Friday, October 7, 2022

24 Hours with a Seiyuu (Animage, 1979)

The following is a transcription of all twelve of the "24 Hours with a Seiyuu" feature in Animage from the year 1979.

Miyuki Ueda (January)

フェイ・ダナウェイ、カトリーヌ・ド ヌーヴ、キャンディス・バーゲン、ジェ フォンダなどなど、外国女優の場 合、女性としての魅力がもっとも光り輝 きはじめるのは30歳を越えてから。悪く すると、不惑の年を過ぎて、なお、堂々 と恋愛映画のヒロインを演じ、それがち っともおかしくないなんて〝豪の者"も 少なくない。 それにひきかえ、わが日本。三十路過 ぎればババア扱い。その環境に影響され るのか、だんだん、小ジワだけが目立ち はじめ、やがて、母親役かオバさん役し か似合わなくなり・・・たまにゃ、そんな風 潮に抵抗しているムキもあるけれど、そ れはそれで、ケバケバしき、ムダな抵抗 的若づくりが鼻につき、オエット。 日本の女優って、どうして、こうも、 魅力的30代になるのがヘタなんだろう、 がね、そう思っていた。 前置きが長くなりました。今月の「声 優訪問」は、バーム星の美少女・エリカ こと、上田みゆきさん。ああ、日本にも こんな女優さんがいたんだな、思わずう なったほど、さわやかな魅力あふ れる、当年30歳のベテラン女優である。 ガッカリさせないために最初にお断わりしておけば、もちろんミセス。 小学校 2年の坊やもいるママさん女優である。 「出演本数は少ないんですけど、この世 界に入って長いんですよ。 小学校4年か らやっているんですから」 たぶん『アニメージュ』読者が生まれ るか生まれないかというころの話だから 記憶にあろうはずはないのだが、彼女、 昭和20年代の終りから30年代のはじめに 愛称 ポッポちゃん"で親しまれ ていた有名な子役スターだった。 「ニッポン放送で”ポッポちゃん"てド ラマの主人公を公募していて、それに応 募したんです。それ以来、ずっとニッポ ン放送の専属だったんですが、やがてフ ジテレビが開局して、ニッポンのディレ クターの方がそっちへ移ったりしたんで、 フジの少年探偵団〟にレギュラー出演 したり。仕事の数は多くないんですよ。 なにしろ、学校最優先で、きょうは遠足 だから、あしたは運動会だから、そんな 調子でやっていましたしネ」

話しことばのきれいなこと

こういう経歴を聞くとわれわれ凡人が 即、想像してしまうのが、物心つくかつ かないかで芸能界入りし、この世界の水 にひたりきってしまった独得のニオイを 発散させる人種のこと。 しかし、不思議なことに、この人には そんなニオイがケほども感じられない。 それどころか、話しはじめてすぐ気づい たのだが、その話し言葉のきれいなこと ・おかしないい方だが、上田さんの生ま れ育ちを聞くうち、そのナゾが解けたよ な気がした。 「家は徳川時代から代々医者だったらし いんです。 東京の谷中にお墓があって、 つい最近、過去帳みせてもらって知った んですけどネ。松平ナントカ家のご典医 だったんですって」 もちろん、彼女のお父さんも医者。現 在も東京で開業中だ。 「祖父の代に中国の山西省に渡り、向こ うで開業したらしいんです。だから私も、 生まれたのは山西省太原というところ。 乳飲み子のうちに終戦で日本へ帰ってき ましたから、記憶はぜんぜんないんですけどネ」 こういう家庭環境だから、昭和20年代 という日本全体が貧困のどん底にあった 時代に幼年期を過ごしながら、生まれて このかた、生活の苦労などというものを 味わったことがない。 5つのときから故石井漠氏のもとでモ ダンバレエを習い、学校は小学校から高 校まで、リベラルな校風で知られる私立 の名門、明星学園に通い・・・。 「だから家のほうでは、芸能界に入ったなんてつもりなかっ たんじゃないんです か。おままごと遊び やってるぐらいのつ もりでずっと見てい て、つい、やめなさ いっていうタイミン グを失ってしまった っていうことでしょ うネ」 その間隙をぬい、 おままごとをやって るはずの本人のほう は、だんだん芝居の 魅力にとりつかれて いき、ついに本格的 演技の勉強をと、日 大芸術学部への進学 を決意するにいたる。 「それが、入学した のはいいんですけど ネ。こわくて門をく ぐれないんです。 ホ ラ、応援部の人とか、 体育系の人とか、見 上げるような、みるからにこわそうな人がいっぱいいるんで すよネ。おまけに、そういう人が突然声 かけてきて”あのう、上田さん、一度ぼ くらの部へも、ぜひ遊びに来てください" なんて。たぶん、いい人だろうとはわか っているんですけど、もうこわくて半分 ノイローゼみたいになってしまって・・・」

泣く泣くやめた舞台の仕事

応援団がこわくてというわけではない が、結局「なまじプロの世界を知ってい る人間には物足らず、といって、ズブの 素人を対象にしているともいえない中途 半ばな講義内容にあきたらず」 大学のほ うは二年で中退。 4年には故三島由紀夫氏などがかかわ っていた劇団NLTに研究生として入団 している。このとき24歳。さすが、ご両 親のほうも、もう"おままごと”とはい っていられなくて、相当な反対をしたら 「やっぱり、お医者さんと結婚させてっ て考えていたらしくて、ずいぶんお見合 いさせられました。エッ、主人ですか、 いいえ、医者じゃありません。当時、劇 団にいた人で、いまはべつの仕事をして いますが、うーん、主人の話は、かんべ んして下さい」 察するところ、結婚も親の反対を押し 切っての相当なる恋愛結婚? この劇団NLTで「声優業」禁止令を 出された。 「芝居が固まらないうちに声だけの芝居 をやると、かんじんの舞台で体の演技の ほうがついていかなくなるっていう三島 (由紀夫) 先生なんかのご意見でネ、で も、私はかくれてやっていましたけど・・・」 かくれてやってた代表的な仕事が、彼 女にとっては初のアニメのアフレコ『エ イトマン』だった。 「でも、2年くらい前〝ロボコン"のマ マさん役に出演してみて、そのときいわ れた意味がとってもよくわかりました。 セリフの芝居だけが先行して、かんじん の演技がついていかないんですヨ」 芝居の話になったとたん、口調が熱っ ぽくなってきた。 数年前、結核と胆のう炎を併発、ハー ドな舞台に耐えられなくなり、NLTを 退団、現在は「闘将ダイモス」のエリカ それに日本テレビの外国テレビ映画「チ ャーリーズ・エンジェル」のケリーと声 優専業なのだが、だれはばからずこうい う 「一番好きなのは、舞台の仕事。あの客 席から伝わってくるジカの反応、終わっ たあとのビールの乾杯は、なんともいえ ないすばらしさです。体がどうしようも なくて、泣く泣くやめたけど、そのとき も、お芝居は年とってからでもやれる一 生の仕事だからって一生懸命、自分にい い聞かせましてネ・・・」

サルトルからミッチェルまで

「私ネ、360ぐらいになったら、絶対やら なきゃならない芝居があるんです。 ルナ ールの『別れも楽し』がそれ。おとなの 女と年下の恋人の別離を描いた作品なん ですけど、日本的な深刻イズムあふれる 男女の別れじゃなくって、そこはかとな く情感をただよわせながら、さりげなァ く別れていくお話。NLTの研究公演で 20代のとき一度やって、そのとき、いま の私にはムリだな、大人になって、これ をできるような女優になりたいなって思 って、それからずっと想いつづけている んです…」 ルナールから話はサルトルに飛ぶ。 「学生時代にサルトルの戯曲集を片っ端 から読んだという時期ってありません? エッ、ある、おんなじ。なかでも『賭は なされた』が一番よかった、そう思いま せん?」 「『風と共に去りぬ』をネ、中学時代によ むと、一番すてきに思えるのがアシュレ ーなのネ。 レッド・バトラーなんてイ ヤラしい中年男”ってイメージで、それ が、いまになって読み返すと逆なのネ。 アシュレーはひどくかすんで、バトラー がすごく魅力的に思えてくる。同じ作品 何年かたって読み返してみるって、お もしろいのネ・・・」 サルトルからマーガレット・ミッチェ ルへ・・・なんのてらいもなく、仕事以外の 分野に話題がポンポンと広がり、その話 題に、ごく自然に興をつのらせていく・・・ これも、日本人の女優にはめずらしい上 田さん独得の資質だ。 育児を語っても、いわゆる日本的生活 臭がまったくない。 「別役実さんの童話で『砂漠の町の探 偵』というとってもすてきな作品がある んです。ところが、子供のほうはせっか く読んでやっても、つまらなそうな顔し てたんですネ。それが最近、ようやく、 目を輝かせて聞いてくれるようになって 「アニメは、一週に二つって決めてある んです。子供って正直でしょ、私の出て いる作品でも、つまんないとソッポむい ちゃうんです。いいと涙うかべて、ジッ [... 画面に見入っている。そういうときは、 ああ、いい仕事したんだなってうれしく なる。私? 私はルパン三世”のファン」

夢はパリをかけめぐる...

こんな上田さんだけに、芸能界特有の 役者同士の競争意識とかスター願望とか とは完全に無縁、ケロッとしてこんな信 条を披露する。 「むき出しにくいついていくとか、人を 蹴落としたり、足ひっぱったりしても役 をとるとか、そういうことをしなきゃ、 この世界で生きていけないってことにな ったら、 私、やめるわ”っていうでし ょうネ。運がよかったってこともあるで しょうけど、これまで、そんなことせず にノホホンと生きてこれたわけでしょ。 話ではいろいろ聞くんですけどネ、やっ ぱり、自分ではできないと思う」 ヒマができたらやりたいことは? と 聞いたら、即座に、 「学生のときやっていた油絵をもう一回 はじめることと、エジプトとかあのあた りの遺跡めぐりをしたい。ちゃんと事前 に歴史の勉強してネ。旅行っていうのは、 予備知識もなく観光地素通りしたって、 つまんないのネ。ホラ、同じパリの町歩 いたって、ああ、ここがモジリアーニの 住んでいたアパート、ここが○○の通っ たカフェ、そういうこと知っていて見る と、すごく楽しいでしょ」 と、またまた話はロワール河の古城に 飛び、ローマの古代遺跡に移り、パリの サン・ジェルマン・デュ・プレのニコラ ・バタイユの小劇物の話に飛び・・・裕福さ という特権があったからこそ、いつまで も、そんな生活と遊離した夢を追ってい られるのだという反論もあろう。 が、裕福な環境ゆえに保持し得た豊か 人間性というものが存在することもた しかだろう。 30歳以下「人生バラ色」、30歳以上「人 「生灰色」——開国以来10年、いぜんとし てそんな風潮がハバをきかせているわが 文化低国ニッポン。上田さんは、ウーマ ンリブとか結婚しない女とか、声高に叫 ぶ進んでいる女”たちの誰よりも雄弁 に、あるべき大人の女の姿を実証してみ せているのではあるまいか。 別れぎわに、また、昔読んだ本の読み なおしの話になり、いま「モンテ・クリ スト伯」の再読の最中といったら「ワー、 私も読んでみよう」 30歳の子持ちママさん女優の、 これが、そのセリフ。イインダナー、ホ ントに。

Katsuji Mori (February)



子役時代をふくめ20年になる役者稼業にもいまだ落ちつかず、死にそこなった車もすてず·····およそうらやましくなるほど束縛のない生活をしていながらも、にじみでてくるニヒリズムがある......。

役は典型的二枚目だが

べつだん、そう決められているわけではないが、人30歳を過ぎると、なんとなく、それぞれのワクにはまっていくものだといわれている。役者は役者らしく、サラリーマンはサラリーマらしく、主婦は主婦らしもちろん、そのほうがすわりがいいのか、大部分のおとなたちは安定感があると称して、この”はまってしまった人間を歓迎する。はまらない人間を「何を考えているかわからない未熟「人間」として忌避したがる。が、忌避されようとどうく...しようと、30になろうが、不惑の4代を迎えようが、はまり切れないタイプの人間というものがいる。たとえば、今回のインタビュー相手、森功至さん。『科学忍者隊ガッチャマン』で大鷲の健、『はいからさんが通る』で世紀の超ドハンサム・伊集院忍少尉、『ドカベン』で開将土井垣、そして『新エースをねらえ』で青年コーチ・宗方仁。演じている役柄は、どちらかといえば優等生に近い典型的二枚目ばかりなのだが、当の本人は悪い意味ではなく、なんともすわり"が悪い。つまり、この道、20年におよぶ役者でありながら、いっこう役者らしくない。まぎれもなく38歳のおとなの男性なのだが、ちっとも、それらしくない。容姿、その他もろもろ、二枚目であることに間違いないのだが、といって、典型的二枚目タイプの男性と規定してしまうには、どっかハミ出してしまう部分がある。話せば話すほど、インタビュアーたるもの「あやっ、アセッ」の連続。「森功至とは○○タイプの人間」とは決して規定させてくれない、なんともやっかいな存在なのだ。

11歳のときから児童劇団育ち

昭和20年7月10日、中国は浙江省の生まれ。敗戦の一ヶ月前だ。「そういう時期に子供をつくるなんて、だいたい、不謹慎なんですよ。引きあげのときはずいぶん苦労したらしいけど、もちろん、ぼくの記憶にあろうはずがない。引きあげてきてからは、ずっと東京です」芸能界入りは早く、11のとき。男優にはめずらしく、児童劇団の育ちである。「そうね、児童劇団出でそのまま役者でいるってのは、男の場合めずらしいほうでしょう。同期の人間はだれも残っていないし。劇団に入るきっかけは、TBS、当時のラジオ東京のドラマで少年猿飛佐助〟の主役公募に応募したこと」11歳の少年のことだ。応募したら、もう受かったつもり。毎日、フロシキを首にまき、押入れの二階からドン、バタン、飛びおりては忍術のけいこ。「面接通知が面接日の翌日に届いちゃったんですネ。それで、ずいぶん泣いて親を困らせたらしい。ちょうど"こじか"という児童劇団が新聞で団員募集をしていて、母親がなだめる意味から"ホラこんなのもあるし”って受けさせた。それからまあ、ずっとやっているんだから、やっぱり好きだったのかナァ」かなりなめらかに自分のことを語るのだけれど、それが、どっか他人のことをいっているような、つき放した調子で聞こえてくるのが、この人の特徴だ。以来、約2年間、この世界ひと筋に生きてきた計算になるのだが・・・。足を洗おうと思ったことは?「ありますヨ、そりゃ。実際に2回ばかり役者やめたことがある。1回目は1ぐらいだったかナ。食えないし、やめちゃえってわけで、所属していた俳協のテスクとマネジャーに変身。ところが、ぼくのやった最初のアテレコが「ビーバーちゃん』というテレビ映画だったんですが、それが再開されるって話を聞き、もう1回やってみようかという気になって改めてオーディションを受け、また逆もどり。2回目は二年ぐらい前、ちょうどロッキードの年だったナ・・・」

死にそこなってもコリない!!

