Saturday, November 12, 2022

"16 Years of.." (1979, Animage)

16 Years of TV Anime on Fuji TV (February)

〈インタビュアー前白〉『アニメージュ』の読者は、中高生を中心にしたティーンが圧倒的に多い。が、ちょっと待ってくれ。きみたちばかりがテレビアニメで育ったすべてではない。「鉄腕アトム」が放送されたのは昭和38年1月1日。この日からテレビアニメに心ひかれた子どもたちや青年たちが、着実にふえながら育っていったんだ。そして「鉄腕アトム」から16年ことしはなんと、1時間アニメ「野球狂の詩」まで登場して、いまや大人の時間帯でアニメが互角の闘いをしている。こんなふうに、テレビアニメが発展できたのは、熱心な視聴者であるきみたちの熱意はもちろんだけど、もっと多くの人たちの長いあいだにわたる応えんがあったからだ。インタビュアーのボクも、そんなアニメフアンの1人に数えてもらいたいと思っている昭和30年生まれ。いわせてもらえば、初期のころのアニメへの思い入れは、きみたちにも絶対、ヒケはとらないつもりだ。もっとも、ここらへんで力が入るのは、アニメファンとしてはトシなんだろうなあ。それはともかく、アニメ草創期のアレコレを聞きだそうということで、かの名プロデューサー・別所孝治氏アタック・インタビューした。

Kôji Bessho Interview

虫プロ・アトムのころ

AM. フジTVは「鉄腕アトム」でテレビアニメのパイオニアになったわけですが、別所さんのプロデューサー初仕事はどの作品からなんですか?

Kôji Bessho. その「アトム」からなんですよ(笑)。私がフジTV開局の翌年、35年に入社してから2、3年後のことだったでしょうかね。じつをいうと、入局当時はやはり、報道関係かドラマのほうの仕事をやりたかったんです。ですから、アニメというのは知ってはいましたが、とくに好きということではありませんでした。もっとも、外国ものの「ポパイ」や「ヘッケルとジャッケル」といったものはおもしろく見ていましたけど・・・・・・。それが突然、ある日「アトムをやれ」ということで、朝早くから、当時、練馬にあった虫プロへ出かけていくわけですが、途中で農家の牛を見たり、そのころはまだ木造だった虫プロを訪問するのは、正直いってつらかったですよ。なんだか、話がちがうじゃないかという気がしてね(笑)。ところが、2~3か月もすると、こんどはアニメーターたちの自由奔放なバイタリティにひかれだしたんです。私も若かったし、プ口の人たちも10代、20代と若かったせいもあるのでしょう。とにかく、ギラギラした活気があるんです。何日も試写室に寝泊まりしてパッとしない連中がすばらしい作品をつくるということそれが、とても大きなショックだったんですね。

AM. そのころの作品の質、レベルとしてはどうだったんでしょう。

Bessho. 「アトム」の場合、それまでの映画アニメとはちがって、動きを制約したリミテッド・アニメという手法をつかい、ストーリーを優先させていました。それが、自分のもっていた「ドラマで表現を」という意図と、ぴったり合い「何かできるな」という気になりましたね。それと、手塚作品は少年時代に読んでいて関心があったし、これから作るアニメが当時、テレビ局がめざしていたドラマとまったく差異がないということがわかり、うれしかったですね。それに、そのころの虫プロの若いふんい気や能力主義も好きだったし、局サイドで参加しているのを忘れて、みんなとなかまみたいに思っていましたね。

AM. そのころの虫プロというと、若くて有能たくさん集まって、いろいろおもしろかったと思うんですが、別所さんが特に記憶しているようなエピソードはありますか。

Bessho. 才能のある人が集まっていましたが、あらゆる機会をみて、技術的に上手な人が下手な人に絵を教えていましたね。便所に落書きがあるんだけど、それが添削してあったのをおぼえていますよ(笑)。そうこうしているうちに、私も絵のタッチを見て、それが誰の絵かわかるようになりました。当時は、みん勉強熱心で、とにかく、いい絵を描くということに一生懸命でしたね。アニメーターは、本来は自分の絵で表現したいのだけど、アニメ製作の際に実際問題として、ストレートにそれをだせない、それでも忙しい中で、自分の絵にはげんでいました。それと私の見たかぎりでは、アニメーターという人種は議論をしない人たちだというのが印象的でしたね。動と静にわけると、静の人間ではないかという感じがいつもありました。

AM. 「アトム」製作でお会いした手塚さんの印象はどうでしたか?

Bessho. 最初、虫プロに行って2時間ほどお会いしたんですが、とにかくコワイ大”という感じでしたね。で、それがいまだにつづいていて“コワイ”ですね(笑)。

草創期が過ぎて本格的アニメ時代へ

AM. 草創期から5年くらいのあいだに作られ作品に関してどう感じられていますか?

Bessho. 「アトム」はSFアニメとしても一大エポックだったし、竜の子プロ第一作の「宇宙エース」は製作過程の苦労もあって、放送されたとき、吉田竜夫さんが泣かれたのを思いだしますね。「戦ハヤト」は、動きがギクシヤクして、あまりデキはよくなかったです。「新宝島」は、アニメで芸術祭をねらった作品。「ハリスの旋風」は、はじめのころ、PTAで批判されたりしたけど、当時としては型やぶりの作品ということで、成功したと思っています。「鬼太郎」はいまでも妖怪まんがの頂点だし、音楽が非常によかったですね。「マッハGOGOGO」は現在の青春ドラマに先立つものだけど、技術的には5年早すぎたと思っていまます。

AM. のちに、多くのアニメが製作されていろいろな路線が確立されますが、作品同士のつながりを、どう考えていらっしゃいますか?

Bessho.「ハリスの旋風」は、日本の土壌で展開したギャグものという性格と、もうひとつ、のちの根性ものへとつながる伏線という性格をもっていますね。「アニマルー」や「巨人の星」ですね。「鬼太郎」は、のちの「バンパイヤ」や「妖怪人間ベム」へつながっていますね。4年の「いなかっぺ大将」は、私の好きな作品で、これはひとつの人情ギャグの集大成だと思っています。それと「ムーミン」がやはり、世界名作もののはしりとして、のちの「ロッキーチャック」や「母をたずねて三千里」につながっています。それと、その後、新たなアニメ世代がテレビを見るようになってからは「ガッチャマン」に代表されるリアルなアクションものや「マジンガーZ」に代表されるロボットものがあげられると思います。それと新しいところでは、根性ものでないスポーツドラマも生まれました。「ドカベン」がそれですね。

プロデューサーとしての4つの発見

AM. テレビアニメの草創期と、その後で迎える本格アニメ時代のお話をうかがってきましたが、別所さんが16年間、アニメのプロデューサーをなさってきて、アニメ作りはこれだというような発見はありましたか?

Bessho. 私の場合は4つありましたね。ひとつは、子どもというものは、最初から強いヒーローが好きだということ。大人は、力道山の空手チョップのように、耐えに耐えたあとそれがでてはじめて、威力と魅力があるのだけど、子どもの場合は、その耐えることができませんからね。もうひとつは、子どもたちは“浪花節”が好きだということですね。やっぱり、子どもでも日本人だなあと思うんです。主人公が黙って他人を助ける話なんかが本能的に好きですからね。それと「みなし子ハッチ」なんかを例にあげると、簡単に子どもは悲しい話に涙を流すけれど、話自体がメロドラマになってしまうとダメということが多いですね。子どもはメロドラマに、基本的に拒絶反応を示すんですよね。だから「ペリーヌ物語」の場合も、できるだけ、メロ的要素は最小限に押さえています。で、最後のひとつは、子どもの好みというものはけっして、自主的なものではないということですね。クラスの友だちのおしゃべリに加わる必要性から、見ているようなところがあると思うんです。

AM. では、最後に、現在の中・高生のアニメファンについては、どう思われますか?

Bessho. もう、ぜったいに無視できない存在になってきましたね。だから、私がアニメをプロデュースする場合も、最初から2種類つくることを心がけはじめたんです。つまり、低年層のアニメ新入生向けと、高年齢層用とすなわち、一時間アニメ「野球狂の詩」なんてまさしく年齢層が上だし「銀河鉄道999」 もそうですよね。今後、ますます、その比重は大きくなっていくと思いますね。 なにはともあれ、アニメージュの読者のみなさん、期待して下さい!!!

