January
ライターはライターじゃない3回にわたって構成の話をおしゃべりしたので、くたびれた。しゃべるこっちが疲れるのだから、聞くあなたも疲れただろう。「アニメージュ」の読者が、ソクプロ志望者ではないのだから、もっと気楽に裏話を聞きたいという人も、たくさんいると思う。あるいは、構成のたて方、せりふの書き方なんてどうでもいいから、シナリオの売りこみ方、ギャラのもらい方を教えろというムチャクチャな人だっているかもしれない。だから今回は、思いつくまま書くことにしよう。アニメージュで企画を募集したとき、ぼくがおそれおののいたことは、この欄の2回目に記した。その結果意外というか幸いというか、ハシにも棒にもかからないひどいものはめったになく、目だったのはどれも類型的であったこと。要するに、ワンパターンである。自分が考える話はひとも考えると覚悟して、よくよく練らなくては、他の作品をぬくことはできない。いつか機会があったら、企画書の書き方も話してみたいが、これというきまった方法があるわけじゃなし、その企画書を読んだ放送局やスポンサーに「つくってみたい」と思わせるよう書けばいい。映画会社の企画部だの、放送局や広告代理店、制作会社の現場へはいれば、ゲップの出るほど書かされる。シナリオライターが書くこともある。一般に刊行されることは絶無だから、手本にできないけれど、それに似たものなら、ぼくが書いたミステリー「TVアニメ殺人事件」の中に出てくる。参考くらいにはなるだろう。みなさんご存じの作品の企画書を、いくつかサンプルとして一部だけあげておく。この数行を読んで、題名がぴたりとあてられるかどうか。①「この作品の大きな柱は"愛"です。」「従来、多くの巨大ロボットアニメーションが、お茶の間に登場しましたが、それらの作品の中で主題が明確であり、そのうえ、登場する主人公たちの生きざまが視聴者のみなさんの心に感動を訴え、主人公とともに喜び、ともに闘い、ともに苦悩する作品が成功していると思います。このような考えをベースにおい(中略)当新番組は、作品の主題"愛"におき、ドラマチックな内容を展開させ、視聴者のみなさんの要望にこたえたいと思います」②「番組のチャームポイント」「○変身女のコの潜在願望をよびさまします。テレビ界に、出版界に、商品化業界に「変身ブーム」は依然として根強くつづいています。この「変身ブーム」の影響は、少女たちの心の中にも、自然と浸透しています。しかし、これまで、テレビ番組で、少女を主人公にすえた「変身ドラマ」はなかったと思います」③「1、パンチの効いた快調なテ3ンポの画面構成」「ドラマ展開のアイデアの奇想天外さ、ドラマとしての骨格がすぐれていることは、アクション、コミック、ドラマにとって不可欠の要素であることは論をまたないが、この連載をはじめてから、なん通か投書をいただいた。共通する質問は、「どうしたら、アニメのシナリオライターになれるでしょう」という項目だ。そんなになりたがるほど、わりのいい商売じゃないが、おもしろいことはたしかだ。すくなくとも、ぼくはおもしろいから営業中である。考えてみりや、ぜいたくな話であって、世の中にはおもしろくもおかしくもなく働いている人が多いのだ。といっても、はじめからアニメのライターになれようとは思わなかった。火をつけるライターじゃあるまいし、スイッチひとつでライターへの道がひらける、なんてことはない。だいいち、ぼくが若いころに、そんな商売はなかった。ただ、ぼくは子どものときから、むやみとマンガ好きだった。マンガだけではなく、小説は江戸川乱歩海野十三から、野村胡堂、吉川英治、手あたりしだいに読んだ。書斎のすみっこにあったポルノまで読んだが、なんのことやらわからなかった。講談も落語も大好きだった。寄席なんて連れてってもらえないから、もっぱら活字で読みまくった。いま思うと、頭でっかちの子どもだったが、当時の乱読が役に立っているのはたしかである。いくら本にかじりついても子どもにはちがいないので、紙芝居も大好きだった。おじさんにもらうアメの味と、名調子が忘れられない。だからぼくが、最初にあこがれた商売は、紙芝居屋さんだった。小学校も中ごろになると「新戦艦高千穂」という小説(いまなら近未来SFだ)に凝って、当時の日本造船学の権威・平賀造船中将(という位があったのです。造船技師では中将まで、決して大将になれなかった)にあこがれた。「宇宙戦艦ヤマト」にいれあげた読者とおんなじである。「高千穂」は北極「ヤマト」はイスカンダルと、スケールに大差はあるけれど。してみると、電気紙芝居とあだ名をつけられたテレビで、もっとも紙芝居の原型に近いアニメにかかわり、それもメカっぽいSFをやる―ということになれば、まさしく三つ子の魂百までである。NHKのころのぼく(これでもプロデューサーやディレクターをやったのだ)しか知らない人は、いまの仕事がアニメと聞くと、意外そうな顔をする。ひどい人になると、(かわいそうに)ありありと同情の念を浮かべる。なんてったって、人間の出てくるドラマよりマンガの動くアニメのほうが、低級と思っている人の多い日本なのだ。SFも喜劇も、事情は似たりよったりで、たまたまブームになると、おとなは商売が大切だからちやほやするけれど、心の中では、(あんなもの、どこがいいんだ)と考えてる人が多い。はやりすたりと関係なく、40年間おもしろがってきたぼくにはよくわかる。たまたまぼくは、SFの平井和正さん、マンガの手塚治虫先生を知っていたので、テレビアニメがはじまると同時にこの仕事につけたのだが、ふたりが少しでもぼくを買ってくれたとしたら、それは「白痴の一念」で、ずーっとアニメが好きだったのだから、ひとよりマシな仕事をするだろうと考えたのではあるまいか。ぼくがあちこちで、ファンの人にあうたびに「ほそく長くつづいて下さい」とお願いするのは、そんなぼくの体験からである。テレビアニメがさかんになって、作品もふえ、ファンもふえたが、こんな現象はアテにならない。ボーリングやサーフィンとおなじ次元のアニメファンや、ほんとうはマンガに興味なんかないが、金がはいるのでやってるスタッフたち、それならそれでけっこうで、まわりがにぎやかなのはかまわない。いやだといっても、流行してるうちはアニメにぶらさがっているだろうし。水の表を浮きつ沈みつするあぶくではなく、たしかに私はアニメが好き、といってくれる読者がいたら、ありがとう、あなたはぼくらの仲間です。いっしょにがんばりましょう・・・と申しあげたい。あなたたちより、トシをとっているぼくには、これからのアニメライターの道が、とほうもなくけわしくなるだろう。それでもやっぱり、ひと足ずつ登るほかない。ライターは、インスタントはあり得ないのです。
February
先月号は間奏曲だったから、いさて、モノをよいよ今月号は本格的にシナリオの書き方を書く・・・・・・などと切りだしてはみたものの、書くにはそれなりに書く順序があり、さもないと頭をかいたり、恥をかいたりするおそれがあって、現に「サイボーグ009」をテキストにした構成の話も、わかりにくいという批評をうけた。どういうわけかと考えたが、どうやら原因はぼくのひとりよがり自分の知っていることは他人も知っている、知らないことは知らないと思いこむにあったようだ。シナリオといえばなにやら偉そうだが、つまり文章の一種である。かつて、どこかの大作家に、某学者がいったそうだ。「あなたの小説はすばらしいが、どれを読んでも私の持っている本に書いてありますな」憤然とした大作家が「その本を見せてほしい」と叫んだ。送り届けられたのは、一冊の辞書だったという。笑い話にちがいないけれど、シナリオを書くにも、まず辞書が必要であるのはほんとうだ。文章以前の問題、誤字脱字が多くては、だれもあなたのシナリオを読んではくれない。「アニメージュ」は国語の参考書じゃないから、そこまで親切に教えないけれど、中年ライターとし不思議なのは、近ごろの人はなんだっておなじように字をまちがえるのかということだ。思考のワンパターンならまだしも、誤字ま画一化なんてどうかと思うよ。近ごろは劇画のネームまで、誤字のまま印刷されたりするから、そのうち辞書までまちがえて編集するかもね。多い例として少しあげると、危機一発→〇危機一髪×絶対絶命→○絶体絶命がある。もっとも、ことばは生きものだ。世につれ人につれ、かたちも中味も変わっていくのは当然だろう。「ハレンチ学園」以来、定着しつつある長音の使い方「おもしれーじゃねーか」は、おとなの世界ではまだ市民権をえていないし、一方、中島梓さんが主張する「漫画」と「まんが」と「マンガ」の使いわけは、活字社会では混乱のしっぱなしだが、文字の駆使に定型のない証拠のひとつとはなろう。なんて、二字つづきの漢語を多用するのが、活字世代の特徴である。あいにく、シナリオを書くのも読むのも選ぶのも、まだテレビっ子の世代ではない。ものごころついたのち、テレビやアニメとつきあいはじめた人びとだから、文字のむこう側にあるイメージより、文字そのものにとらわれるきらいがある。だから、字をまちがえてはソンだ。と考えてもいいし、ひとに読ませる文章にまちがいがあっては失礼だと反省したっていい。教訓。安物でかまわないから、ひきやすい辞書を座右に置け!!!!ひきやすいことにこだわるあまり、ぼくが使っている辞書は、な、なんと昭和19年版である。ものもちがいいのも良し悪しだが、新しいやつを買ってもひく気になれないから困る。さて、すなおなあなたは、誤字脱字絶無を心がけることにした。けっこう、けっこう……こんなことをいってるぼくだって、あやしいもんだから、ふかくは追及しないほうが身のためだ。つぎに立ちはだかる問題は、技術用語である。シナリオと作文の差を、ことさら強調しようとしてかやたらと用語を列記する人もいるが(近ごろは減ったようだ。活字コンプレックスが少なくなったのかもしれない)あまり意味はない。O・LもT・Uも、シナリオの本質に無関係だと思っている。もちろん、かくいうぼくも中学のころ書いたシナリオを読めば、WIPEだらけで顔が赤くなる。知っていると、使いたくなるものです。逆にいえば、使いすぎなければ知っているほうがいい。そういうわけで、ざっとシナリオの技術用語を陳列しておく。*VF・I、F・Oフェイドイン、フェイドアウトと読む。物語の開幕や終結に使われる。しだいに明**るくなったり、暗くなったりする技法のこと。日本語に訳せば、溶明、溶暗。OLオーバーラップ。D-S(ディゾルブ)ともいう。ある!面がF・Oするにつれ、つぎの場面がFIして、いつのまにかべIつのシーンになるテクニックのこ▼WIPEワイプ。掃除するみたいに画面の一方から一方へ、すーっとスジが動いたと思うと、もうつぎのシーンへ画面が移っている。単純なスジではなく、V型にと。なったりハート型になったり、複雑なワイプが、テレビの電子機器により可能である。◆C・Uクローズアップ。いわゆる大写しである。一般に、人間の首から上がうつればC・Uの部類にはいるが、むろん鼻だけのアップ、鼻毛のアップも存在する。動物のみではない。花のアップや灰皿のアップもある。地球のアップ、宇宙のアップなんて、聞いたことがないが......。B・Sバストシバストショット。