この人が、インタビュアーを一瞬「あせらせる」のはこういうところだ。森さんは、声優によくあるように、いわゆる下積み生活”の長かった人ではない。児童劇団出身ということもあり、若くして『怪傑ハリマオ』にレギュラーで出演するなど、むしろ日の当たる道を歩んできている。2回目の役者廃業のときだって、つい直前の4年10月までは、2年間にわたり『科学忍者隊ガッチャマン』の主役の声を演じていたことは周知のところだ。つまり、この世界でそれなりの地位も築き、しかも年も30歳。常人なら、さらにその地位を強固にしようと発想するところを、逆にヤーメタと、いうことを平気でやる人なのだ。親・兄弟・女房・子どもにとっては、きわめて心臓にひびくことを平気でやる人なのだ。2回目のときはネ、所属事務所とのトラブルもあったけど、まあ、いつまでもこの世界にいたんじゃセリフをいえなくなったときップしがきかないナァと思い出してスッパリ足を洗い、金融関係のサラリーマンになりました。だけど、基本的に人に頭下げられない人間だから、サラリーマンにゃ向かないんですネ、そう思っているうちに、ロッキードのあおりでその会社が倒産。3カ月でかっこ悪かったけど、また、役者しか残ってないナァってことでまたまた逆もどり」近親者の心臓に悪いといえば、まだある。稀代のカーキチぶり。「いまの暴走族。当時の言葉でいえば、カミナリ族の出身です。オートバイでもやったし、クルマでも。いまでも仲間は、功至のクルマはこわくて乗ってられないって敬遠してるようです」「ご両親、気が気じゃないでしょ」といったら、もっと恐ろしげなことをいい出した。「おととし11月30日に親父がなくなりましてネ。それから2週間しないうちに、東名で追突事故にあい、入院。オフクロの血圧はあがりっ放しみたい」とっさに急ハンドルをきり、前のクルマとの追突こそなかったものの、なにし高速道路での事故だ。ハンドルを一切りまちがえれば前後からハサミ打ち、あえなく昇天という大惨事になるところだった。「命びろいしたんだから、もうこわくてとばせないだろうっていわれるんですがネ。こりないんですネ。その後も性こりなく、1人で高速走っています。あのギリギリの緊張感は、一度味わっちゃうとやめられない」

鈴賀レニさんとの結婚

暮れの12月24日からは、こんな森さんに心臓を締めつけられる思いをする人がもう1人増えた。まんが家・鈴賀レニさんとの結婚。婚である。1度目は20歳のとき。「それでも7年つづいたんです。結局、追い出されまして。もう2度と、あんなめんどくさいことやるもんかって思っていたんですがネ」前夫人とのあいだに小3の女の子がい「生まれるとき、男だったら捨てちゃうぞ」といったくらい待ち望んでいた女の子。「向こうが引き取りました。昨年11月に再婚しましてネ。新しいパパになついているっていうし、まあそろそろ、ぼくも再婚してもいいかと思って・・・」「お子さんのことは気になるでしょう」途中までいいかけたら「そりゃ・・・」とかぶせるようにいい「でも、せっかく新しい生活になじんでいるものを、そう会っちゃいけないと思うし」と、話をつづけることをはばかられるほど寂しげな目をしてそのまま絶句した。「ぼくはひどくわがままに生きていると「思う」という裏にかくされた極度のナイさ離婚のこと、再婚のこと、元カミナリ族で、いまもスピード狂であること。いいまわしひとつでは、とんでもない誤解も招きかねない微妙な自分の過去を、まったく防衛口調にならず淡々と口にする。これも、芸能人には稀有な森さんの特色であろう。新夫人・鈴賀さんとの一風変った出会いのエピソードも、てらうことなく語ってくれた。「少女まんがなんて読んだこともなかったんですが、彼女が、連載まんがの一コマで、電信柱のハリ紙にちっちゃくイタズラ書きしたらしいんです」少女まんがファンならご存じだろう。ストーリーには関係なく、ちっこい文字でゴチョゴチョと書いてあるあの作者のイタズラ書き。鈴賀さんは「森功至についてなんでも教えて」と書いた。「それを読んだファンが仲介になりましてネ」おたがい、いまの生活のペースを崩さないという合意のもとゴールインということになったという。

人生は一瞬のまばたき......

「人間の一生なんてネ、大宇宙の歴史から考えれば、一瞬のまばたきみたいなもんでしょ。よそ目にどう写るか、トシ相応にどう生きるか、そんなことより一瞬一瞬、自分が納得いくよう生きたいですヨ。どうせがんばってみたって、いつか死んじゃうんだものと思うことあるんですヨ。いっそ、あの事故で死んでればっなまじ生きてて悩んだり、ゴチャゴチャ考えたりするんなら、死んでたほうがスッキリしたかナなんてネ」20歳前後の若者が、アクセサリー用につぶやいているのではない。つけ焼刃ではない、どうしようもない虚無感が、この人の心のまん中にどっかりと居座っているらしい。要するに、この人の生きるというベクトルには、役者だから、人気稼業だからどう生きる、そういう現に自分を規定している現象的諸要素はまったく入っていないのだ。そんなもの、どうなろうと天地がひっくり返るわけでなし”そんな投げてしまったようなニヒリズムがひしひしと伝わってくる。そのせいだろうか。現に森さん自身をスターダムにのしあげたアニメについて語りはじめたとき、その口調は文字どおり、歯に衣きせずというか、だれはばからずというか、思いもかけぬキツイ言葉がポンポンと飛び出してきた。「よく、理想の男性像はって聞かれて、ケンだとかコンドルのジョーだとか答える子がいるでしょ。中学生ならまだしも、短大生あたりまでこんなこといってるのを聞くと、一瞬、おどろいてしまう。趣味や娯楽の一部としてっていうんならわかりますヨ。だけど、決してそうじゃないんだから......」神さまであるはずのファンに向かって批判がましいことをいうとは何とごう慢な!そう反発するムキもあるかもしれない。しかし、そのへんが、いかにも森功至らしいのだ。それだけ、天真ランマンというべきか。アニメで育ったアニメ世代ではないにもかかわらず、森さんは、テレビアニメの持つ魅力をこよなく愛しているめずらしい声優でもある。「昔みたいな静かな時代に一日も早くもどってほしい。声優ってのは、あくまでキャラクターを媒介にして成りたっているものでしょう。ひるがえって、制作条件といえば悪くなる一方、絵のない画面をみながらアフレコやるのがあたりまえなんて、メチャクチャですよ」そういってから、フッと一息入れて、「もう、役者をやめることはないと思います。ほかにやれることないから、しがみついてるでしょうネ」ともいった。一時間余のインタビュー中、たった一フレーズ、ウソっぽく聞こえたことばだ。やってられないと思ったら、この人、何のみゃく絡もなく、オレ、ヤーメタのひと言で、サっさといまの稼業から足を洗ってしまうだろう。そんな印象のみが強烈に残った。30歳を過ぎて、自分の人生をフリーハンドに保ちつづけることは、実は、年相応に”らしく”ワクにはまってしまうことより、はるかに精神的強じんさを必要とする。まして3日やったらやめられない”役稼業の場合。森功至の真骨頂、ここにあり。ただし、クルマをとばしすぎ、ジェームス・ディーンばりに役半ばで昇天などということのないように蛇足まで。

Nachi Nozwa (March)



深夜DJの草分け的存在

野沢那智——職業・声優と書くにはいささか抵抗がある。『新・エースをねらえ!』の宗方仁役、そして、右に出るものなしのアラン・ドロンの吹きかえ、さらにさかのぼれば、その声優としての評価を一挙に高めることになった15年前の『0011ナポレオン・ソロ』におけるイリヤ(D・マッカラム)の声。人気からいっても、実績からいって声優ブームが起こる100年も前から、野沢那智は押しも押されもせぬ第一線の人気声優だったのだが、それでも、声優などという偏頗ないい方では、このカオスのような不可思議な人間をとてもいいつくすことはできない。第一級の人気パーソナリティーという顔がある。昭和4年8月、スタートのTBSラジオ『パック・イン・ミュージック』に、白石冬美といわゆる「ナッちゃん・チャコちゃん」コンビで登場、第一次深夜放送ブームに火をつけて以来まる1年余、当時の同僚DJ連が他局をふくめつぎつぎと姿を消していく中で、ただ一組、現役の座を守りつづけ、今夜もまたその最長不倒記録を更新中。劇団主宰者・演出家としての顔-―いうまでもなく、ラシーヌ、コクトー、ジャン・アヌイ、ジロドゥーら一連のフランス戯曲の連続上演で著名な劇団薔薇座の創立者であり、育ての親であり代表。さらに芝居の大道具作らせりゃ専門家はだしで絵もかく。小唄は発表会開けるぐらいの腕まえ。文章もいける。そして、テレビ、舞台の役者としても…。一体、どれが、本当の野沢さんですか。

浜町河岸育ちの下町っ子

野沢さんが腕一本で建てたといわれる東京・代々木初台にあるしょう酒な薔薇座のけいこ場の一室で開口一番、まず聞いてみたのがこれ。「うーん、改めて聞かれても・・・どれが軸ってことないのネ・・・」昭和18年生まれだから、深夜放送のアイドルも、もう4歳。チラホラみえる白髪が、わずかに年齢を感じさせるが、血の気のない蒼白な顔、中年太りなど無縁なスリムな体つきからは、独得のふんい気が漂ってくる。野沢さんが、どれが軸といえないほどの多彩な顔を持つ人間になった由来は、やはり、その生れ育ちに大きく影響されて、といってだろう。父は大衆作家の陸直次郎。母は小唄のお師匠さん。明治座近く、久松町や人形町、浜町あたり遊び場として育った。下町といっても、昨今、テレビの影響でブームを謳歌している、安物の下町を想像してもらっちゃ困る。浮いた浮いたの浜町河岸に・・・そういうふんい気がチャーンと残っていたホンマモンの色街だ。父親は6つのとき亡くなったが「男の子は全員、早稲田大学に行くようにと遺言までするような人。母親の関係から、新派の役者や芸者衆がおケイ古でしょっちゅう家に出入りしている、そういう環境である。「人力車に乗った芸者さんなんて、ちっともめずらしくなかった。高2ぐらいのときかな、夜道を歩いてたら、芸者が2~3人笑いながらやってくる。酔っ払いめ…と思ってよけて通ろうとしたらちよっと、なっちゃん"。よーく見たら、中学のときの同級生なのネ。それも、ちよっと好きだった子。ちくしょう、だれが女にしやがった、太った中年男か・・・とくやしくて、その晩は眠れなかった。将来は絶対、黒塗りの車で、オレが身請けに行ってやるから…と決意しました。子供育てる場所じゃないですよネ、どんな人間に育ってしまうやら・・・」が、那智少年は、いわゆる軟派の遊び人じゃなかった。環境が反面教師になったというべきか、あるいは父親の影響か。「中高校生のころってのは、日本的な写実小説、私小説の世界にのめり込んでいた。織田作之助)から葛西善蔵までね。それと、明治座通い・・・」当時の明治座といえば、新派では花柳章太郎、大矢市次郎、水谷八重子らそうそうたるメンバーの全盛時代。新国劇では、辰己柳太郎、島田正吾がすばらしい剣劇をたんのうさせていた時代だった。

大道具に異常な執念

中10のとき、新派の芝居をみて、その舞台装置に魅せられてしまった。それからは日参。学校終わるとカバン放りなげて明治座に飛んでいく。130円で昼夜通しでみれたんです。でも、1ヵ月ぐらいで資金切れ。それで、オフクロに明治座の頭取に話つけてもらって、タダで楽屋から入れてもらえるようになった。結局、8~9ヵ月、一日も欠かさず通いました。1ヵ月は出しものは変わんないから、毎日、おんなじ芝居をみるわけ。セリフはもちろん、大道具、小道具の出し入れの時間など、ぜんぶソラでおぼえましたヨ」並みの集中力ではできないことだ。そういえば、織田作はともかく、中学生で葛西善蔵にのめり込むなんていうのも異常といえば異常。この集中力、瞬時偏執狂的なところは、大学に入学し、西欧演劇に没入していく課程でもいかんなく発揮される。「大道具やりたいと思っていましたから、大学へは行きたくない。おやじの遺言で早稲田行くことになっていて、兄貴たちは現にそうしてたんだけど、ぼくはイヤで家出しちゃった。早稲田の願書提出日過ぎてヤレヤレと思い家へ帰ったら国学院はまだ受けれるぞ、国文なら勉強しなくて大丈夫だろ〟と兄貴に書類出されて」しかたなく大学へ入ったが、ハナから国文の勉強するつもりはないから、毎日、演劇部通い。「国学院の演劇部の先輩ってのは、そのころ、ほとんど劇団四季に行っていたんです。それで四季のアヌイやジロドゥーの芝居を見るようになって...。それまでが、四畳半的な日本的情緒の世界一色だった反動でしょう。まさに、目の前がバアーっと開けるって感じでヨーロッパ志向へとなだれ込んでいった」ギリシャ悲劇からコルネイユ、ラシー又アヌイ、ジロドゥー、コクトー再びのめり込むように片っぱしから読破していったのは、日本文学のときとご同様。

声優はフランス演劇熱の余波

声優の道に踏み込んでしまったのも、このフランス演劇熱の思わぬ余波から。これらの戯曲を上演すべく、仲間と劇団を作っては潰していたのだそうだが、「なぜだか、いつもぼくは経理責任者にされてしまう。つまり借金は全部、ぼくのところに残る。26のとき、ハッと気づいたら70万円の借金です。10数年前の70万ですからね。その金返すために、アテレコの世界に入った。1年間夢中で働いて、それで完済し、やれやれこれでタレント業から足を洗えると思ったら、事務所からナポレオン・ソロ”のオーディションだけ受けてよ、大丈夫、ほぼ愛川欣也に決まってて、おまえ、落っこちるからって保証されて、顔立てるために受けたら、その日に即決。じゃ、あと、この一本だけネってことで、今日にいたるわけで・・・」こういう万なするかちといつて、野沢さんが、決して声優の仕事を片手間と考えているわけではない。当初は、単なる借金返しが目的であったにしても、いったん、それに首をつっ込んでしまったら、好む好まないにかかわらず、たちまち、その仕事に没頭し、一流以上の一流になってしまうのが、この人の多才さの悲劇といえば悲劇。アニメ初期のアテレコ風景を、さもなつかしそうに回顧する。「狼少年ケン""悟空の大冒険〟〝どろろと百鬼丸”、ずいぶんやりましたが、当時のほうが作品の質は高かったんじゃないかな。作る側に、新しいジャンルに挑戦するんだっていうものすごい意欲がありましたからネ。アテレコでも台本はあるんだけど、全部アドリブでやっちゃったりネ。オイ、一人ぐらい台本みろよなんて、楽しかったですヨォJまた、いったん首をつっ込んだ以上、さして、頑張っているふうに見せず、さりげなく、しかも確実に、その仕事をやりとげてしまうというのも野沢さんのすごさのひとつ。

商業演劇へも進出!?

