Kazuo Komatsubara (January)
人生に出会いというものがあるとすれば、この人の場合はまさに、1センチ四 方の鉄腕アトムの絵がそれだった。 な 大げさなものでなくともよかった ・・・何かを求めているときには、 そして眠 っているものを呼び起こすのには、わず か1センチの鉄腕アトムで十分すぎるほ どだったのだ。趣味ていどだったイラスト
昭和18年12月24日、神奈川県の横浜に 生まれる。 絵がひとよりも少し好きだった、ごく 普通の少年として、地元の小学校、中学 校へかよう。そしてそのまま、いまのめ ぐまれた若者たちのように、何の心配も なく高校へ行ければ、あるいはアニメー ター・小松原一男は生まれなかったのか もしれない。 だが家庭の事情がそれをゆるさず、 定時制高校にかよい、昼は神奈川県大船 にある三菱電機の工場で働くようになっ た。 仕事は電気器具などの塗装。スプレー でシューと吹きつける「およそ単純な仕 事」だった。 高校の4年間と、卒業してからさらに 1年と、計5年間勤めた。この単純な作 業に、まだ20歳前後の若者があきてしま ったとしても不思議ではないが、まだ、 自分の将来に対して、漠とした気持ちし か抱いていない者が、すぐに、趣味で描 きつづけていたイラストを仕事に結びつ けられるわけがない。 「まんがは描いていませんでしたね。手 なぐさみ程度のイラストとポスターを描 いていました。 三菱の工場で安全週間な どがあるとポスターを募集するんですが、 それに入賞したことがありましたね」 本人が手なぐさみ程度と謙遜しても、 小学校5年のときに描いたもの(写真参照) からして、相当なレベルなのだから、20歳ごろ描いていたものといえば、おして 知るべきだろう。 アニメに関してい えば「アニメのアの 字も知らなかった」 という。 17、18歳の頃テレ ビでみた〝キリンレ モン" のコマーシャ ルのキリンの動きが おもしろいなあ、と思ったていどだった。
"鉄腕アトム"との出会い
そんなある日、昭和38年のことなのだ が、当時全盛を誇っていた虫プロのアニ メーター募集の記事が新聞にのった。 そ の小さな記事に小さな鉄腕アトムの顔が ついていた。 このアトムの顔を見たときに、天啓の ごとくひらめくものがあったという。 「あっ、これだ!!! と思いましたね。自 分のやろうとしていたのは、これだと思 いました。それが何だかはよくわからな かったけど、とにかく試験を受けてみよ うと思いました。」 現在のようにアニメに関しての情報が 雑誌にのるわけでもなく、ましてや、 の裏側にいる制作者の実像が浮んでくる わけがない。ただヤミクモに自分の描い た絵が動くという感動にとらわれたらし い。 ところが、虫プロとしては、増大して ゆく作品に対して、そく戦力となる描き 手がほしかったわけで、アニメのハウ・ ツーを何も知らない若者には相当不利な ところがあった。4人の募集に対して、 何千人もの応募者があり、アニメーター の試験を3回ほど落ちてしまう。 ここでメゲれば、またまた、アニメー ター小松原一男は生まれないのだが、一 度、これぞ天職と思いこんだ若者は猛進 をはじめた。 数回に渡る直談判をはじめ、彩色、背 景の試験も受けた。だがこれらも結局不 調に終わってしまうが、それでもまだあ きらめず、こんどは、東映動画がアニメ ーター研修のために設立した大田区分室 にもぐりこむ。 この分室はいまはないが、東映動画の 山本善次郎氏が設立し、のちに東映動画 から独立、チルドレンズ・コーナーとい う社名となり『おそ松くん』などの制作 を手がけた。講師には熊川正雄氏などが いた。
エンピツケズリも質屋へ
結局ここに正式に入社したのは、昭和 38年7月13日だったと、日付けまでおぼ えているほどだから、よほど印象に残っ ているのだろう。 「でも、給料が工場にいたときより減り ましてね。その頃から東京に下宿してま したし、たしか一万円ほどもらっていた かな。でも、おしえてもらうんだからゼ イタクはいえませんけどね(笑い)」 当時、食べるものといえば、インスタ ントラーメンばかり。大事なエンピツケ ズリも300円で質屋へ入ることしばしば。 こんな状態がしばらくつづいていたが、 チルドレンズ・コーナー自体が、日米合 作アニメに手を出し、赤字でつぶれてし まう。 つぎにハテナ"という東映動画の外 注先だった会社に移るが、ここも一年た らずでつぶれてしまう。何ともツキがな いが、このハテナ"が現在所属してい OHプロダクション"の母体となる のだから、あながちツキがないとばかり はいえない。 OHプロ設立は昭和45年5月14日。ハ テナ"にいた40人ほどの人間が"プロ" スタジオ・メイツ" "スタジオ・ジュ ニオ"の3つのプロダクションに別れる のだが、この別れ方が、利害を抜きに考 えるこの業界の人たちらしくて、むしろ ほほえましい。 「スタジオ・メ ツはまじめグルー プ、スタジオ・ジ ュニオはマージャ ングループ、そし てプロは酒のみ グループと、それ ぞれ気の合う同志が集まりました」 そのOHプロで足かけ10年。主な仕事 は―― 「タイガーマスク」原画・作画監督 「キックの鬼」原画 デビルマンで初めてキャラデザイン、 以後、ゲッターロボ グレンダイザーな どのロボット物のキャラ設定。 そして現在の『キャプテン・ハーロッ ク』の作画監督とつづく。
役になり切って描く
―絵を描くときに、一番注意すること は? 「そうですね、このハーロックの場合、 描くほうが役になりきるということでし ょうね、俳優のように。ハーロックは静 のアニメですから、ちょっとした目つき、 手のしぐさ、ちょっと首をかたむけると か、ハーロックが単にすわっていても、 ゆったりとした感じがでなければいけな いし、なりきろうとして描かなければい けませんね」 仕事の話になって熱がこもってきた。 「とにかく、一本一本全力投球します。 それが、つぎの作品へのステップになる と思いますから。でも、その場その場で 一生懸命でも、あとでみるとはずかしい ものも多いですね。本当に気に入ったと いうものは、まだありませんね」 いまだに、10数年前の猛進ぶりがうか がえる......。 「ぼくもはじめのころ、旗が風になびい ているのとにらめっこしたり、たき火と にらめっこしたり、人が歩いているよう すをジッとみつめたり、とにかくアニメ は動き方が基本ですから、何でも勉強に なると思いました」 小松原さんのところへもファンがく ると思いますが、いまのアニメーター志 望者に一言。 「う~ん、アニメをやりたいという気持 ちは、ぼくらの頃と変わりはないんです が、ぼくらの頃は、自分で必死に求めな いと得られなかったものが、いまは氾濫 しているでしょう。受け身でも得られち ゃうんですね。だから、なんてエラそう なこという気はないんですが、どれだけ プロ意識がもてるか、どれだけ職人に徹 することができるかにかかっていると思 いますけど・・・・・・」 自分のことは、あえて職人だという。 「そう、職人です。 月岡貞夫、久里洋二 といった人たちは作家といえると思いま すが、ぼくは体質的に職人が合っている。 その中でどれだけできるか、ということ だと思うんですが・・・・・・」 とにかく10年選手でも、きのうきょう 入った人たちでも同じ報酬しか得られな この世界を「よく理解して入ってきてほ 「しい」と、このときは終始ひかえ目に語 っていた語調が強くなった。最後に、ほ んとうにアニメがすきなんだというこの 一点だけは忘れないでほしい、といった 時は、むしろ、初心を忘れないぞと自ら に語りかけているように聞こえた。