Comment by Aritsune Toyota

ぼくと辻真先の2人が、虫プロ初のプロのシナリオライターとして採用されたのだけど、それは2年目を迎えた「アトム」のアイデアをオリジナルで考えようということからでした。「アトム」を1年間放送して、手塚原作のアイデアを使いきり、当時でいえば、SFの申し子みたいなぼくに誘いがあったわけです。「アトム」に出てくる手塚さんの"SFごこ”を理解して、トリッキーなアイデアを考えだすということで、そういったアイデアやストーリーをたてるという荒けずりなところが、ぼくの肌にあっていたんだと思いますよ。当時はメカやキャラクター設定の専任なんかおらず、演出がやっていたので、奇抜なアイデアを出すと「おまえが描け」みたいなこともいわれたりしました。それでプロダクション内で、広くキャラクターデザインの公募をしたこともありましたね。

Comment by Taku Mayumura

TBSの「スーパー・ジェッター」にシナリオ作家として参加していましたが、すでにキャラクターの基本認定はできていて、作品のストーリーのプロットを考えだすのが仕事でした。当時、ぼくは大阪に住んでいたので、手紙を使って東京と連絡をとりあい、プロットを2つ3つ考えだすと、それを送りまして、採用されるとシナリオにとりかかるというふうでした。ですから原則としては、基本アイデアはシナリオ作家が自分で考えだすということです。私は7本のシナリオを書きましたが、シナリオ作家はおのおの自分だけで書いているつもりになってしまって、回数を重ねるにしたがって、アイデアがダブったりして、メンドウが多くなったように思います。流星号"が光速に近づくと発光するのは、私のオリジナルアイデアだと記憶しています。

Comment by Ryō Hanmura

「8マン」にシナリオ作家として参加して2、3本書きましたが、原作の平井和正をはじめ、SFのなかまたちがたのしんでテレビアニメを書いているので、広告代理店の仕事のかたわら、忙しい思いをしながらも、たのしくシナリオを書きましたね。自分のアイデアとしては、光線吸収ガスなんてのを使いましたよ。

Comment by Kimio Yanagisawa

子どものころは新潟に住んでいまして、朝、再放送される「8マン」を見てから学校に行ったように記憶しています。朝8時にはじまるので、見終わるとあわてて家を出るような感じでしたね。「鉄腕アトム」の第1回を見たことをおぼえてるんだけど、外国まんがにくらべると動きが少ない。いったい、どうしてだろうと思ったのが印象でしたね。けれども、おもしろく見ていました。そのあとで高校生になると、学校のクラブで忙しくて、テレビを見ているひまはまるでなくなっちゃった。東京に出てきてまんが家になると、今度はテレビが買えなくてアニメーションは見れませんでした。そんなわけで見る機会がなく、本数はたくさん見てませんが、水木しげるの「ゲゲゲの鬼太郎」はすきでしたね。鬼太郎は貸本まんが時代からの大ファンでしたから。

16 Years of TV Anime on TV Asahi (March)

Panel:

Shinichi Miyazaki
Yoshifumi Hatano
Yugo Serikawa
Daikichirō Kusube
Sadao Tsukioka


1. 夏の盛り、氷をぶっかきながら作った「狼少年ケン」

Shinichi Miyazaki. きょうは一応、私が司会役ということで話のカジ取りをさせていただきます。よろしくお願いします。 月岡さん、久しぶりですが、ちっとも変わらんね。「狼少年ケン」以来だけど、ちっとも変わっていない(笑)。

Sadao Tsukioka. 16年ぶりですよね。ちょっとふとったでしょう。

Miyazaki. あのころはいそがしくて、ホホがこけて死にそうな顔してたけど(笑)。ヒゲぼうぼうで、ゲッソリしちゃっていたよ。徹夜も多かったしね。ところで、テレビ朝日のアニメ処女作といえば「狼少年ケン」ということで昭和38年11月25日からスタートしたわけだよね。われわれは東映動画と非常に密接な関係があって、東映動画の伝統と実力に全面的におんぶしてきた。「白蛇伝」「少年猿飛佐助」「安寿と厨子王丸」「シンドバッドの冒険」そして「わんぱく王子」とヒットした東映動画の伝統をふまえてスタートを切ったわけです。まず草創期の話からはじめましょうか。

Yoshifumi Hatano. なにしろ16年前ですから、記憶も薄れかけてるんですが、とにかく手塚治虫さんの「鉄腕アトム」が出て「鉄人28号」が続き、それから「エイトマン」が出た。そのころ東映動画はいま宮崎さんがいわれた一連の長編アニメをやってきて、さてここらでなにか新しいことをやらなきゃいかんということになったわけです。そこで、当時のNET (現・テレビ朝日)からアメリカとの合作をやらないかという話があったのをきっかけに、じゃあ思い切ってテレビアニメをやろうかということになりましてね。

Daikichirō Kusube. 「狼少年ケン」になったいきさつはどうだったっけ?

Hatano. あのときはちょうど「わんわん忠臣蔵」が東映動画の劇場用作品で封切られる時だったんです。そこへ会社からテレビの話があって、しかも動物ものがいいんじゃないかという。その要員に、月岡さんの名まえが一番にあったわけですよね。

Tsukioka. 話があったとき、ぼくは「シートン動物記」をやりたいと思ったんだけど、これには著作権がある。で、いろいろ考えているうちに...。

Hatano. むかし、学生のころ習った民族学の話で「カマラとアマラ」というインドの話を思いだしたんです。女の子が狼に育てられて10数年後に人間社会に戻ったっていう民話でね。じゃあ、それでいこうということになった。

Tsukioka. あのころのこと、思いだしたくないなあ(笑)。

Miyazaki. 思いだしてもゾッとするね。

Yugo Serikawa. もう殺されるんじゃないかと思ったけど、やっぱりぼくなんかも「少年」が一番なつかしいね。ぜんぶ自分でシナリオ書いて、自分でやってましたから。いま思うとかなり荒らっぽかったけど、やっぱり自分の思うものが表現できたという印象がありますね。

Kusube. あの元・会議室 (東映動画の)だったところでやってたのは何話ぐらいまでだったっけ。

Tsukioka. ずいぶんやってましたよ。 ワンクール以上やったんじゃないかな。

Hatano. 暑かったねえ、あそこ。 クーラ-がなくてさ(笑)。しょうがないからでっかい氷を買って来て、ぶっかいてね(笑)。

Tsukioka. あの部屋でいま「Gメン75」をやってるんですよね(笑)。けど、当時、1週間に2回は完徹だったな、おれなんか。

Miyazaki. ほんと、よく徹夜したね。ヒゲはやして目をショボショボさせて...。

Tsukioka. あのころは若いからそれができた。でも、ぼくは倒れたことがあるんですよ。あとにも先にもあれ1回きりだけど、下宿まで会社の車が迎えに来てね。すっかり有名になっちゃった(笑)。十二指腸潰瘍でね、東映撮影所の食堂でおかゆつくって持ってくるから会社へ来いっていうわけ(笑)。

Miyazaki. それほどあなたはかけがえがなかったんだよ。 しかし、ある意味では奴隷労働だったよね(笑)。しかし、それだけ死ぬ思いの苦労を重ねただけあって、あの作品はケン、チッチ、ポッポ、ブラック、片目のジヤック、 まぬけのクマ、トラのキラーと、どれもとにかくぜんぶ人気キャラクターになったでしょう。それだけ魅力があったと思うんですよね。あれ以後、あれに匹敵するキャラクターというのは出ていませんよ、少なくともわが社では。

Tsukioka. オリジナル"では出ていないというだけじゃないですか。

Miyazaki. その秘密は、まあ月岡が天才だったといえばそれですんじゃうけどね(笑)。天才月岡としては、どうしてあのキャラクターが人気者になったと?

Tsukioka. 「バックスバニー」がおもしろかったでしょう。あれですよ、ほとんど。「バックスバニー」のゲームなんです。いろんなキャラクターが出てきて、やっつけたりやられたり、ヒントはあれだったような気がします。

Serikawa. やられ役のクマとかトラが売れっ子になっちゃったのも、めずらしい例ですよね。クマなんか毎回なにかいいながら崖から落っこっていくんだよね。「また落っこちるのイヤー!」とかいいながらね。

Miyazaki. しかし、はじめて動画に行ったときの印象は、月岡さんや楠部さんがヒゲはやして、まなじり吊り上げて仕事やりょうざんぱくってたから、梁山泊みたいだった(笑)。 Tsukioka. あのころの動画の連中っていうのは、みんなワイルドな男ばっかりでしたからね。

2. 1人で原動画をぜんぶ描いたこともあった「フジ丸」

Miyazaki. 「ケン」が大変好評で22・6%の視聴率をあげたりしたもんですから、第2作目を作ろうじゃないかということになりまして、当時1時間もののドラマのほうで忍者ものがブームだったので「少年忍者風のフジ丸」という線が浮かんできた。東映動画では「少年猿飛佐助」を作った経験もありましたからね。

Hatano. 原作の白土三平さんは当時、教祖的な人気を博していたんです。まあテレビアニメとしては、ちょっとブラウン管に乗りにくい点もあったけれどもね。

Miyazaki. そうなんです。そのへんのところで、ある意味ではなかば白土三平原作半ばオリジナルという形で「フジ丸」がスタートしたわけです。

Kusube. あのときは、ほんとは「サスケ」をやりたかったんですよね。それが局サイドの事情でできなくなって、白土カラーをなんとか残したかったけれど結局、あまり残せなかった。