いい例が、薔薇座の13年におよぶ活動だ。薔薇座クラスの新劇団では、公演を打てば赤字が出るというのが演劇界の常識。それを設立目的だったラシーヌ8作品連続上演をきちんとなしとげたのみならず、いまや、腕一本で三階建てのケイコ場までたて、50人の団員・研究生をようするまでに育てあげ、いまだって公演自体でもうからないことに変わりはないのに、今後は月2回公演を目標にするというコンスタントな活動ぶり。「ここ数年は、ブロードウェイ・ミュージカルばかりやってましてネ。英語は見るのもイヤだったけど仕方ない、30の手習いで、辞書片手に台本や解説書読みまして・・・いまでも英語は苦手だけど、おかげで『新・エースをねらえ!』で英語のセリフしゃべらされたときも(注、左記力コミ参照。2月24日、3月3日放送分)、なんとかゴマかせました」とニガ笑い。苦労した、頑張った、これだけやった、後をふり返りそういうセリフをはくことは口がさけたってやらない。そぶりにさえみせない。どころか、その目と心は、まるで20代の若者並みに、未来にむかってんでいるという感さえ受ける。ことしは4の手習いて、商業演劇舞台に出てみようかと思ってるんです。東宝とか、ああいう。むしょうに舞台の役者、やってみたくなりましてネ」でも、そろそろ、腰すえて、落ち着いて、家や別荘も建てようなんて・・・「腰すえて、納まってって、なれそうもありませんねえ。だいいち、どこへ落ちつけばいいのか。落ち着くとこないもの」これが一生の仕事、目標と、いつまでたってもいいきれないのは、青少年期、もう烈な文化的飢餓感の中で育った影響かもしれないといった。ふり払ってもふり払っても、その活躍が華々しい分に比例して、ぬぐいようもない深い虚無感の漂ってくる人である。江戸町人、下町っ子なんて安っぽいものではなく、閉鎖された社会で、その多彩な才能を、狂歌や川柳、あるいは怪奇文学の中に発散させ、西欧文学の高みに匹敵する文化の華を咲かせた蜀山人、上田秋成、あるいは平賀源内。野沢那智には、あの江戸町人のにおいがする。(ナッちゃんファンへのお知らせ。野沢那智演出の薔薇座公演、ミュージカル「ストップ・ザ・ワールド」が3月31日~4月8日、東京都文京区千石の三百人劇場で行なわれます。

Masatō Ibu (April)



食えないから声優・芝居兼業

ご存じ、あの武士(もののふ)魂を持つ尊敬すべき敵役デスラー総統を演じる伊武雅之さんである。「ゆうべは劇団の仕事でとうとう徹夜になっちゃって…」と目をしょぼつかせながらヌーっと約束場所に現われた伊武さん。ダボダボのアノラックふうコートを太い皮ベルトで締め、なんとなく帝政ロシアのコサック兵スタイル。アッ、伊武さんも本職はお芝居ですか?とっさに、そう聞いたら、「いや、職業としては声優、CM、テレビドラマ出演などなどです。芝居は、現実それだけでは食えないんだから職業と「はいえません」と、しょぼついていた目をギロリとむいて、ピシャリ。ちょっとしたデスラーなみの迫力である。

主なアニメ出演は『宇宙戦艦ヤマト』のデスラー総統と『ドカベン』 犬飼小次郎。ほかに単発もので『エースをねらえ』(太田コーチ) 『ガッチャマン』(ホークゲッツ)「野球狂の詩』(鬼島刑事) 「闘将ダイモス』『ビートルズ』(ジョン・レノン役)などがある。

昭和24年生まれの28歳。芝居と声優を兼業する役者としては、若いほうだ。幼い日に第二次世界大戦の記憶を持ち、昭和30年前後に演劇の洗礼を受け、芝居をのめりこむように愛している野沢那智、富山敬井上真樹夫らにくらべ、ちょう一世代若い。そのあたりが、みずからも『春秋団』という劇団を持ち、年二回公演という地道な演劇活動をつづけながらも「食えないものは本職とはいえない」とクールにいわせる事情だろうか。伊武さんがこの世界に首をつっこんだのは、ちょうど唐十郎の状況劇場、早稲田小劇場などアングラ演劇が全盛を誇ったころだった。「それも見ましたけどね。直接、芝居をやろうと思いだしたのは、名古屋で劇団『四季』『雲』などの芝居を見たことからです。加賀まりこが"オンディーヌ"をやっていたころです。石坂浩二なんかも来ましてね。つまり動機は、あこがれからですよ」

肉体労働のアルバイトも

伊武さんは東京生まれだが、家庭の事情で、10代の数年間を名古屋で過ごしている。その間、名古屋のテレビ局で、たとえばNHK「中学生日記』などいくつかの番組に出演する少年タレントだった。「石坂浩二なんか、名古屋公演のついでにラジオなどに出演する。それで仕事場で一緒になったりしたのが刺激となって、18歳のとき思いきって上京しました」まず劇団『雲』の養成所、ついで早野寿郎、小沢昭一らが主宰する劇団『俳小』の養成所に入った。もちろん、新劇の養成所がオアシをくれるわけもないから「食うために肉体労働、コンパやキャバレーの呼び込み、バーテン、ありとあらゆるアルバイトをやりました。だけど二つの養成所で大して学んだことはなかったなあ。だいいち『雲』なんて金持ちで裕福な人ばっかり。ふんい気あわないんですよネ。貧乏なのはオレ一人」やがて両養成所ともやめてフリーとなり、気のあった仲間とともにアングラ芝居公演で有名な新宿・蠍座、アートシアターなどで細々と公演活動をつづけていた。「この世界でメシを食えだしたのはアニメや洋画のアフレコをやりだしてから」伊武さんの最初のアニメ出演は意外に遅く、あの『宇宙戦艦ヤマト』PARTⅠのもちろんデスラー総統役でである。

工夫したデスラーの声

デスラーの話になると、声に急に熱がこもってきた。「アニメをやるとき、ぼくは芝居の役づくりと同じに考える。ただ、アニメの場合、絵が先にできあがり、その絵の”間”にあわせ、どう声を入れていくかがいちばんむずかしいんです。それにデスラーの場合は、あのころぼくはまだ24~25歳。はるかに大人の役です。青春まっただ中、ズバズバ生きていたぼくが、このデスラの大人の余裕をどうだすか、いちばん苦労した。アニメの場合、ふつう声を張って発声するんですが、それを逆にまず地声より一段低い声を出し、しかもアクセントもイントネーションもまったくつけず、平板に声を張らないでボソボソとしゃべる方法をとってみた。そのほうが見るほうのイメージがふくらむと思ったんです」その成果のほどは、読者諸君が一番よく知っているところだ。それにしても、アニメの役づくりをかくも情熱的に一生懸命語る役者さんがいたということは強烈な驚きであった。いろいろなふうに発言して見せるけれど、多くのベテラン俳優にとって声優の仕事は、その実、副業的印象が強い。それを、こと金を稼ぐことにおいてはドライに割り切ることで定評のある純然たる戦後っ子の彼が、なぜ・・・。「ぼくはアニメをやるということに真剣に取り組みましたよ。それでメシを食うんだから、あたりまえでしょう。いくら芝居が好きだからって、もうからない芝本職だ本職だとアリバイ証明みたいにいってもしようがないでしょう。いやですね、ぼくは、そんなの」もちろん、伊武さんは芝居なんかどうでもいいというのではない。それどころか、この人の夢は赤字になることが目に見えた客の入らない公演を、自己満足的に打ちつづける現在の中小新劇団の域を一日も早く脱し「おもしろくて客もガバガバ入って、やるほうももうかる芝居の打てる劇団をつくること」にある。「とにかく、ゼニもうけできる役者になりたいですよ。そして芝居も打ちたいし、映画も1本撮りたいし、もっと理想をいえば半年仕事し、半年遊ぶ生活をやりたいですねえ」

ゼニもうけできる役者に。。。

「この世界はテレビにしろ芝居にしろ、しょせんよいしょ”(芸能界用語でゴマスリの意)の世界。ぼくは性格的には絶対よいしょのできない人間ですが、それでも毎日毎日の中で、自分の持っているものを切り捨て切り捨てしながら生きていると思う。どこかで補充しないと、自分がボロボロの貧困状況になってしまう気がする。その補充のために、ナップザック一個持ってフラーっとアフリカあたりに出かけたくなるんです」そのためには、あれはイヤ、これはイヤなどと気どったことはいわない。「テレビドラマ?いいですねえ、どんどん仕事ください。アッ、だけど「ムー一族』みたいのならスッとんで行くけど燃えられないドラマだとやっぱりダメ。若いとき、もっとテレビ関係の人や先輩役者によいしょ”しときゃよかったかなァ。ぼくは若い人にはどんどん”よいしょ”しなさいってすすめますね」そのくせほんとに"よいしょ”する後輩が目の前にあらわれたら、絶対好きにならないだろうといった表情でいっているのだから世話はない。私生活では、むろん、すでに結婚していて、もうすぐ最初の子供が生まれる。「女房の実家は鹿児島の田舎町なんですけどね、結婚披露のとき、新郎○○はってのがあるでしょう。あれで職業をなんというか困っちゃって。田舎の人に新劇やってるったってわかんないでしょう。そしたら紹介者がいってましたよ。『エ新郎はたまにテレビに出て、週一回FM東京というところでディスクジョッキーというものをやっております』どうしようもないね。ああ、ゼニもうけできる役者になりたい」「役者はね、女遊びやら、いろんな放蕩をしなきゃあいい役者になれないって、いうでしょう。それも一理あると思うけど、ぼくは結婚したとき、まず未来にいい家庭を築きたいと思った。それまでが決して幸福とはいえない環境でしたからね。理屈抜きにいい家庭をつくりたいんです」趣味は、一人でフラッと旅をすることと、レコード鑑賞と、お酒を飲むこと。「レコードはロックなんかも聞くけど、もともとはジャズが好き。お酒はショーチュー専門。ショーチューのお湯割り飲みつつジャズ聞くってのが、ヒマなときの平均的パターン。だけど一世代前の人たちによくあるような、ジャズ狂的なものじゃない。だいたい音楽にしろ芝居にしろ、ぼくはのめりこむってことはできないみたいですね」冗談話をするときも真剣な口調で語るときも、不思議に身辺に孤独なふんい気の漂っている人でもある。甘えも、センチメンタリズムもまったくない厳とした孤独感。育った時代ゆえか、それとも環境がもたらしたものなのか。デスラーの役を「キキャラクターとしても「好きだ」というのがよくわかるような気がする。線の太い役者だ。

Keiko Yokozawa (May)



高校のときに決めた結婚

ついこのあいだまで「はいからさんが通る』で、ヒロイン(ヒーロー?)花村紅緒役をつとめていた横沢啓子さんである。芸能歴10~20年のベテランが大半を占める声優界にあっては稀有の存在で、昭和30年9月生まれの花もはじらう25歳。娘さかり...と固く信じ込んでインタビューを開始した。途中、何度かウラ若き乙女には似合わぬことをいうなとは思っていた。―お休みのときは?「だいたい家にいて、編み物したり・・・。外に出る気にはなりませんねご家族は?■「エート、主人が一人おります」ガクッ。『はいからさん』収録のまっ盛り昨年10月に結婚したばかり、ただいま、アツアツの新婚ミセスである。だれが、タマの休みをノコノコ雑踏の中に出かけたいものか。ちょっと見はまだ高校出たてみたいな感じ、ビックリさせるナ|ア、ホント。高校までの生まれ、育ちは新潟県。「主人とは同郷なんです。高校は違うんですけど、高1のとき、文化祭で知りあってずうーっとつきあってて、結婚「することは高校のときから決めていました」小柄で色白、一重まぶたの典型的新潟美人。ケロンケロンと、顔に似合わぬオノロケをいってくれる。高校は新潟県きっての進学名門校・新潟高校。そこから日大芸術学部放送学科に進学した。東大、京大に合格してあたりまえ、早慶パスじゃちょっと落ちるなんてのが常識の秀才校にあっては、異例の選択だった。「受けたのも日大芸術学部一本。声の仕事をしたいと決めていましたから、ほかの大学受ける気はまったくありませんでした。なんでも自分で決めちゃって、決めた以上は、ソク、パーッと実行していく…。そういう性格なんです」と自己分析してくれた。

テレビ女優を自らやめる 「声の仕事をしたい」と決めた動機は小学校のとき、NHK新潟児童劇団に所属しており、その関係でラジオドラマなどに出演した経験があったことから。「だけど、大学へ入ってみたら、まるっきり声の仕事とは関係ない勉強なんです。未練もなく、さっさと3年で中退しまして・・・」でも、日大の放送学科なら、たとえば女子大生に人気NO1の職業、アナウンサーになるって道もあったでしょうに、といったら、「アナウンサーなんて、つまんない。ぜんぜん、おもしろそうに見えないもの。そう思いません?」真顔で切り返してきた。自分の心の中に、すすむべき路線を決めたら、その路線のほかに、いかにおいしそうな話がころがっていようとも、おしげもなくバンバン切りすててしまう。そういう決断力のすごさは、この年齢の女性にしてはちょっと類をみない。テレ女優としての可能性を、みずからソデにしてしまったのも、そのいい例だ。日大入学と前後して、横沢さんは、俳協俳優養成所に入った。初仕事がNHKドラマ『花ぐるま」。島田陽子の妹役として天下のNHKにレギュラー出演というのだから、新人としては、このうえもなくめぐまれたデビューだったといえよう。つづいて、TBSのテレビ小説『絹の家』など数本の連続ドラマにやはりレギュラー出演、よそ目には、順風満帆の女優生活がはじまったかにみえたのだが・・・。「所属の俳協は声の仕事をとってくるのは強いけど、映像には弱い。いきおい、いい仕事したかったら、オーディションでいい役とるしかない。みじめな思いをしたくないし、それに、私のキャラクターからいえばワキ役でいくしかないけど、ワキ役でやっていくには、あまりにも演技力がなさすぎる。やっぱり、本来、やりたかった声の仕事一本で行こうとはっきり決めたんです」