Tsuguyuki Kubo (February)
絵かきと経営者の二本立て大鵬と柏戸、輪島と北の湖...のっけから相撲の話で恐縮だが、この取り組みは、いってみれば柔と剛の宿命的対決として楽しませてくれた。われわれ凡人は、才能と努力の対比もこの柔と剛の対決と同質に見ている、というよりも、オ能のないものにとっては「努力に勝るオ能なし」というアフォリズムなどにかすかな希望を見い出しているものだ。だが、こと絵の問題にかぎって聞いてみると、このかすかな希望も打ち砕かれる答えが返ってきた。「絵を描くのは才能です。大原則である絵の消化力なしにこの世界に入ってく人たち、これがいちばん問題ですね。現場サイドからみると、アニメというのはどうしても共同作業ですから、おたがいの力量がそろっていることが望ましいわけです。いったい、どういうものがたがいに潜在しているのか知り合っていないとできません」現場サイドとあえていう裏には「トップクラフト」の取締役という立場ももち合わせているからだ。。「48年から原さん(トップクラフト代表取締役・元東映動画製作部長)と一緒に他ではやってないようなものをということで日米合作ものを手がけるようになりましたが、アニメーターなどの査定もしなければいけない立場なんです。努力はしているが絵がもう一つ、というような人たちとふれあうのがとってもむずかしいですね」でも、最終的には現場サイドから、採算などを無視して、とことん納得のいく方向にもっていくというから、経営者としては問題があるだろう。だが、この二律背反がこの人の人生の特徴になり、つねに前進する力を与えている結果になっているようだ。
少年自衛隊の名残り.....
生まれは昭和17年4月8日、台湾の台北市。戦後に(21年4月)、母方の郷里である鹿児島に引き揚げ、中学卒業までそこで過ごす。父親は役所に勤めており、家庭環境としては「相当かたかった」ということだが、長兄は絵にコリ、次兄は音楽に親しんでいた。窪氏はむしろこの長兄の影響を受け、幼いころから樺島勝一などの絵を模写していた。「ぼくとしてはむしろ長兄や次兄の〝ヤクザ”な環境のほうに親しんでいて、大きくなったら絵で身を立てるんだと何となく思い込んでいました。絵柄ですか?小学校1年のときから毎週日曜にスケッチ大会があり、そこでいわれたことですが、子どものくせに木の葉一枚一枚をことこまかによく描いている、という評価があったのですが、これは小学校3年まで。4年過ぎると、逆に子供らしくないといわれ、絵の成績がおちました」じつに写実的な絵だったらしい。ところが先生に子どもらしくないといわれれば、ふつうの子どもならより子どもらしい絵を描こうとするかもしれないが、こと絵に関して妥協するということは、子どものころからなかったみたいだ。写実的な風景がだめならと、今度はペン画、似顔、挿し絵などを描きはじめる。似顔絵などは、本職の似顔絵かきの後ろに陣どって〝外人さん"の顔などをいっしょに描いたというから、なるほど子どもらしくない。中学卒業が昭和32年、そしてはじめてアニメの世界に入った。タツノコプロ入社が39年。この間、まったく絵の世界とは関係ないところにいた。少年工科学校、俗称、少年自衛隊といわれるところだ。高校も合格していたが、父親の強力な推薦によるものだ。父親が絵で身を立てるのに反対だったからだ。このころ英語をマスターしたのが唯一現在の仕事(日米合作アニメ)に関連しているといえばいえる。いや名残りはまだある。インタビューのあいだ、まったく姿勢をくずさず、話し言葉もですます”調を変えず、一定のトーンで話す。この姿勢にこそ窪氏のキリっとした生きざまがダブって見える。
半年で原画をかく
そして、いよいよ卒業という3ヶ月くらい前にタツノコプロでアニメーターの募集があり、目は一直線に、かつての”ヤクザ”な環境のほうに向いた。もちろん、莫大な国費をかけて養成したエリート自衛官ともいうべき人物が黙って見過されるわけもなく、引きとめ工作がつづいたが、もうすでに窪氏の心ははっきりと絵の世界に移っていた。アニメのアの字も知らず、漫画家の名まえでも知っていたのは手塚治虫氏だけだったという窪氏が、タツノコの記念すべき第一作『宇宙エース』の原画を入社後半年足らずで描きはじめている。才能というものだろう。「でも、その第一日目には、白い紙を一日中ボ~っとながめていただけでしたね。どうしていいかわからなくて」当時、東映動画に16歳で画をかいていた人もいたというから、33歳のスタートは遅いほうだ。「何も知らないコンプレックスがあっていつも誰よりも遅くまで仕事場にいました」しかし、それ以後すばらしい加速でアニメの道を突っ走りはじめる。翌年の3月には『マッハGOGOGO』のオープニングの原画を描いた段階でタツノコを退社。友人たち5~6人と『スタジオ・ビーズ』というプロダクションを作る。そして翌4年、日米合作アニメ『ジョニー・サイファー』を手がける。「英語ができるから、親しみやすいだろうという簡単な理由だったと思います」このジョニー・サイファーは「チルドレンズコーナー』(前号参照)と、全10本の短編を半々で制作した。そして「もうこのときには30万くらいの借金があった」という。こうでもない、ああでもないとひねくって作った結果だという。44年8月に『スタジオ・ビーズ』を閉じるまでに手がけた作品は以下のようになる。『スモーキーザベアー』(東映の日米合作アニメ)『魔法使いサリー』『ゲゲゲの鬼太郎』『サイボーグ』『あかねちゃん』『ひみつのアッコちゃん』『タイガーマスク』そして、4年にトップ・クラフトに移ってからは、ランキン・バス・プロダクションとの日米合作アニメを手がけている。『海底2万マイル』『トム・ソーヤの冒険』『ホビットの冒険』『町一番のけちんぼう』など10本以上ある。おしむらくは「町一番のけちんぼう」以外、日本では放映されていない。
意識の問題がカベになる