人間でいえば胸から上のサイズで、映しだすことである。その人間が男でも女でも、モーニングでもビキでも関係ないらしい。LSロングショット。遠景である。風景描写にもっぱら使われるが、画面の小さなテレビで多用するとソンだ。まして、アニメではなまじ視聴者に(絵だからなんでも描けるという先入観があるため、印象が弱くなる。F・Fフルフィギュア。こんな発音でいいかな?全身と訳せばいいのかな?少々不安になってきた。人間でいえば、頭のてっぺんから足のつまさきまで。ノミのFFがあるかどうか、まだつきつめて考えたことはないがトラックアップにトラックバック。カメラが対象にむかって前進、または後退すること。テレビ本来の用語はD・I、DD・B(ドリーイン、ドリーバック)があったが、映画畑のスタッ◆T・U、T・Bフが大量にテレビに流入したいま、あまり使われなくなってきた。▼パンパノラミック撮影の略。というとむずかしいようだが、ようするにカメラをまわすこと。対象に平行移動する場合とちがって、カメラの本体は固定したまま首だけ旋回するのが本当だが、アニメではごちゃまぜになりがちである。首を上下にふるのも、昔はティルトといったが、いまはパンで通用する。パンアップ、パンダウンというふうに使う。カットバック切り返しと訳す。なんだかチャンバラみたいだが、じじつ、チャンバラやドンパチのアクションによく使われるテだ。逃げる犯人、追う刑事をかわりばんこに写して、手に汗にぎらせる-これがカットバックの技巧である。まだまだいくらもありそうだが、本当に必要なのはことばより内容だ。アニメシナリオには、それにふさわしい用語知識が要求されるものの、その場にぶつかったとき解説したほうがのみこみやすいと思ったので、省略している。次回からは、アニメ(マンガ・劇画をふくむ)に不可欠なキャラクタIの設計、描写をおしゃべりしてみたい。実写なら多少あやふやな役どころでも、すぐれた演技者、または絶世の美女によって、魅力的に演ずることも可能であるが。だが、アニメの場合は孤立無援に近い。絵は絵でしかなく、声は声でしかないとすれば、両者を結びあわせて、立体的に一個の人間を創造するのは、まことにしんどい作業である。······というのは表向きで、だからこそ楽しい仕事だと、胸を張れるのだ。人間を創り、物語の舞台を創り、少ないといえども創造主の「座についた気分はそうかいである。March
今回からしばらく、アニメのキャラクターについて考えてみたい。いまのアニメブームは、ひと皮めくるとキャラクターのブームだといわれる。「だからあれは、ほんもののアニメと関係ないんだ」「ミーハーなんだ」「アニメの足をひっぱる結果になる!」と、高踏的議論を展開するむきも多い。作中人物を愛するのがミーハーなら、ぼくももちろんミーハーだった。アニメでいうなら「白雪姫」の苦虫、マンガでいうなら「ジャングル大帝」のココ、映画でいうなら「春の戯れ」(先年、物故した山本嘉次郎監督が、マルセル・パニョルの戯曲『マリウス』『ファニー』を飜案し映画)の高峰秀子等々。苦虫やココには書かなかったが、高峰秀子にはファンレターを出して返事をもらい狂喜した。テレビ時代のいまとは、くらべものにならぬぶあつい層をほこった映画ファンの大半は、ぼくとおっつかっつの心情で、スクリーンの前に足を運び、それが映画全盛期をささえたのだ。いま、セルに描かれたキャラクターにもように感情移入して、アニメファンは熱狂する。そこを突破口として、やがてアニメそのものに感情移入してくれるなら、すばらしいではないか。すくなくとも、絵が動くなんてうそっぱちだからくだらないときめつけるおとなたちより、はるかに近い距離にある。・・・・・・と、ひとまずゴマをすっておいて、実はアニメのキャラファンの場合、つぎの段階に問題がある。かりに、山口百恵ファンがいたとしよう。ファンの目から見れば、モモエはどの役を演じても、モモエである。だから彼、または彼女は、山口百恵主演の映画をつぎからつぎへ見て回る。その結果「伊豆の踊り子」も「潮騒」も「炎の舞」も公平に見て、作品の優劣無意識のうちに比較するようになる。おのずと映画を見る目が養われる。だがアニメキャラでは、こうはいかない。「ヤマト」の古代進は、つねに「ヤマト」にしか登場しないのだ。「ガッチャマン」のジョーも、他の作品に出ることはない。(むろん、探せば『アトム』と『ジャングル大帝』の両方の第一話に登場したハムエッグのような手塚一座や劇場版『サイボーグ009」に特別出演したレインボー戦隊のような例外はある)だからきょくたんな場合「ヤマト」以外のアニメを見たことがないというファンも出現する。そんな孤高?さをほこるファンも、古代進の顔やポーズを描いた画家、ドラマの中に境遇を設定し性格を支えた脚本家、せりふをアテて命を吹きこんだ俳優などには、関心がわくにちがいない。きみに恋人ができたら、恋人の服装、環境、学校、趣味もろもろについて知りたくなるのとおなじことだ。それがわかったら、そのスタッフの他作品も見、聞いてやってほしい。せっかく好きになったのなら、そこまで努力しなくては、きみはまちがいなく恋人にふられる。―以上のおしゃべりを裏がえすと、アニメのシナリオに、キャラクターへの配慮がな必要かしぜんとわかってくるだろう。優のもち味によりかかることのできないアニメの場合、シナリオによって、キャラクターは明確にもなり、あいまいにもなる。そしてそれが、作品のできばえ、ヒットの度合に、じかにむすびつくこととなるのだ。テーマ主題も構成も、もとより必要である。だが技術的な計算は、比較的やさしい。やさしいといっては語弊があるが、うまくできたかしくじったか、シナリオを書いた本人もプロデューサーも、おおよそ見当をつけることができる。そこへゆくとキャラクター設計は、はるかにデリケートだ。自分ではいきとどいた人物のつもりでも、絵になるとデク人形になりはてることがある。かと思えば、ほんの思いつきででっちあげた人物が、意外な効果を生んでほめられることがある。かりにも一個の人間を創造するのだ、神さまにだって出来不出来があるんだから、ぼくごときが不手際を生ずるのは、当然といってよかろうが、しくじってばかりいては今後の仕事に影響する。ついつい、ないチエをしぼって苦労するわけだ。もっとも、主人公については企画の段階でかなりにつまっているから、シナリオライターが気やすく腕をふるえる範囲は、せばまってくる。敵役、脇役、三枚目といったところだ。ぼくの例で、所期の目的を演じきってくれたキャラクターといえば敵役として「009」のサイボーグX、「コンバトラーV」のガルーダ、脇役として「ジャングル大帝」のマンディ、「デビルマン」のララ、三枚目として「一休さん」のやんちゃ姫、「グランプリの鷹」の半五郎あたりがオリジナルである。アニメのライター志望の人は、とかく主役クラスのイメージばかりがふくれあがって、サブキャラクターの布石が弱い。これはもの書きとしての引き出しがすくないためである。引き出し、なんて妙なことばを口走ってしまった。アニメ用語に置きかえればバンクである。キャラクターとかぎらず、ストーリーのあの手この手、ギャグの各パターン、アクションの舞台、クライマックスのどんでん返しといった、話づくりのテクニックあれこれを、頭の中へしまっておくことだ。記憶力に自信のない人は、脳細胞の記憶素子を痛めつけなくても、ノートなりカードにメモをとって分類しておけばいい。チェホフだってやっていたそうです。キャラクターについての引出しをふやそうと思うなら、まずきみの周囲の人物を観察することをすすめる。父は?母は?兄は?姉は?弟は、妹は?教師は、先輩は、友人は?ファングループの仲間は?いや、その気になればもっと身近な人物もいる。(きみ自身はもちろんだが、とかく自分のことはわからないものだ)ラッシュアワーの電車の中で、きみの横でするめのようにひらたくなってる乗客なんて、いいカモではないか。それが美人のお姉さんでも、定年近い窓際族でも、はたまたチカンでもかまうものか。ひとつかれらをアニメのキャラクターとして、想像をたくましくしてみよう。おもしろくするコツは、いつかもお話したように、ちがった要素AとBをむすびつけること。美のお姉さんだったら、「吸血鬼にしてみよう!」窓際族なら、「スーパーマンにしてみよう!」テレビアニメでは、このテの発想は使い道がせまいけれど、印刷マンガならふんだんに使える。後者のアイデアを具体化した、藤子不二雄さんの「中年スーパーマン左江内氏」や「ウルトラスーパーデラックスマン」などという傑作をご存知だろうか。さて三人め、チカンをどんな要素にむすびつけるかな。きみたちはきみたちで考えてもらうことにして、ぼくならロボットにしてみたい。ロボットのチカン?なんだってそんなアホなロボットが存在するのか。なにをかくそう、そのロボッを発明した大博士は、学問一本槍でガールフレンドをつくるひまもなく、研究所の往復にせっせとチカン役を演じていたのだ。ところが事故のため、病院のベッドか動けなくなった。欲求不満におちいった大博士は、秘蔵のロボットの電子頭脳にテレパシー発信器を組みこみ、チカンの代理を命じた。かくして大博士は、ロボットが美女のボインに手をふれるたび、ベッドにいながらその触覚をたのしんでいるのである......と、ついアホな話まで考えてしまったが、ここでご注意ねがいたいのは、ストーリーのあとでキャラクターをつくったのではなく、キャラクターからお話が生まれるというプロセスである。一般にドラマの作法では、はじめにドラマありき。主題を因数分解する過程で、登場人物を設定するようだが、アニメではいささかことなる。(印刷マンガでは、さらにちがう)それについてのぼくの独断は、また来月しゃべりたいと思う。April