趣味はなんとマージャンとお酒

芸能界のスイも甘いもひとわたり経験しつくしたベテランの決断ではない。女優生活をはじめたばかりの、夢と希望にみちあふれる二十歳そこそこの女の子の決断、相当なクールさ、冷静さ、あるいは、花村紅緒ばりの猛勇〟の持ち主。紅緒といえば、オチョコ一杯で目もとほんのり的なアドケない表情で、またまヒトを驚天させるようなことをいいだした。「趣味はマージャンとお酒」―お酒って、何を、どれくらい?「日本酒、ジン、ワイン。ウィスキーを除いては、ほぼ、なんでも。量ですか...えーと、本気で飲めば紅緒ぐらい」「紅緒ぐらい」とはいいもいったり。とたんに、大和和紀さん描く一升ビンゴロゴロ「らんばるーッ」、酔眼モーロー、大暴れのベニオ嬢を思い浮かべ、151秒、4㌔、小柄で楚々たる風情のこの美女の体のどこにそれだけの酒が・・って顔で眺めたら、「で、一定量をこえますと、紅緒同様、大立ちまわりを演じるらしくて・・・最近は自粛しております」とトドメの一撃。『はいからさん――――』の収録当時、しばしば登場する二日酔いシーンのたびに共演者にヒヤかされたそうだ。「ワー、いまの演技リアルー、実感でてるー」「ほんとは、二日酔いの実感ワカルだけに、演技となるとかえってむずかしいんですけどネ」みかけとはちがい「本当は、男性的な性格だと思います」ともいった。『はいからさん―』が終り、4月からアニメのレギュラーは『シートン動物記』

(テレビ朝日土夜7・00)と『ドラえもん』 (テレビ朝日 月~土夕6・50)の2本。こ れに、ときどき、単発の洋画の吹き替えが入り、「ちょうど、週に一~二日休みというぺース」とか。

「ナレーションをやりたい」

新婚ミセスとしては理想的なスケジュール?「いえ、もっともっと忙しくなりたいです。まだ、声優の仕事、軌道に乗ったとはいえないし、ヘタですしネ。絵をみて、自分ではイメージがあるのに、どうしてもその声がでないなんてこともしばしば。ほんとにもどかしくなります」この若さで、自分の実力の目測も決して見誤らない堅実派でもある。家庭に帰れば、家事雑事「ひととおりのことはする」そうだが、「ときには、私が仕事のときなんか彼が料理作ってくれることもあります。いえ、亭主関白的なんですけど、ナゼだか・・・仕事やめろなんて全然。どんどんやりなさいのほう」といってニコッ。高校のときから「決めたらパーッと実行し、その決めたことは、だいたいうまくいっている」というが、その最高例が「高校のときに決めた」ご主人?ちなみに、彼は「ふつうのサラリーマン」とのこと。故郷の新潟には、進学名門校から声優目指して日大を受験する娘に反対ひとつせず「やりなさい、やりなさい」と快く送り出してくれた両親が健在である。「妹とふたり姉妹なんですけど、ふたりとも長男と結婚してしまって。両親が何もいわないだけに、よけい気になります」今後、一番やりたい仕事はと聞いたら、即座に「ナレーション」と、またまた意外な答えが返ってきた。「洋画にしても、アニメにしても、あらかじめ作られた絵があって、それに合わせる演技でしょ。ナレーションの場合は、自分が主役で、自分で演出できるから」理屈としてはわかるけど、この年でやりたい仕事がナレーションとは…やはり、かなりユニークな目のつけどころというべきだろう。そういえば、この人の「決めた」こと、たしかにぜんぶツジツマは合っているけど、ご主人の選び方にしろ、大学の決め方にしろ、やはり、常識の回路からはちょっとズレてるユニーク選択・・・現代のハイカラさん、とでも呼ぶべきか。(次号は曽我部和行氏です)

Kazuyuki Sogabe (June)



神谷明、水木一郎と同室さる4月5日から8日までの4日間、東京・有楽町の日劇で行なわれた『第1声優フェスティバル』の楽屋に曽我部和行さんを訪ねた。春休みを利用し、全国各地からかけつけたファンで、4日間計8回の公演は連日大入り満員の大盛況。ファン、出演者側双方に、アニメに無理解な大人たちのいわれなき軽視の目に耐え、この日の来るのを待っていたという思いがあったせいか、会場には、ふつうの演劇公演や歌手のリサイタルではみられない、門外漢でさえも、ふっとひきずり込まれてしまいそうなうきうきとエキサイトしたムードがいっぱいだった。地下の楽屋1号室。「水島裕、古谷徹、田中秀幸、石丸博也」の名札のかかった隣り10号室が曽我部さんの部屋で同室は神谷明、水木一郎さんなど。第1部で『野球狂の詩』の火浦を演じたばかりの曽我部さんは、上から下まで黒ずくめのニヒリスチックムード。スマートな体がいっそうスリムに写る。173秒、56㌔です」「ガリガリですね」といいかけたとたん、曽我部さんに輪をかけた〝吹けば飛ぶよ"スリム男・神谷明さんがヌーッと入室。やめた、ちょっとカドがたっちゃう(a.)°「日劇でこういう公演うって満員になるっていうのは、決していま放送されていアニメの成果じゃないと思うんです。鉄腕アトムとかあの時代からずっと積み重ねられてきたものが、いま顕在化してきたんだと思うんです」なんとなく、二枚目っぽく、かしこまった感じでインタビューを開始したのだが、あわただしく部屋に出入りする神谷さんなんぞが、ときおり、曽我部さんの言葉ジリをとらえてひやかすものだから、やりにくいことこのうえない。

ズブのシロウトが劇団へ入る

なにしろ、このふたり、かつて劇団『テアトル・エコー』で同じカマのメシをくったことのある芝居仲間。熊倉一雄、山田康雄といった面々のずーっと後輩にあたるが、30歳(曽我部)と3歳(神谷)、年もちょうどつりあったご同輩だから、たがいに裏も表も知りつくしている仲なのだ。もっとも、曽我部さんのエコー入りは神谷さんと違い、かなり変わっていた。「大学4年で中退して、アッ、大学名はちょっと………。歌手になろうと思って、学校行ったんです。その学校というのが、芝居志望の人もくる学校だったんです。それで、合同公演やって、小学校の学芸会以来、ほめられたわけです」ほめられると「すぐその気になる」性格だそうで「じゃア、芝居やるかなァ」。で、どこの劇団が自分に合うかと芝居をみてまわり、テアトル・エコーにねらいを定めた。オーディション受けてみごと合格。即、入団したのが22歳のときだった。言葉だけだと、ずいぶん簡単に聞こえるが、冷静に考えてみりゃ、これ、ずいぶん乱暴な話だ。「大学までは、演劇なんてケほども興味なかった。硬派もいいところで、高校時代は剣道部所属の剣道二段」そんな男が、20歳を過ぎてから、右も左もわからず、しかも、いつ芽がでるとも知れない演劇の世界にメクラめっぽうに飛び込んでいったのだから.....。加えて曽我部さん、高2のときに父親をなくして母親ひとりの手で育てられたひとりっ子である。「母親にいうときだけはつらかったですネ。大学4年で中退、しかもサラリーマやめて芝居やるなんて......。でもねえ、結局、この世界、運とチャンスがかなりものをいうと思うんです。9年前、エコーに入団した同期生が4人。いま残っているのは、いちばん演劇にドシロウトだったぼくをふくめふたりだけですからね」

員数合わせのオーディション

曽我部さんにとって、あれがチャンスだったナァって思うことは?「4年か4年の“破裏拳ポリマー”のオーディション。声のオーディションで、やるときには、実はもう決まっているんです。で、オーディションやってみて、その決まっている人よりうまく、しかもギャラの安いのがいれば、はじめて採用するってのがふつう。ポリマーのときも、劇団からアテ馬だよ、あくまで員数あわせ”っていわれて、神谷くんたちと受けにいった。いいやと思いながらやったら、これがトチリにトチル、メロメロの演技。ところが、相手役の女の子のほうも、トチリのメロメロだったんですネ。"トチっておもしろい”っていう妙な理由でハイ採用。わかんないものですよ」たしかに、この最初のアニメのアテレコをきっかけに「野球狂の詩」「マシーンハヤブサ」「ボルテスV」等々、20代というこの世界では異例の若さで二枚目声優の道をひた走り。実物も、容姿風体とも、ごらんのごとく、現代風二枚目。―私生活でもやっぱり二枚目?と話題を変え、曽我部さんが「本人は、そのつもりなんですけどネェ」と答えたとたん、横あいから「クスッ」と、たまりかねたような笑い声。公演の手伝いに来ていた神谷明夫人(戸部光代さん)である。

インベーダーゲームにこる

「なんだよぁ、なにがおかしいの」と苦笑しつつ、神谷夫人をにらんだ曽我部さんは観念したように、「つもりなんですが、どうも、ポカッと抜けてるところがあるようでして」...船橋の自宅に帰るべく、夜おそく地下鉄日比谷線に乗ったものの、そのまま眠りこけ、中目黒─北千住間を終電になるまで3往復。結局、深夜、北千住から船橋までタクシー飛ばすハメになったとか。あるいはテレビゲームで、まわりの小学生が7000点、8000点だしているのを見て小学生が出せてオレに出せないはずはない”とカッカカッカ、気づいてみたらサイフの中はカラッポだったとか......。「つねにピリピリ神経はりめぐらしているようでいて、そういうポカをしょっちゅうやっちゃうんですネ。やっぱり三枚目なのかナァ」所属するテアトル・エコーには熊倉、山田康雄クラスの大先輩がひしめいているため、曽我部さんの表面だった活動はどうしても声優の仕事に片寄りがちだ。「でも、芝居を離れるつもりはまったくありません。むしろ芝居、あるいは劇団は、ぼくがマスコミの中で仕事をしていくうえでの心の支えであり、唯一もどっていける場所なんです。もし、声優一本のタレントとしてやっていくとなったら、たとえば、若手がオーディションなんかでどんどん進出してきたとき、不安でしようがないと思うんですネ。ボクは、そういうイライラした状態で仕事はとてもできないと思う。あそこへ帰れるんだという、安心感を失いたくない」「芝居が好きだから」という月並みな表現でないぶんだけ、より真実味のある言葉に聞こえた。そういえば、芝居をやることの魅力について、こういう表現もした。

舞台の魅力とはこれ!!

「ほんとに演劇のエの字も知らないで劇団に入って、周囲がみんな役者になったからには、一度はハムレット”やりたい、そんな夢を抱いている連中ばっかりでしょ。なじめないし、やめようと思ったこともあった。でも、何回か研究公演を重ねてみて、その公演中の一回のトチリでコロッと変わった。2秒分ぐらいだったけど、セリフポーンと飛ばしちゃったんです。瞬間、カァーとする、どうしようどうしようと思っているところへ、相手役がなんとかつじつまをあわせてくれた。それにこちらも合わせて最後までもったんですね。芝居っておもしろいなと思ったのは、そのときからです。苦しんで苦しんで、頭ん中がまっ白になって、その極点のところでボッと光明のみえたときの気分というのは表現しようもない」実のところ、もうかりもしない舞台の仕事が、なぜそれほど魅力的なのか、これほど素人わかりのする具体的な説明をしてくれた役者さんは曽我部さんがはじめて。大学を終えてから、はじめて演劇の世界に首をつっ込んだという特殊事情が、彼に、素人、いいかえれば観客の側の心と言葉を失わさせずにいるのか。ともかく、話していて、不思議なほど役者臭、芸能人臭さを感じさせない人である。狭い通路でエイヤッ!「曽我部さーん、そろそろ、用意お願いしまーす」話の途中、通路から声がかかった。第3部のバラエティ・ショーで彼はテレビに出演する謎の美剣士役で出演の予定。「ちょっと失礼」と着物をひとかかえにして隣室に消えたと思ったら、5分もたたないうちにゾロリとした着流し、腰に大小さした素浪人スタイルで再登場。刃をパチン、パチンと抜きさししながら、なにやら、ワクワクしているような表情と足どり、さては、昔とったキネヅカ、舞台でヤットウ抜いて、剣道の腕前披露できるのか……と思ったら、やにわにエイッと刀を抜いて、狭い通路でエイツ、ヤツ。「剣道と舞台の殺陣って、ぜんぜん違うんです。刃を頭より後までふりかぶるなんて剣道では絶対ダメ。でも殺陣じゃ、ふりかぶるでしょ」実演入りで教えてくれた。「ワッ、かっこいい」。ヒヤかして通り過ぎていった神谷さんは、テレビ局にオーディションを受けに来る青年の役で黒い学生服姿。ワルイけど、ちょっと楽屋に中学生がまぎれ込んできたみたいな感じ。これも、ニコニコ顔だ。ワクワク、ドキドキって感じの声優さんたちの表情をみていてハッと気づいた。曽我部さんをふくめ、声優さんのほとんどは、本職は舞台役者。晴れの日劇での芝居は楽しいはずだし、うまいはずだ。この舞台で数々の公演を手がけた田口豪孝プロデューサーが、「とにかく、お客さんのアニメファンの目は肥えている。即席のニセモノは絶対見破られるということをキモに銘じ、コントひとつにせよ、何度も舞台ゲイコを重ねて作りあげたものです」と胸をはるとおり、ヘタな商業演劇そこのけのすばらしい出来ばえだった。ちなみに、曽我部さんの美剣士は、並みいる侍をバッタバッタと切りたおす初めこそカッコよかったが、最後は、寄ってたかってまるはだかにされちまうというなんともシマらない三枚目役。それがまた、よく似合った。なにしろこの人、着物をきて歩くその後ろ姿をつぶさに観察したところによれば、ちょっと肩すぼめちゃって、さっそうたる剣士というより、あの楽ちゃんこと三遊亭楽太郎そっくり。ウソだと思ったら、写真とじっくニラメッコしてみて下さい。

Kazuhiko Inoue (July)