Miyazaki. どちらかといえば、楠部カラーといったほうがいいような形になってきたわけです。「影丸」が「フジ丸」に変わった理由はごく簡単な話で、 スポンサーがフジサワ薬品だったんです。(笑)。ウチとしても名まえが名まえだけに少し悩んだんですがね(笑)。

Serikawa. だから、あのときのスポンサーがフジサワ薬品だっていうことだけはいまでもみんなおぼえていますね。

Miyazaki. というのも「狼少年ケン」が好評だったせいもあって、セールスにかかる前にスポンサーがついたという事情があったんですよね。すでにその時点で、なにがなんでも 「フジ丸」にという要望があったわけです。

Tsukioka. テレビ・アニメの創世紀にはスポンサーがつかなくて、あきワクというのがずいぶんあったしね。それで、全ワク買い切りスポンサーの発言力というのは当時はたいへんなものだった。いまはほとんどがあいのり (共同提供)だからさほどではないけど。

Hatano. それにしても、第1作から第2作へ移っていったあのころ、アニメになれないから、 どうやって作ったらいいかと、あれこれ苦労の連続でしたよね。失敗談も山ほどある。 Kusube. いまではもうなんでもない手法が、あのころはぜんぶはじめてだったもの。「フジ丸」を作るときも3コマ撮りがまずはじめての経験だった。1秒24コマのところを3コマ連続撮影で8コマですますことができるなんてね。たとえば「フジ丸」で木の葉がバアーッと舞うシーン。いまなら3枚か4枚でまわしちゃうのに、当時は何10枚という絵を描いていたんです。 で、 それだけ苦労しても効果は非常に薄い。これを3枚で束にしてまわして繰り返しにすればいいんじゃないかって気がつくまでに 「フジ丸」がはじまってから3か月ぐらいかかっちゃった。 Hatano. 3コマ撮りなんて邪道の邪道といわれていたからね。

Miyazaki. 「アトム」ではすでに使っていた手法なんだけど・・・。

Kusube. でも「アトム」を作ったのは東映動画から出て行った人たちだったから、東映は東映というプライドがあった。

Miyazaki. その意味では本家意識がある。あれ以上のものを作らなきゃならないという使命感ですね。なにしろ、日本の動画の本家本元がテレビに初進出だという意識がね。 Serikawa. しかし、3コマ撮りのはじめのうちは、からだが止まっていて口だけが別セルでパクパク動くっていうのが気になって気になって・・・。ほんとにこれていけるのかと・・・。 いまじゃあたりまえになってるけど。

Miyazaki. なんとかしてるって感じだね。しかし、あの当時は作画がまに合わなくなって、楠部さんなんか1人で原動画やったことありますね。

Kusube. ぼくは「フジ丸」の後半は、人で原動画月1本書いたことありますよ。

Miyazaki. スーパーマンだね(笑)。

Kusube. 「フジ丸」をはじめるときは、ちゃんと原画を描けるのは1人だけだったんですよね。あとは東映動画で2か月の養成を終えたなにも知らない連中が20人ぐらいいましたかね。いま思うとほんとに冷やあせがでる(笑)。

Hatano. 話がわりとリアルっぽい話だからいっそう苦労したんですよね。ぼくは直接の担当じゃないんだけど、たとえばハーモニー方式”というのをやったでしょう。

Kusube. そうそう。背景はあまり輪郭をはっきりさせないように描いといて、鉛筆の線で描いた原画みたいな感じのやつをセルで、ゼロックスでとるわけです。それを背景の上に乗っけるわけだ。こうすると、絵と背景が違和感なく共存できる。ディズニーの作品ではだいぶやっていましたね。

Serikawa. 「1匹ワンちゃん大行進」とかね。

Kusube. それから 「フジ丸」 じゃ、 一番最初に人を斬る場面があって、テレビコードのことで苦労もした。 血を飛ばしちゃいけないとか、斬るところを見せちゃいけないという制約があってね。はじめての制約で頭を悩ましたっけ。

3. いろんなジャンルにはなやかに展開したその後の作品群

Kusube.「フジ丸」の第1話はカラーでつくったのですよ。

Serikawa. カラーでつくりましたね。356ミリカラーでね。

Miyazaki. あれはどうして? モノクロで放送されるのわかっていたのに。 輸出ねらいだったのかな。

Hatano. いや、劇場でかけようという魂胆だったんじゃないかな。それにしても、創世紀はいろい。

Serikawa. ろとあったっけ。「狼少年」のときに、いまだに忘れられないんだけど、 真夜中に背景が1枚どうしても見つからないんですよ。当時はいまみたいにきちんと整理していなかった。テーブルの上に山のように背景が積んであってね。そしたら、進行さんが1人いないんです。「あんちくしょう、どこ行ったァ!またサボって寝てやがんな」なんていいながら、しばらくしたら「あったァ!!」っていう声がしたんですよ。そしたら、背景の山の中からムクムクムクと背景を持った手だけ出てきたんです(笑)。もぐって懐中電燈で捜していたんですね。

Miyazaki. そういう文字どおり手さぐりの創世紀から1年、現在の「ハーロック」(4作目)までつづいてきた。で、ふりかえると、テレビ朝日のひとつの特徴としては、よくいえば非常にバラエティに富んでいる。悪くいえば、なんでもやってきたということだと思いますね。象徴的なのは、第1作が動物ものでスタートして、第2作が忍者もの、第3作が宇宙もの「宇宙パトロールホッパ」で、第4作が「ハッスルパンチ」です。これは動物ものといっても「狼少年」とはまたちょっと違った形の動物ものなんです。

Tsukioka. 「狼少年」よりもっと動物を擬人化した動物ものですね。ディズニー寄りというか、ハンナ・バーバラ寄りっていうか、そういう動物もの。

Miyazaki. その意味で、すでに第4作で4つのジャンルをやっているわけですね。このあと「レインボー戦隊ロビン」という、いわばスーパーヒーローのSFものがあって、つぎが「海賊王子」という海洋アクションもの。これもやっぱり新しいジャンルです。そのつぎが「魔法使いサリー」という少女ものです。これなんかいまでも7~18%の視聴率をかせいでいますね。

Serikawa. なつかしい作品ですね。

Miyazaki. 「サリー」は女の子を主役にしたアニメーションとしては、日本ではじめてだと思います。あのころドラマで「奥様は魔女」というのをやっていまして、調査の結果、驚いたことに子どもの視聴者が一番多かったわけです。これはひょっとしたら、アニメで魔女の出したらいけるかもしれないというのでスタートした。これも、わりあい作家のみなさんに自由につくっていただいて、しかもシリーズにピタッとはまったという作品だと思います。

Hatano. 芹川さんは「サリー」やりまし。

Serikawa. やりましたよ。 20話からあとです。あのころのやつは、たいてい1本はぼくの脚本でやってるんじゃないか。

Miyazaki. そのつぎが「花のピュンピュン丸」という、これもまた非常にユニークな作品です。つぎが「サイボーグ009」。これはことしまた、わが社で復活しますが、ある意味では石森章太郎の代表作でもあり、あるいは東映動画、あるいはテレビ朝日の代表作ともいえる作品だと思うんです。

Serikawa. これは劇場用は旗野さんかな?

Hatano. 両方ともそうなんです。 あの作品はみなさんの支持が多いんだけど、当時は視聴率上がらなかったですね。

Miyazaki. いや、あれは100年早すぎたんですよ。あるいは5年、早すぎた(笑)。

Hatano. なるほど(笑)。

Miyazaki. でも、視聴率は1%ぐらいだったし、悪くはないですよ、けっして。

Kusube. 当時はとにかく20%いかないと文句いわれたからね。

Miyazaki. サイボーグ」は非常に新しさがあったんですね。それで、ちょっとついて来にくいところがあったのかもしれない。テーマがね。

Hatano. それと、やっぱりターゲットが少し上だったのかもしれないですね。こんど10年ぶりに衣を新たにして出てくるわけですが、当時小学校1年生だった人がいま高校1年ぐらいですね。そういう初期のファンを吸収できると同時に、新しいファンもつかめるわけですね。

Miyazaki. 「ひみつのアッコちゃん」は「サリー」の路線としてヒットした作品です。それから「もーれつア太郎」。ニャロメで大あたりしましたね。このあと、わが社としてははじめてのスポーツ根性もの「アパッチ野球軍」を入れるわけですが、このへんでアニメのラインアップみたいなものはひととおりぜんぶやりつくしたという感じになってるんじゃないかと思います。そのつぎに「カリメロ」がありますが、これはちょうど「ア太郎」と対照的な作品でしたね。ほめられてほめられててれくさくなるほどほめられた作品です。視聴率はさほどじゃなかったけど、内容的には評判がよかった。

Hatano. 永井豪作品は「デビルマン」が最初だね。彼がいちばん油ののりきっていた時期じゃないかな。

Miyazaki. まだ「ハレンチ学園」を連載していたころで「デビルマン」は非常におもしろくてヒットもしました。反面、非常に世の中の非難を浴びた作品でもあります(笑)。

4. テレビ朝日のアニメにはひとつのカラーがあった!!