キャラクター。小説や映画の世界では、もっぱ人物の個性にとどまる(なかには名犬ラッシーやキングコングもいるけど)。だがアニメの世界では、人間はおろか、動物植物なんでもこい。小さいところではヴィールス、でかいところでは太陽に、性格と環境とそれにふさわしい心理をあたえることだってできる。絵のおもしろさを生かすべく、アニメにおいては、物語よりキャラクターの先行することが多い。右下カットは「ダイモス」のスタッフが作っている「未来ロボダルタニアス」に出演する三枚目ロボットだが、細部をくふうすることで三枚目ぶりが一目りょうぜんである。とくにギャグものでは、キャラクターが生きていなければつまらない。なにも、むりにドドブス的人物をつくる必要はないのだ。テックス・アヴェリーといえば、徹底したナンセンスギャグに才気をほとばしらせた人だが、その演出作品のなかにノミのサーカスをあつかった短編がある。スクリーンには黒い点としかうつらないノミたちの演ずる、笑いのつるべうちがすごい。ピアノの鍵盤の上をはねまわって演奏していたノミが、いきおいあまってタンつぼへとびこみ、その中から「ご静聴を感謝します」とやったり、剣をのみこむ名人ノミがあらわれて、点々のなかへきゅーっと剣をおさめたあげく、ヒクッ!としゃっくりしたり。零次元でしかない点でさえ、これだけあざやかなキャラクターがつくれるのだから、ふつうに目ハナロのついた人物を使えば、どのようにも強烈な個性がうみだせとはいうものの、人間ほど、あいまいでつかみにくい代物はない。機械ならオンとオフと2種類の表現しかないのに、人間ときたら、文字どおりの十人十色である。たんに種類がバラエティにとんでいるだけではなく、おなじひとりの心の中をさぐっても、表と裏、本音と建前がごちゃまぜになって、いよいよその輪廓をぼやけさせる。ある大監督は、自作のシナリオに登場する人物について、そのキてのひらャラクターを掌の上にのせ、上か、ら見おろし下から仰ぎ、右からながめ左からすかし見……ありとあらゆる角度について検討したのちに描くといっている。俳優は、自分のふんするキャラクターの出生から学歴職歴、死にいたるまでを、台本から類推してつくりあげ、血肉をかよわせる訓練をする。すぐれたキャラクターが、一朝一夕でできあがるものではないのだ。アトムはかわいく、正義感にあふれた少年である。とでは、というのでアトムに似てアトムでないキャラクターをとっかえひっかえ送りだせば、どれかひとつくらいアタるだろう―いうのでは、あんまり情けない。そんなことしか考えられない人は、フグにでもアタって死んだほうが、世のためアニメのためである。ふうアトムとかぎらず、一世を風靡したキャラクターは、その特性が単純明快、ひと口でいってしまえるものが多い。オバQ、星飛雄馬など、アニメブーム前期の代表作の主人公はとくにそうだ。だからといって、その個性を猿マネしても、決して同等にヒットすることはない。大当たりするキャラクターは、その時点においてのみ、ホームラン打者となりうるのだ。二番煎じは、鮮度の低下とともに証文の出しおくれとなりがちである。もっとも、テレビアニメの世界では、平気で二番煎じ三番煎じをやってのけ、けっこういいセンをゆくことが多い。それはテレビ視聴者の層がはば広く、ある範囲のファンにとって「おくれた」キャラでも、べつの年代には十分「すすんだ」個性として歓迎されるためだ。だが、これからアニメのシナリオを勉強しようとする人は、そんなリスクの少ない道をとってはいけない。この世界でデビューしたければ、なんらかのフレッシュさがなければダメである。先ほど「アニメブーム前期」では、とくに人物が「単純明快」であると書いた。すると、いまのアニメではどうなのか。大ざっぱにいうと、キャラクターに複雑なカゲが増しつつある。テレビアニメ技術の進展(アニメ技術ではない)と、視聴者の年齢的成長がその理由だ。テックス・アヴェリーを例に出したように、アニメの本道はギャグであり、ついでファンタジーであった。動かぬ絵が動く奇蹟によって、この世ならぬおもしろさを描出するのが、もともとのアニメであったのだ。だが、テレビは本質的に日常性べったりの道具である。ブラウン管に毎日顔を出す、ワイドショーの司会者に、いつか隣人のような気やすさをおぼえるのが視聴者だ。アニメが単にアニメではなく、テレビアニメであるためには「この世ならぬ」おもしろさから「この世にありうる」おもしろさに転じざるをえない。舞台装置のことではなく、登場するキャラクターの行動と心理について、いっているのだ。だからテレビアニメでは、日常の次元を超越し秩序を破壊し、価値観を混乱させるナンセンスギャグが通用しにくい。ドタバタ、くすぐり、楽屋落ちは成立するのに、だ。ぼくはマルクス兄弟のシュールな笑いが大好きだから、なんともじれったい思いをかみしめるのだけれど、テレビのもって生まれた保守性はおいそれとゆるがない。マルクスからサザエさんへである。オバQのように非日常的キャラクターも、あっさり現実の世界に白旗をかかげてしまう。ただし作者の藤子氏は、その後も日常の舞台に非日常のつぶてを投ずるこころみをつづけていて、近く再アニメ化される「ドラえもん」など、テレビの保守性を逆手にとれば、きっとおもしろい作品になると思う。さて、事態はアクションもの、SFものでもどうようである。たとえ背景が未知の宇宙空間にひろがろうと、数千年の未来に飛ぼうと、そこにあらわれる人物は、なぜかいまのわれわれとそっくりの考え方をし、行動する。だが前記したように、ファンの年齢があがるにつれて、単細胞的スーパーマンではものたりなくなり、実写さながらになやみ、迷うキャラクターがふえてきた。乏し製作費と時間のなかで、陰翳のある描写を可能にするスタッフの練達さもみごとで「劇画的」などという形容より「テレビアニメ的」といいたいほど充実したデテイルを見せる。にもかかわらず、海外SFなどに親しんだ人の目に、テレビアニメのキャラが幼稚で一本調子にうつる場合がある。そこがいまのテレビアニメの限界なのだ。ひとのことをいうより、ぼくをひきあいに出そう。SFアニメを例にとれば、そもそもぼくは、20世紀の正義と30世紀の正義が、まったくおなじものとは信じにくいのである。これはぼくが、中学2年の夏に太平洋戦争の終息を迎え、おなじ日の午前と午後で「正義」が逆転するのをまのあたりに見て以来の考えで『マンガ少年』に連載した「聖魔伝」はそのひとつのあらわれだ。したがって「聖魔伝」的な作品は、きわめてテレビになりにくい。似た体臭をもつ「デビルマン」も、ゼノン側から見るかぎり、ゆるしがたい裏切り野郎であって、視聴者にとってのすくいはただ、かれ美樹に愛を捧げていることだけだろう。それも彼女に告白するわけでなし、決して報われることのない愛なのだ。ぼくはこの「無償の行為」が好きだ。これもまた、ぼく自身の体験によるものかもしれない・・・・せせと片想いばかりつづけた男なのだから。つまるところ、ぼくは個人的偏見によって、正義(一元的価値観といいかえたほうがいいだろう。東大至上、偏差値至上、みな同類だ)をうさん臭く思い、無償の愛を美しく思うライターである。キャラクターを創り出すのが、けっきょくのところ自分であるとすれば、登場人物はおのれの分身にすぎない。とりとめのないことをしゃべりちらした今月号から読者がなにかを拾いあげるとしたら、それは魅力あるキャラを生むには、きみ自身に魅力が必要ということだろうか。ストーリーを組むのは得意だが、キャラクターが不得手なぼくの自戒のことばでもある。May
前号で「おくれた」キャラクタを排し「すすんだ」キャラクターをおすすめした。では、なにに対して、おくれ・すすむのかといえば、背景の“時代”を指標としである。若い読者には記憶もおぼろであろうが、クレージーキャッツの植木等が、無責任男のイメージで大スターとなった。軽簿無類のゴマすり野郎が、スイスイスラスラと出世する物語を裏うちしたのは、ひたすら金儲けを志す日本株式会社の高度成長ぶりだった。近いところでは「巨人の星」の星一徹”。父権失墜のいまだから、あの岩のような頑固さが光をはなち、劇画史にのこるキャラクターとなったのである。おなじ劇画でも「御用」の”かみそり半蔵”は、あらゆる術策を弄する反骨の下級武士として、管理体制にしめつけられた若者たちのヒーローとなった。マスコミが毎日のように生みだすキャラクター群像の数は多い。だが、大衆に迎えられてスターとなるのは、そのうちのほんのひとつまみでしかない。それらは、時代とのかかわりにおいて、かならずヒットする要素をもっており、場合によっては、あべこべに「時代」を創る力さえもっている。リンカーンに奴隷解放を決意させたという黒人アンクル・トムの物語が、それだ。「罪と罰」「レ・ミゼラブル」「ドン・キホーテ」あるいはシェイクスピア戯曲などにあらわれるすぐれたキャラクターは、時代を画し、時代をリードし、時代を超えて、いまなお読む者の胸に迫る。テレビアニメのキャラクター論だというのに、あまりに小むずかしく、シチめんどうなことをいいすぎたろうか。ぼくは、そうは思わない。。純然たるアニメであれば、多くは動く絵の魅力ですむが、シリーズ化され、動きを制限され、しかも日常性をひきずらざるをえないテレビアニメでは、キャラクター設計の前提として小説・映画・演劇等々の知識が絶対に必要なのだ。が前号で話したことを、しつこくくりかえすと、まずそれが名作のものマネであってはならない。すすんだキャラクターをめざしたつもりでも、すすみすぎてひとりよがりになってはならない。世の中の動きにおくれまいと、媚びへつらう作品になってはいけない。作品は、それを書いたものの実像をうつしだす鏡である。ちょろちょろと手軽に一本仕上げて、できるだけラクにお金をもらおうなどと考えていると、なんのとりえもない安手なシナリオになることまちがいなしだ。時代を感得するのも、人物を観察するのも、それらを原稿用紙に描写するのも、とどのつまりは自分である。スポ根ものみたいなせりふで気がひけるが、もしもあなたがすぐれたキャラクターを創りだして、テレビアニメ界をあっといわせたいのなら、まずあなたというキャラクターをみがかねばならないのだ。見ろ、聞け、読め、ためせ!! それもテレビアニメ以外の世界から、どしどし養分をとりいれてほしい。アニメしか見ない人は、われわれをあっといわせることはできないだろう。若い感覚で1本や2本はものにできても、長期にわたるシリーズだと100本300本とシナリオを書かねばならぬテレビアニメで、1本や2本の佳作はゼロにひとしいのだ。(たとえば、さっき印刷があがったばかりの「サザエ「さん」を見ると、シナリオナンバー1484とある)へ・・・・・というわけで「あなた」の書いたシナリオを募集するのだが、読むのはぼくひとり、目はふたつしかない。そこへ超大作を送りつけられたら、アニメも小説も〆切りが守れず、したがってギャラがもらえず、首をつろうにもロープさえ買えなくなってしまう。といって、シナリオは一種の構造物なので、本文にも書いたとおり、あるシーンだけぬきだしてああだこうだといっても意味をなさない。ビルのできぐあいを評するのに、窓のサッシで代用はむりというわけだ。やむなく、ぼくのもちだした珍案は「ハガキ大のシナリオ送れ」。まだ大学へ入ったばかりのころ、映画好きな男とシナリオ形式の年賀状を交換したことがある。みじかくまとめるのはしんどい作業だが、おもしろい。手塚治虫が四コマを眉村卓がショートショートを、大いに修行した時代があったのをご存じだろうか。ことにテレビアニメは限られた放送時間に納める必要があるから、シナリオ勉強の基礎工事として、やっておいてソンはないと思う。参考までに、ぼくもー本というより、一枚書いてみた。大学生のころに帰ったつもりで、年賀状テーマ(というのもヘンだな)である。狙いがわかるか心配だが、カットつきで載せてもらうとしょう。むろんあなたが、どんな内容を書くかは、自由だ。スリラーでも、ドタバタでも、有名アニメのパロディでも、誕生祝いでも、ラブレターでも、抗議文でも、トイレの落書でも、どうぞ。適当なハガキに朱筆を入れさせてもらって、写真版でご紹介したい。格別上等な文字でなくていいが、ふつうの日本人に読める文字であることが条件だ。応募がなければ打ち切るし、あればつづけよう。あなたも気軽に、一枚どうですか。とはいうものの、みじかいシナリオは書きにくい。ヒントをさしあげるなら、CMアニメのシナリオを書くつもりであるいはスチール的な名場面をこしらえるつエンゼツは柄ではないといいながら、この数回、ついりきんでしまった。次回からはもっと具体的なお話をしたいが、ある一部分を材料に論じても、全体を知らない読者には、ちんぷんかんということになるので、例示するのがむずかしい。それに、読者としても聞きっぱなしはつまらないだろう。いっそもりで...。ただし、このページで紹介されたからといって原稿料もハガキ代読者にシナリオを書いてもらって、それを見本にぼくが推敲してはどうかと、編集部から提案があった。ものはためし、別項の要領で募集しますので、長談議にあきた読者は、ふるって書いて送ってほしい。編集部ともども、首を長くして待っています。もでない。そのかわり、こせともいわないから、添削料よあいこだ。June