異例!! 25歳の主役

洗いざらしのブルージーンズに白のコットンシャツ。ギターケースなんぞをぶらさげ、フラッと約束場所にあらわれた。あまり売れてないが、マイペースで生きているフォーク歌手のタマゴ―そんないでたちである。『サイボーグ009』島村ジョー役で人気急上昇中の井上和彦さん。主役を張っている声優さんのなかでは異例に若く、弱冠25歳の新鋭である。まったくドシロウトのまま、この世界に首をつっ込んだ」のが5年前。「本格的に声優の仕事をはじめて約2年」と、年齢に比例してキャリアのほうもまだまだだが、昨今の売れっ子ぶりはすごい。一週間分のスケジュールは・・・」と、おもむろに手帳を取り出し、その実、なんにも書いてないまっ白なページをながめつつ、そらんじれたところによれば日曜『赤毛のアン』(ギルバート・ブライス)。火曜『スタージンガー』『ホカホカ家族』。水曜『一休さん』『ピンク・レディー物語』。木曜『キャプテン・フューチャー』。土曜『サイボーグ009』『ドラえもん』。ヒュー、これぜんぶ?といったら「ぼく、一応おさえてある番組ってのが多いの。たとえばキャプテン・フューチャー"では、ケン・スコットってあんまり出番のない役だけど、ほかに週によっては船長の役やったりとかね」もっとも昨今は、欲ばって(?)番組多くもつのも良し悪しと考え出したそうで、「アテレコのスケジュールって、はっきり決まるのが収録の2日前ぐらいなんです。だから、手帳の来週分がまだまっ白なんだけど・・・洋画の吹き替えとか、とび込みの仕事が来るでしょう。まてよ、来週の水曜はもしかしたら一休さん"なんて考えて、結局、その仕事パー。ほかのジャンルにぜんぜん進出できないの「ね」文字で書くと、ひどくマジに聞こえるが、なんとも気楽というか、てらいのなシャベり方をする人だ。プライベート秘密でも何でも、スラスラ、かるい調子でしゃべっちゃう。

デートはオートバイの相乗り

ちょっと見はまだ大学生。それもオジサンタイプのそれではなく、高校生に近い学生タイプ。まさかともしや、半々気分で、既婚?独身?「既婚」もしかして、子供もいたりして。「一歳と何ヶ月かの女の子ひとり」えーと奥さんは?「まんが家。いがらしゆみこって名だったりして」ていうことは、もしかして、もしかしてキャンディ・キャンディ”が取りが来持つ縁?「そう、取り持つ縁」えーっと、結婚したのは?「あっ、それ、ちょっとヤバイ。うち計算あわない、3ヵ月目に子供できちゃってたりして」ざっとこんな調子(ただし、シャベったことはぜんぶ真実。念のため)。デートはもっぱらオートバイの相乗りだったとか。そういえば、同じくまんが家の鈴賀レ二さんをさらった森功至さんも、三十路を過ぎたいまでも、夜の東名高速をぶっとばしているというカーキチだ。「女房とレニさん、20歳のとき上京して以来、同じアパートに住んでたりした親友同士なんですヨネ」「キャンディー」収録の合い間に、セッセコセッセコ美女を車でかっさらい、口説いちゃったのかしらん。大変な売れっ子まんが家を、アッというまにかっさらわれた出版社の怒りのカオが目に浮かぶ。「だけど、どうせすぐ別れるだろうなんてタカくくってるらしくって、あんまりゴチャゴチャはいわれなかったナァ」よからぬ予想を立てられた当人のほうは、ケロリとしたものだから、怒ってみてもヌカにクギか?

新しい趣味、ギターのウデ前は?

オートバイの勇姿でいがらしさんを口説いたぐらいだから、現在でもオートバイ飛ばすのが趣味。「女房子供ができると、アレは降りるものと相場が決まってるらしいけど、そりや、みんな根性ナシだからジャ。ボク根性あるもんネ、メゲずがんばるもんネ」と、ガッツポーズ。現在、乗ってるのはナナハン”ならぬ650。「オートバイっていうと、みんなナナハン?て聞くのネ。あるんですよ、650とかいろいろ。家にゃ、オートバイ、自転車、歩行器と一応ひととおりそろってまして、気分に応じ、とっかえひっかえ乗っております、ハイ」15歳で免許を取って以来のバイクとのつきあいだが「高校時代は家業のラーメンの出前のとき以外は乗せてもらえず」事故歴も「交差点で信号無視の車にハネられた一回だけ」とか。横浜生まれの横浜育ちだが、湘南あたりを荒しまわる”ワルイ子"たちのお仲間ではなかったよし、誤解なきよう。新しい趣味ではギター。かかえてきたギターは、この日買ってきたばかりのものとか。「5万円」と値段まで教えてくれた。声優さんの中には、音楽に達者なムキがやけに多い。井上さんも、コンサートのひとつも開けるぐらいな腕前?と聞いたら大笑い。「楽譜集パラパラっとめくってネ、アこれやさしそう、オレでも弾けるかナ、ボロンボロン。アッ、これもやさしそう、弾いてみよう…その程度」

高校時代プロボーラーを目ざす

話してるうち、だんだん「ホンマ、このヒト、一歳数ヶ月の子持ちかいナァ」と疑問がムクムク。「女房とまともに会うの、月に2~3回くらいかなァ。テキもがんばってる。子供生まれたときなんてネ、陣痛はじまってイタタ、イタタ、片手で腹おさえて、片手でペン持って“ハイ、できた。仕上げお願い〟アシスタントの子に作品渡してアタフタと病院にかけ込んだとたん、オギャー。そのとたん、まんがのほうもできあがり」超えてる夫婦というか、翔んでるふたりというか、まるで、マンガみたいな話がポンポン。もっとも、井上さんが仕事のほうもこの調子で、ノンシャランスに、あるいは適当にこなしていると考えたら大間違い。ちょっと、びっくりするようなことをいった。「自分のでている作品は、ぜんぶ家でビデオに撮って点検しています。1回目は、かなり興奮状態で見るから、2回口回目で、のとり方とか、こんなつもりで演技したんだけどうまくいったとか、いかなかったとか、こまかく点検する。そういう意味では、かなり一生懸命やっているんです。なにしろ、過去の仕事の中で一番長続きしたのがこの仕事ですからね。もう、やめたくない」高校時代、プロボウラーを目ざし、卒業と同時にあるボーリング場の専属となった。が、折りからの斜陽の波を受け、3その会社はあえなく倒産。つぎに入ったのが、テレビの大道具を担当する会社。「おもに日本テレビのナマ番組を下請けしていた。1PM"とか"紅白歌のベスト10"なんか。この仕事がきつくて。実働一日に9時間、そのほかに残業が月に10時間ぐらいあった。大道具って肉体労働でしょ。半年ぐらいで体がバテバテになっちゃった」

演劇経験がないひけ目

疲労困ぱい状態の体をかかえ”どうすんべェ”と迷っているところへ、友人から声がかかった。「アナウンサーになりたいから学校受けるんだけど、一緒にやらないか」さして積極的にではなかったが、銀座にあるテレビタレントセンターを受験したら「受かっちゃった。それで、そこへ一年通って、そのまま、この仕事に。本音をいうとね、テレビの美術やりたかった。だけど、ボク、致命的にも色弱。いっぺんでアウトね」まったくの専門外から声優の世界に迷い込んだという意識があるだけに、どんな仕事をしていても、心の底に「自分には演劇経験がない」というヒケ目がつきまとっている、ともいった。「ここんとこ、芝居見まくってるのも、そういう意識があるせいかも。なまじ基礎がゼロだから、新劇、商業演劇なんでもござれで、ジャンル問わずに見ている。でも、無意識のうちに、芸を盗もうとか、学ぼうとかって気持ちがどっかにあるのネ。心から楽しめない。〝ああ、オレも、だんだん子供の感覚じゃなくなってるんだな"なんて思ったりして、ちょっとさびしくなったり。ほんとはね、なんでも白紙状態で反応していく、ナイーブな子供の感覚を失ったらおしまいだと思うんだけど・・・」仕事はあくまで生活のカテを得るための手段、自分のプライベートな生活は生活。

何をしてても役のことを考える

「きちんと区別するほど、割りきりはよくない」と笑った。「酒飲んでても、車に乗ってても、つまるところ役のこと考えちゃうのね。009で、ああやったけど全体の流れの中で、ちょっとまずかったんじゃないか。ギルバートの役は、どうもまだ本当のところがつかめていないとかね…イヤんなるっていうより、けっこう、それが楽しいし、「おもしろい」酒の話が出たついでにいっとけば、酒量はボトル半本。もっぱら、新宿二丁目周辺を飲みまわっている。「週に2~3回、いや5~6回、いや夜な夜なだったりして…今夜もいこうか」と、ギターケースを持ちあげた手のごっついというか、たくましいこと。「なにしろ、肉体労働出身ですから」ジョークでまぎらわしたが、細身がはやりの声優さんたちの中で、異様なまでにたくましい体つきは、実は高校時代に弓道をやっていた名残りである。「高一のときには、これでも神奈川県大会で優勝した腕前なんだから。2位は慶応大3年のヒト。ボクよりコーンなに大「き」ガッツポーズもさわやかな声優界の新日過去のベテラン声優さんたちのどのタイプにもあてはまらない異色人種だけに、その芸熱心さが、どの方向に花開いてい将来が大いに楽しみでもある。

(追記 このほど「井上和彦ファンクラブ』が発足しました。入会希望者は「〒 東京都新宿区高田馬場4−2−9 瀬古順子」までハガキでご連絡下さい)

Kazuko Sugiyama (August)



ウーマンリブ? お嬢さん?

『スタージンガー」でオーロラ姫『科学忍者隊ガッチャマンⅡ』で白鳥のジュン「サイボーグ009』で003ことフランソワーズ・アルヌール―男の中の女一匹ともうすか、はたまた常識的に〝紅一点〟というべきか、とにもかくにも、女みょうりにつきるキャラクターを3つも独占"し、大活躍中の杉山佳寿子さん。「声優という呼ばれ方はきらいなんですよね。急にそういう呼び方がはやりだして、やってるほうとしてはせまいジャンルに閉じ込められちゃったみたいで、とっても迷惑…」こちらはもちろん初対面。さて、何か話をきりだすべェか、などと思いまどライトマも与えず、開口一番、カウンタパンチよろしく口をついてでてきたセリフがこれである。「知りあいのテレビドラマのディレクターなんかが、声だけしかやらないの?なんていうでしょ。とんでもない、声の仕事にかぎったおぼえなんかありませんよって、あわてで否定するなんてことがしょっちゅう…」「たとえ何と呼ばれようと、いまの仕事が声だけだろうと、私はあくまで、目ざすものは俳優。頑強に俳優であると主張したい」話だけ聞いていると、まるっきり、ちよいとなま意気なウーマンリブのおねえさんふう。目の前にいるのは、オカッパ頭に赤いお花のついたTシャツ、ジーンズスタイルでお目々クリクリ、表情たっぷりにおしゃべりする童女ふうお嬢さん。そのアンバランスに目をシロクロさせながら、こちらとしては、ごくごくツボクなところから質問開始。

『中学生日記』出身

-独身?既婚?「結婚しています。えーと、ことしで"七年目の浮気〟ぐらいかナァ。だけど私、昔の時間的なこと、全然ダメなんです。いろんなとこで、いろいろ違ったこといってるから、あんまり信用しないで...。彼も、グラフィック・デザインの仕事をしているから自由業。結婚しても、だから、役者業つづけるのに何の支障もなかったみたい・・・」-この世界に入ったきっかけは?「私、名古屋の生まれ育ちなんですよネ。名古屋にNHKの児童劇団があって、それに入ってたんです」あっ、じゃあ、あの『中学生日記』なんかに出てた?「エッ『中学生日記』知ってるの?そう、あれの元祖。あの番組はねえ、最初『中学生次郎』ってタイトルで、つぎに『中学生時代』。そのつぎに『——日記』になって...」|名古屋出身の役者さんて、意外とあの番組の出身者が多いんですヨ。中野良子さんとか竹下景子さんとか。「ワーホント、ヘェー、知らなかった。じゃあ、私も大女優になる望みは残ってるんだ」ザッとかくのごとし、べつに“声優論"なんて固い話でなくていいのである。やわらかかろうが、下世話だろうが、高尚だろうが、どんな話題でもホイホイ乗ってきてくれる。楽しそうにコロコロと、つぎつぎに話を飛躍させていく。聞いてる側は、ついついそれに引き込まれ、ともに宙に舞い、ハタと気づいてみれば、話はいつしかあさっての方向へ・・・。「だいたいがハッピーな性格なんですよネ。友だちもそういう人ばっかり。重苦しく全員が黙りこくっている、そんなふんい気って、もういたたまれないのネ。自分でしゃべってニギやかにするか、そそくさと家に帰っちゃうか、とにかく、そういう席には絶対いたくない」

きょうは“オーロラ姫ゴッコ”

一見、25歳ぐらいにみえるが、昭和22年4月9日生まれ。過去オンチでも、これはたしかな3歳。前述のように、地元・名古屋の高校を卒業すると、役者を目ざし即上京。熊倉一雄氏らが主宰するテアトル・エコーに入団(つまり、山田康雄さんらの後輩)。ここへ9年間在籍したあと、現在の青二プ口に移った。「劇団にいるとね、そりゃ定期的にお芝居はできるし、いいんだけど、だんだん安住しちゃうのネ。逃げ場所があるっていうか、ハングリーじゃなくなるっていうか、役者ってそれじゃだめだって思って…」ワカル、ワカル。その正統的役者論に、まじめに納得しかけていると、「役者志望の動機はネ、ホラ、子供のころお姫さまゴッコとかやるでしょ。私、わりとアレ好きだったし、そのゴッコ"の延長でなりたいと思ったんじゃないかと思う。いまだって、アニメの仕事をその延長でやってる部分があるもの。さァ、きょうは〝オーロラ姫ごっこね”なんて」一転、ガクッとくるようなことを口にする。火曜『スタージンガー』水曜『サイボーグ009』木曜『ガッチャマン』とNHK教育『うたってゴー』(ちゃちゃ丸の声をやっている)が一週間のレギュラースケジュール。これに洋画の吹きかえ、CMの仕事などが単発で入ってくるから「結局、週に一日、完全休日がとれればいいほう」という仕事のペースだ。主役級が3つも4つもあると、声を変えるのに苦労しない?との質問には、「画面のキャラクターみてると、自然とその声が出る」といともカンタン。――仕事がいっぱいあるのと、遊ぶ時間がいっぱいあるのとどっちがいい?と何気なく聞いたら、間ぱつを入れず、断固としていった。「そりゃ、遊ぶ時間がいっぱいのほう」

自転車コケて、酒やめる

公称の趣味が「星をみること」と「デパートの屋上でアイスクリームを食べること」。「なんとなく、そういうことになっちゃってるのヨネ。まァ、どっちも好きで、よくやるからいいけど」つまりは、そのときの気分で何だろうと趣味になっちゃう人、何だろうと首つっ込んでおもしろがっちゃうヒトなのである。「だいたいが計画性のない人生送ってるほうで、休みの日に何するかなんてのも、その朝になって考える。うーん、井之頭公園に行ってみるかとかね。つい先ごろまでは、マンション買いに熱中してたなア」現在のスイートホームは、あの、日商岩井の海部さんのオウチなんかもある東京・杉並区久我山のアパート。「手ぜまになってマンション買おうかってことになり、不動産屋やら広告みて都内のマンションをあさりまくったのネ。でも、甲州街道沿いとか、ああいうとこばっかりで、窓を開ければ眼下は車の洪ひとしきり見終わったら、熱がさめちゃった。何でマンション買おうなんて思ったんだろう、いまのアパート、緑はいっぱいあるし、なかなかいいじゃないなんて見なおしちゃったりして」-買うのは、つぎの関東大震災がきていったん、東京がガチャガチャになったあとでいい?「ワー、おんなじこと考えてるぅー。そう、そう、それからでも遅くはない」なんとも話していてアキない人だ。ミセスだが子供はなし。「きっとうまいと思うけど、免許証持ってないから」車はダメ。その昔は左党だったが「自転車でコケて歯折って以来、お酒よりケーキ派に転向した」―自転車でコケて歯折って、どうしてお酒やめるの?「だって酔っぱらって乗って落っこったんだもの。少し飲むとワーっとにぎやかになって、アトサキ考えなくなって...そういうお酒だもんで・・・」といって、決して悪妻にあらず。「料理なんて、まるでダメと思ってるんでしょ。ミソ汁なんか天下一品なんだかお料理はうまいほうなんです」

3日間100円でどうすごすか!?