Miyazaki. ここらでしめくくりとしてテレビ朝日、つまり東映動画の作品が多いんだけど、そのテレビアニメのカラーはなんだろうかという話にしましょう「カリメロ」のあとで、うちである種の新しさを出して成功した作品というのは「一休さん」なんです。これも東映動画なんですよ。「一休さん」も非常に笑いがあって、浪花節があって人情ドラマであるという、いわば典型的な東映ムードじゃないですかね。「狼少年ケン」からはじまって「一休さん」「キャンディ・キャンディ」にいたるヒット作品の基本的なキャラクターは、やっぱり東映動画が「白蛇伝」以後、持っていた笑いと涙と友情、人情といったものなんですね。

Serikawa. そうですね。その下地みたいなものがやしなわれていたということはあるかもしれませんけど、それが芽になって出てきたのは、やっぱりテレビがいちばん強く出てきたんじゃないですか。

Miyazaki. そういうのがテレビ朝日では基本線になってるわけですね。これはじつをいうと東映動画の基本線と同じなんです。

Tsukioka. やっぱり、東映動画の伝統みたいなものがひとつありますね。伝統というのは、おもに技術的なものを中心にして築かれているだろうと思うんですけど、作品の方向というのは、そのつど担当する人によって、かなり個性というものが入ってきているんじゃないでしょうか。

Miyazaki. 第1作の「ケン」と第2作の「フジ丸」というのは、月岡さんと楠部さんの歴然たる個性の違いがありますね。にもかかわらず、さっきいったような点に共通性があるということでしょうかね。

Tsukioka. あとひとつは、宮崎さんプラス、テレビ朝日の立案によるオリジナルということがあるでしょう。

Miyazaki. これも、ある意味でいえば、東映動画の伝統といっていいと思いますけど、われわれサイドからいえば、 オリジナルでもいけるんだという安心感があるんですね。これは東映動画サイドからいえばオリジナルでいいものをつくってみせるぞという自信にもなっているんじゃないかと思うんですが、そのへんはどうですか。

Tsukioka. それは相互作用でしょうね。ほかの局はそれができるかというと、やっぱりいちばん信頼に足りるところといえば東映しかない。それで、東映動画とテレビ朝日が、わりあいにおたがいのカラーを出しあって2人3脚でやってきたということはあるでしょうね。ほかの局は、どっちかといえばマンガの本に頼っているところが多いんじゃないですか。

Miyazaki. 特に初期のころはぜんぶオリジナルですもんね。

Tsukioka. あれはたいしたもんですよ。 テレビは“文化”をつくらないというけど、あれはやっぱり文化をつくっているんだよね。

Kusube. ぼくなんかは東映を出て、東京ムービーと組んで「巨人の星」からずっとやってきたわけだけど、その後何人も優秀な人たちが東映から来てくれてますから、やっぱり東映動画の伝統をそのまま引き継いだ形で、東京ムービーの作品は「天才バカボン」までやってきたわけですよ。あそこでいちおう段落がついたところで、東京ムービーをはなれたわけですが、そのときに育った連中が「キャンディキャンディ」とか「一休さん」へ流れたわけだから、技術的な伝統というのは、東映の伝統がひとつまわって流れていると思うんですよね。

Tsukioka. それは虫プロも同じじゃないですか。技術的伝統はほとんど同じといっていいけれども、やはりテレビ朝日東映動画の信頼関係ですね。オリジナルができるんだという。そのへんの違いでしょうね。だから、企画者であ宮崎さんみたいな人の違いですよ。

Hatano. それと、東映動画はやっぱり映画の伝統ですよね。マンガから入っていないんですよ。手塚さんの場合はどうしてもマンガから入っちゃうでしょう。まあTCJは別格だけど、竜の子プロもマンガから入っちゃうんですよね。ところが、東映動画はやっぱり映画から入っちゃうのね。特に劇映画から入っちゃう習性みたいのがあるんじゃないかな。

Kusube. それは大きな違いでしょうね。東映出身の演出家は、やっぱり基盤を映画においていますからね。虫プロ関係の人とのいちばん大きな違いだね。

Serikawa. 虫プロ系で育ってきた演出の人と話しますと、東映動画のそういうドラマ的な基盤を非常に高く買ってくれるんですね。ところが、こちらサイドからみると、やっぱり絵のイメージのとらえ方みたいなものを逆に勉強しなきゃいかんなと思う面があるんですよね。そういうところから出てきたんじゃないかと思うけど・・・。ただ、そういう面に、いままでテレビ朝日系でやってきたうちの作品というのはマッチしてたということがいえるんじゃないですか。そのいちばん顕著な例が「魔法使いサリー」「魔法のマコちゃん」あのへんですね。

Miyazaki. テレビ朝日のアニメ16年といえば、とても2時間や3時間では語りつくせないけど、これまでの話で大筋はつかめるんじゃないでしょうか。きょうはみなさん、おいそがしいところをありがとうございました。

16 Years of TV Anime on TBS and NTV (April)

SPECIALインタビュー「つわものどもの夢がいまも、胸の奥深くあつく燃えつづける思い出の、この1作

創りだすことはなんであれ、それは戦いだ。 1つの作品が生まれるとき、それにたずさわった将兵たちの夢はなんだったのだろう。今回はTBS、NTVの名プロデューサー各2名の方々に思い出の1作を取り上げてもらい、その奮闘のエピソードを語っていただいた。

Panel:

Kenyuu Fujī
Kinya Shimizu
Masashi Tadakuma
Toshimichi Miwa

オン・エアーまでは徹夜の連続だった

AM. TBSアニメ作品の草創期のものをいくつもプロデュースなさっていらっしゃいますが、第1作は「エイトマン』ですか?

Toshimichi Miwa. ええ。突然、アニメをやってくれといわれまして、その第1作が『エイトマン』でした。いまではアニメも人気が出て雑誌も出ていますが、当時は資料といっても少なくて、知識もまったくなしというところから出発しました。当時、アニメといえば手塚治虫さんでしょう。あの方にも会っていろいろ教えていただき、スタッフも、のちに『珍豪ムチャ兵衛』を手がけたプロデューサーの河島くんがCMアニメの経験があったので、口説いてなかまに入れ、いろいろ勉強しましたよ。とにかくはじめてのものなので想い出が深いですね。

AM. 原作とのかかわり方はどのような形で進められましたか。

Miwa. 原作者とはとてもスムーズな関係でしたね。企画段階の意見のぶつけあいはたいへんでしたが。まず、原作を見たとき、文句なしにこれはおもしろいと思いましたよ。とにかく原作者と会いましてね。ところが、原作の平井和正さんは、当時まだ23か24歳で、とても作品からは想像できない若さだったんで驚きました。坊ちゃん坊ちゃんしてましてね。それから原画の桑田次郎さんとも会って指導をお願いしたんですが、あのころやはり絵の線の美しさという点でも出色でしたね。そういう原作の方たちと、演出・脚本・アニメーターの人たちを集め、当時、通称マンガ・ルームと呼んでいた分室で企画を練りました。それはもう、みなさん若かったこともあるし、第1作ということでケンケンガクガク議論をぶっつけあいましたよ。徹夜もしょっちゅうで、納得いくまでやりましたね。

AM. 第1話がビデオにのったときのできばえについての印象はいかがでしたか。

Miwa. そのようななにもかもはじめてという状態で作りましたのでねぇ。いまの水準からくらべると、けっしてほめられるものではなかったんですが。動きがギクシャクだ、などいろんな点で不満はありましたよ。でも、スタッフのみなさんはほんとうによくやってくれました。議論だけでなく、作業も負けん気でやってましたし......。いまではすっかり有名になった人々が数多く集まってくれていました。原作の平井さんはもちろん、演出の大西清さんとか、いまや人気SF作家の豊田有恒さんも脚本で加わっていました。

理屈を踏まえて練ったアイデアを AM. 技術的なご苦労といいますと、どういうところがありましたか。

Miwa. なんといっても、アニメならではのアイデアを出したかったですね。たとえば、走るときのスピード感ですとか、弾丸を受けとめるさまをどのように見せるかとかですね。アングルにしても、アニメのメリットを生かしたところをねらいました。子どもが見るからといって、説明のできない動きだけはやらないようにしましたけれどね。こうしたら、こうなるんだという理屈を踏まえての奇抜な方法をと考えたんです。それでないと、満足してくれないんじゃないかと思ったからなんです。そういえば、調査のために小学校へアンケートをとりに行きましてね、放課後、男の子や女の子を集めてもらっていろいろ聞いたん"です。アニメの反響についてのデータというものが、自力でしかとれない時代でしたのでね。そうしたら、なかなかするどい意見も出ましてね、われわれが悩みこんで作りあげた部分などを「あそこのとこはおかしいよ、あんなになるはずないよ」などと指摘されるわけです。そうすると、こちらは「ウーン、あそこはなあ」と心中、ニガ笑いをしてしまいましてね。なるほどなと思う見方を子どもたち、は、ちゃんとしてるもんだと思いましたね。

