
TA. そして初めて作監を担当されたのが「わ んぱく探偵団」?
Sugino. そうですね、正式に作監という名前で やったのは「わんぱく探偵団」ですけれども その前の「進めレオ」の時にも、月に1本ぐ らいの割で、作監のようなことをしていまし た。
TA. そのあと「佐武と市捕物控」などを経て いよいよ「あしたのジョー」と出崎さんとに 出会うわけですけど、出崎さんとの出会いと いいますと?
Sugino. 出崎さんは、僕が目標にしていた人の ひとりなんです。出崎さんもやっぱり虫プロ にいたんですけど、僕が虫プロに入るのと入 れ違いに「アートフレッシュ」という会社を つくられて虫プロを退めていかれたわけです。 出崎さんもやっぱりマンガを描いていまして ね。僕も見ていまして、ああ、上手な人がい るもんだなって思っていたんです。 初めて出崎さんといっしょに仕事をしたと いうのは、たしか昭和44年だったと思います けど、アメリカとの合作で「フロスティ・ザ ・スノーマン」という作品でした。とにかく よく二人で遊び歩いてばかりいまして、なか なか仕上がらなかったっていう思い出があり ますね。
TA. いっしょに仕事をされてまして、出崎さ んという方はどういう方ですか。
Sugino. とにかくいろんな意味で僕を触発して くれる人ですね。なんでも先へ先へと考えて いく人で、僕なんか、それについていくのが 精一杯という感じ….....。
TA. その出崎さんとコンビを組まれた「あし たのジョー」が最も気にいられている作品と か?
Sugino. やっぱりそうですね。ひじょうに疲れ 作品でもあるので、とくに印象深いのかも しれませんけど。それと、虫プロを退めてフ リーになって最初に作監として手がけた作品 ですから、いろいろと思い出があります。と にかく、いい意味で気負っていました。
TA. 矢吹ジョーというキャラクターの生き様 についてはどう思いますか?
Sugino. 愛すべきキャラクターという意味では、 「ジョー」にももちろん愛着があるわけです けど、やっぱりあれは、ちばあきおさんのキ ャラであって、自分のキャラではないという 感じがあるわけです。ですから、たとえば、 「佐武と市 にでてくる飲み屋のオカミ さんのほうが、自分としては好きなキャラな んです。 しかし矢吹ジョーに接していると、ああい うふうに生きてみたいなっていう憧れがあり ますね。自分にもひょっとしたらできるんじ やないかなどと思ってみたりもしましたし、 これから先、どうなるかわからない人間。あ れほどものごとに熱くなる人間。 魅力的な 男ですね。「あしたのジョー」というのは、 オーバーにいわせてもらえば、作品に自分自 身を照らしあわせて見ることができる、僕の 青春そのもののようなものです。
アニメで黒沢明の作品に迫りたい
TA. ジョーもそうですけど、杉野さんの作品 は、何というかきめの細かさと、暖かさが特 のように思うのですが、そのへんはご自分 でも意識されてますか。
Sugino. うーん、それは僕が、というより出崎 さんの持ち味じゃないかと思いますよ。僕は どちらかというと、アニメチックというか、 アニメナイズされたキャラというのがイヤな んです。もっと生身のものを描きたいと、つ ねづね思っているわけなんです。
TA. もう少し詳しく説明していただけますか。
Sugino. そうね・・・・・・。 これは説明するのが難し いことなんですけど、 ······なんていうか、い わゆるアニメアニメしたパターンというもの がありますよね。抽象的な説明で申し訳ない んですけど、そういったものではなく、絵が 動かなくても存在感があるというか、リアリ ティがあるというか、そういったものなんで すね。
TA. 杉野さんのお好きな黒沢明の作品に通じ るものがありますか。
Sugino. 関係があるかもしれませんね。おっし やったように僕は黒沢作品が好きで、よ観 ていますし、いわば僕の教材のような存在な んです。あの人の作品の素晴しさというのは 映画の作り方がとても基本的なんです。それ に手造りの感じがある。たとえば、小道具の 花ひとつにさえ、イメージを持たせています。 そういったことは、どちらかといえばアニメ の方がやりやすいことなんですけど。
TA. 実際に、黒沢明の素晴しさを、どういう かたちで取り入れていますか。
Sugino. たとえば「ジョー」の中でも、黒沢作 品の中でよくつかわれている光と影の描写法 をうまくつかってみたつもりです。それと「武 佐と市」では、あの頃ちょうど黒沢作品 の「赤ひげ」が上映されてまして「赤ひげ」 を見にいきながら絵を描いたり、キャラクタ ーをそこから拝借したり(笑)ずいぶん遊ば せてもらいましたよ(笑)。