高卒と同時に上京し、一人暮らしをしていた時期の成果なのだそうだ。「3日間、百円でどう過すかなんて知恵しぼってね。食パン買ってきて、キテレツな加工を加えて食べたりしたんだけど、あとで聞くとそれがフレンチトーストと同じ作り方だったとかネ。でもねー、一人でゴハン食べるのってたまんないのネ」と、いつのまにやら話は一人暮らしで食事をニギヤかにする方法の講義へ。「ありったけの鏡を四方に置いて食べるの。いっぱい顔が写るでしょ。もっとも逆にたまんなくなるところもあるけどネ。写るのは、おんなじ顔ばっかり、一人だーってことを逆に意識しちゃって」(別の顔が写ったりしたらオバケ屋敷じゃ)「顔っていえばねーえ」と、まったく、めまぐるしく話のとんじゃうお方である。「私の写真、一枚としておんなじに写ったためしないの、ホラネ」、持参した本誌をペラペラめくって見せながら、「でもねー、グレタ・ガルボッ大女優も、ぜんぶ違って写ったんですって。こないだ誰かが教えてくれて、それ以来とってもハッピー。私も大女優になる素質があるんだなんてネ・・・あっ、グレタ・ガルボじゃなかったかな、イングリッド・バーグマンあっ、バー「グマンだ」これでは、ご主人も一緒に住んでいてアキないだろうなァ...。

動物園やってみたい!?

公称ではなく、かなり本気な趣味は「本屋をぶらつくこと」。これは「彼の読書量がすごくて、多分にその影響?を受けたみたい」とのこと。ジャンルは問わずの乱読組。「いまはこれ読んでるの」とバッグからとり出した本はD・カネギー著『人を動かす』。目標はあくまで「頑強に俳優になること」だが、具体的には「桃井かおりさんがテレビ朝日でやっている〝祭が終った時”みたいなのやりたい。あれ、倉本聡さんが桃井さんのために書きおろしたんでしょ。この人にこんな役をやらせたいっていって、脚本を書いてもらえるような、そんな役者になりたい」そういった口の先から、「動物園やってみたいなァ、好きな動物ばっかり集めて」などとつぶやいてもみる。いささか、分裂症的ではあるけれど、カオスたぶん、その混沌のごときキャラクターが杉山さんの真骨頂なのであろう。会って3日後、原稿にすべくあらためてメモを開いているうち、知らず知らず顔がほころんできた。なんともホットで心地よい余いん。003に白鳥のジュン、男の中の女一匹に、ついつい杉山さんを選びたくなるディレクター諸氏の気持ちがよくわかる。

Yoku Shioya (September)



ブルーのスニーカーがよく似合う

ニッポン放送の調査によれば、日本人25歳以上と以下に分け、そのもっとも顕著な世代差を現わすのがスニーカーの所有率だそうである。25歳以下の若者は78%が所有しているのに、25歳以上は40・2%。ちなみに、Gパンの所有率は25歳以下=95%、25歳以上=66%。『ガッチャマンⅡ』のアテレコをやっている東京タワー近くのシネビームスタジオ。玄関のゲタ箱に、14~15足の声優さんたちのクツが並んでいた。皮靴がほとんどの中に、一足だけ、ひときわ目立つブルーのスニーカー。時間待ちしながら「若づくりじゃなく、本物のヤング声優さんがいるんだな・・・」ばく然とそう考えていたら、「お待たせしました。外へ出ましょうか」部屋から出てきた塩屋さんが、スッとくだんのスニーカーに手をのばした。『海のトリトン』のトリトン『ガッチャマン』の甚平のあの声でおなじみ塩屋翼さん。芸名と錯覚しそうだが、本名である。「おばあさんがつけたって聞きました。いわれ?翼のようにはばたけって意味かなァ。もしかしたら、おじさんがパイロット志望で、いま自衛隊にいるから、それと関係あるのかなァ」どっちでもいいや・・・と、ちょっとフテたような調子でボソボソ・・・。白のパイル地のポロシャツにブルージーンズ、スニーカー。タバコを持つ手が少ぎこちない。昭和33年6月生まれだから、ちょうど24歳になったばかりのところ。が、どうみたって、内気な高校生の男の子と話してるって感じである。だが、芸歴は10数年に及ぶというこの道の大ベテランなのだ。

声優として不安な部分とは?

男性にはめずらしい子役出身の声優さんである。昭和4年、小学校2年で劇団『ひまわり』に入団して以来、ほぼ、切れ目なくこの仕事にかかわってきた。「『ひまわり』に入った動機って、べつになかったんですよネ。兄貴がとっても無口で、ああいうところへ入ればそれがなおるだろうってことで入団することになって、じゃあ、ついでだから、弟のほう一緒にってことで・・・」それがいままでつづいちゃったのは2女性はともかく、男の人の場合、中学ぐらいになるとやめちゃう人、多いでしょう。「仕事するってほどの量の仕事やっていなかったからかな。でも、中学・高校のころは悩みましたよ。勉強も遅れるし、こんなことやってて食べていけるのかななんて。高校卒業して、アルバイト意識がなくなって、ようやく、つづけたいと思うようになったけど、いまだに不安な部分はあるんです」10数年も、この世界に生きてきた人にしては、およそ芸能人ずれしていない人である。まるっきり、大人になりかけて急に親兄弟と口をきかなくなったティーンエージャーの男の子を相手にしているような気分。現在は、レギュラーが『ガッチャマンⅡ』と『ドカベン』の2本。それに不定期の洋画の吹き替えなどが加わって、「月収は同じ歳のサラリーマンよりほんのすこし、多いくらい。両親と同居中だから、食事代として3分の1ぐらい入れて、あとは自分で使ってるけど、何に使ったって自覚のないうちに、いつのまにかなくなっちゃっているんです。ほく、だいたい何やってもそんな感じ・・・」中途はんぱ人間だと自己分析してみせた。たとえば、子どものころやっていたピアノを最近になってまたやりはじめた。「音楽は好きで、作詞とか作曲とかやって、自分の歌みたいなもの作りたくて、それでポロン、ポロンやってるんだけど、かといって、それを人前で発表したいとか、プロになりたいとかって気もないんです」「ギターも、高校のとき、一時期夢中になってやったけど、いつのまにかやめちやったし、クラブ活動も、放送部に1年ぐらいいたけど、それも中途半ばに終わっちゃったし…」列挙してみせ、「なんとなく、いまのところ、熱中するものないんですよネ」

日常はナミの若者

青春のアンニュイ時代のまっただ中って顔で、ニヒリステイックに笑ってみせる。くちびるを心もちゆがめ、そこのところは、たしかにニヒルなんだけど、糸みたいに細くなった目は、ひどくすなおで、やさしくて、ナイーブでそういう笑い方。もちろん、だからといって、四六時中、この人が「悩み」って表情で、頭かかえ込み、うつうつと心楽しまぬ日々を過ごしているという意味ではない。インタビューなんぞという席で、正面きって、アホな質問をされ、さて、自分がいま、何にシャカリキになってるかナ、改めて考えてみて、言葉にしてみたら、こうなったというだけの話。日常生活は、ナミの芸能人ではなく、ナミの若者とおなじ。「休みのときは、仲間で集まって、みん彼女なんていない男ばっかしだけど、マージャンやったり、ドライブいったり、海いったり、酒飲んだり」タバコの持ち方がぎこちないと書いたけれど、「酒もタバコも高校時代におぼえた」とのことだから、3~4年のキャリアはある。ただ、高校時代の酒、タバコは、周知のごとく、なんたって、大人の目をかすめてやるもの。その意識がいまだ抜けきっていないらしい。飲んべぞろいの先輩声優連と、仕事のあと、飲みに行く機会もしばしばあるが、「外で飲んでも、緊張してるのかなァ、飲んだって気しないんですネ。量もすすまないし」先輩じゃなく、中高校時代のホントの仲間と、ディスコあたりへくり出すこともタマにはあるが、「踊れないから、行くと恥かく。みんなワーワー騒いでるのに、はじっこのほうで一人すわって、お酒をチビリ、チビリ、ミジメーですから」結局、どうなるかというと、自宅の自分の部屋か、友だちの家に、野郎ばっかりでボトルぶらさげて集まり、戸を閉めきって車座。ポテトチップスとかイカくんなんぞをつまみつつ、ワーワー、ギャースカのワンパターン。「そろそろ寝ようか、パッと寝れる、そくるまざういうふんい気でないと安心して飲めないんです」「百恵ちゃんの太モモがいい!」「バカ、フルーイ。イクエのボインじゃ。なんたって、アレ、最高、イクエチャーン」てなバカの話に(この部分の会話は、当方の想像です、悪しからず)花咲かせつつ、一人あたりボトル半分ぐらいはあけちゃうのだそうだ。ああ、悲しい酒。

字のきれいな人が好き!!

――GFいないっていったけど、好みの女性のタイプは?「いないわけじゃないんですけどネ、まず、字のきれいな人。(ファン諸嬢、塩屋さんあてのレター書くときは気をつけて)具体的には、ウーンと、ウーン、日本の女優さんにもいないし、外国っても、ウーンと、エー」などと約3分間長考の末、「具体的には、ちょっと思い浮かばない。どっちかっていうと、きれいな人より、かわいい人がいいけど」TVアニメで育った世代だから「いまのアニメブーム、言葉ではいえないけど、なんとなく実感としてわかる」そうで、当然のこととして、仕事としてではなく、一私人としてマンガ通。いま、いちばん愛読しているのが、「いしいひさいち。あの人、ぼく『漫画アクション』に『がんんばれタブチくん』始める前から、目つけてたんです。たしか、大阪の業界誌かなんかに描いてて。いま、夕刊フジにも描いてるでしょう。朝汐を。アレ、相撲のあるときだけかな。ほかに知りませんか。とにかく全部読みたい」多少の悩みはあるけれど、当面は「声優を本業に」と考えている。子役時代には、テレビドラマにもしょっちゅう顔を出していたが、「いまは、いわゆる俳優になりたいとは思いません。自分でみてて、ボクの顔も姿・形も、みんな、なんとなくイヤなんほんとうは、芝居も、顔出しもやです。らなきゃいけないんだろうけど、なんとなく、のりきれない。子役からやってる人って、誰でも、こういう時期に直面するって聞いたけど、なんとなく、仕事にものりきれないって、一種の、ボクの病気かなァ」たぶん、青春まっただ中の倦怠病。

孤独な若者のアンニュイ

子どものときから10数年も見つづけているのだから、この世界のスイもアマイも、だいたい知りつくしてしまっている。が、同じくらいのキャリアを持声優仲間とくれば、みんな言葉も思考回路も全然ちがう、世代古い30以上のおとなばかり。キャリアがキャリアだから、純粋に同世代の若者と同化しきることもできない。そういうエアポケットの中にひとりポツンと立ちつくしている。そろそろと、倦怠のカベをつき破るべく始動も開始した。8月7日には中野公会堂で生まれてはじめての舞台に立つ。森功至、石丸博也さんらの自主公演『天狗女房』で、大男の力持ちの役をやるのだという。「舞台には、このごろすごい興味持ち出したんです。ほんとうなら、どっかの劇団に入って基礎からやったほうがいいんだろうけど、とにかく、歩き方ひとつから特訓受けています」170秒、60。5月に胃炎をおこし、7やせてしまったのだそうだ。いままでやった役で、いちばん好きな役はといったら「甚平です」。これだけは、ためらいもなく、くちもゆがめず、100パーセンやさしさだけの顔で、キッパリと答えた。(塩屋さんから一言――7月1日をもって、新しいプロダクションに所属することになりました。メンバーは、平林尚三、石丸博也、有馬瑞子といった人たちです。みんなハりきっています。今後とも、以前にもまして御支援を、よろしくお願いいたします)

Toru Furuya (October)