アマ規定を意識した苦肉の作だった

TBSアニメ作品のなかでは、もっとも数多くの作品にたずさわってこられた忠隅さんですが、なかでも思い出に残る1作というと、どの作品になりますか。

Masashi Tadakuma. 忠隅 そうですねえ、思い出ということになると、内容という点と、作品を作るときの苦労という2つがありますが、アニメーション実写を組み合わせた『ミュンヘンへの道』というのが一番思い出深いですね。合成アニメとしては最初の本格的なものだったですからね。題名からおわかりのとおり、ミュンヘン・オリンピックに出場した全日本男子バレーボール・チームの姿をストーリーにしてほしいスポンサーからの要望があったんです。引き受けはしたものの、いったいどういう形にしたらいいか悩みましてね。ふつうのアニメでしたら架空のストーリーを作ればいいわけなんですが、ごぞんじのとおりあのチームはアマチュアのチームで、本人たちを実写で登場させることは、アマ規定に触れるわけです。そこでアニメ化ということなんですが、いくら似顔絵を使って動かしてみても、それだけじゃ見る側からは真実性が薄いのですね。どうしてもアニメというのは虚構のものという意識で見られてしまう。「これはほんとうの話なんだよ」と絵で見せてもウソとして受けとられてしまう。じゃ、どうするかということで、メンバー登場部分はアニメに、物語の設定場面などは実写でということを考えだしたわけなんです。

ウソじゃないんだという証しを実写で AM. 合成ということになると、技術的な面だけでなく、演出の面でもいろいろなくふうやご苦労があったんでしょうね。

Tadakuma. ええ、たいへんでしたね。ま、合成といっても同じ画面に実写とアニメをからめるのではなく、話の内容展開によって効果的に切りかえていくんです。アニメ部分ではストーリー進行のドキュメント性を、実写部分ではその実証性を裏づけていくという方向をとりました。あくまでウソの話ではないということで、徹底的に実証主義をとりましたね。

具体的にはどのような形をとられましたか。

Tadakuma. まず、メンバーたちが実在するんだということで、練習場なども実際使っていたほんものの写真を入れようということからでしたね。とにかく編成部のほうでは私にいっさいまかせるということでしたんで、監督も私のもっとも信頼する大隅正秋さんといろいろ相談しました。彼とは『オバQ」以来の気心の知れた友人でしたので、一晩かかって彼を説得しましてね、「なるほど、そりゃおもしろ「い」というんではじまったわけです。スタッフもそろって、最初に渋谷にある岸体育館に集まり、現在の選手たちの練習風景を実写しまして、しかし、実写といっても撮れるものは現在のものばかりなんで。それじやつまらない、さてどうしようかと、またま考えこんじゃったんです。よし、じゃ徹底的に実証主義をやってみようということになったんです。

猫田選手のレントゲン写真を第1話で

AM. 過去のデータをたどってみるということなんですね。

Tadakuma. ええ、たとえばこういう話があったんです。ある選手が練習に朝でかけようとした大雪で交通機関を使って行けなくなった、そこで彼は歩いて練習場まで行ったんです。じゃ、そこのところをカメラで追ってみようということで、道筋をここか、あそこかとたどって、ああ、こんな長い道のりを歩いたのかみたいなところを実写で入れました。手法もいろいろなものを考えましたよ。第1話で猫田選手が練習中ケガをして出場できなくなった話を取りあげたんですが、彼が複雑骨折をして広島へ戻り、病院に入るところまでをアニメで進め、そこから実写の広島病院を写しだし、また、彼の骨折した部分のレントゲン写真をバーンと大写してみせたんです。これはほんとうにあった話なんだよ、というわけです。

AM. いろいろな試みに対しての視聴者の反響というのはどうだったんですか。

Tadakuma. 当時は、ヤングや子どもたちがいまみたいにアニメをうんぬんするという時代ではありませんでした。いまから8年前ですからねえ。そういう意味の反響を起こしてくれる下地がなかったといっていいですかねえ。だから、視聴率もそんなによくなかったんですが、見てくれる人はよく見てくれたようですし、アニメ界での評価はよかったですね。視聴率もシリあがりになったのをおぼえています。

エスパーものが残っていたネタだった

AM. 清水さんの代表的な作品といいますと。 Kinya Shimizu. 私の場合『戦え! オスパー」だけといってもさしつかえありませんね。ほかにもいくつかのものに企画で参加はしていますが、少しずつかじってきただけなんで...。

AM. といいますと、思い出に残っておられるのも『戦え! オスパー』ということに...。

Shimizu. そうですね。最初のアニメ作品だったし、ほんとうに気を入れてやりましたのでね。いつごろのものだったかなあ。

AM. 昭和40年1月の放映開始ですね。

Shimizu. え、そんなに前ですか。 13年も前になるんですねえ。

AM. NTVとしては第1作ですね。

Shimizu. ウチはねえ、他局よりも遅れてやってきましたね。第1作ということで苦労ばかりでした。あのころは他局のアニメも全盛期に入りつつあって、ほとんどのネタがでつくしていて、あとはエスパーみたいなものしか残っていなかったんですよ。それまでのものにはない新しいタイプのものを作ろうと苦心しましたよ。たとえば音楽なんかでも、冨田勲さんに作ってもらったんですが、彼、なかなかの凝り屋でねえ。そのころはめずらしかったシンセサイザーを持ちこんできて「こんなものがあるんですよ』と、使いはじめるんです。でも私のほうでは、主人公は有機的なエネルギーで活躍するんで、そんな無機的な音はあわないと思いましてね。尺八なんかの竹や木でできた楽器を使って工夫してもらいました。

病的センチメンタリズムを展開!

AM. ストーリーの設定段階では?

Shimizu. まず、善玉と悪玉の設定ですね。悪玉は徹底的に無差別に殺人を犯したり、破壊したりするんです。そうした方向に対して、やり過ぎだっていう抗議や批判の投書がかなりきましたよ。でもねえ、私としては、そういう徹底した悪を描くことで基本的には「戦争というものはよくないものなんだ」ということをだしたかったんです。病的なタッチで悪の論理を展開し、結局は善に滅ぼされてしまう。それによって、悪の悲しさみたいなものも描きたかったわけです。ぼくは、ある種のセンチメンタリズムみたいなものを感じるんですよ。

AM. その傾向は現在でも底流に流れているような気がしますが。

Shimizu. そうですねえ、松本零士さんの作品に同じようなものを感じますねえ。 「キャプテン・ハーロック』などにね。でも、そういうセンチメンタリズムって広くウケませんね、ウケるようなほかのやり方があるんでしょうが。

何もかもハングリーなところから出発

AM. スタッフのチームワークのとり方など、はじめてのアニメ作品ということで、体制的にはいかがでしたか。

Shimizu. とにかくハングリーでしたからねえ。放映までの期間という時間的なところも、予算も、スタッフのそれぞれもね。そうそう、作画のほうではマンガ家の村野守美さんもスタッフの1人でした。彼も当時は若くてね、フリーとなって一生懸命描いていました。いまではなごやかなタッチのものを描いてらっしゃいますけど、あのころは悪の論理みたいなところを展開してギラギラしていましたね。若くてハングリーな状態だったんですね、生き生きしてましたよ。とにかく、ナイナイづくしから知恵と汗をふりしぼって作ったという感じです。

原作にホレこんでしまったものだから

AM. 藤井さんの代表作といいますと「夕やけ番長」 『男一匹ガキ大将』という作品などを、まずあげることになりますね。

Kenyuu Fujī. そうですねえ、印象深い作品ですね。『男一匹ガキ大将』も「夕やけ番長」も月曜か土曜まで毎日10分をベルトで流しまして、視聴率もいい線いった作品です。『男一匹」のほうは、主人公の魅力にひかれましてね。原作をはじめて見たとき、こんなマンガの原点のようなのを描くやつは、どんなやつだろうって思いましたねえ。それが本宮ひろ志さんだったわけですよ。当時「少年ジャンプ」は週刊じゃなくて月2回発行のものでね。これに連載されていたんですが、その作品の1コマ1コマに、目というか、からだ全体に躍動感があるんです。正直いって、あれを見たときは、ビックラしましたね。さっそく、編集部へ飛びこんでいって「やらせてくれ」と頼んだわけです。それと、もう1つ感動したことは、主人公の生きざまですね。あの作品はいまから10年も前のものですが、そのころはもう、子どもは過保護に育てられていて、ジグジグした世相だったんだけど、あのマンガには肌と肌でつきあうといった強烈なものを感じました。

自由に作れたという意味でも快心の作

AM. いまでは大人気の本宮ひろ志さんですが、あの「男一匹」はデビュー作なんですね。

Fujī. ええ、当時「少年ジャンプ」の編集長長野さんという方は、 少年文化をとてもたいせつにしている方でしてね、特にマンガは大好きでいまでも新人の登竜門を開いていらっしゃいますが、あのときはとてつもない新人を発掘したものだと思いました。