キャラクターの話で、エンゼツ
がつづいたことを反省したが、い
くらしゃべってもわめいても、手
のひらで水をすくうようなもどか
しさがある。
複雑きわまりない人間の相を、
二次元でしかないセルの動きにお
しこめようというのだから、いわ
くいいがたいむずかしさがあるに
きまっている。
こんなことをいうぼくだって、
しんどいしんどい。
自分で書きやすくこしらえた人
物だって、たび重なれば、おのず
と個性がきまっている。 そいつを
勝手にねじまげたら、セルのキャ
ラクターは文句をいわなくても、
視聴者が承知してくれない。
「一休さん」のやんちゃ姫など、
その典型だ。 ふかい考えなしに、
(一休がおとなしいんだから、子ど
もむけの番組らしく、野放図なキャ
ラクターがいい。近ごろは女が強い
から、わがままいっぱいで、しかも
愛敬のある女の子にしよう)
とばかり、露姫をつくった。
(せりふだけで、
「ああ、あいつか」
と視聴者が思い出してくれるよう
な特徴がほしい)
そこで、
[......26]
の語尾を多用することにした。
お姫さまらしく、断定語であるか
らわがままな感じをにおわせ、子
どもが背のびしておとなっぽいこ
とばを使うかわいらしさを添え
―というのは、あとでつけたリク
ツだ。
あとにも先にもこれだけ考えた
きりで、書きはじめた露姫ことや
んちゃ姫が、声の白石冬美さんの
力もあって好評で、準レギュラー
役にまで出世すると、書く側はか
えってうろたえた。
一回こっきりのつもりだから、
設定は前記のとおり、よくいえば
単純明快、 わるくいえば一面的な
ものでしかない。つまりこの段階
では、姫は作者の人形でよかった
のだ。
それが準レギュラーとなるとお
のずと彼女ならではの生活描写が
要求される。 実際に画面に出なく
とも、きっちりつくっておく必要
があるのだ。おそろしいもので、
そのへんをいい げんにしておく
と、キャラクターが不統一になり、
厚味がうしなわれる。
そしてぼくはといえば、オーソ
ドックスなドラマの修行をしなか
った弱味を露呈する。まことにい
いかげんな物書きなのである。 キ
ャラクターよりス
トーリー、ドラマ
の燃焼より、アイ
デアのおもしろさ
を先行させるぼく
のわるいくせだ。
やんちゃ姫の場
合は、まだしも月
に一度かふた月に
一度なので、
そのたびになんとかご
まかせばすむ。これが「サザエ
さん」のおなじみ一家となると、
そうはいかない。各人物に関して
は、ぼくごときより視聴者のほう
がよく知っている。
ここがテレビのふしぎなところ
で、ときとすると現実の隣り近所
より、テレビドラマの人物のほう
が、よっぽど親しい存在になって
しまうのだ。
キャラクターのみに観点をしぼ
れば、これはすばらしいことだ。
架空の人物が、厳として実在感を
もつのだもの。反面、書くこっち
としては、まことにしんどい。 キ
ャラクターと視聴者が共犯関係を
ちゅう
むすんで、ライターに撃肘をくわ
えるのだ。
(おっと……ここで掣なんて、む
ずかしいことばを使った。ぼくのト
シのせいもあるが、わざと書いても
いる。シナリオを書いてみようと思
う人だったら、めんどうくさがらず
に辞書を引いてほしい。ぼくだって、
字画が正しかったかどうか心配で、
いま辞書を使ったところだ)
要するにキャラクターは、生き
ものなのだ。大切に手塩にかけて
育てても、秀才になるか凡才にな
るかは、神のみぞ知る。
まして一本勝負ではないテレビ
アニメのシリーズは、みつき、半
年と製作がすすむにつれて、思い
もよらぬ方向にキャラクターが脱
線するケースがある。それをむり
所期のレールへのせようとする
と、かえってつまらなくなってし
まう。ここはひとつ、キャラクタ
Iの人権を尊重して、かれの行き
たいほうへ行かせるべきではない
裏返していえば、それくらい
の自己主張ができるようなキャラ
クターをこそ、まずつくるべきな
のだ。
来月からは、作品のテンポにつ
いてのお話が始まります。どうぞ
ご期待ください。
(編集部)July
つぎのシナリオは「サザエさん」
の一節である。
○駅前広場
雨が降りだしている
ノリスケ 「ちぇっ、いつ降りだし
たんだろう」
一般に「サザエさん」は、アク
ションものなどにくらべたら、ゆ
ったりしたテンポの作品であると
考えられている。
ところが、実際にシナリオの枚
数を勘定してみると、30分ものの
アクションアニメは、300字詰原稿
用紙で60枚前後。それにくらべて
「サザエさん」は7分しかない1
本につき、ほとんど400枚近くを要
しているのだ。
ご承知のように「サザエさん」
は3階建ての構成をとっている。
(2階建ては「オバケのQ太郎」 や
「天才バカボン」。「サザエさん」の
3階建ての意味、わかりますね)。だ
から、おなじ放映時間で比較すれ
ば「サザエさん」の脚本枚数は、
アクションアニメのほとんど倍を
要するわけだ。
それだけ多い分量をつめこみな
がら、決して「サザエさん」は、
あわただしいテンポを感じさせな
い。
いかに「テンポ」が心理的なも
のであるか、理解していただける
思う。
むろん、下書の説明過多でシナ
リオの枚数がふえる場合もあるだ
ろうが「サザエさん」はちがう。
見本のシナリオを読みなおしてほ
しい。
場所を指定した「駅前広場」の
つぎに、ただ一行「雨が降りだし
ている」としか、記されていない。
せりふ
つづくノリスケの台辞は、
「ちぇつ、いつ…………」
とはじまる。この台辞があるが
ゆえに、ノリスケは電車に乗って
いて、ついいましがた駅に降り立
ったばかりということが、説明ぬ
きで感知される。したがって、
駅を出ようとしたノリスケ、
空を見上げ、あわてて立ち
止まる。
といったト書は、自明の理とし
て省略したのである。もちろん、
書いても誤りではない。これが、
はじまったばかりのシリーズなら、
こちらのイメージを正確に伝える
ため、むしろきちんと書き添えた
だろう。だが、放映11年を迎えよ
うとする「サザエさん」に、そん
なくだくだしい説明は不必要なの
である。演出者は、容易にシナリ
オのふくんでいるイメージを図解
し、視聴者もなんの苦もなくその
絵をうけいれる。
いわばテレビの長期シリーズは、
スタッフと視聴者の合作であって、
作品のテンポは、送りだす側ばか
りでなく、受け入れる側の嗜好に
よって決められるのだ。
いくら自分ひとり早口にまくし
たてても、相手に聞く気がないの
なら、そのおしゃべり
はおそろしくまのびし
たかったるいものにな
るだろう。
まず、相手─シナ
リオの場合、最初の「相
「手」はプロデューサー
であり、演出家である。
かれらの心に働きかけ
て、その作品にもっと
もふさわしいテンポで
読んでもらうよう、ト
書と台辞を組み立てて
ゆか
ねばならない。
たとえばこうだ。
○牢獄
ジュルン「だが、この先をどうす
るつもりです?」
オットー「(下を指して)あの水は、
きっと どこかへ通じてますよ」
アハラ「(驚愕) オットー! 死ぬ
気?」
オットー 「やるだけのことは、や
ってみよう
というのが、フューチャーメン
さ」
オットー、ぬっと表へー
これは「キャプテン・フューチ
ャー」である。地底の大河の上に
つくられた牢獄を、ぬけだそうと
する場面だが、台辞のぜい肉をで
きるだけけずっている。オットー
の最初の台辞は、いうまでもなく
(だから、自分がもぐってみる)、
アハラの台辞は(そんなことをした
ら大変だわ)といったことばを、
はぶいたうえで書かれている。そ
こにない台辞を心の中でつけくわ
えながら読む、あるいは視聴する
ときに、 種の緊張感がくわわっ
て、快よい劇の流れに身をまかせ
ることができるのだ。
テンポについて、また来月もお
しゃべりしたい。テンポがおそい
といわず、つきあってやってほし
い。August
先月はこんなことをしゃべった
はずだ。
テンポとは心理的なものである
こと。
だから受け手の心理をつかみな
がら、その作品にふさわしいテン
ポをあみだすよう、心がけるべき
こと。
総括的ないいかえれば大ざ
っぱな話であったから、今月はそ
れをもう少しつっこんで考えてみ
たい。
まず「その作品にふさわしいテ
ンポ」とはなんであるか。
これまた大ざっぱにお答えして
おくと、
①スラップスティック・コメディ
② アクション・コメディ
③アクション・ドラマ
④シチュエーション・コメディ
⑤メロドラマ
⑥メルヘン
⑦シリアスドラマ
○の中の数がすくないほど、作
品は要求されるテンポは早いと思
っていい。
.....と、えらそうに書いたけれ
ど、われながら偏見だなあ。これ
はだいたいの、いたって大ざっぱ
(大ざっぱを連発するのは、ぼくの
頭が大ざっぱなせいだ)目安と考え
ていただきたい。
作品の分類だって、まだほかに
いろんなやり方があるだろうが、
とりあえず思いつくままあげた。
そのセンにそって解説すると、
スラップスティック・コメディは、
ドタバタ喜劇のことだ。それもキ
ャラクターの動きによって、つぎ
からつぎへ笑いを誘発させる趣向
の作品。いま放映中のものでいえ
ば「ゼンダマン」がそうだ。
アクション・コメディは、訳せ
ば喜活劇となる。 実写に例は多い
カ (それも外国もの)、アニメの場
合は「活」に近づくか「喜」に寄
るかどちらかになって、シリーズ
全体がこのカラーに統一された作
品は、比較的すくない。うまくつ
くると「ルパン三世」みたいに、
アカぬけたエンターテインメント
になるだけに、もっとふえてほし
いジャンルだ。
アクション・ドラマに注釈は不
要だろうが、シチュエーション・
コメディというのは、わからない
人が多いかもしれない。これも実
写だが、岡崎友紀を売りだした「奥
「さまは十八才」がその見本である。
キャラクターがしいてドタバタし
なくても、そのおかれている状態
だけでおかしくなる話。
「奥さま・・・・・・」でいうなら、あれ
は「夫が教師、妻が生徒となった
ばかりに、夫婦でありながら夫婦
といえず、ヒロインたちが悪戦苦
「闘する物語」だった。例にあげる
には、古すぎたかな。「サザエさ
ん」や「ドラえもん」の作中に、
これにふさわしい例がありそうだ。
メロドラマということばはよく
使われる。ここではストーリーの
起伏をねらった、どちらかといえ
ば泣かせる話といっておこう。こ
の分類でいくと「巨人の星」から
「エースをねらえ!」にいたるス
ポーツものにこの要素が多いが、