日本のテレビのものと、合作ものを両方手がけているが、どこが一番ちがうのか--「要求されているものがちがうと思う。作る側の姿勢は変わらないけど。テレビものは、スケジュール優先、合作はクオリティー(質)が優先、簡単にいうとですけど」米国のアニメ技術とくらべると「技術的にはおとるとは思わない。しかし、資本・機動力の問題でむずかしい。たとえば、スーパーマンをつくるときに、むこうでは、ボディビルの人をつれてきて、まずライブアクションを撮る。時間と金の問題ですね。これがないと、いつまでもいまの合作の形態を抜けきれない。日本で作ったものが、外国作品と堂々と互して世界の市場に出るようにならない」現在、合作を手がけていても、決して現状に満足しない真摯な姿勢は、小さいころからちっとも変わっていない......。「いいものをつくるには、いろんな勉強が必要だと思うが、いまの人は安易に生活できるようになって、人に負けてたまるか何をやるにも真剣勝負という感じがうすい。アニメは子どもに何かしらの影響を与えるのに、責任を感じている人は少ないでしょうね。資本があり、技術があっても、こういう意識の問題がカベになるかもしれません」圧倒されるほど、強烈な眼差しだ。「死ぬまで絵を描くことはまちがいないと思います。ただ、妥協やあきらめが出たらこわい。緊迫感を失なわずにやっていきたい」むろん、だれからも強制されたわけではない。みずからがみずからに課している姿勢である。「絵はシリアスなものが基本だから、そういう作品は描きやすい。デフォルメするのがむずかしいんです。いま、ギャグらしいギャグがないのは本当に描きこなせる人が少ないんでしょうね。日本のテレビでは「悟空の大冒険』くらいでしょうね。いまは言葉が先になっている。ダジャレやエゲツナイ言葉がギャグと思われている」あくまで真剣勝負である。この人の人生にデフォルメはないのだろうか。「いや、酒はすきでよく飲みにいきます。酒の場っていいですね。10年選手でも、きのうきょう入った人でも対等に考えていることをぶつけあえますからね。結局、ものをつくる人間は24時間、それに没頭しなければいけないんでしょうね」なるほど、酒の場までこうでは、当分いい経営者などにはなれそうもない......。
Yoshiyuki Hane (March)
"勉強”自己能力開発〟〝予算主義〟〝純技術的”などなど、こういったことばは、およそ学生時代ならいざ知らず、世俗にまみれて何年もたつ当方は、何となくなかなか口にできないようになっている。青くさいというのではなく、そういった会話に縁がうすくなっているという意味でだ。昭和15年生まれというから、羽根氏はもう40歳にちかいが、話のハシバシにこういった言葉がでてくる。いまだに文学青年ならぬ画学生のふんい気を持っているのは、もはや奇跡にちかいような感じさえうける。ただ、誤解のないようにいっておけば、そういうものをただ後生大事にかかえてきたというわけではない。昭和33年、東映動画にアニメーターとして入社して以数々の長編アニメ、テレビアニメを手がけてきた人である。現実に十分もまれてきた人である。だからこそ、その言葉にはおのずと20年ちかくにもおよぶ実体験の重みがあるわけだ。絵かき意識を裏切らない
自宅の仕事場には、油絵がところせましと置いてある。こちらは絵のことはさっぱりわからないが、個展でも開けそうな枚数である。いや、べつに売ろうとか、発表しようというのではありません。絵かき意識を裏切らないために描いているんです。油絵でもアニメでも、基本的な勉強は同じですよね。そう、デッサンカです。クロッキーやスケッチなどで養うんです。目的がどうあれ、絵の勉強をしていくことは、アニメーターとしての自分にかかわってくるてれる分絵目と思っています」アニメーターとしてのかかわりは『わんぱく王子の大蛇退治』(S・3年)から。それ以前は、絵とはまったく関係のない仕事をしていた。「中学のころから絵で身を立てようと思っていたけど、若いうちから油絵で食える人などいませんから、当然、何か職業につかなければいけませんよね。で高校のときから公務員の資格をとっておいたんです」だから、愛知県立新城高校卒業後、東京芸大油絵科の受験に失敗しても、さほどの失意もなく、公務員の資格を生かし、愛知県庁や東京の人事院に勤めるようになったわけだ。それならなぜ、2年半ほどたったころ、東映動画・アニメーター募集の新聞記事を見て心を動かされたのか?「何をやっていても同じとはいえ、やはり同じ絵”の仕事で身を立てられるかはしょうえつ章悦ットアニメを手がけ、ても、つねに基本を見一点をみつめている。と思っています」アニメーターとしてのかかわりは『わんぱく王子の大蛇退治』(S・3年)から。それ以前は、絵とはまったく関係のない仕事をしていた。「中学のころから絵で身を立てようと思っていたけど、若いうちから油絵で食える人などいませんから、当然、何か職業につかなければいけませんよね。で高校のときから公務員の資格をとっておいたんです」だから、愛知県立新城高校卒業後、東京芸大油絵科の受験に失敗しても、さほどの失意もなく、公務員の資格を生かし、愛知県庁や東京の人事院に勤めるようになったわけだ。それならなぜ、22年半ほどたったころ、東映動画・アニメーター募集の新聞記事を見て心を動かされたのか?「何をやっていても同じとはいえ、やはり同じ絵”の仕事で身を立てられるかいうことは?「なくはないと思います。そういうファ『海のトリトン』(コロムビアレコードについたポスター)。右上は決定以前のキャラ設定。アルプスの少女キャラクなったわけだ。それならなぜ、22年半ほどたったころ、東映動画・アニメーター募集の新聞記事を見て心を動かされたのか?「何をやっていても同じとはいえ、やは同じ絵〟の仕事で身を立てられるか勁文社の絵本用にいたキャラ設定より。もしれないというのは魅力だったんです。入社してみてわかったんですけど、アニメをやりたいという人は〝映画が好き”絵が好き”“マンガが好き”と、当時はこの3つに分けられたようです。でも"絵が好き"というのは矛盾してましてね、絵本でも表現できるわけでしょう。アニメはやはり映画ですからね」じゃあなぜ入ったのか、といわれると本当に困るという。志は遠く一点にあっても、まだ20歳前後、血気にはやるといえば大ゲサだが、いろいろなものに興味を持っても当然だし、まして「絵にはわりあい自信があった」といえば、アニメの世界で一流になろうという気持ちが起っても不思議はない。
自由な学園からフリーに