TA. アニメで黒沢明に迫ろうと。
Sugino. まあ無理でしょうけど(笑)ああいう理 屈ぬきに楽しいものに、できるだけ近づきた いという気持はありますね。
「ジョー」のハードなスケジュールが面白い画面をつくる
TA. 話は変りますけど、いままでやってこら れた中で、影響を受けた方といいますと、ど ういう方がいらっしゃいますか。
Sugino. 出崎さんのことはいいましたので・・・ そうですね「わんぱく探偵団」のときに原画 を担当していて、現在マンガを描かれている 村野守美さんは、とても絵が上手でね、それ 村野さんは、テレビ・アニメはこうあるべ きだという考えをもっていましたね。つまり、 テレビだと、動きなんかが映画と比べて甘く なるから、シャープな絵づくりが大切なんだ ってよく話してました。そのことが、その後 の僕の仕事に少なからず影響したと思います。 それから、ほんとにちょっとお手伝いした だけという人なんですけど、高畑勲さんがす ごく印象に残っていますね。「アルプスの少 女ハイジ」をわずか30カットほどでしたが、 手伝ったことがあるんです。そのとき2~3 時間打ち合わせをしたんですけど、人間の見 つめ方が独特なんです。たとえば”マルコ" だったら、そういうリアクションは絶対しな いとか、朝と昼と夜とでは、窓をひとつ開 けるにしても、それぞれの開け方があるとか いっしょに仕事をしたのは、後にも先にもそ のときだけなんですけど、演出家としてとて も優れた方だと思います。
TA. なるほど。他の人の作品としては、どう いうものを好まれますか。
Sugino. 外国の作品なんですけど「トムとジェ リー」が大好きなんです。僕も最終的には、 ああいった作品にいきつきたいなっていう希 望もありますね。
TA.「トムとジュリー」のどのへんがお好き なんでしょう。
Sugino. まず、とにかくおもしろいということ が第一ですね。それとあの作品にはアニメ のエッセンス"というものがすべてつめこま れているって感じがします。アニメのキャラ でなければ、絶対にあそこまではいけないっ て気がしますし、作品そのものも、キャラク ターも生きているって感じが画面から伝わっ てきますよね。近々テレビで再放映されると いうので楽しみにしているんです。
TA. 逆に自分では、とてもできないというア ニメのジャンルがありますか。
Sugino. いっぱいありすぎてわからないですね(笑) そうですね。僕はメカものはニガ手なんです よね。まあ、これまでにやったことがあるこ とはあるんですけど、どうもダメなんですね (笑)。ああいうふうにキッチリ描くことがで きないんですね。性質なんでしょうけど、あ あいった冷たい鋼鉄のイメージっていうのが どうしても好きになれないし、ダメなんです ね。もしかしたら描けないからそう感じるの かもしれませんけどね(笑)。とにかく僕とし ては暖いものが好きです。
TA. これからやってみたい作品は?
Sugino. いまは「ジョー」をやってまして満足 してますから具体的には考えていませんけど、 いつかまた「佐武と市 -」みたいな時代劇 をやってみたいという気はあります。
TA. 最後に、マッドハウスを出られたそうで すけど現在はまったくフリーで?
Sugino. ええ、出崎さんたちと新しい会社”あ んなぷる"を作ったんですけど、その事務所 ができるまでは、東京ムービーの一室で仮住 まいをさせてもらったわけです(笑)。
TA.「あしたのジョー2」のスケジュールは かなりきつそうですね。
Sugino. ええまあ・ ・作監はなにしろ僕ひとり ですから、月4本のペースは楽じゃありませ んよね。ですから今の生活っていうのは、夕 方近くから仕事を始めて、朝まで続け、それ から眠るっていう毎日です。なかなか家に帰 れない(笑)。
TA. それほどハードだと作品に影響がでるのでは?
Sugino.「ジョー」をやってるときは、かえって キツい方がフィルムの上がりの面白いものが できるんです。負け惜しみじゃないですよ(笑)。 軽い作品をやるときは、キツイ状況だとうま くいかないんですけど、「ジョー」のようなハ ードアクションはワッ!というものができる んです(笑)。だからこの間の「ユニコ」など は、かるーくかるーくやりましてね(笑)。作 画監督というのは作品全体に及ぼす影響が大 きいので、そうしたことにたえず注意をはら うことが大切なんですよ。
TA. きょうは、いろいろありがとうございま した。
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