飛雄馬とともに成長

江川騒動などがあって、こちらが色目でみてしまうせいもあるのだろう。それに、原作が週刊読売に連載されたこともあって「新巨人の星」は、巨人ファン、および、アンチ巨人ファンにとっても、賛否両論の作品であるにちがいない。が、ご幼少のみぎりの飛雄馬!あれは、一点のくもりもない。りりしく、けなげで一生懸命で…ちょうど誰かさんと正反対。まさしく巨人の星”だった。ついでにいえば、当時の巨人もすばらしかった。その飛雄馬の声を、昭和48年、まさにご幼少のみぎりから演じつづけ、飛雄馬とともに成長し、いままた、おとなになり、焼酎の味をおぼえたこの傷だらけのヒーローの声を演じつづけている古谷徹さん。「自分のなかじゃ、同じ人物と思ってやっていますけど、どっちかっていえば、心情的には、やっぱり前の〝巨人の星"のほうがよくわかるし、ピッタリ来たか「前のひゅうまと、いまのひゅうまと、どっちが好きですか」なんて、私情に満ち満ちた質問をいきなりしたものだから、ひどく答えにくそうに、考え考え第一声である。声優界では、神谷明と双壁の小柄でスリムな体。ありきたりの半ソデシャツにブルージーンズプラスゴムぞうりばき。新宿の喫茶店にチョコンとすわった姿は、どう見ても18~19歳の若者といった風情だが、1年半前の紅顔の中学生も、すでに26歳。堂々の家庭持ちの身となった。その1年半のうち、前シリーズが3年半、『新巨人の星』になって3年間、計6年間を星飛雄馬とつきあってきた計算になる。文字どおり、飛雄馬とともに歩んだ少、青年期。

人間形成にも影響

昭和30年代後半から40年代にかけ幼年期を過した世代が、いうところのアニメ世代。この間にブラウン管から送り出されたアニメの名作は、かの『鉄腕アトム』はじめ、それこそ星の数ほどあるが、そのなかでも『巨人の星』は特別の地位を占めているといわれる。教育ママが、すぐ目くじらを立てたがる、いわゆるまんがの影響〟という意味で、星飛雄馬の生きざまほど、全国のチビっ子たちの心を深く大きくとらえた作品は皆無だからだ。それも、大人たちがいう〝まんが"にしては希有なことに、思い込んだら試練の道を、行くが男のド根性~~。テーマソングの精神どおりに生きることのすばらしさを徹底的に当時の子どもたちの心に刻み込んだのだ。視聴者のひとりひとりが、飛雄馬になっこの作品を見た。できあがった大人としてではなく、成長過程の中学生として飛雄馬を演じたことで、その後の人間形成に作品そのものが大きな影響を与えたということは?「やっぱりあると思う。根性とか、耐えることとか、まっとうに正直に生きることとか、絶対、一人間としてすごい影響「受けてますネ」『巨人の星』が終わったのが高校3年のとき。古谷さんは、ここでいったん、芸能界からきれいに足を洗っている。「5つで児童劇団に入り、ずっと子役としてやっていたわけだけど、それは、自分の意志で入ったわけじゃないでしょう。それに、そのまま芸能界にいてかたよった人間にはなりたくなかった」足を洗って明治学院大経済学部に入学。以後、卒業までの4年間、まったくこの世界には見向きもしなかったというから徹底している。―名は売れてるわけだし、バイトでちょこちょこ仕事してこづかいを稼ぐという要領のいい道もあったんじゃ?「うーん、なぜだか、そういうことはぜんぜん考えなかったですネ」

公務員になろうと思ったが・・・

4年間、何をやっていたか。勉強も適当にやったが、中学時代からやっていたバンド活動と、セリフのいいまわしひとつにしても体にしみついてしまった飛雄馬=古谷徹のイメージを払拭するため、懸命に演技の勉強に精出していたというから、おかしい。おかしいし、足を洗ったこととは大いに矛盾する行動なのだが、そこが、いかにも飛雄馬的けじめのつけ方というか身の処し方というか。「4年間、ふつうの大学生の生活を送ってみて、そのまま公務員になっちゃおうかとも思ったけど、やはり、十数年間やってきたことをムダにしたくないと思い、今度は自分の意志でこの世界に戻る決意をしたんです」思い込んだら、4年間のブランクだとか、そういう目先のロスなどは一切無視、納得のいくまで、自分の生きざまを検証してみるという一途なところがある。「性格的に、そういうところあるみたい。いま、音楽にのめり込んでるけど、ステージの企画でもあろうものなら、レギュラー以外の仕事はまったくやらなくなるし、食事はおろか、眠ることも忘れて、そのことばっかりやってますからね」ご存じ、曽我部和行さんら声優仲間と作っている『スラップスティック』と、中2のときから一度も解散せず維持しつづけているという自分自身のバンドと、二つのバンドにかけ持ち所属している。その二つともに、寝食忘れ、のめり込むのだから、「ステージなんかあると、声優業のほうがお留守になるから、収入は激減。でも、わりとお金ないの平気なほうですから」

"夫人"との堂々たる共演

そういった先から、「将来の夢は、自分の劇場持って、ミュージカルをやること」なんて夢を口にする。劇場持つには、いまからセコセコお金ためる必要あるでしょう。「理屈で考えりゃ、そうなのネ。でも、将来の夢は夢としてホントなんだけど、ボクの場合、そのプロセスが欠落しちゃう。一方で、いまが一番大切なんです。今、きょう、楽しく十実してりゃ、明日なんてどうでもいいってところもある。将来に向け、コツコツお金ためてなんて気には、どうしてもならないんだなァ」相当な、ゴーイングマイウエイ人間でもある。たとえば、23歳で結婚した真美夫人は小山まみの芸名を持つおなじ声優仲間。ふつう、結婚しちゃうと、同じ仕事は避けるとか、男たるもの、テレもあり、もろもろいらぬ配慮をするものだが、この人の場合『巨人の星』で、ただいまも堂々の共演(小山さんは左門豊作の妻、ウグイス嬢の声などを担当)。「ぼくらの場合、結婚したって、ほとん夫婦的な接し方していないから、共演したってなんてことない」とケロっとしたもの。それどころか、バンドにまで引きずり込み、月に一度は、横浜の実家に残してある〝中学校以来のタマリ場〟に、悪友ともども結集、一晩中、ジャンスカ、ピーガー、ご両親を騒音公害(?)のルツボにたたき込み、楽しんでいるというから、なんともナウな夫婦関係。たとえば、ノンベぞろいの声優界にあって、一滴も酒をたしなまない。「飲んでもおいしくないし、酔っぱらいもきらいだから」というまことに明快な理由からだが、この世界にゃ、つきあい酒、てこともある。それもやらない?「形でつきあうのって、嫌いですから。それに酒飲まなきゃ腹わって話せないってもんじゃないでしょう。ジュース飲んでたって話はできます」(ごもっとも)

その多彩な趣味

人目や外聞なんぞは、ほとんど気にしないのである。それよりも、自分がこうしないとという意志が最優先する。その割り切りのよさは、小気味いいくらいのもの。「趣味は?」と聞いたら、即座に、「スキンダイビング、ビリヤード、一晩中ギター弾くこと、あっとスキーもだ」。ズラーっと並べたて、ニャっと笑って、「ボクって、マジに話してると、相当、計画性のあるコチコチ人間にみえたりするけど、一方でハチャメチャに分裂してカオス人間でもある」と自己分析してみせる。飛雄馬には、性格形成上、ずい分影響を受けたといいながら、かんじんカナメ『巨人の星』アフレコ。左、井上真樹夫氏、中央、録音監督・山崎あきら氏。の野球そのものには「ほとんど興味がない」といった。「役づくりのためと思い、キャッチボールすりゃ指を骨折するし、バッティングセンターに行けば一球も当たらないし」と口にしたあと、ポツリと、「ずっと子役やってたから、遊び仲間と一緒に野球に興じるなんて機会ほとんどなかったんです」早くから芸能界になじみ、そのもたらしたものが何であったか、分析できる年代になって知るある寂寥感。『新・巨人の星』の冒頭は、肩をこわし巨人軍を去った飛雄馬が、場末の飲み屋で焼酎をあおりながら、長島巨人のみじめな敗北をテレビでみるシーンだった。なぜだか、古谷さんの表情と、あのときの飛雄馬の背中が、ふっとダブった。本人は、「あのとき〝しょうちゅう、おかわり"という、あのセリフがどうしてもうまくいえなくって、ずいぶんNGだしちゃった」何気なくいうのみだが、この人の心の中に沈む、長い子役生活がもたらした屈折感は意外に重いんじゃないか、そんな気がした。たぶん、芸能界におぼれ、ひたりきることなく自己分析できる明せきさと醒めた目を、古谷さんが幸か不幸か持ちあわせているがゆえに。ハチャメチャと老成とが同居する不思議な25歳の断章である。

Noriko Ohara (November)



「おばら」ではなく「スカーレット・オハラのおはら」と読むのだそうである。あのブリジット・バルドーのというか、クラウディア・カルディナーレというか、ミレーヌ・ドモンジョ、はたまたジェーン・フォンダ、シャーリー・マクレーンというか、あるいはまたガラっとイメージを変えて、コナン、ペーター、メガネ、ブンブン・・・・・・とにかく、その当たり役をあげていったらきりのない大ベテラン小原乃梨子さんの登場である。

各世代に高い知名度

ランデブー場所はNHK103スタジオ『おかあさんといっしょ』の収録現場であった。3歳児20人ばかりがけたたましく騒ぎまわり、まるで保育園の運動場と化したスタジオ内に、小さなボックス(ブース)がひとつ。なかに鎮座ましますは山田康雄、肝付兼太、小原乃梨子。当代人気随一の実力派声優3人。もし、スタジオに集まったのが中高生だったら、番組収録なんぞそっちのけ、このボックスに殺到し、収集のつかない騒ぎになるところだが、そこはまだ、ヨチヨチ歩きに毛のはえた程度の保育園児、大好きなブンブン(小原)つねきち(山田)ゴジャエモン(肝付)の声をどなたが出していようと興味のラチ外のようで、その目はひたすら舞台の上の大きなぬいぐるみに集中している。したがって、ボックスのなかのお三方、のびのび、ブンブンやりたい放題。山田さんなんぞは、例によって例のごとし、台本にないセリフをポンポンしゃべっちやって涼しい顔である。いちばんエバっているのが小原さん。なんたって、3人のうちで最先輩なのだ。声優だけではない。たとえば・・・・・「女優座のあとテアトル・エコーの5周年記念公演にもずうっと出ていたから・・・。ええ、主人が熊倉一雄さんなんかと一緒の創立メンバーだったし。えーと、康べェが入ってきたのは何年か。私たちの結婚式が昭和35年で、そのとき康ベェも出席してたから3年かなァ」こんな調子。主人とは、テアトル・エコーの演出家えりぐちたかし江里口喬氏のこと。昭和35年に結婚、高校生になる一人息子あり。声優フィーバーというのはティーンエージというかぎられた年齢層のあいだでこそまさに熱狂的だが、それ以外の世代には圧倒的に認知度が低いというのが、残念ながらわがニッポンの現状。そういうなかで、小原さんは各世代にまんべんなく高い知名度を持つ稀有な声優さんである。

仕事は昭和20年代から

アニメもそうだけど、高い知名度の源泉は、なんたって洋画の吹きかえにおけ圧倒的持ち役の多さ。しかも、冒頭に列挙したとおり、欧米映画界で〝いい女"のシンボルとしてそれぞれ一時代を画し代表的女優ばかりである。どこから金が出て生活しているか知らないが、とにかく小粋で、コケティッシュで、ちょっと退廃的な女の声をアテさせたら天下一品。「情事を終えてベッドから出てきたとき、きたなさを感じさせない声優」専門家筋の小原さん評である。この評価が彼女にB・B以下、ドモンジョ、カルディナーレと、日本には絶対にいないタイプのヨーロッパ女優のアテレコを総ナメさせているのだが、どうやら、これは単に演技力というより、彼女個人の持つ人柄に由来しているといってよさそう。その身辺に、およそ生活臭というものが感じられないのだ。昭和10年10月生まれの44歳、立派な中年である。昭和20年代、NHKのラジオドラマ『鐘の鳴る丘』の時代からこの仕事をしているから、芸能生活もかれこれ30年近く。一児の母親であり、一家の主婦であり、しかも「子どもが小学校5年のときからお手伝いさんなし。手抜きは多いけど、そうじ・洗タク・炊事、いちおう全部一人でやっている」という一人三役のスーパーレディなのだ。当然、その生活環境にふさわしい日常生活のシガラミらしきものが、その周辺に漂っていてもよさそうなのに、これがみごとにない。母親・女優・主婦、そんな肩書はあくまで属性。そこに小原乃梨子というひとりの女性、人間がいるというさわやかな存在感。思わず、こんな30代、40代になれたら年をとるのも悪くないな、そう思わせてしまう不思議な個性の持ち主である。

恵まれた環境が育てた個性

小原さんの世代の役者さんて、たいてい一度は食えない時代を経験しているものですが、小原さんにはそれはなかったんじゃあ?「そう、そういえば、ハングリー体験てないですねえ。子ども時代もふくめて」父は戦前からの弁護士、母はカソリック教徒、そういう家庭環境だった。小学校6年のとき「虹の橋」という児童劇団に入ったのがこの世界に首をつっ込んだきっかけだが、当時よくあった、生活を助けるためなんて動機ではない。「父はお座敷なんかで芸者さんを遊ばせてしまうくらいの粋人だったらしいし、子どものころから娘3人に、それぞれ流派の違う日本舞踊を習わせて、お正月には3人並べて、お座敷でその成果を披露させたり。クリスマスには母がオルガンひいて、みんなでお祝いするとか、そういうものなんだって感覚で育ってきた。そういえば、疎開先にまでオルガン持っていったり、戦争に負けそうだとわかると急に娘3人にローマ字の特訓はじめたり、やっぱり、ふつうの家庭とは、ちょっと変わってたかナァ」ぎょうこう日本中がその日のカテを得るのに血マナコになっていた戦中から終戦直後にかけての話である。リベラルでハイセンスな、当時の日本にあっては幸"といってもいい恵まれた環境のみが育て得た個性、それが一度もそこなわれることなくおとなになり、30代となり、40代をむかえた、その全身をつつむ精神的豊かさが、対峙している人間の心を自然になごませる。「息子はねえ、すごいアニメ狂。自分で絵コンテ作ったり、もう大変なもの。だから、いまのアニメ人気って、わりと感覚としてわかるのネ。なにごとにつけ一番キビしい批評家ですしネ。”ママ、きょう何のミソ汁?"きょう?フのミソ汁"間パツを入れず、こういう受け答えしないとごきげんナナメ。一週間後におんなヒギャグやってるようじゃ、もう相手にしてもらえないし・・・」

40代にして好奇心のかたまり

「仕事は、やれっていわれてやってるものじゃないでしょ。帰って”疲れたー"なんていおうものなら、男ふたり、ニヤっとして疲れるんだったらやめればア"やらしていただいてるんだから、いい仕事しないとおふたりさんに悪い」生活がかかっているわけじゃないから、仕事は自由に選んでできるが、小原さんぐらいの超売れっ子ともなれば『おかあさんといっしょ』『ドラえもん』『ゼンダマン』などのレギュラーのほか、洋画の吹きかえやCMなどの仕事がひきもきらず。結局、休日は「ちょっとひまなときで週一日とれればいいほう」という過密スケジュール。家事一切もこなしているわけだから、余暇などあるはずないのに、実にこまめに映画をみている。「公開された作品は、ほとんど見てるんじゃないかな?。新聞の広告見て、上映館、上映時間、ぜんぶ手帳にメモしておくの。仕事で待ち時間なんかできたらパッと開いて、あっ、これなら一本見れるってふうにとんでいく」好奇心の固まりみたいな20代までならわかるけど、小原さんぐらいの年代になってその行動力、やっぱり驚異という........「仕事するのは、つまり自分の切り売りでしょう。つづけていると、だんだん自分がからっぽになっていくようで息がつまってくる。そういう飢餓感、感じたことありません?私はダメ、ああ映画がみたい、絵をみたい、本読みたい、音楽聞きたい、そういうもの補充していかないととても生きていけないって感じになってくる。そうやって仕入れたものが、ソク仕事にどう役立つか、そんな次元のお話じゃないの」

天びん座の女性の特性とは?