「わんわん忠臣蔵』『狼少年ケン』などをへて「少年忍者風のフジ丸」の原画を拡大再生産されていくだけで向上にはつながりません」もしれないというのは魅力だったんです。入社してみてわかったんですけど、アニメをやりたいという人は〝映画が好き"絵が好き""マンガが好き”と、当時はこの3つに分けられたようです。でも"絵が好き"というのは矛盾してましてね、絵本でも表現できるわけでしょう。アニメはやはり映画ですからね」じゃあなぜ入ったのか、といわれると本当に困るという。志は遠く一点にあっても、まだ20歳前血気にはやるといえば大ゲサだが、いろいろなものに興味を持っても当然だし、まして「絵にはわりあい自信があった」といえば、アニメの世界で一流になろうという気持ちが起っても不思議はない。自由な学園からフリーに『わんわん忠臣蔵』『狼少年ケン』などをへて「少年忍者風のフジ丸』の原画を描いたあと、社員をやめ、契約者となる。昭和40年のことだ。このあと、44年には完全にフリーになってしまうわけだが、この間の事情はほとんど語りたがらない。「悪口になってもいけないから......。まあ、ふんい気が悪くなったんですね」これではよくわからないが、あるファン雑誌のアンケートに答えた文がある。「……のびのびと自由で学園のようなふんい気があった。反面、仕事のシステムが確立して、分業制が進むなかで、自己能力開発、顕示がどのように可能か悩んだ......」以下、邪推ではあるが、こういうことだろう。当時、すでに劇場用長編の時代から、テレビアニメ全盛期へとつき進んでいた。そこに関わるアニメーターは、第一に能率主義―月に何枚かけるのか、といっ尺度でしかはかられない。だったら、月給制の社員より、能率主義の契約者のほうがスッキリするし、その後、もっといろいろなアニメをやるためには、フリーになったほうがいいという判断があったのだろう。フリーになってからの主な作品には以下のようなものがある。『アタック11』『哀しみのベラドンナ』『海のトリトン』『マジンガーZ』『フランダースの犬』『アルプスの少女ハイジ』『ロッキーチャック』『母をたずねて三千里』『ペリーヌ物語』『ホビット』『日本絵巻』などの原画(作監をふくむ)を描いている。
質の高さとは何か
ロボットもの、名作ものなどさまざまなジャンルのものをこなしている。「満足できるものですか、いや、ありません。もっと仕事として割り切っています。プロですから、何でもこなさなければいけないし、こなす自信もあります」もっと質が高くなければ満足できないということか?「どういうのが質がいいというのかよくわかりませんけど、さきほどもいったように、ぼくは絵が好きでこの世界に入ってきた。だから、絵として純技術的な側面から追求するわけですけど、そういった意味ではディズニーの『ファンタジア』が最高峰に位置する作品ですね。ぼくにできるできないはべつにして、もしアニメにそういう道があるなら、追求してみたいですね。ただ・・・・・・」ただ現在のアニメ制作状況では、いったいそういうことを夢みる可能性すらないのではないだろうか······という嘆きが聞こえてくる。現在だけではなく、はたして未来永劫ないのではないかという...現在のファンの熱狂が現状をかえるということは?「なくはないと思います。そういうファンの中から本当にアニメを考えたり、仕事にしたりする人は当然出てくると思う。......だけど、どうなんでしょう、本当に実体がわかってるんでしょうか、華やかな側面にまどわされているようにも見えますけど」この熱狂が一過性だったら、むしろ悪影響だろうともいう。そして、やはりごの部分の話になってしまうのだが......。「いくらマーケットが拡大しても、作品的なはねかえりはみられません。誤解しないでほしいが、観客のニーズにこたえるのが悪いといっているわけではありません。娯楽なんだから......」だから、善でも悪でもなく、こうあらねばならないということもないという。「もうテレビというメディアにとって、テレビアニメは必要不可欠なものになっていますよね、長期安定路線に入ってい「ます」だからといって、現状にあまんじてはいない。「中くらいの水準の作品を大量生産するのがいまの現状ですよね。だから、以前は原画やるまでに3年はかかったものが、いまだったら3カ月くらいでなることも可能でしょう。これでは年忍者拡大再生産されていくだけで向上にはつながりません」それなら、羽根さんのように、長編を経験したものがいなくなると問題ですかね?「いや、技術はたしかに受けつぐものですけど、自ら開発していくものでもあると思うんです。だいいち、はじめたころは、だれも経験者がいなかったわけでしよう」まったくその通りではあると思うが、つねに初心に返れるのは、資質の問題もあろうが、相当、おのれにきびしくなければできないことだ。名作『海のトリトン』、テレビアニメにロボット物ブームをつくりあげた『マジンガーZ」など、アッサリとすてさるには重い存在だと思うが・・・・・・。「いまはまだ、振り返る気持ちはないんです」この言葉のむこうにアニメの将来が見える・・・・・・とCMふうにいったら、羽根氏におこられるかな......。
Kenzo Koizumi (April)
16歳で東映動画に「ねえ、そう思いませんか......」と、まったくアニメと関係ない江川問題"のはなしからはじまった。声は太く、中学時代に柔道、相撲できたえた体は、じつにガッシリしている。「投手としてどのくらいの力量があるか知らないけど、人間、二十歳すぎたら、なんでも自分で決めなきゃ。背後に政治家だのなんだのいておかしいですよ」はたもっともだと思うが、なぜこうまで力をこめていうのか、このあとご本人の経歴を聞いて、なるほどとうならされた。なんと、16歳のときには、もう東映動画で働いていたというのだ。それも、高校を自らの意志で中退し、受験生000人に対し、合格者8人という難関を突破してのことだ。よほど自信があったということか......。「いや、そうじゃないんです。無鉄砲なだけですよ。なにしろアニメといえばディズニーの長編をみていただけで、ハウツーもよくわからない。ただ、絵は好きだったけど、マンガ家になる気も、画家になる気もなかったんです」まだテレビアニメがはじまる以前に、まっすぐアニメーターをめざした人はわりあいめずらしい。ただ、まっすぐめざしてもすぐに本人の希望どおりはこばないのが世の常。「彩色―トレス仕上げ検査―絵の具撮影と、ありとあらゆる課をまわりました(笑)」絵の具っていうと?「ええ、絵の具をまぜたり、買いに走ったり…」「でもね、その2年間、本当にいい経験をしたと思っているんです。望んだってこうはいかない(笑)」
6年がかりの“ヤマト建造"
そして、はじめての動画が東映動画長編『シンドバッドの冒険』だった。「いやあ、うれしいというより心配でした。本当に描けるかなと思って・・・・・・」だが、それほど苦労し、愛着もあった東映動画を昭和38年にはあっさりと退社してしまう。理由はかんたん――「いつまでたっても上がつかえていて、原画ができないんですよね」それに昭和38年ともなると、テレビアニメの需要が多くなってきていた。ゼロせん。Pプロの『0戦はやと』の原画を望みどおり描き、返す刀で"ハテナプロ”という独立プロ(永樹凡人社長)を東映にいた4人のなかまで作る。その独立プロにあって、「アトム、W3、宇宙パトロール・ホッパー、風のフジ丸など、当時テレビで放映していたのはすべてやったような気がします」もちろん原画である。ホッパーでは、はじめて作画監督もつとめた。そして現在、自らが社長をしている、スタジオ・メイツ"を昭和45年につくっている。東映動画入社以来10年目。アタック11""赤胴鈴之助"〝ルパン三世〟〝荒野の少年イサム""天才バカボン"などを手がけた。と、このように書くと、何か忘れてやしませんか、とファンにおこられそうだが、忘れているわけではない、いや忘れようもありませんあの『宇宙戦艦ヤマト』を…………。最初のテレビシリーズ(2本)のうち5本を作監。映画『さらば」でも担当作監、現在のテレビシリーズでは総作監。書けばたったの3行だが、最初のテレビシリーズが4年だから、もう足かけ6年もヤマト”を建造"してきたことになる。