試合の場面にはいるとアクション
指向が強く、テン
ポアップされてい
「日本昔ばなし」
など一連のメルヘ
ンは、ゆったりと
した流れを特徴づ
けたほうが昔"
のふんいきが出る。
なにせ20世紀の昨
今は、チャカチャ
カホイホイ仕事も
勉強も忙しいった
らないからね。「魔
法使いサリー」か
ら「魔女っ子チッ
い。
クル」にいたる魔法ものは、ぼく
の大ざっぱマークつき分類によれ
ば、メルヘンというよりメロドラ
マなのでのんびりしていられない。
さてどん尻に、シリアスドラマ
というのがあらわれた。テレビア
ニメに、そんなものがあるのかし
らん。ヴィスコンティ(映画監督・
代表作「家族の肖像」)じゃあるま
いし、アニメの原点は、毎度くり
かえすように、動きのたのしさお
もしろさだから、演劇的に発想し
人間性の深奥をつこうとは、大
ざっぱマークのぼくとしては、思
わんのです。(できないといったほ
うが正直ですね)したがってこの項
の解説はナシ。
うわーっ、大変だ大変だ。 本来
なら、今回はぼく自身のシナリオ
をこまかく引用して、テンポのな
んであるかを、格調高くのべる予
定だったのに。
作品ジャンルをくっちゃべって
いるうちに規定の枚数をこえてし
まった。しかたがない、編集嬢
うちあわせした話は、来月にま
わすことにしよう。
ごめんなさいね, さん
大
ざっぱなぼくがわるいのです。September
「めしたきは、はじめトロトロ中
パッパ」ということばがある。ま
電気釜もガス釜もないころの炊
飯心得でありまして、こういうこ
とばを知ってるのはみんな花の中
年だと思ってよろしい。
エート、なんの話をするつもり
だったっけ。
そうそう、そのデンでいうなら
アニメシナリオのテンポは、はじ
めがパッパでなきゃならない。 構
成のときにもしゃべったように、
いまの視聴者は気がみじかいから、
はじまったと思うや、ただちにお
もしろい事件がおこることを期待
している。だからといって、
「サービスすりゃいいんでしょ」
とばかり、地震や火事洪水をエ
ンエン描いてみたって、だれるば
かりだ。そこにこそ、テンポが必
要なのである。
○白い画面
大爆発。
急激にZ・B(ズーム・バッ
ク。 カメラの急速な後退の意) す
ると
いま砕けたのは氷山だとわ
かる。
浮かぶ氷山が、かたっぱし
から粉砕される。
咆哮するシロクマ。
もぐっていくアザラシ。
……………これは、ぼくのごく初期の
アニメシナリオである。「スーパ
・ジェッター」シリーズ中の、
「悪魔のようなコマ」。 当時SF大
会で上映したことがあるからテレ
ビで見逃しても、そちらでごらん
の方もおありだろう。
はじまるやいなや、氷山が爆発
〇北冰洋
*
する。
それはそれでスペクタクルだが、
ストレートに見せずに「白い画面」
からはじめてみた。
―なんだろう
視聴者が思い、つぎの遠景で、
あ、そうか
と思い、またすぐ、
なぜ爆発がはじまったのか
と疑問を抱く。
実はこの疑問には、ドラマの中
ですぐ解答が示されている。ツン
ドラ連邦軍がミサイル演習をブチ
あげるべく、エスキモー村を立ち
退かせて爆発させているのだ。
ツンドラ兵士とエスキモー父子
の対立を紹介して、画面はまた爆
発シーンとなる。
○エスキモー村
○大針葉樹林
*
と爆発がつづき、
〇空
○海
〇
*
*
と、威風堂々のツンドラ軍出動
風景。これにさらに追い討ちをか
けるように、
○テレビ中継車
アナ「ごらん下さい、みなさま。
わがツンドラ連邦の誇る、陸・
海・空の精鋭をくりだしての大
演習でございます」
ここまでは、文字どおりはじめ
*
パッパのいきおいだ。視聴者は、
アナウンサーが誇れば誇るほどシ
ラけ、反復する爆発画面にうんざ
りするだろう。
前号にのべたように、受け手の
心理を勘案すれば、内在するドラ
マのテンポはここでゆるむ。
ゆるんだとみせかけて、本題の
「悪魔のようなコマ」を登場させ
るのだ……………これがライターの悪辣
な計算なのですよ。
空
ジェット機。
ふいにその一方の側が、明
るくなる。
○ジェット機の中
ふりむく操縦士。
おどろきの声をあげる。
丸い光るものが降りてくる。
大演習のまっただなかにあらわ
空
れた怪光。はたしてそれはなんで
あろうか。
と、
ここまでにシ
ナリオ総ページ150のうち、16ペー
全体の一割に
ジを費やしている。
しかあたらない幕あけて、早いテ
ンポを要求されるといいながら、
実際には急・緩急の三段階のテ
ンポを演出しておるのです。
というところで紙数がつきた。
おあと、来月のおタノシミ。
●編集部では、このページの感想
をお待ちしています。 ぜひご意見
をおよせください。October
序幕のテンポをお話しているう
ちに、紙数のつきた前回である。
今月はもう少しテンポをあげて、
テンポの話をすることにしよう。
だいたいストーリーをつくると
き、おちいりがちなミスは中盤の
ダレである。出だしの事件はまあ
まあおもしろい。クライマックス
もけっこう。ところが、あいだを
つなぐ場面がさっぱりなので、そ
っぽをむかれるという例が多
い。数学のテストで、公式と答は
わかっているのに、途中の運算が
できずに四苦八苦する、あの感じ
である。
さて前回は、正体不明の怪光出
現シーンで終わっていた。
光が地上に達すると、それは巨
大なコマの形をしていた。演習は
ただちに中止され、侵略者にむか
って総攻撃がおこなわれる。その
場面にカットバックして、ジェッ
ターと西郷長官の会話があり、コ
マは実は、未来世界からタイムス
リップした惑星探査機であること
がわかる。当然、20世紀の兵器な
歯牙にもかけず、移動とボーリ
ングを反復するので、世界最大の
兵力を擁するツンドラ連邦司令と
してはカリカリする。
〇丘
司令「よし、作戦を変更。全ミサ
イルは、コマの腹部、同一の場
所を狙え。そうすれば、どんな
固い外壁でも破れるにちがい
ない!!」
○ミサイルごしに、進むコマ
ミサイルの発射角が修正さ
れる。
発射。
とぶミサイル。
○光るコマ
その腹部へ、集まったミサ
イル。
つぎからつぎへと激しい爆
アナ
ついに、穴があく。
腹部にあいた穴みるみ
る、ちぢまってゆく。
○とぶ流星号
ジェッター「あの機械は自分から
攻撃することはできませんが、
そのかわりものすごく頑丈にで
きてるんです」
西郷「というと?」
◯コマ
腹部にいくつかの穴があく。
たちまち、ふさがってしま
150
ジェッターの声「自動修復装置と
いって、いくら穴をあけても、
すぐ直ってしまうんです」
西郷の声 「それじゃ手がつけられ
んじゃないか」
コマの正体がわかり、ついでそ
のメカの特徴が、視聴者にもたら
されて、ひとつのサスペンスとな
る。破壊することが不可能のフロ
ンティア・マシン。しかも、その
進路には、核爆弾一千発の貯蔵庫
があると、ツンドラ連邦司令は、
西郷長官に告白する。
青くなった西郷は、ジェッター
。
〇丘
司令「やった!!!」
◯コマ
の出馬を要請して、流星号対不死
身のメカとの戦いがはじまるのだ。
おわかりのように、この種のシ
ンプルなアクションもので、もっ
てまわった構成はテンポをおとす
ばかりである。さりとて、馬鹿正
直に一直線を走るだけでは、目の
こえた視聴者に、話の結末まで見
すかされてしまい、心理的ななか
だるみの原因となる。
そんなときには、玉ネギスタイ
ルがよろしい。1枚ずつ、1枚ず
つ、皮をむいて物語の核心へはいっ
ていく形式だ。
演習→怪光→メカ出現-
攻撃→→メカの不死身ぶり→そ
のメカの行手に核爆弾倉庫がある!!!
とまあ、こんな具合いにお話の
要素をこだしにして、お客さまの
興味をつなぐことが、中段のテン
ポを快適にする一方法であろう。
…………どうやら今回は、ここまで
話をすすめることができた。来月
は、クライマックスへのたたみこ
みを研究したい。November
今月は枚数があるので、テンポ
の話のおさらいを、まず。
しょっぱなは、意表をついてけ
たたましく と申しあげた。
中段は、とかくダレやすいので
物語の核心にふれる要素を小出し
にしていって、視聴者の興味をつ
ないでほしい ―と申しあげた。
テンポについておしゃべりす
と、どうしても構成のときお話し
た部分とダブってくるが、事実両
者は不即不離の関係にあって、テ
ンポを考えずに構成することはで
きないし、構成ぬきでテンポだけ
とりだして論ずるわけにいかない
ことに、作品全体を鳥瞰する
ような場合は。
構成の章で述べた、ドラマのカ
ーブをもう一度見てほしい。 起・
承転結をつなげば、山をまっ
ぷたつに切った形となるのは、ご
承知のとおり。
こいつをいま少し仔細に点検し
てみよう。数学的にいえば、コン
ストラクションの微分である。
横軸にオンエアに要する時間を
縦軸に生起する事件のボルテージ
をとる。(表1)。というと、ひどく
学術的に聞こえるが、ひらたくい
えば、ドキドキゲラゲラホロホロ
のあいであります。
だから幕あけをカーブになおす
と、右のようなあんばい。
だしぬけのスペクタクルや、高
飛車なスリルでおっぱじめる。
そして、中段。 要素を小出しに、
テーマ
次第に物語の主題へ迫る
となるとひとつずつのモメントは
それほど血湧き肉躍る必要はない。
むしろ、ふかく静かに潜航しなが
ら、徐々に徐々に見るも
のをぬきさしならぬドラマの世界
へひきずりこむべきであって、そ
のためにはテンポに対する積極的
な配慮がいる(表2)。
さてそこで
このテンポというやつ、いたっ
心理的なものであることも、す
でに述べた。 きみが、駅のホーム
国電を待つと仮定しよう。
デートの時間におくれそうでイ
ライラしているとき、電車の間隔
がおそろしくまのびして感じられ
る。ところが、受けたくもないテ
ストにむかう途中であると、あっ
というまに電車がきてしまう。
テンポがそんな生きものである
からには、中段からクライマック
スへのたたみこみは、千差万別の
方法がある。へたくそな見本ばか
例にせず、最近の映画をとりあ
げてみよう。たとえば「エイリア
ン」。
仲間の乗員を、異星人にことご
とく殺されたヒロインが、最後の
手段として、母船を爆破しようと
する。だが、時限爆破装置をセッ
トして、救命艇に乗るつもりだっ
た彼女は、通路にエイリアンを発
見した......。
救命艇に乗ることができない!!!
このままでは、母船もろとも爆
破される!!!
時限装置を解除しなくては!!!
必死にかけもどり、操作する彼
。
だが、タッチの差で解除可能な
時間は過ぎ去ってしまった!!!
やむなく、元の通路を走るヒロ
イン。さいわいエイリアンはいな
い。救命艇にとびこんで、離脱す
る!!!!
母船の大爆発!!!!
照明と音響でいらだたしさを増
幅しながら、一気にたたみこむこ
こまでの各シーン。
・・・・・・ようやく平静に復したヒロ
インは、ペットのネコを冬眠装置
におさめ、自分も眠ろうとする。
怪物は死んだのだ。緊張が、テ
ンポがゆるみ
次の瞬間、実はエイリアンは艇
内に居をうつしていたとわかる!!!
テンポ曲線に照らしてみれば、
こんなぐあいだ。ジャジャーン!!!!