AM. その原作者側とアニメ制作側の意見の調整についてはいかがでしたか。

Fujī. 意見の食いちがいというのは企画段階ではなかったですね。ただ、テレビの場合、原作・原典に対してかなりの脚色を余儀なくされるわけで、半年間という期間のなかでどのように筋立て、進行していくかがポイントになっていて、そのへんは脚本の雪室俊一さんなどとも煮つめたものを原作者に了承してもらったわけです。ほとんど問題なく進みましたね。

AM.: この作品はどちらかというと、 不良少年を扱ったものとしてクセのある作品で、冒険というふうにはお感じになりませんでしたか。

Fujī. ええ、ふつうに考えれば明るいもので、作者も知名度の高い人の作品のほうが安全といえば安全なんだけれども、そういう意味で冒険でしたね。でも、このときは取りあげる作品にしても、集めるスタッフにしても自由に選ばせてもらえたし、好きなようにやっていいということで、存分にやりましたね。たしかに異色の内容のものだったけど、これはイケるぞという自信はありましたね。おかげで10分のベルトものとしては高視聴率をとって、私としては快心の作というところです。また、私の手がけた作品のなかでは特にいいスタッフに恵まれたというのも幸運だったと思いますよ。ことに先にあげた脚本の雪室さんですとか、演出の富野喜幸さんにはずいぶん力になってもらいましたね。

16 Years of TV Anime Heroes (May)

Panel:

Ichiro Nagai
Kei Tomiyama
Masako Nozawa
Rihoko Yoshida
Toru Furuya

「アニメのヒーローたちよ、ぼくらもきみたちとともに悩み傷つき感じているんだ』 ■あるときは天下無敵のヒーロー、 またあるときはトボけた3枚目。 そして不屈の男やおてんばな女の子と、 過去から未来へ飛びまわるヒーロー、ヒロインたち。 はたしてその実態は一 いまをときめく人気声優のみなさん永井一郎、 野沢雅子、 富山敬、 古谷徹、 吉田理保子さんに想い出話など、 大いに語ってもらった。

『カセット、交換日記、テストの答案用紙!!!傑作なファンレターに思わずとまどってしまう』

Ichiro Nagai. ま、年の功ということで(笑)私、きょうは進行役をつとめさせていただきますので、よろしく(笑)。さて、ここ2、3年、声優ブームとやらで、声優がすごく騒がれているんだけど、ブームをささえるファンの人たちの話からはじめましょうか。声優人気ナンバーワンの富山さんの場合、去年は2000通の年賀状を印刷してファンの人に送ったって聞いたんだけど......

Kei Tomiyama. ふだん、あまり、お返事を差しあげられないので、せめて年賀状だけでもと思ったんですよね。

Nagai. ファンの人からも、それくらいきたんですか?

Tomiyama. 正確には数えてないんだけど5、6000通はきたんじゃないですか。

Nagai. すさまじいね。

Tomiyama. だから、申しわけないんだけど、返事はぜんぶ書けないし、それに、読むほうもなかなか......。

Nagai. 人気者はつらいですね。ところでみなさん、ファンレターをいっぱいもらうと思うんだけど、おもしろいのがあったら、紹介していただけませんか。 ケッサクとか、無理難題、思わずウフンと笑ってしまったとか。

Rihoko Yoshida. カセットに声を入れて送ってくれというのが多いですね。けど、ぜんぶに答えていたら、仕事にも影響してくるんで(笑)。

Tomiyama. それは多いね。それに、日記帳を送ってきて「交換日記」をやってくれという人もいます。でも、それをやりはじめたら、やっぱり、仕事ができなくなっちゃう(笑)。

Nagai. なるほどね。

Masako Nozawa. 私の場合、学校のテストの答案用紙をコピーして送ってきた人がいましたよ。で「私はアニメがすきで、一生懸命見てますけど、学校の成績が落ちると母に叱られますから、がんばってます。しかし、今回はダメでした」なんて、正直に書いた手紙をつけてきて、コピーのほうを見ると30点なんて書いてあった(笑)。

Nagai. 古谷くんの場合は、そういうのないですか?

Toru Furuya. そうですね。 受験シーズンのときに、受かるようにお守りにするからといってサインを頼まれるケースは多いです

Rihoko Yoshida. それは多いわね。

Furuya. それと、手紙じゃなくて、ぼくの自宅のドアの前に花の鉢植えを置いて、"ファンより"って、ただ、ひとことだけ書いてあったのもありましたね。すごくうれしかったけど、ただ、お礼のしょうがなくて困りました。

Nagai. それは、ちょっと困るね。

Rihoko Yoshida. 私の場合も、最高に困ったことがあるんです。 神谷(明)さんと「ゲッタ-ロボ」でいっしょにやっていたときなんですけど、あのころ、ちょうど神谷さんが結婚するというので、相手があたしじゃないかと、かなりのウワサが飛んで(笑) いっぱい抗議の手紙をもらったんです。ほんと、困りましたね(笑)。

『思い出の1作というのは、忘れられない失敗とともにいつまでも残っているものです』

Nagai. さて、みなさん、いろいろ長くやっていらっしゃって、それぞれ想い出に残るキャラクターというのがあると思うんだけど、どう、吉田さんは?!?!

Rihoko Yoshida. 私はやっぱり、はじめて主役をもらった「魔女っ子メグちゃん」と、最近のでは「未来少年コナン」のモンスリィですね。とくに、モンスリィは悪役だったんだけど、これで逆に、ファンがふえたんですよね。

Nagai. ヘェー!?

Rihoko Yoshida. 途中からいい人になるんだけど、「この役を見て、はじめてあなたがすきになりました」なんて、ファンの人の手紙が来たんです。いままでだと、ヒロインをやっていると「あの人とはなかよくしないでください」なんていう嫉妬の手紙が多かったでしょう。 悪役をやって好かれるなんて、驚きました。

Furuya. ぼくの場合は、やはり飛雄馬ですね。なんといっても、青春時代をともに過ごしてきたでしょう。ことしてたしか11年目のはずなんです。

Nagai. やっていて、失敗なんてあったのかな!?

Furuya. ありましたよ、ずいぶんと(笑)。なにしろ、飛雄馬だということで、その気になっちゃって、昔の作品のときにキャッチボールをやったんです。じつをいうと、ぼく、野球が苦手なんですけど、なんとか、投げるときのふんい気ぐらいは知っておこうと思ったんですよ。 そしたら、みごと、指を骨折しちゃって(笑)。

Nagai. 見あげた役者根性じゃないの(笑)。ほかには?!?

Furuya. いま、いちばん気にいっているのは「野球狂の詩」の山井という新聞記者の役ですね。不運な境遇にもめげず、一筋に自分の道を捜して生きていくという、ぼくにはめずらしく大人の役なんですよね。

Tomiyama. いや、それは、いっしょにやっていても感じるね。あなたが、ずいぶん、入れこんでいるって(笑)。

Nagai. 富山さんは何なの?

Tomiyama. 古代進は別格として(笑)、はじめて主役をやった 佐武〟がどうしても印象に残りますね。あれをもう1度、やりたいんですけどね。

Furuya. あれはすきだったな。

Tomiyama. 放送時間も最初は夜の9時で、作品も大人むけに作ったんですけどね。 市の役は俳協の大宮悌二さんで、あれをやってるころは、いつも帰りに悌二さんと二人で屋台で飲んでね。

Nagai. そういや二人とも酒豪だね(笑)。

Tomiyama. それと、わりにぼくは3枚目も多くやっていて「ピンポンパン」のブチャネコ「ガンバの冒険」の学者、それから「ロッキーチャック」のキツネのレッドなんかも好きですね。

Nagai. 野沢さんはどうかな。野沢さんの場合「みつばちマーヤ」のウィビーは最初、4か月の約束だったんでしょう。

Nozawa. そうですね。

Nagai. それが人気がでたもんだから、マーヤといっしょに外へ飛びでていくという話にかわったと聞いているんだけど…。

Nozawa. そうですね。そういう意味じゃ、ウィビーのことは忘れられないわね。

Nagai. そうだろうね。

Nozawa. わたしはオッチョコチョイだから失敗談が多いんだけど「ガンバの冒険」のときに、マコ2ページくらい飛ばして、みんなを驚かしたことがあるの。全員、ノッちゃってワーッときてたところで、マコはページがいっしょにめくれちゃったらしいの。絵が先の場面と同じようだったんですよ。マコ張りきって「出発!!」ていったら、みんな「エエッ」 (笑)ふんい気ぶちこわしちゃった。で、ガンバも忘れられないキャラなの。

Tomiyama. あれは、びっくりしたね(笑)。ところで、永井さん自身はどうなんですか

Nagai. ぼくは、なにしろ、ワキが多いんで (笑) その芯というものがないというか、けど、すきなキャラはいっぱいいますね。「コナン」のダイスとか、ガラッとちがうけど「ピコリーノの冒険」のオカマネコとか(笑)「ロッキーチャック」のピーターうさぎもおもしろかったね。「母をたずねて三千里」のペピーノの役も好きだったな。あと「ろぼっ子ビートン」のガキオヤジ、これは全力投球しましたね。

「ファンが思っているほどの仕事じゃないんだ、アニメだけがぼくたちンテージは半々かな』

Nagai. ところでみなさん、声優のなかでの仕事というのは、アテレコとかアニメのほかにもいろいろあるわけでしょう。「アニメージュ」の読者は、ぼくたちがアニメしかやってないと思うかもしれないけど、富山さんなんか仕事のなかでアニメのパーセンテージはどのくらいですか?