宇宙の爆発まで気をつかった・・・・・・
「ちょうどその頃”マジンガーZ""グレートマジンガー"グレンダイザー"とたてつづけに仕事をしてましてね。ぼくはもともとメカ好きなんです。ただロボットを武器として使うのに抵抗があり、どうしても不自然な感じがしてしようがなかったんです。シリアスなメカものがやりたかったんです。そんなときに巨大戦艦ものだっていう話があったんで、うれしかったですよ」「ゲストキャラは古代の父親くらいですね、作ったのは。でもね、動きは自由に、というより実験的にやれたんです。宇宙の爆発って知っていますか(自分のことはきゅうくつそうに語っていたのに、仕事のことになると、口がとまらない)本当は、パッと散るんです。でもね、これをそのままやったんじゃ、手を抜いているようにしか見えない。逆にスローにした。地上の爆発とちがいがでなくちゃいけません」「直径数百キロの浮遊大陸”がでてきまして、これがコナゴナに宇宙に散るシーンがあったんですが、大きさを出すためうんと時間をかけ、一度くずれたのがまたくずれ、それがさらにくずれ落ちるような感じでやってみた」「アステロイド・リングという宇宙に浮いている岩がリング状にくっつくものがあったんですが、この岩にしても、同じ型の岩じゃ変化がつかない。かといって、まったく型のちがうものを自然につなげるのはむずかしかったなあ・・・」6年も前のことを昨日の出来事のように語ってくれた。映画では、ヤマト発進、戦闘機と戦闘機の戦いのシーン、土方艦長のやられた3シーンを描いている。
さしえを動かしたい
7年前、動物をつかった交通道徳の絵本を描いた。好評だった。その後、教育雑誌、絵本を中心として注文がつづいている。「アニメーターの最大の弱点は何だと思いますか?それは色なんです。人によっちゃ、10年も絵筆にぎってないという人もいます。それと、他人の絵ばかり描いていると、自分の絵を描いてみたい欲求もおこるし、第一自分の絵を忘れちゃうんです。そういった意味で絵本などの仕事もつづけているんです」文の一番いいたいところを絵にしていくのはアニメーターとして、とてもいい勉強になるという。その人が、びっくりするようなことをいった。「セルを使わないアニメってやってみたいんです。画洋紙に描いてウスズミを使った人間をそのまま動かすような、ね」ただ、いまの合成技術だと、背景と合成したところがでてしまい、まだむずかしいという話。ようするに、これができるとさし絵を動かせるようになるらしい。「この技術をつかって、神話などをやってみたいんです。淡い色のものを......」これは、若いころ撮影までした苦労が生きているということ。だからといって、若い人にも苦労しろなどとはいわないところが、また苦労人。「ここ4~5年ビックリするような新人が出現していませんね。これは、つでを知らずにあたらいい才能をうもれさす場合もあるだろうし、門がせまいため、たたけばのびる人でもあきらめてしまったりしているんじゃないですかね。アニメが、例えば京都=織り物のように、東京の地場産業になっているところに問題がある。日本中で新人発掘できれば・・・・・・」昭和18年5月8日生。趣味は将棋とプラモ作り。
Michiaki Watanabe (May)
東大文学部卒業これらのなどが、ピアノを置いてあ12畳ほどの部室にところせましと並んでいる。どこか、音楽学校のピアノ科を出られたのですね?と、ピアノを見てあてずっぽうをいったのだが、もののみごとに裏切られた。以下、にこやかに、その人柄をあらわすような、やさしげな口調で語られた経歴は、読者のきみたちも興味を持つにちがいない。「ぼくの家は戦前、名古屋で鉄工場をやってましてね。経済的には問題なかったけど、音楽的環境はまったくなかったんです(笑)」―それでは、ピアノはいつごろから?「これが、ふつうよりもおそくて、中学3年のときからなんです。それ以前はハーモニカがすきで、けっこう自分でもいろんなメロディをハーモニカで作ったりの)していたんです。そのころから作曲家になりたかった。でも、友人がハーモニカしかできない作曲家なんて聞いたことないというものですから(笑)ピアノをならいだしたんです」で、それから、音楽学校に?「いや、じつは、これはイメージがあまりにかけはなれているんで、あまり言ったことはないんですが......」なんと、東大文学部心理学科を卒業したというのだ。本来なら、学校の先生だ。大学時代は、いまや大御所的存在の諸井三郎、團伊玖磨といった先生に個人的について作曲の勉強をしていた。。
映画音楽からアニメへ
で、第一作が、CBC(中部日本放送)への売り込みが成功し、ラジオドラマ(SFアクション物・アトムボーイ)のBGMの仕事。うしみつどき「自分としては、映画音楽がやりたくて、そのころ、毎日2〜3本は見てましたね」半年後、思い切って上京。念願の映画音楽を手がけたのはさらに半年後である。『人形佐七捕物帖・大江戸の満刻』(中川信夫監督、主演・若山富三郎・昭和3年度作品)が最初の作品。以下、おもなものは――『東海道四谷怪談』『忍びの者」『にっぽんのお婆ちゃん』そして、日活、大映、東映作品にまで手をひろげ『キカイダー』『マジンガーZ』ではじめて子供物をつくったときには、東映京都作品(高倉健、鶴田浩二主演のものなど)を手がけていた。『あのイントロが戦う男の心のカットウといつ死ぬかもしれない立場みたいなものをうまくあらわし······うまくいえないけど、出撃前の甲児くんの気持ちそのものって気がする…(渡辺宙明FC会誌、マジンガーZ・Zのテーマについて、より)「そうですね、Zのテーマが好きという人は多いですね。本来、オープニングに使う予定だったんですけど、おとなしすぎると挿入歌へまわったんですが、曲としては、私としても成功しているものだと思います」ロボット物、アクション物をつくるときの注意点は?「巨大ロボット物だと、まず、パンチのあるものですね。戦闘シーンも多いですから。でも、ただパンチ一本じゃいけない。それに、ジメつかない程度に情感を加える」―そういう場合、どういう技法をつかうわけですか?(といったとたん、しまったことをきいてしまったと後悔したのだ。以下、少々むずかしくなるけど、ふんいきだけでも味わっていただきたい)
不協和音の使い方に自信