(表3)。
さてこれは、お手本ともいうべ
き、クライマックスへの突進例で
ある。
拙作「スーパージェッター」で
は、あれからどんなテンポで、物
語が展開したか。
一本調子だったプロットに、ベ
つのストーリーがまざりこむ。
新しい登場人物は、ギャラクシ
30世紀に住む宇宙の開発屋―
冒険家であり、山師でもある。
地球を蹂躙する巨大なコマ、フロ
ンティア・マシンは、かれが持ち
こんだのだ。輸送の途中、超新星
の爆発によって、タイムスリップ
をおこしたらしい。
◎水山
ジェ「それで、あなたの車は?」
ギャ隕石号かい? つごうよく
どこもこわれなかった」
ピーッ、と口笛をふく。
氷山がゆれて、目の前の海
面から隕石号があ われる。
ジェ「じゃあ、時間航行装置も?」
ギャ「ああ、だからおれは、いつ
でも30世紀へもどれるんだ。 乗
せて行ってやろうか、坊や」
だがジェッターはそれどころで
はない。フロンティア・マシンの進
む方向に、核爆弾一千発の格納庫
がある!!!マシンはいまや氷山を
砕いて、エスキモーの村落をボー
リングしはじめた・・・。
○エスキモー村落
家の下敷になってもがいて
いるエスキモーの父。
父「おれにかまわず、
逃げろ!!」
しかし娘は逃
げない。
梁を動か
すのがムダ
とわかると、
父の手から
槍をとる。
父「な、なにをする
「気だ!!!」
娘は目をあげ
る。
その向こうで
回転している
コマ。
娘、父に笑っ
てみせる。
娘「私はここにいま
す。おとうさんを
「守ってあげる」
ゆっくりと近
づいてくるフ
ロンティア・
マシンの巨大
な姿。
――この場面は、
テンポはむしろ「ゆっくりと」な
のである。
こんな戦争好きで野蛮な時代は
ほっとけというギャラクシー。し
かし、ジェッターは父娘を救う。
走りだす父をとめるギャラクシ
「もうすぐ爆発がおこる」と教
える。しかし、エスキモーの父が
いう。「仲間に話してやらねば」
ギャ「バカ野郎、おしえてなんに
なる!!! そんなヒマがあったら
「逃げろ」
父「私たちは仲間を大切にする。
自分の命が大切なように、仲間
の命だって大切だ!!!」
前に立ちふさがったギャラ
クシーをつきのけて進む父。
ギャ「くそっ」
かくて戦いでこわ
れかかった流星号を駆っ
て、フロンティア・マシ
ンにいどむジェッターに、
隕石からギャラクシー
がどなる。
ギャ 「おれは帰らん
!!!自分のした
ことは自分で始末
をつける。
だって、へそ曲り
じゃ負けねえん
だ!」
ジェ「ギャラク
シーさん!!!」
ギャ 「...... おれが
急に情けぶかくなったわけがわ
かるか?
おれのおやじは
な、ある星を探険していたとき
隕石に焼かれて死んだんだ。子
どものおれを助けたばかりに」
ジェ「......」
ギャ「まったく、バカなことをし
たものさ…・・・・・そんなヒマがあっ
たら、自分が助かりゃよかった
んだ!!」
隕石号の操縦席にはりつけ
てある写真。子どものころ
のギャラクシーと、その父
*****.
おれ
というわけで、ジ
エッター、ギャラクシ
ーが愛機の機首をそろえ
て、副題「悪魔のような
「コマ」を止めようと、
全エネルギーを傾
注するアクシ
ョンシーン
へ突入する。
コマの破
「壊シーンを
バックに置いて
タイムサスペンス
をBGMに、思い出
をはさんで故意にテン
ポをおとし
てみた。それが、
ライマックスへの急
傾斜をどの程度支え
たか、書いたぼくには、あまり自
信ないけれど......。
テンポの話が、
どれほどのみこ
んでもらえたのか、こっちのほう
も自信がない。
ないないづくしで申しわけない
が、テンポはこのへんで切り上げ
て、来月は「せりふ」についてぼ
くのせりふをいわせていただこう。
December
今月から、せりふについてのおしゃべりである。といっても、せりふだけがひとり歩きすることはないナレーションを除いて、あくまで肉体を持った(たまには幽霊なんてキャラもありますが)人物(アニメの場合は、ネコやイヌや雲や風なんてキャラもありますが)のしゃべることば(SFだとテレパシーなんてのもありますが・・・・・・ああ、いちいち註をつけるのが面倒になった。それほどアニメの世界は広いのだ)であるからには、まず人物設計が確立していなければ、しゃべらせようがない。この「ちょっとひとこと」だってそうだ。ぼくという男がしゃべるから、こういう駄文になるのであって、これが手塚治虫や松本零士なら、もっといいことしゃべるんだろうさて人物キャラクターをどう考え、どうつくりあげ、どう書きこむかはその項で述べた。陽気なやつ。めそめそした女。しみったれ男。んでる女性。あるいは、貧しい学生。金の使い道に困ってるブルジョア。あすまでに50万円つくらないと、サラリーローン取立てのやくざが押しかけるだろうとおびえている、小心な30男。失恋して首をつろうとしたら、縄が切れて崖から落ちたおかげで、大企業の機密書類がはいったカバンを拾い、それに目をつけた美女に誘惑されるところを、もと恋人に見られてヘアラ、あの人そんなに魅力があったかしら〉と考えなおされたばっかりに、ふたりの女性からひっぱりだこ、あのとき繩が切れてよかったと感謝している中年・・・・・・なんて、こんなアホなキャラクターはどういうせりふをしやべるのかしら。マジメにいこう。ぼくとしては決定的にマジメに書いた「ジャン・バルジャン物語」(S39月15日放映)を例にとる。ミリエル「さあ、おかけなさい、「あなた」ジャン・バルジャン「そんなことをいっていいんですか、牧師さん。私は悪党だ。1年のあいだ、牢屋につながれていた男だ。だれも私に、食事をめぐんでくれはしなかった!!!」ミリエル「マグロワール。もうひとりぶん、食事のしたくな......。銀の食器で」ジャン「牧師さん!!!私は危険な人間ですよ。厄病神ですよ。私のような男を泊めるでもあるとおっしゃるんですか!!!」うまやミリエル「マグロワール、寝室のベッドにあたらしいシーツをな」ごぞんじ、銀の燭台にいたる一幕である。原作どおりの運びだから、このへんのせりふの受け渡しは、ぼくの手柄ではもちろんない。へたくそな小説家が書けば、ミリエル司教は、ペラペラとまくしたててしまうだろう......。「あなたは悪党ではないと信じます。だから、食事をさしあげるのですとかなんとか。だがミリエルは、むきになったジャンに、直接反応しようとせず、そばの下女マグロワールに、手みじかに命ずることにより、はるかに雄弁に彼を信じていると主張した。せりふとは、たとえばこういうモノである。それはたんに状況を説明する道具ではない。人物の性格をかもし、人間同士のからみあいもつれあいを暗示し、ひいては劇のムードとテーマを唱えるのが、せりふの効果なのだ。そして、せりふを工夫する出発点は、つねにその「キャラクター「らしさ」を留意すること。小学2年くらいの子どもが、「形而上学的に事象を考察すると」などといってはおかしいし(ギャグマンガの天才少年はべつとして)白髪の大学教授が、「早くおやつ!!」とわめいてはおかしい(発狂や寝言をべつとして)・・・・・わかりきった話だとおっしゃるかもしれないが、極端な例をあげたから、どなたにもピンとくるのであって、書いてる最中は、案外目がくらまされるものだ。11月8日に東京・渋谷公会堂で上演されたシンフォニックドラマ「火の鳥」第一稿の一部をごらんにいれよう。ヒミコ弓彦、この役立たずその大言壮語、あれはうそか。いつわりであったのか!!!弓彦ふ、ふ、ふふふふ。ヒミコ弓彦!!なにがおかしい。弓彦気に入ったぜ火の鳥・聞きしにまさ妖怪じゃねえかこの弓彦に矢れ、いっととはいえ命を長らえたのは上出来だ!.......名人ばれる弓彦が、はじめ火の鳥に見参して殺しそこなっ場面である。このせりふを読んで、あなたはどんなキャラクターを想像するだろう。演出からの注文は、職人肌で野性味のある狩人を、ということだった。せりふの裏にそんなイメージがうかがえれば幸いだ。不作ですなあ。アクションよりギャグの方がやさしいだろうと思ったら、どっこい、あてはずれだったらしい。編集のY嬢いわく。「読んで笑えるシナリオがないの」「そりゃむずかしいよ。絵になればおもしろくても、それを文章につづって、おかしくなるとはかぎらない。」点を甘くしてもらったが、やはりだめのようだった。「えい、いっそ私が書こうかしら」ヤケをおこしたY嬢に、こっちも悪のりして。「書いて書いて、恥をかいて」たのんだ結果、できたのがつぎのシナリオ。駅の改札口で、きちんとしたみなりの男がつぶやいている。男「このごろ忘れっぽいからなあ。きょうは、キップはいちばんとりだしやすいところに、しまっておこう」B駅の改札口でさきほどの男男「背広のポケットでもない。カバンの中でもない……。いちばんとりだしやすいところにしまったはずなのに。えーい、精算しちまえ」契茶店で男とその娘男「いやあ、きょうはさんざんだったよ。どうもキップを落としたらしくってネ。改札口であわてたよ。ハハハ」その娘、ニッコリ笑い-おとうさま、ここですわ。さっきから、おしゃれのおとうさまが、なぜキップをこんなところにはさんでいるのか、すごく不思議でした。その男の耳の間にはさまっている、キップを取り、ひらひらさせる。男「というと、おれはきょう1日、会社でもキップを耳にはさんで仕事をしてたわけか......」いかがです、読者の採点は。日ごろY嬢にメ切りでいじめられているぼく、いい気分で添削いたそうと思う。全体のアイデアはよろしい。なぜよろしいかといえば、その場かぎりのくすぐりでなく、男がきょう一日キップを耳にはさんでいた事実を想起して、くすくす笑いが尾をひくからだ。ギャグものは、笑わせりゃいいんである。それが質的に高い笑いか、あるいは量的に多い笑いか、つくるものの、見るものの好みによっていろいろあるだろうが。だが、この形のままでは笑いにくい。これは、せりふの話と併読していただきたいのだが、説明が多すぎるからだろう。もうひとつ、キップのありかを「娘」に指摘されるより、男の「恋「人」に教えられたほうが、笑いが大きくなる。さらにいえば、場所も「喫茶店」ではなく「帝国ホテルのメインダイニング」あたりが、よろしかろう。さらに考える「恋人」というのは、すでに男と気を許した仲だ。初対面の、さら絶対ボロをだすまじき「見合いの相手」のほうがベターではないか。第3のポイントとして、ラストの男のせりふを効果的にするため、きょう一日かれが会社でどんなことをしたか、絵で明示しておきたい。······そういうわけで、ぼくなりに改作したのが左のとおりである。○改札口パスを見せて通ろうとした若いサラリーマンふうの男、ハッとする。男期限が切れてた!!!〇出札口男くそ、このごろ忘れっぽいなあ。時計を見ながら、いらいら*と自販機に金を入れ、おつりをとって走ろうとすると、うしろに並んでいた女が。女キップ忘れてますよ。男(赤面して)すみません!!到着駅の改札口男がポケットの中のものを、やたら並べている。マージャンのパイまででてくる。男まただ、・・・どこへしまったんだろう、キップ!!!係員にしかたがない、現金で払いますよ。(ポケットをさぐって愕然)財布がない!!!係員ここにあるだろ。無表情に、並んでいる品の中から財布をつまみあげる。○ホテル・ダイニングルームお見合いの最中である。男......というわけで、ぼくは実に忘れっぽいんです。ええ、むろんお見合いは忘れてやしませんか。娘(ニコニコと忘れっぽいことは、お聞きしなくてもわかってましたわ…………だって、ホラ。男の耳を、愛らしく示す相手の娘。男、あっと耳に手をやる。そこにはさまれているキップ。するとぼくは・・・きょう一日キップを耳に....!!男の脳裡にうかぶ状景。社長室で、しゃっちょこばる男。会議室で、一席ぶっている男。葬儀場へ、香でんを届ける男。その耳におさまっているキップを.........。January 1980
Brief column this month. This because the majority of this column is some examples of script that Tsuji wroke for the "2772" stage play. 先月号で引用したシンフォニックドラマ「火の鳥」の上演は、とどこおりなくおわった。その台本を書いた体験をもとにしながら、せりふの話をつづけてみよう。もともとせりふは、ステージのものだ。ぼくは演劇学者でもなんでもない。見よう見まねで、そのむかし2、3の推理劇、2、3のステージショーを書いたことがあるだけだが、それにしても、たかだか80年の歴史しかない映画、30年にみたぬテレビなど、後発の映像文明にくらべたら、数千年のキャリアのある演劇は、ゴチック体で書きたいほどの大先輩である。いうまでもなく舞台は、大勢の観客にむかって上演される。その客は、例外なく舞台に興味関心を集中している。なかには行儀のわるい団体客が居眠りしたり、母親につきあわされた赤ん坊が泣いたりすることもあるが、レビのように、ながら族のお客さんはいない。この不景気に、歌舞伎の特等席なぞ7000円、8000円とふんだくるのだから、観客も、モトをとろうと必死に見る。したがって、テレビのように、なにはさておいてもコロシを見せ、ラブシーンを見せ・・・・・・というセコ工夫はいらんのである。そのかわり、劇場空間にみちる期待と緊張に耐え得る、凝縮されせりふが必要になってくる。「火の鳥」は、いうまでもなく手塚先生の原作だから、原作に忠実な場面や人物では、できるだけ原作のそれにそって、しゃべらせようと思った。たとえば冒頭のナレーションがそうだ。「火山、それは大地の吹出もの。大地がうずき、もだえ、生きようとして、おのれの血やら肉やら膿んだ汁やらを、ひきさかれた空間へぶちまける」云々。右は、原作でもナレーションにあたるネームとして、阿蘇噴火のコマに書きこまれていた。猿田彦とナギの最初のやりとりも、ほぼ原作どおりである。