文化は豊饒〟のなかからしか生まれない。文化とは、ぼう大なムダの集積の上にはじめて花咲くとは、さる高名な社会学者の言葉。経済大国の呼び名にうかれ、自分ではいっぱし文化生活を送っているつもりになっているけれど、ヨーロッパ文明の水準からみれば、日本人の生活なんて、しょせん「ウサギ小屋に住む働きバチ」でしかないという現状で、小原さんはムダの効用〟を感覚としてわかっている特異な人でもある。どうしても40代にはみえない精神的肉体的若さの秘密も、小原さんの生活感覚が、昭和30年代以降の豊かな時代しか知らない10代、20代の若者たち感覚に、より近似しているせいかもしれない。インタビュー当日は、ちょうど『未来少年コナン』が、ニッポン放送で4時間ドラマとして生放送された日。時間待ちのあいだに一緒に夕食をとった。小原さんは、スープからはじまり、コーヒーまで、フルコースをきちんと注文し、つけ焼刃のマナーではとてもまねのできない自然な、実にきれいな動作で口に運んでいった。「将来は自分でお話書いて、簡単なセット作って、子どもたち集めて〝バーバパパ”(かつて12チャンネルで放送、小原さんが女性の声をぜんぶ演じた)みたいな舞台を作ってみたい」という。文章のほうも、月刊誌からエッセーの依頼がどんどんくるくらいでお手のもの。「洋裁も、ヒマがあると、自分の服などデザインして縫っちゃうから、衣裳も自分で作れる。だいたい、お金のない小劇向きにできている人間なのネ」本人はさりげなくそういうけれど、改めて彼女の一日の行動量を反すうしてみると、ひたすら驚嘆あるのみ。「結局、欲ばりなのかな。いつも、もっと楽しいこと、もっと興味のあること、何かあるんじゃないかって思っているから、もういいって思うことないのね。それに、私は天びん座。なにかに常に夢中になって頭の片すみでは醒めている。日々、熱狂とシラケのくり返し。きょう、自分ほどダメな人間はいないっておち込むだけ落ち込んでも、一夜あければ世の中バラ色、スーパーマンみたいになんでもできそうな気分になっている。こんな起伏の激しい人間と20年近くもつきあって、うちのご主人、エライワネ・・・・・・」かえりぎわ、ふたたび思った。こういう40代になれるなら年をとるのも悪くない。

Hidekatsu Shibata (December)



大学でてすぐ店を持つ

ドラマの出来不出来をきめるキーポイントは、華やかなスポットライトを浴びる主役ではなく、脇役がにぎっているテレビマンたちが口をそろえていうことばである。アフレコの世界でも、同様の法則は生きているようだ。今月登場のベテラン・柴田秀勝さんには、周知のとおり、ことアニメの仕事に関しては主演らしい主演はほとんどない。『タイガーマスク』のミスターX(昭和44年)『海のトリトン』のミノータス(44年)『マジンガーZ』のあしゅら男爵(4年)近いところでは『銀河鉄道999』の機械伯爵『宇宙空母ブルーノア』の土門艦長、さらにはこのほど結成されたファンクラブの名まえにつかわれている『ダンガードA」の一文字断鉄など・・・・・・ぜんぶワキ"だ。それでいて、ジワジワと気になってくる。何かもうひとつ「プラスアルファ」がありそうな大きな存在感でファンの心をとらえてしまう...。実像の柴田さんも、まさにそんなイメージどおりの人だった。『ブルーノア』の音入れがおこなわれている東京・四谷の映広音響で、夜9時過ぎに待ちあわせ。そのまま、柴田さんの店のある新宿へむかうことになった。「ぼくの車で行きましょう」なにげなく、「ハァ」なんぞと答えて路上に出てみれば、そこにサン然と輝くモスグリーンのムスタング!(恥ずかしながら、ふつうの、日本のおクルマかと思っていたのだ)左ハンドルあざやかに、夜の新宿通りを疾駆するガイシャ”のシートに身を沈め、以下、車中会話の一コマ。お店はいつから?「20年前からずっと。昭和33年、大学を卒業した年に買ったんです」――というと、遺産が入ったとか親に買ってもらったとか?「いや、自分でアルバイトしたお金で。なにしろボクは、小学生のときから働いていましたから」

自立心とバイタリティ

ブルー系統で統一したなかなかのダンディスタイル。スイスイとハンドル切りながら、こともなげにそういうけれど、たかだか大学生のバイトで新宿に店買っちゃうなんて、この人いったい、どういう大学生だったんだろ……姿・風体、どうみたって生活の辛酸なめてきたって感じじゃないし・・・・・・などと思いめぐらしているうち、着いたところは夜の新宿・花園町。「先に店を案内しましょう」ということで、路地裏をウネウネと抜け”まさか、まさか"と思っているうち、着いたところは、そのまさかの地、新宿・ゴールデン街。野坂昭如氏とか長部日出雄氏とか、はたまた田中小実昌、大島渚氏、そういう文化人諸氏のたむろする飲み屋街として、近年すっかり有名になったところだ。「わかったでしょう、買えたわけがもともとここは青線地帯。買った昭和33年は売春防止法が実施された年。たったの70万円だったんです」……安かったのはわかるけど(ただし、18歳未満はわからんでよろしい)、やっぱり、この当時の大学生にとっては郷愁の地(たとえば、五木寛之『青春の門』をみよ)に、ポンと、いまの金にすれば一千万近い大金出"して店を買っちゃう精神構造は並みのものではない。

小学4年の納豆売り

昭和11年12月、東京・浅草田原町生まれ。「事情があって、すぐ柴田家へ養子に行った。その関係で戸籍上の生年月日は昭和22年3月25日になっているんです」継子イジメという意味ではないが、養母はきびしい人だった。小4のある夜、勉強をしている柴田少年にこんなことをいった。「勉強は昼間しなさい。夜するんなら、まず自分で電気代を稼いでからしなさい」なみの子どもなら、まずここでイジケ、ヒガミを内向させるところ。が、この人はちがった。「じゃあ稼ごうってワケで、納豆売りはじめた。7円50銭で仕入れて15円で売るんですが、なかなか売れない。だから最初に買ってくれた人なんか、いまだにおぼえている。飯倉に下宿している大学生だった。で、そのうち、いいこと思いついたんです。同級生のうちのまわりを歩くこと。これ、一発ネ。母親がでてきてまあ、こんなに朝早くから、少しは柴田クン見習いなさい”なんてしかりながらかならず買ってくれる。毎朝行ってぜんぶ売り切れ」イジケ虫などしっぽを巻いて逃げ出していくバイタリティ坊やだった。養家が虎ノ門にあった関係で、中学は名門の麻布中学へ。いまでこそ進学校として名を馳せているが、当時の麻布中は、有数のブルジョア学校として名高かった学校だ。「中・高ともに麻布だったけど、まわりは金持ちばっかり。こんなとこに自分みたいな人間がいたってと思いなおし、高2のとき退学届出してパン屋へ住み込みの奉公にいった。そしたら、演劇部の部長と友人が迎えに来てくれましてネ。あと少しだから学校だけは出ておけって。うれしかったですネ。パン屋の主人もいい人で、住み込みのまま通わしてくれました」高校を卒業すると「やっぱり大学へ行きたくなり」日大芸術学部へ。

歌舞伎役者志望だったが・・・

「学資、生活費、すべてバイトでまかないました。常時3つはやってましたヨ」そのあまりで店まで買っちゃったのは前述の通り。おそるべき生活力である。エネルギーの源泉になったのは「結局、役者が好きで、しかも役者ってのはつねにカッコよくなきゃいけないと考えていて、しかも、それを他人の犠牲のもとにやっちゃいけないと考えていた。つまるところ、自分でフル稼動してつねにカッよく役者でありつづける環境を作るよりないわけでしょ」明快ではあるが、並みの意志力ではとうてい実行はおぼつかない行動哲学だ。その好きな役者、これもちょっと驚きだが、もともとは歌舞伎役者志望だった。「日大の4年間、歌舞伎ひと筋だった。アヌイ(仏の劇作家)全盛時代で、それにもひかれたけど、日本の役者ならまず日本の演劇を知らなければと思い、近松や黙阿弥を徹底的に勉強した。で、当時、いみょうだいきなり名代でデビューできた関西歌舞伎の就職試験を受けて、そこへ行けることになっていたのに、卒業したとたん、関西歌舞伎が解散」――しかたなく、百八十度ジャンル転換。まんが家・水森亜土さんのご主人里吉茂美氏の主宰する未来劇場に籍を置き、テレビドラマの仕事をはじめたのが、そもそもの芸能界デビューだった。で、食えない分をおぎなうため声のアルバイトをやり、とくれば、並みの声優さんコースになるのだが、役者になる前から役者に専心するために店をもっちゃうくらいの柴田さん、並のコースはいかない。なんと、声優というジャンルが独立に存在しうるなんてことをだれも考えることすらしなかった10年以上も前、まず声優専門のプロダクションを作り、しかるのち、声の役者としておもむろに登場するという異色のデビュー。シンフォニックドラマを生んだ発想「青二プロの久保社長は、大学のときの歌舞伎仲間なんです。その彼が声優専門のプロダクションを作りたいといい出し、一緒に参加したのがきっかけなんです。だから、声のデビューは非常に遅く、44年の“タイガーマスク"のミスターXが最初の仕事でした」冒頭に、アニメの主演作品はほとんどないと書いたけれど、それもそのはず、声優界に足をふみ入れた発想そのものが、いかに声優という仕事を独立したジャンルに引きあげるかという大きなところにあるのだから、自分の役をうんぬんなんて、ちいセェ、ちいセェ。そんな柴田さんだ。昨今の声優ブームを察知するのも早かった。「おととしのお正月でしたかネ。会社へ行ったら入れないんですよ。ファンから声優さんたちへの年賀状の山で。これは、と思い、これにこたえる方法をなんとか考えねば・・・・・・と思いましてネ」たどりついたのが、昨夏、東京・九段会館で公演したシンフォニックドラマ「お七炎上」の発想。シンフォニックドラマを生んだ発想「青二プロの久保社長は、大学のときの歌舞伎仲間なんです。その彼が声優専門のプロダクションを作りたいといい出し、一緒に参加したのがきっかけなんです。だから、声のデビューは非常に遅く、44年の“タイガーマスク"のミスターXが最初の仕事でした」冒頭に、アニメの主演作品はほとんどないと書いたけれど、それもそのはず、声優界に足をふみ入れた発想そのものが、いかに声優という仕事を独立したジャンルに引きあげるかという大きなところにあるのだから、自分の役をうんぬんなんて、ちいセェ、ちいセェ。そんな柴田さんだ。昨今の声優ブームを察知するのも早かった。「おととしのお正月でしたかネ。会社へ行ったら入れないんですよ。ファンから声優さんたちへの年賀状の山で。これは、と思い、これにこたえる方法をなんとか考えねば・・・・・・と思いましてネ」たどりついたのが、昨夏、東京・九段会館で公演したシンフォニックドラマ「お七炎上」の発想。「イベントをやるにしても、声優が舞台で見せられる独自なものって何なんだっていうのが発想の発端。声優は舞台に出るが、声だけで演技し、オーケストラを置いて、音楽、効果音すべてオンステージでみせるシンフォニックドラマの形を思いつき、歌舞伎の八百屋お七〟を題材に書いてみたんです。作・演出・構成はぜんぶボクがやりました。オーケストラの指揮までやっちゃった(笑)」このシンフォニックドラマというジャンルを、この声優ブームの正統的な果実として結実させたいというのが、柴田さんの当面の関心事である。「第2弾で、ことしの春に”津軽雪女"をやり、この11月8日には手塚治虫さんのOKをようやくもらって、渋谷公会堂で”火の鳥”をやります。これまでぼくたちは歌ったり芝居したり、ファンの方たちが喜ぶことばかりを選んでやってきたと思う。いま、ファンにお願いしたいのは、どうか若い声優さにしないでということ。んたちを、歌手声優としてのステージをしっかり見守り、育ててほしいということです。シンフォニックドラマは、その声優としてのステージのひとつの試金石でもあるんです」

その超人的行動力

結婚は早く、4歳にして高2(男)中2(女)の2児のパパ。「でも独身。8年前に離婚したから」まさか、お子さん、柴田さんが引き取ったっていうんじゃ·····「引き取りましたよ、2人とも。当時はメこれぞ20年のキャリアの証明。手っきもあざやかに“キノコ野菜イタ子どもも小さかったし、どうしようかと、ホント、頭かかえましたけどね」夕方、大急ぎで帰宅し、食事をさせ寝かしつけ、それから店に出て(20年間、ほとんど毎晩、マスター兼板前として店に出ているという)1時半ごろまでそこにいて、また家に帰り、明け方4時ごろ寝て、朝10時にはスタジオ入り。ずっとそんな生活だったという。現在、声優のほうのレギュラーは『ブルーノア』と『ウルトラマン」の2本だが「火の鳥」公演の準備にくわえ、店のマスター業もあり、4時に寝て、朝10時にはスタジオというような毎日がつづいている。まずは、人間の生理限度いっぱいのフル稼動ぶりといえよう。それを深刻ぶりもせず、まっすぐにグイグイとやりとげていく―みごとというほかはない、意志的で骨太な男の生きざま。とにかく、そう快な人であった。

Coverage of "Tokimeki Tonight" in 1982 (Animage, The Anime, My Anime, Animedia)

This post will consist of the coverage in various magazines for " Tokimeki Tonight ". As with other posts on this blog, I will be ...