「私の場合、アクション物でもマイナーを使います。その場合、26抜きなどといいますが、2度と6度を抜いた音階をつかう。ぜんぜんつかわないというわけではなく、おもに2と6を抜いたものを使うわけです・・・・・・」「そうすると、マイナーでありながら、カラッとした感じに仕上るわけです。ピンクレディーの歌(ペッパー警部、カメレオンアーミー)などがそうです」「逆に、4度7度抜き短音階だとどうなると思いますか?私の場合は一曲もありませんが、古賀政男さんの”影を慕いて"酒は涙か溜息か”などがそうですが、情感優先となる」「ドミナント・モーションというのがあるんですが、これは5度から1度へいく動きで、5度進行といいますが、このドミナント的動きが軽くなってきて、規格外の動きが多く見られるようになってきましたね。和音の動きが自由になった。たとえば、Cマイナーの曲があったとして、1フレーズの終わりにEフラットの音を意図的に出し、いかにもEフラットメジャーへ転調したかのように見せ、またすぐにCマイナーへもどるといったような動きですね。べつにむずかしいわけじゃないんです。ただ、こういうものが全盛となると、以前の動きが古くさく「感じる」はあ、なるほど・・・・・・で、不協和音はつかいますか?「主題歌などではつかわないようにしています。ハイブラウな感じになってしまう。ただ、BGMに関してはよく使いますね。その使い方は、自信があります」
見る者の想像の世界をひろげる 昭和42~43年ごろ、アメリカのバークリー音楽学校(唯一のジャズの学校)の留学から帰ったミュージシャンのナベサダ(渡辺貞夫)が、アメリカでの成果を日本のミュージシャンにも教えていた時期があった。ジャズの手法を体系化し、さらにハバのひろい奥ゆきのあるものにしようというものだ。渡辺宙明氏はその時期、ナベサダ氏にジャズ理論を学んだ。「いまでも、そのとき学んだジャズ理論を応用しています。いま、お話しの不協和音を効果的に使うなどもそうです」―どのように?「そうですね、たとえば、緊張感を必要とする場面があったとします。その長さにもよりますが、簡単なコードのものだとすぐあきがくる。ところが、ある種の不協和音を使うと、それをリピートしているだけで緊張感が持続するんです」夜明けの場面はどういうBGMに?「そう、バイオリンの高いところを持続音にして中にホルンを使う」―対決のシーンなら?「打楽器を有効につかう。ティンパニー、スネオドラム、他トロンボーンなどをつかいますね。ただ、いまいったのは、あくまでも常套手段で、もっと新しさを出していかなければいけないし、きざむりズムも考えなければいけません」「私が映画音楽やっていたころは、スタッフの人たちも、まあ音楽があればいいという感じでしたから」だから、アニメをやるようになってファンの反応が敏感なのがうれしいという。「アニメは動きがかぎられているでしょう。だから、見るものは想像の世界を自分でひろげていく。BGMなどその手だすけですが、実写物よりだいたんにぶつけられるのがうれしいですね」趣味はオーディオとゴルフ。年は?「ぼくは万年青年のつもり。年は忘れました」
Mukuo Takamura (June)
映画『銀鉄』は白のイメージ東京・荻窪駅ちかくのマンションの一室、そこが自分の名まえをつけたムクオ・スタジオ。昭和4年に作り、もう足かけ13年になる。総員11名。いまは映画の銀河鉄道9美術設定、背景制作などで戦争状態なのだが、もっとも絵を描いてるのだから、思ったより静かだ。映画『銀河鉄道』は『キャプテン・ハーロック』の演出・りんたろう、作画・小松原一男、美術・椋尾篁の3氏がそのままスライドして、制作していることはファンの人ならとっくにご存じ。――そうすると、全体のトーンは"ハーロック"のような感じに?「ぼくは、こんどの作品は、白を生かした世界にしたいんです。もちろん、美術設定の範囲で。ハーロックは黒でしたよね。ところが、白をつきつめていくと、結局、黒につきあたる。白を生かすには黒を生かさなければならない。色というのは、やはりハーモニーなんです」銀鉄"用に描く美術設定は約50枚、背景は東映動画のスタッフが描くものをふくめて1500枚にもおよぶ。その1500枚にもおよぶ背景と、たとえば、ハーロックの洋服の色とかアルカディア号の色などのバランスをとっていく、大変な仕事をしているわけだ。室内には、3日がかりで描いたというたたみ半分ほどの美術設定もあった。「ふつうでも、一日一枚上がらない場合も多く、結局、根気との競争ですよ......」「ハーロックは・・・・・シャープな感じだったでしょう······そういうふんい気は残るとしても・・・・・ファンタジックSF・・・・・・銀河鉄道はそういうふうにしなけりゃ......と思っています」と実際に話すスピードは・・・・・・がいくつも入り、やわらかいように聞こえるけど、シンの強い人なんだな、と思わせるエピソードがいくつもある。
下宿先で出会った人
椋尾氏の父親は長崎県佐世保で窯をもっていて、焼き物に日本画を描いていた。絵的環境は十分。佐賀・有田工業高校デザイン科を卒業。その後、大阪の凸版印刷に2年間勤める。原画修正やあたりをとったりしていた。2年後に「つまらなかったので・・・」やめてしまう。そして上京。武蔵野美術学校(いまの武蔵野美術大学)油絵科に入る。「当時は、10人うければ9人は入りましたよ」住まいは都下・国立のアパート。そして、このアパートに住んだことが不思議な奇縁となり、アニメの世界に入っていくことになる。ころが、そんなにまでして入った虫プロを一年ちょっとでやめてしまう。「べつに、いやになったからやめたわけではないんです。やはり、自分の絵を描こうという気持ちが強くて......」ここから先、自分のスタジオをつくるまでは実にめまぐるしく仕事先が変わる。虫プロ=1年ちょっと東京ムービ=1年(このときは、あとからやってきた半藤氏とともにやめる)半藤プロ=1年独立プロのファンタジア=2年。なぜ、このように転々としたのかは、多くを語らないが、なにげなくもらした言葉がある。「気持ちが落ちつかなくて.....」つまり、簡単にいえば、まだアニメの道で食おうと決心できない心の動揺、油絵を捨て切れない心の動揺が、そのような行動にあらわれていたということができる。
美術で一人前になるには・・・・・・
「この道で食おうと決心したのは、25歳のとき。子供ができて・・・・・・そう、ちょうどムクオ・スタジオを作ったころです」そして、ここが椋尾氏らしい。「このとき、描きためていた油絵など、ぜんぶ焼きすてました。なぜって未練が残るといけませんから......」と同時に、アニメの美術のよさに気づいたのもこのころだという。「自分でつくりあげていかなければいけないと思うようになったんです。アニメにおいて、情感とか季節感は美術がつくっていくものだと。もちろん、作画との連係プレーがあるわけですが、最近の作品傾向からすると、作画と半々の比重くらいになってきましたね」とくにそう思うようになったのは、ハーロックの場合だそうだが、それ以前にも、グランプリの鷹などでも、主人公が思いつめたり、人が死んでいくところなどで、美術の立場を強く意識したという。――ところで、美術志望者がムクオスタジオに来た場合「まあ、デッサンが少しできる人じゃないと困りますが、まず、何か得意の分野をつくらせますね。自然とか小ものとか。やがていろいろな分野に手をひろげ、さらに他の人がやらない分野まで勉強していく。そうなれば一人前ですね」いまは、映画『銀河鉄道』の仕事で、一日は東映動画に泊まり、次の日はスタジオ泊まり、自宅に帰るのは3日に一度。生まれたばかりの3人目の子供の顔も、ほとんど見ていないという。こんないそがしい最中でも、椋尾氏は「いそがしい」という言葉はいわない。それは椋尾氏のダンディズムだろう。まだくわしくお知らせできないのが残念だが、ある名作ものの美術も20枚ほど描きためている。それもすばらしい出来え「映画が終ったら本格的にかかります」つねに前を向いて歩く40歳の青春・・・いいなあ。昭和13年1月1日生まれ。趣味は囲碁。■主な作品は鉄腕アトム、W3、ビッグX、紅三四郎、母をたずねて三千里、アタック11、グランプリの鷹、キャプテン・ハーロックなど。