February 1980
「ホンネとタテマエ」アニメファンのみなさんだが、 マンガはどの程度読んでいるのだ ろう。 近ごろでは、頭髪総退却型の中 年サラリーマンさえ、国電のなか マンガに読みふけっていらっし やる。管理職として、新人社員と のコミュニケーションづくりに死 にものぐるいなのだろう。涙ぐま しい姿だ。肩ごしにのぞいてみる と、ギャグマンガだというのに、 ニコリともせず、親の敵にめぐり 会ったみたいなつっぱらかった顔。 あれじゃ、読んでも楽しくないだ ろうな。 もっともこれは、東京の風俗で あるからして、地方のおとなの人 たちは、まだまだ、マンガに偏見 をおもちかもしれない。県によっ ては、教育委員会あたりがシャカ リキになって、悪書をつくりだそ うとしているのだ。 それにもかかわらず、若い読者 はマンガを読む。 なにがおもしろいか、といわれ れば、当の若者たちだって返答に 困るかもしれないが、すくなく もあそこには、同世代の感性が一 ―情念が 本音が渦巻いていて、 それが読者の共感をよぶのだろう。 じつはそこに、おなじ映像文化、 絵を武器とする物語世界でありな がら、印刷マンガとテレビアニメ の大きなちがいがある。印刷マン が、ことに中小出版社の発行する 雑誌は、露悪的なまでのホンネ・ ホンネ・ホンネの大合唱だ。とこ ろでテレビは、母と子の〇〇テレ ビなぞと看板をかけなくても、じ かに茶の間へおくりこまれるとい う伝達形式からして、タテマエに ならざるを得ない。(というのは既 る。 成の通念であって、一家に一台の時代 から、パーソナルテレビの時代へ移り つつあるいま、古いタブーだと思うが) そこで おなじセリフでも、テレビアニ メの場合はカプセル入りのトゲの ないセリフになるし、印刷マンガ は遠慮会釈ない強烈なネームとな おっと、いけない。印刷マンガ にはアニメとちがった用語がある。 今回のおしゃべりに関係しそうな ことばを、二、三解説しておきます。 ネームアニメのせりふにあ たることば。 フキダシ......人物の顔のあたり から、ふわふわひろ がるケムリのような スペース。 コマ テレビアニメでいえば カットにあたる用語。 絵の一断片である。 話をもとへもどそう。 たとえば、最近の新聞紙上で、 「未来ロボ ダルタニアス」につ いての投書を見た。主人公が汚な いことばを使いすぎるというのだ。 視聴する子どもがマネたらどうす るという、お叱りである。 むろん、ヒーロー剣人のせりふ など、マンガ誌にひしめく少年英 雄たちにくらべればかわいいもん だ。 が、行儀作法を重んずる おとなは、もともと印刷マンガな 目を通しやしない。ごくまれに、 教育問題を論ずる会議などで、 生 まれてはじめてマンガ誌を手にと って、世にも汚ないものを見る目 でごらんになる、おじさんおばさ ん(ぼくだって同じ年代だけどまあ勘 弁していわせてください)がいるく らいだ。幸か不幸か、テレビアニ メは、そういうおとなの方々が支 配する家庭へも、ブラウン管を通 しておじゃまする。 ギャオーッ! ずががあん。 うおーいやあ!!! 奇声を耳にして、PTAは 怒りくるうのです。 おのずとテレビアニメは、タテ マエのセリフになってくる。好む と好まざるとにかかわらず、いま のテレビはそういうキカイなのだ。 ・・・・・最大公約数の視聴者にむかっ て、あたりさわりのない話をおく りだす装置である。 テレビアニメもその一ジャンル なのだから、規則はおなじ い や、子ども相手(アニメマンガはジ ャリの駄菓子と、かたく信じているの が一般のおとなだろう)の番組だけ に、なおのこと管理を強める必要 があるわけだ。 ホンネ タテマエの話をしてい るうちに、ついこっちもホンネを 吐いてしまったが、ネームとせり ふのあいだに横たわる、技術以前 のミゾを認識してもらいたい。
「荒々しさの迫力」
……といって、両者のちがいは 本質的なものではない。読者=視 聴者が、映画や舞台にむかうよう に、集団としてでなく、個として 対する点、読者=視聴者心理は、 きわめて接近しているのではある まいか。 もともとストーリーマンガは、 アニメを志した手塚治虫を元祖と する。先天的に、アニメの代用品 めいた側面をもっていたのだ。だ が、劇画原作者として「巨人の星」 「あしたのジョー」の梶原一騎、 ついで「子連れ狼」「御用牙」の小 池一夫が台頭するにおよんで、 ア ニメのせりふとはひと味ちがった 地点にネームの技法を結実させた。 それは、ひと口にいえば強引であ り、荒々しく、だが活気にあふれ て、読む者を圧倒するカリスマの 魅力をもっている。 「巨人の星」における星一徹「子 「連れ狼」における拝一刀の、小ゆ るぎもせぬキャラクターを想起し てほしい。 「飛雄馬よ。あの天上にかがやく 「星となれい」 「者」 る。 「われら親子は冥府魔道に生きる 前者の、聞いて照れくさくなる ような上昇志向、後者の、漢語ま じりの呪術的な効果は、どちらも テレビに生まれえないせりふであ ぶし いわゆる梶原節 アナクロニ ズムと思いながら、読むうちにつ いひきこまれてしまうパワフルな 牽引力。長いセンテンスと感嘆符 が特徴的なそのネームは、あきら かに語るせりふではなく、読むネ ームであった。 それにくらべると、小池一夫の ネームは独特のべらんめえ調で、 語尾に音のくるものが多い。 「ヤングジャンプ」誌で、永井 ちがったネームがあらわれる。 ―なるほど、小池一男原作だな。 とうなずかされる。初期の「ゴ ルゴ13」「無用ノ介」のころは、 自然体のネームだったと記憶する が、次第に人工性をまして、いま や劇画ネームのひとつの「型」を つくっている。参考までに「ズー」 の近作の例をあげてみよう。大敵 であるセルゲイが、主人公“正義” 洋子"の愛にうたれて翻心す 長丁場である。 「人も殺した。金も物も奪った。 ありとあらゆるものをぶっこわし た。女も犯した。それぞれに楽し いことばかりだった。だが、その どれよりも涙を流すってことはす ばらしい。じつにすばらしい。 生まれてはじめて涙というもの を流したんだ。正義よ、おめえが、 そうさしてくれたんだ。ありがと うよ。おれは生まれ変ってもどっ てくる。洋子のような女に愛され る男になってもどってくる!!!」 (「少年サンデー」5号より)
「アニメとマンガの接近」
ひとさまのネームばかりあげつ らってもナンだから、自分が原作 を書いたマンガの話をしようとし たが、読みかえしてびっくりした。 ぼくのネームは、アニメのせりふ とまったく変わりばえしないのだ。 生活マンガ的な作品はともかく、 横山光輝やモンキー・パンチと組 んだ時代劇・アクションコメディ など、どれも「読むネーム」とい 池上遼一 木村えいじなど力量あ るマンガ家の原作をかいていなが ら、大したヒットをだせなかった のも、ひとつにはネームの技術が 不足していたためだろう。 (最大の理由は、キャラクターに独 創性が乏しいことだと思っている) 例をひこう。石川賢が描いた、 「聖魔伝」の一節である。 「あわれな人間よ・・・・・・われらの正 体を聞き知って、人格崩壊をきた すとは。人間とは、もろいものよ のー」 「しかし......かえってその方が幸 いというもの。生きながら世のお わりを見るよりは」 「ふふふ、幸いか。そうかも知れ 発狂した刑事を見て、その娘に とりついた魔性の存在ふたりがか わすことばだ。読者を置き去りに したふたりだけの会話、という感 がある。お話をすすめるテクニッ クとしては悪くなくても、読者へ の訴えかけという点で格段に弱い。 これがアニメなら、声優の好演で 静かな説得力を生むかもしれない が······ 石川賢の絵のエネルギーを 十分にひきだせなかったことを反 省している。 総括すれば、アニメのせりふは かならず自分で演じながらかいて ほしい。もしあなたがマンガのネ ームを研究するなら、まのあたり に読者を思いうかべて、じかに話 しかけようとするがいい。 こことさらにマ ンガとアニメの、 ことばのちがいを 強調した。 実際に はふたつが同根の 文化である以上、 ほとんど両者の差 がみとめられない ケースもある。梶 原一騎の原作に忠 実な展開をしたア ニメ「巨人の星」 がそうだし、印刷 マンガでも、小山 ゆうの「がんばれ 「元気」など、ボク シングを物語の舞 台としながら、わ ざとボルテージの 高い、劇画的ネー ムを避けて、リア ルで日常的なこと ばを多用している。 それは柳沢きみお の「翔んだカップル」 あや秀夫の 「ヒット・エンド・ラン」などに も見られる傾向で、テレビアニメ 世代が成長するにつれ、一時遠ざ かった印刷マンガとアニメが、ふ たたび接近しつつあるように思わ れる。 がひとつずつ、そ れぞれちがったキ ャラクターが発言 しており、快いテ ンポで、オンチの くせにのど自慢と いうはた迷惑なガ キ大将ジャイアン の発病が説明され ている。アニメに も使えるテではあ るが、コマとネー ムが完全にフィッ トして、コマとコ マのあいだの時間 のミゾを利用して いる意味で、いっ そうマンガ的手法 といえよう。 「ドラえもん」は 前記に準じて、マ ンガとアニメを同 時に論じやすい作 品であるが、こま かく見れば、こうしてマンガなら ではの工夫がいたるところにちり ばめられている。 要するにテレビアニメはテレビ アニメであり 印刷マンガは印 刷マンガであって、せりふもネー ムも、それぞれの特質に沿って書 かれなくては、本来の力を発揮す ることができないというわけ。
March 1980
看板に偽りあり。
「ちょっとひとこと」
とタイトルをかかげながら、デ
レデレと創刊以来書いてしまった
のは、自分でも壮観だと思ってい
る。毎度おそれいりますが、
れはシャレ。べつに遊んで書いて
いるのではない、ソウカンという
同音が、すぐぴんときた人は、字
面を読むだけではなく、音まで読
んでいたのだから、シナリオのせ
りふを書く資格があるというわけ
だ。
おそろしいことをいうようだが
シナリオの勉強は、なにも机にむ
かうときだけじゃない。 常住坐臥、
要するに寝ては夢起きてはうつつ、
立とうが、座ろうがコレ勉強の覚
といっても、そこは人間、遊び
たくなるのがあたりまえ。したが
ってぼくの場合、アニメシナリオ
こ
の教室では、もっぱら連想ゲーム
をやってもらう。
ルールなんてものは、べつにな
い。
たとえばぼくが、コップという。
つぎの人間が、そのコップから連
想した具体性のある名詞をいう。
以下、おなじだ。
ふつう「コップ」と問えば、た
いていの人は「ガラス」だの「水」
だのと答える。だが、なかには、
「靴」などと答えて、こっちをぎ
よっとさせるものもいる。前日、
ドイツ料理店へ行って、長靴型の
ジョッキーでビールを飲んだのだ
そうだ。
「ゆがんだ鏡」もおもしろい。 コ
ップを顔に近づけると、どんな二
枚目を自称する容貌でもヒン曲っ
て見えるだろう。
いかに奇抜で、かつもっともな
連想をするか。むかしはやったナ
ゾナゾ。
の心は?」
「○○とかけて、○○と解く。そ
のバリエーションである。アニ
メシナリオを書くのに必要な「具
象性のある飛躍」を訓練すること
ができるだろう。
満員電車のなかでも可能な勉強
法を、もうひとつ。
だれでもいい、あなたの前で頭
項のハゲを光らせながら船を漕い
でいる一見、窓際族ふうオジサマ
を例にとろうか。
いかける。
あなたはあな の心のなかで問
「この男はなにものか」
定年間近な中小企業のサラリー
マン、なんて平凡な答えはつまら
ない。
「窓際族にはちがいないけど、 C
IAの日本支部員」
のほうがまだましだ。
ひょっとしたらこのオジサンは、
いま最後の使命を果たすべく、西
武池袋線江古田あたりにあるKG
B練馬支部へいそいでいるのかも
しれない。居眠りしているとみせ
かけて、ひざの上におかれたカバ
ンにはルパン張りのワルサーP38
がはいっているのだ!!!