Tomiyama. 半分ですね。あとの50%はほかのものです。アテレコとCMとラジオと。声優の仕事っていうのはほんとうに分野が広いんで、声の仕事をはじめたのはCMが先かラジオが先かというぐらいかもしれませんよ。 いま放送されているCMでは、マクドナルドとかミロとか。マクドナルドではピエロの声をやってるんです。

Furuya. ナレーションも多いんでしょう。

Tomiyama. 多いですね。 短編映画なんかもけっこうあります。きょう、このあとの仕事も、NHKの15分の短編映画のナレーションなんです。こういうのが、けっこう多いんです。

Nagai. 野沢さんはアニメのパーセンテージはどのくらい?

Nozawa. わたしの場合は多いんですよ。 80%ぐらい。5分5分っていいたいんですけど、ナレーションがないんですよね。あとの20%がやっぱりCMとかになりますね。いまやってる 「洗剤ジャスト」 のコマーシャルで、メガネかけてる女の人の声がわたしなんですよ。〝ジャストてステキねぇ"っていうの。そうすると、ファンのなかにはあれをわたしだと思っちゃって「メガネかけてるんですね、はじめて知りました」なんて…(笑)。じつは声だけ、わたしなんです。

Nagai. なるほどね。 古谷くんは、どのくらいになる?

Furuya. ぼくは少ないです。数えられますから。いままでのアニメのレギュラーは10本です。 レギュラーのシリーズを持つのに、つぎの作品との間があくわけです。たとえば「巨人の星」と「鋼鉄ジーグ」のあいだの期間、ちょうどぼくが事務所をやめてたときなんですけど、東宝の「イルカの大将」なんて映画に出ていました。

Nagai. テレビ映画も出てたよね。

Furuya. つい最近ですけど「のり子その愛」っていう昼メロに出てましたよ。それからCMですけれど、グリコのチョコレートとか。ついこのあいだは、はじめて60秒のCMで自分1人っていうのをやらせてもらったんですよ。東京ブラウスのCMなんですけど、すっごくうれしかった。"あのときもきみは白いブラウスを着ていたね(笑) なんていうキザなセリフではじまって、60秒間ずっとキザで、最後に東京ブラウスです"っていうのが入るんです(笑)。

Nozawa. いいわねえ。わたしはそういうのないもんね。CMの最後なんて変わっちゃうもんね。

Nagai. そういえば、ミュージカルもやったって聞いたけど。

Furuya. いずみたくさんのところでやった。「快傑アンパンマン」というやつ(笑)。もちろんぼくも歌って踊りましたよ。

Nagai. 吉田さんは、アニメのパーセンテージは多いのかな?

Yoshida. 多いんです。最近、洋画のほうと半々ぐらいになりましたけど。まだ、得意な俳優は決まってないんですが・・・。 やった俳優ではピアンジェなんかすきですね。

Nagai. さて、ぼくの場合ですけど、ちょっと調べてみたところ、去年で40%ぐらいですね。一昨年は38%~30%。大体3~4割じゃないですかね。あとはナレーション、CM、教育ものカセットだとかレコードね。童話のレコードや歌入りの子どものためのレコードとかもある。この仕事ではぼく自身も歌うんです。歌手の場合よりも、役者が歌う場合よりも、役者が歌うほうが性格づけた歌が生まれるということなんだけど。ちょっと結論めいたことをいうと、ファンが思っているほど、アニメだけがぼくたちの仕事ではないということですよね。声優の活躍する分野というのはあらゆる方面にわたる。なかにはファッションショーの司会で、姿を見せないで声だけでという仕事るすもありますしね。それはともかく、みなさんに今後やりたいキャラクターをおうかがいしたいと思うんですが、吉田さんから順番にいこうか。

Yoshida. これからもっと勉強して、女の一生みたいなものをだれかに書いてもらって赤ちゃんから老婆までというのを最終的にやってみたいと思うわ。

Furuya. ぼくはずいぶん具体的なんだけど。最近、読んだ竹宮恵子さんの「風と木の「詩」のセルジュなんかを...。あと、セルジュのおとうさんのアスランバトゥールっていうのがいいですね。すごい情熱的な、一途な愛に燃えた男というのが、やりたいなと思うんですよ。

Tomiyama. ぼくの場合はあんまり具体的じゃないんです。男の一生もおもしろいと思うんですけれど、これまで、あまり悪役をやったことがないので、悪役をやってみたいなと思っているんですよ。自分でどんな悪役がやれるかなと思ってるんです。

Nagai. うーん、ぼくの場合はそれじゃ、富山くんと役を取りかえて、2枚目をやらしてほしいな。2枚目をやったことがないんで(笑)。どうだろう、なにかキャスティングされたら役を取りかえて、勝手にやっちゃうとかね。

Tomiyama. あ、おもしろいですね(笑)。

Nagai. まあ、2枚目を1ぺんやってみてもいいなという気がしないでもない。だけどワキ役に徹してきたということに関しては、ぼくはゆりかごから墓場まで、断片的にやっているわけね。ちっちゃいものもやってるし。だから、具体的にどんな役をやりたいというのは、ないというのが本音じゃないのかな。

Furuya. やりつくしたんじゃないんですか (笑)。

『声優といっても、やっぱり自表現しなくちゃ分の体で感じたことかな』

Nagai. ところで、変わったというと、アテレコも機械の発達でずいぶん録音方法が変わったよね。まず、放送と同時にや生放送。ぼくの場合「スーパーマン」のときがそうだったんだけど、これはあらかじめ、5、6回見ておいて、で、本番でそのまま全国に流す。ま、いまから考えると、じつに胃に悪い仕事だったよね。で、つぎに、耳(レシーバー)をつけての生放送、それから耳をつけてテープに録音するけど、途中でテープを切れない時代。これはトチったら頭からやりなおしだったね。

Nozawa. あれ、イヤだった。最後のセリフがマコのところへまわってくるとほんとうにいやだった。

Nagai. 当時、ものすごくテープが高かったわけだ。だから途中で切って編集するってことができない。この時代もやっぱり胃が痛かったですね(笑)。

Tomiyama. それはぼくも経験あるんです。 生放送は知らないけど、SE(効果音)もいっしょにやるというやつね。心臓にもよくないよ。

Nagai. そこでアニメになるわけだけど、アニメの録音ていうのは、映画と同じで最初からそんなにしんどくなかったんじゃないかな。

Nozawa. そうね。「アトム」のころでも、とちったら全部やりなおしということはなかったでしょう。

Nagai. さあ、そうすると、アニメで一番変わったのは絵がなくなっちゃった (注=白み)てことになるのかな。

Tomiyama. そうですね。

Nagai. さて、最後になっちゃったんだけど、みなさん、そもそも、声優になったいきさつはどういうことだったのかな。マコは?

Nozawa. 劇団にいたからテレビにもでてたんだけど、アニメのレギュラーをもつと、どうしても時間を拘束されるから、自然に声優の仕事が多くなったということかしら。

Tomiyama. ぼくの場合は、生活のひとつの手段でしたね。それが、しらないまにふえちゃって......(笑)。

Nagai. 古谷くんは?