Toshiki Toriumi (November)
こちらが圧倒されるような特犬の声の持ち主である。なにしろ、多いときには総勢20人ちかい声優さんを相手に動きまわり、シッタし、セリフの打ち合わせをし、何人いようとも、スタジオのふんい気をひとつにまとめあげていかなくてはいけないオーディオ・ディレクター=録音監督である。役者との“対決”
完全にアニメの裏方さんである。"アニメーターになりたい”声優になりたい”というアニメファンの声は聞いても、録音監督になりたいという声は聞かない。それだけ、その立場が知られていないし、理解されてもいない。『いなかっぺ大将』『星の子チョビン』『風船少女・テンプルちゃん」「ザ・ウルトラマン』にギャグアニメシリーズの『タイムボカン」『ヤッターマン』『ゼンダマン』などの人気番組の録音監督をはじめて10年。―その前は?「『新人会』『劇場行動反』などの劇団で芝居の演出をしていました」――なぜこの世界に?「ようするに、芝居で大赤字を出し食えなくなって......こんな話、みみっちくって人にはできませんよ(笑)」この人がいうと、ちっともみみっちく聞こえない。カラッとした性格だ。「でもね、芝居もアニメの演出も”手づくり”という点では同じ。人物に息吹きを与えるのが仕事ですからね」洋画のアテレコも監督するが「7~8割ぐらい創造分野が限定されてしまう」のが不満だという。短くするというのが大きな仕事で、つじつまを合わせる面白さはあるものの、こうやりたい、といってもそうはいかない。そこへいくと、アニメの場合は役者さんとの対決”でつくりあげていく楽しみがあるという。あえて“対決”というところに、この人の情熱と気迫が感じられる。この情熱が多くの有望新人を育てている。新人が入ってくると、まずこういう。「引き出しがいっぱいある役者になれ」これは劇団の演出をしているころからだ。ようするに、いろいろな表現をもっていない役者をつかうと絵を殺しちゃうのだそうだ。「死んだようなセリフをいった場合、オン・エアーでハジかくのはきみだぞ。3回のテストでハジかけ」こうして育った新人たちが、滝沢久美子、神谷明、丸山裕子、島本須美など、いま、人気、実力ともAクラスの声優たちである。この人たちに共通するのは、まったくアテレコ経験のない、劇団の役者さんだったことだ。どうやって見つけてくるのだろう?「ちょっとヒマをみては芝居を見にいくんです。新人公演でもなんでも。そう、年に50本は最低見ます。そうして、ちょっとでも印象に残った役者を手帳に控えておくんです。カワイイでもいい、素直そうとか、演技力があるとか何でもいい。キラッと一部分でも光っていれば」こうして、だいたい4~500人の役者が頭の中に入っているという。そして、この頭のファイルから何かのときに引き出す。
強引な役者へのアプローチ 「いなかっぺ大将』で引き出されたのが、当時まだテアトル・エコーの研究生だっ神谷明。研究生同士の芝居を見て、印象に残ったのだそうだ。その初吹込みのとき「おそらく、本人よりハラハラ、ドキドキしたんじゃないでしょうか」と、いま思い出してもドキドキという表情。滝沢久美子の場合。彼女『グループ8』という劇団にいた。「わが街」という芝居が印象に残り、それから半年後「テンプルちゃん」の話があったとき、彼女の起用を思い立った。話を聞いた事務所の方があわてた。「彼女はできませんよ・・・」――でも鳥海氏の熱意でオーディションを受け、テンプルちゃんに決った。番組が終ってから彼女は「決ったときは顔面蒼白になった」と打ち明けた。テアトル・エコーにいた丸山裕子の場合。『いなかっぺ大将』大ちゃんの役を30人の中から最後まで野沢雅子とセリ合ったが落ちてしまう。それで、まだ名もなかった、鼻が上をむいている女学生役についた。――ところが、ところがである。このキャラに人気が出て、名前(とんまるきトンコ)もつき、いやがる大ちゃんを追いかけるという準主役にまでなった。「一言しかセリフがなくても、くらいついてくる彼女の熱意ですね。ストーリーにまで影響をあたえる役になったというのは、いまだに忘れられませんね」鳥海氏の目の確かさというものだろう。
音作りはセンスとねばり
もちろん、役者さんのセリフを録るのが最大の仕事にはちがいないが、これだけだと思うのはマチガイ。まず、その録ったセリフだが――「どんな人でも6コマおくれるんです。わかりますか?つまり画面を見てか声を出すのに最低そのくらいかかるということです」6コマというと14秒。これがうまい人で3コマくらい。中には6コマ以上の人もいるから、ようするに録った声は一緒に録っているようだけど、テンテンバラバラということ。これを再編集するのが「セリフ合わせ」というもの。つぎに音作り。これまた大変。たとえば、星がかがやく“キーン"と。いう音ひとつとっても、センスとねばりがなければできない。いろいろなサンプルからひとつの音をとり出す。さらに、「これにフィードバックかけようとか、もっとカタイ音にしよう」とか複雑な機械での調整もしなければいけない。いなかっぺ大将が板カベにぶつかる音。「相手が板だからといって、バーンという音ではつまらない」――どうするか?カラナベをたたいて音を作り、それを機械処理する。「クワ~ン」という妙な音ができるが、これが演出上じつに効果がある。「音ひとつでもギャグになる」という好見本。
体が動かなきゃ声はでない
ついでに聞いてみた。――もし、私が声優になりたいと思ったら、どうすればいいか?「う~ん。やはり、どこかの養成所か研究所で基本を学んできていただかないと」ガクッ。近道はないということ?「そう。声だけ出せれば声優になれると思っている人が多いがマチガイ。体が動かなきゃ声は出ないものなんです。足の先手の先から声が出るという感じにならなきゃ」...スタジオのお仲間にはなれないということ。いままでの作品で一番印象深いのは。「どれもぼくなりに情熱をかたむけたつもりだから印象に残っているけど、いなかっぺ大将はとくに愛着を感じる。青森の山奥から都会にでてきてガンバるぼくも山形の鳥海山のふもとで生まれ育ったから、大左衛門の気持ちがよくわか東北出身と聞いて、何となく得心がいった。「たったひとつの音をさがして、2晩徹夜したこともある」というネバリと情熱は、都会人のものではない。昭和22年7月20日生まれ。4歳。