狙撃の腕がおとろえたかれは、
死を決意していた。落ちこぼれ
IAとしては、せめて死ぬときく
らい、新聞に 一朝日や読売がム
リなら、東京スポーツだってかま
わない 三段ぬきで、写真入り
で書きたててほしいのだ。
だからかれは、きのう一日、 な
けなしの金をはたいて妻と娘を、
豊島園へ連れて行った。せめても
の家庭サービスだ。あと数時間た
てば、おれは死ぬ。なにも知らな
い妻は、おれが蒸発したと思うだ
ろう。憎むだろう。それでいいの
だ……………それが、スパイとして東京
都練馬区に住みついたCIA日本
支部員の運命なのだ。
白土三平みたいな空想をた
くましくしていると電車がとまり、
窓際スパイは大あわてで降りてゆ
き、その唇の端っこにヨダレが光
っていたのに気づいたあなたは、
夢からさめてシラケるだろうが、
なにこれだけでも、けっこうシナ
リオの勉強になっておるのです。
これまで書き散らしたぼくのシ
ナリオ作法で、特にしつこく申し
上げたのは、構成とキャラクター
についてであった。
構成はごく技術的なものだから、
書きなれれば、だれでもあるセン
までたどりつくと思う。げんにぼ
だって10年15年と書いてるうち
に、習うよりなれろで、なんとか
なった。すくなくとも、
「なんだこのシナリオ。どういう
話だかわからんぞ」
といわれることはなくなった。
わかるシナリオ!!!!
だがそれは、決してほめことば
ではない。世の中には、よくわか
るけど全然おもしろくないドラマ
やアニメがいっぱいあるではあ
りませんか。
乱暴を承知でいうが、
よりも、
「わかるけど、おもしろくないシ
「わからないが、おもしろいシナ
リオ」
のほうがずっといいといえるの
では、どうおもしろくするかー
それがすなわち、キャラクター
である。
クリスチャンの方には申しわけ
ないが、神さまはあまりキャラク
ター作りがうまくないとみえ、人
間という傲慢な生き物をこしらえ
てしまったが、あなたならもっと
魅力的なキャラクターを創造でき
るにちがいない。くわしくは、す
でに書きおえたキャラクターの巻
再読してもらいたい。
......さて。
と、ここでなぜか一行あけたの
であるが、決して原稿の枚数稼ぎ
ではありません。
チンタラつづいた「ひとこと」
も、今月号をもって、めでたく幕
を閉じることになった。その思い
入れの、感動的一瞬の空白である
と解釈してもらおう。
諺に「おわりよけ
ればすべてよし」
いうのがあ
と
ちん
あったかな? なかったら、
いまぼくがつくったことにする。
だから、すてきな最終回にした
かった・・・・・・あいにくぼくの筆では、
そんなステキになりっこない。ど
うでもいいけどいま腹ペコで、こ
れを書きおえたらステーキでも食
おうかと思っている状態なのだ。
思案の末、すてきなアニメの提
灯をもつことにした。これなら、
ぼくの文章はダメでもアニメがい
いから、かっこうがつくだろう。
ひとつは「ルパン三世カリオ
ストロの城」。このイメージの広
がりとアニメートの愉快さに脱帽。
テレビシリーズの「ルパン」とタ
ッチがちがうことに違和感をおぼ
える向きもあると思うが、あれ
これでは制作スタッフがちがうの
だ。おもしろいものはおもしろい、
ちょう
と断定しておきたい。
SFにSFソウル、センス
・オブ・ワンダーがあり、た
とえロボットやベムが
あばれまわっ
ても、SFと
縁もゆかりも
ない作品があ
るのとおなじ
く、アニメに
もアニメソウ
ルがある。絵
が動けばなん
でもアニメと
はいえないの
だ。アニメ以
外に求められ
ない楽しさが
「カリオスト
ロの城」にあ
る。「ルパン」
ファンでなく
ても、アニメ
が好きなら見
てほしい。な
んならぼくが
観賞料をたて
ては
え
破産するから、各自でお金をだし
なさい。
もう一本、イタリアのアニメ、
「ネオ・ファンタジア」。寡聞に
東京以外では封切っているか
どうか知らないが、ディズニーの
「ファンタジア」のパロディーと
してもおもしろく、実写部分の (7
エリーニが参加したそうな) ドタバタ
もいい が、なんといってもアニ
メとしてすごいのは、ボレロの名
曲にのって、奇怪な生物群が行
進する場面。
アニメ以外のなにものでもない
アニメというのは、文章に書きに
くくて困る。
まして、ぼくみたいにボキャブ
ラリーの不足しているライターは、
ただもう、
だ」
「すごい」
というほかない。
「どうすごいのさ」
「どうって・・・・・・とにかくすごいん
情けないね、この表現の貧しさ。
テレビアニメにくらべて、べつ
に哲学的高踏的というわけではな
い。その証拠に、池袋文芸坐地下
で、ぼくのとなりに座っていた高
校生らしいグループは、しきりに
笑い興じていた。
およそこの世にないものを、一
見ありそうに ―どころか、確固
たるリアリティをもって描き切る
アニメの、あれよあれよという楽
しみを、ぜひぜひ味わってほしい
のです。
アニメがブームとなるにつれ、
さが
人間の哀しい性か、私は○○派だ
の、おれは××以外見向きもしな
いという偏執的偏食的四人組的か
たよったファングループができ、
派閥争いもやりかねないというう
わさを耳にした。
あのねえ、そういうセコいこと
は、おとなにまかせておきましょ
うよ。いまはまだ、ブームを定着
させるため、アニメファンがもて
エネルギーを結集させるべき段
階にすぎんのだ。さもなきゃ、子
どもは管理すべきもの、保護さる
べきものという発想のおとなたち
の手で、あなたたちの愛するアニ
メの世界はズタズタに分断される
だろう。なに、きみは2だから、
もう子どもじゃない、大丈夫だっ
て? とんでもない 権力をふ
るうおとなたちは、自分の年齢以
下の人間を、すべて子どもと解釈
するのだ。そして日本ほど、年よ
りがいつまでもいばっている国は
ない。
アニメが若い文化であり、必然
的に若者の文化なら ねえあな
たたち、がんばってくれたまえよ。
1月末、日本交通公社の主催で
「南九州アニメの旅」が催された。
私めも講師のはしくれとして同行
したが、若い連中のエネルギーに
は圧倒された。トシだよ、おじさ
んは。
東京発、大阪発、あちこちの観
光バスをジプシーのごとく乗りつ
いで、ファンのみなさまのご機嫌
をとりむすんだが、なかでも盛大
であったのはAコース3号車。
乗りあわせた悲運の声優さん、
水島裕、上田みゆき、井上和彦、
三ツ矢雄二氏が、休憩所のひそ
ひそ話でいうことにや、
「恐怖の3号車」
「あれに乗ったら最後だぜ」
「わーっ、おれ、あと2時間も乗
るのォ。死む死む」
というさわぎであった。
だが、そこはプロ。水島くんの
喜活劇的奮戦につづいて、井上く
んの即興人間カラオケと、大いに
盛りあげておいて、ラストはぐっ
泣かせる話でしめ、イキのいい
ファンたちとの交歓は、聞いてる
こっちも楽しかった。いまにもハ
ミだしそうでハミださない、アク
セル・ブレーキをわきまえたブレ
ーキは少々あやしかったが) エネルギ
ッシュなあのときの野郎と美女た
ち(ぼくは男だから男女を差別する)の
名を、ここに書きつらねる約束だ
ったが、手帳を仕事部屋へ置いて
きたので、日大の通称センパイと
か、まだ高一の通称黄金バットな
ど、ニックネームしか書けない。
ゴメンネ。
なんでもあとで恐怖グループが
集まり、ファンジンをだすとか・・・。
うまくいくかどうかは問題外と
してあの旅をきっかけに、ばらば
らだったアニメファンが意見を交
換するというのは、けっこうな話
だ。これをひとつのサンプルとし
て、アニメ好きのみなさん、この
ページを読んでくだすったみなさ
ん、あなたたちへの人生がまだこ
れからであるのと同じく、アニメ
もまだこれからの文化です。可能
性は無限にひろがっていくのです。
どうか、小さな型にはまること
なく、大きな心で、末永く目をか
けてやって下さいまし。
あらら、なんのこたぁない。「ち
ょっとひとこと」第1回の結論と、
そっくりのおしゃべりになっちま
った。
と、まあ、そんなわけです。ご
愛読ありがとう。また、いつかど
こかでお目にかかりましょう。好評連載 「辻真先のちょっとひ とこと」は、今回をもって終わら せていただきます。ご愛読くださ ったファンの方と、辻真先さんに、 深く感謝いたします。(編集部)
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