Tatsumasa Shimizu (December)
カラー放送に挑戦いまから20年以上前、もちろん、ファンのみんなが生まれる以前のことだが、新聞のテレビ欄には、ところどころ”色”とか“カラー”とかの印がついていた。いまでは考えられないが、当時、それほどカラー放送が少なく、カラー受像機もほとんどない時代だった。ちなみに、アメリカでもカラー放送が25%くらいしかなかった。そういう時代に、フルカラーアニメの意欲作『ジャングル大帝』(虫プロ)の撮影をしていたのが清水さん。白黒テレビがほとんどというときのカラー放送で、まず何に気をつけなければならないかというと両立性”である。つまり、カラーで見て色がよく、白黒で見た場合でも、うまくコントラストがついていなくてはならない。「それこそ、毎晩、フジテレビで色の研究をしていましたね。いろいろやってみて赤、黒、茶などは比較的よく出る。だけど黄と緑が出ない。結局黄は一段濃く出し、緑は黄緑にするなどのくふうをしましてね」いつしかそれがあたりまえになっても、先駆者にはいつの時代でも苦労がある。だが、その暗中模索の結果、アニメでははじめて日本映画テレフィルム技術賞"をうける。「なぜ、そんなにいい色がでるんだって現像所の人にいわれたときは、本当にうれしかったですよ」これが白黒になった場合のことだが、結局、こまかいハイライト部分はひろいきれないとわかり、92%の白から2%の黒までの6段階にわけ、あらゆる色の濃淡を、その白黒の“グレイ・チャート"にあてはめるという方式をとり、これは、いまでもアニメカラー用の基準になっているのだそうだ。(ちなみに、これはカナダで開発されたテレデキシコンシステムという方式だそうだが、日本のアニメ界でこの方式を実践したのは清水さんが最初)
いきなり10台の撮影機を買う!!
昭和30年、東映動画に撮影として入社。「入社したころは撮影機は3台」いまは7台だから隔世の感がある。隔世の感なのはそれだけではない。アニメ自体の地位が低く、昼メシどき、東映の近辺の食堂は“映画”の関係者ばかり。「彼らが終わったあと、ワ~っとすごいイキオイで食事をすますので”アパッチ軍団”なんていわれていましたよ(笑)」さらに、そのアニメ関係者のなかでも「ゴミみたいな存在」が撮影だったという。東映動画で『白蛇伝』『安寿と厨子王丸』などの長編を手がけたあと、あの『鉄腕アトム』の撮影として手塚治虫氏に虫プロへ呼ばれる。虫プロへいっておどろいた。「なにしろ撮影機というと、それまで手塚さんがつかっていた、レントゲン撮影機を改造したものと、もう1台、使いものにならないものしかなかった」それを、いきなり3台買い、その後もふやしつづけ、結局、10台にしてしまった。しかし、いかに清水さんが口説いてもエアリアル・イメージ==空間像合成機は虫プロでは設備できない。『バンパイヤ』で水谷豊が狼に変身していくシーンは、どうしても合成機じゃないとできない。ではどうしたかというと、当時、日本大学に1台だけ研究用のものがあり、なんとか話をつけて、学生たちにまじり、ちょっと空いた時間を利用したりして、結局このシーンをつくってしまうという”撮影の鬼”ぶりだった。
透過光は20年以上前からある
先日、ファンの手紙の中に、テレビのアニメを見てたら、何かキラキラ輝いていたけど、あれは何ですか、というのがあったけど、いまどき透過光を知らないと遅れちゃうぞ。「ああ、透過光ですか。あれは『白蛇伝』のときからやっている技術で、ほら入道がもっている玉が輝くところ、あれなどそうですよ」ただ、20年以上も前からあるけど、その使い方、技術などは大幅に進歩しているとのこと。透過光のほか、アニメでつかわれているおもな技術を古い順にひろってみると―エアリアル・イメージ、スターウォーズで有名になったシュノーケルカメラ、スキャニメート、スーパーマンでも使われているスリット・スキャン――などがあるそうです。(この説明を記者に書かせるというのはコクな話です......)「まあ、いろいろ出てくるけど、それははやりのものですね。スリット・スキャンにしても、うちの会社でそのテストフィルムをつくってほうぼうにくばりましたけど、来年までもてばいいほうじゃないですか」ではつぎに何がくるかというと「レーザー光線ですね。その使い方はむずかしいけど」こうした技術革新があるのはいいけど、という前置きで「でもね、撮影だけでアニメをよくしようなんて、とてもできませんよ。ようするにアニメは総合技術でしょう。でも、たとえ技術があったとしてもイマジネーションがプアーだ。生活水準まで出ちゃうんです。劇中、何かお祝いごとがあるといまだに赤飯とトンカツがでてきたりね。色でも、日本ではだいたい60色くらいだけど、ディズニーでは12000色くらいつかっていましたからね。当然、色彩表現がとぼしくなるわけです」べつに怒っているわけではない。アニメが好きでしょうがない、という人のことばだ。
徹夜すれば1日1本できるが….....
現在、清水さんの「東京アニメーションフィルム」には2名のオペレーターが働いている。――それだけ人数いれば、清水さんは現場に出なくても......「とんでもない。やってますよ。それほどよゆうはない(笑)」現場にはスタンドが5台、これがフル稼動すると、1台につき1日で2分ぶんくらいできるから、5台で10分。徹夜でもすれば、テレビ用1本できる...。「本来、テレビ物の場合、1週間の撮影期間があるはずなんだけど、オセオセで1本3日半くらいですかね。もっとも、まに合わせるだけだったら1日でもできる。だけどね、ようするに撮影というのは、単純でこまかい仕事なんです。べつにむずかしくはない。だからこそ〝ていねいに撮る”という基本に、より忠実でなきゃならないんですよ」ついでに、ファンの人がテレビの画面をキレイにとるにはどうしたらいいか。「テレビはC光源(青い色)なんです。だからデイライト用(昼間用)のフィルムを使うこと。それとテレビは1秒に30コマですから1/30以上のシャッタースピードだとうつらないこともある。1/15秒以下で撮ること。白黒ならF2ASA100、最秒といったところでしょう」―セルがおくられてきて、何か困るというようなことはありますか?「四方固めのタップがくることがある。これは機械の構造上、撮影ができないんです。何とかしますけどね・・・・・・」日本大学の合成機の話もそうだが、この何とかしちゃうという、ファンの目には見えないところでの苦労で、日本のアニメはささえられている・・・・。昭和9年5月13日生まれ。現在『ドラえもん』(シンエイ動画)の撮影中---。
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