Furuya. 5つのときにお袋に児童劇団に入れられたんで、自分から入ったという自覚はないですね。 で「巨人の星」なんかやっているうちに、いつのまにか、なっでいたという感じですね。

Yoshida. わたしも児童劇団から脱皮したくて、いろいろとテレビなんかもやるはずだったんだけど、なぜか、声の仕事だけになっちゃったの。

Nagai. なっちゃったんだよね。ところが、いまの若い人は、めざしてくるでしょう。麻上(洋子)くんのように。

Tomiyama. そうですね、変わりましたね。

Yoshida. けど、わたし最近、思うんだけど、この仕事は、舞台やったり、テレビやったりしたあとで、最後にくればいいじゃないかって気がするの。だからわたしなんか、もう少し外をやって戻ってこようかと

Nagai. 声優めざして入ってきた麻上くんも”あっ、いけない”と思って芝居のけいこしたり、 生懸命やってるよね。それはあとでやったってかまわないと思う。

Tomiyama. 理保子ちゃん、いいこといったよ。外でいろんなことやりつくして、それからやるとほんとうにすばらしい声優になれると思うね。

Nagai. つまり、映画もテレビも舞台も、アニメの仕事も、根は同じだからね。やっぱり体を動かすことからやらなきゃいけないと思うんだ。

Nozawa. よく手紙で「私はお芝居はぜったい、やりたくない。アニメをやりたいんです」ってくるけど、やっぱりね(笑)。

Furuya. ぼくも、最近になってようやく、声だけといっても、自分の体で感じたものを表現しなくちゃいけないんだということに気がつきましたね。

Nagai. そのへんを声優をめざす若い人にも、ぜひ理解してもらいたいですね。

16 Years of TV Anime Villains (October)

Panel:

Shūichi Ikeda
Masatō Ibu
Osamu Ichikawa

1.「死んだら同情されることが多いということが、最近の”悪”の共通項になっているんじゃないかな」(市川)

AM.「いまのテレビアニメでは、悪役の魅力が番組の人気を盛り上げる大きな要因になっていて、いまや欠くことができない存在になってきています。そこで、悪役の人名辞典とプラス研究ノートをつくってみようと思ったわけです。それで、まず最初にみなさんがやられた役の分析からはいっていただいて、体験的な悪役論、それを演じるうえでの苦労話、さらには敵役の悲劇性とかいったことにふれていただきたいと思います」

Osamu Ichikawa.「とにかく、きょうここに集まった方のやられたキャラクターというのは、死んだら同情されることが多いということで、共通項があるんじゃないですか。同情されない悪役をやってる人もずいぶんいると思うんですが、私たちのやってきたキャラクターは、とにかく強い悪役が強いというのは、ドラマ全体として見た場合、それだけで広がりをもつ。〝敵キャラ来週こそはと2回ウソをつき"なんて川柳がありますけど、敵キャラが強いほうがドラマが盛り上がってくる。もちろんそれは、ただ単に強いというだけじゃなくて、いろいろの要素が加わるんでしょうけれど」

AM.「同情される悪役というのは、おもしろい見かたですが、そ発端が市川さんのおやりになった『勇者ライディーン』のシャーキン役ではないですか」

Ichikawa. 「そうですね。それで有名な話があるんですけど、シャーキンが死んだときに、製作者のところヘカミソリが送られてきた。「よくも殺してくれたな』ということで、それくらい”同情"が集まりましたね。シャーキンがアニメの、いわゆ美形キャラのはしりだとよくいわれるんですけれど、それがわかったのは『コンバトラーV』がはじまってからなんです。シャーキンはそんなに人気があったのかということで、あらためて『勇者ライディーン』という番組がクローズアップされて、いまでもしきりに再放送してとかパートⅡを作れといった呼び声が高いんです。あのシャーキンをやったときは、それまでの私はアテレコでもアニメでもヒーロー役が多かったもんですから、悪役というのははじめてだったんです。それで、相手役が私の後輩の神谷明くんだったものですから「おまえが勇者ライディーンなら、おれは勇者シャーキンでいくぞ」ということで、自分ではまだ二枚目の意識があったもんですから、対等にぶつけてみたのが結果的にはよかったんですね」

AM.「伊武さんの場合ですと、デスラーが当たり役ですね」

Masatō Ibu.「当たり役っていうより、アニメはあれがはじめてだったんです。もっとも、その後もあまりないですけれど.....。ぼくの場合は、あの役を悪役と意識したことはなかったですけどね」

AM.「あれは伊武さんに依頼があったわけですか」

Ibu. 「いや、ぼくはオーディションを受けたんです。古代と島がメインで、ぼくは島役でオーディションに行ったんですけど、ぼくの声にちょっとさわやかさが足りないっていうんです。もっと悪っぽいほうが合うんじゃないかということで、デスラーのセリフを読まされて、それがきっかけなんです。そのときのセリフっていうのは、来たか、地球め。バカめ、ざまあみろ”みたいな感じで非常に一面性しかなかったんですけど、実際にはじまったら、これはおもしろい役だなと感じました」

AM.「それは、いつごろから感じましたか」

Ibu.「1本目ですね。ぼくにとってははじめての仕事だし、自分の人生を賭けるくらい燃えてやりましたよ。どうやったらデスラーの存在感が出るのかって、悶々と考」

AM.「あれは伊武さんの地が出たのがよかったんじゃないですか。最初はあまり意識しないで演じられたんじゃないですか」

Ibu.「主役が熱血漢であり、正義漢で、当たって砕けろ的なキャラでしょう。それに対応してこっちも当たって砕けろじゃ目立たないわけですよ。だから、むこうがグ-ッと直角で来たらスッといなせるみたいな、そういう意識は持ちましたね」

Ichikawa.「あれはとにかく、抑揚を殺したような感じで、ほんとにゆっくりとしゃべっていたね」

Ibu.「そうです。だからぼくがデスラーのセリフをしゃべっていると、絵のほうが終わっちゃうことがあるんです。そんなときは、フィルムを足すからたっぷりやってくれなんていわれましたね」

Ichikawa. 「あれは伊武さんだからいいんだ。ぼくみたいなキャーキャー声ではダメですよ」

AM.「池田さんがシャアをやられることになったきっかけは、どんなことだったんですか」

Shūichi Ikeda.「ぼくもオーディションです。ただ、先ほど伊武さんもおっしゃってたけど、自分としては悪役というイメージはぜんぜんないですね。『ガンダム』という番組は、要するにおたがいにライバル同士なんだけれど、悪役の側にも正義みたいなものはあるはずだし、なければおかしいと思うんです。ぜったいにね。それから悪役のパターンというのがありますね。こうやれば悪役として成立するみたいな。ぼくは絶対、そういうパターンにははまるまい、と思っていますけどね」

AM.「ところで、〝同情”のほかに、最近の悪役に共通するものは、ほかにありませんか」

Ichikawa.「この3人が演ずるキャラクターに共通していることは、主役以上に格調高いことばづかいをするっていうことですね。ヒーローのほうはべらんめえでも、こちらは貴族かプリンスかというように品のあるしゃべりかたをするわけです」

Ikeda.「それは、はじめてアニメをやって、それも悪役をやってみてびっくりしたことだけれど(笑)、そういえますね」

2「その人間の役柄がどういう生き方をしてきたかわからなければ、ないんじゃないか」(浦花)

AM.「さて、演ずるうえで、性格設定なんかはこまかければこまかいほどやりやすいですか」

Ichikawa.「データはあればあるほど、やりやすいですね。適当に声を合わしてくださいなんていわれるのが、いちばんつらいですよ」

Ikeda.「その人間がどういう生きかたをしてきて、どんな生活環境で、ということがわからなければ演れないんじゃないかと思いますね」

Ichikawa.「そのへんはどうなの、伊武さん。オーディションに行ってキヤラをもらうっていうのは」

Ibu.「とにかく、こっちで持っているものを全部さらけ出して、それでむこうが気に入るかどうかってことですね」

Ichikawa.「ぼくは性格とか背景、年齢といったことを全部聞くようにしているんです。以前は『はっ、はい」って感じだったんですけど、いまはもう、できるだけこっちの持ち札を多くしようと思っているんです」

Ibu.「ただ、そういったこまかい設定がなくて、非常にパターン化したなで切り型の悪役なんか持ってこられると、たまらないですね」

Ichikawa. 「でも、やるうえでいえば悪役は、非常にやりがいがあります。いろいろな要素をいろいろな形に工夫できますからね。これはヒーローよりもできるんじゃないですか。それをパターン化した悪役でやったんじゃ、そのドラマ自体がつまらなくなっちゃいます。ドラマがつづいていくと、いずれ終わりがくるわけですが、その最終回をどうやるかというのは、むしろ悪のほうがたのしみがありますね」

Ibu.「ぼくの場合、デスラーは2回死んでいるんですよ。死ぬときは、もうほんとうに精いっぱい力ふりしぼって死んだんです。『おまえら、このヤロウ、おれの死にざまを見てみろ。おまえらが生きのこったっておれの死にざまにはかなわねえんだ」なんて感じでカッコよく死んだんです。ところがデスラーの人気が出てきて復活することになった。そのときは、どのツラさげて生き返るんだと思いましたね」

AM.「そういうときは、やっぱりやりづらいですか」

Ibu.「生き返るたびにキャラが丸みをおびて、やさしい感じになってちょっとシンドクなりますね。それであのときは、ガミラスというものを自分で再建しなければいけないという気持ちになろうと意識しましたね。つまり、ヤマト側にヤマト側の思想があるんなら、ガミラス側にもガミラス側の"思想〟があるんだということですね。ドラマのうえではあっちが正義かもしれないけれど、やってるときは絶対こっちが正しいんだ。こっちを守るためには、おまえさんらに死んでもらうよという気持ちです。そうしたら、このあいだのテレフィーチャーでは和解してるんですね。『早くこい、古代』なんていっている。スターシャに横恋慕もしている。ああなったら苦しいですね」

Ichikawa.「ぼくもハイネルの最後の録音のときは、だいたい無精もんのぼくが、その日はちゃんと朝風呂にはいって体を清めて、さあいよいよきょうでお別れだって気持ちでのぞんだんですよ。全員がのってやりましてね。ぼく自身も、さわったらかみつかれそうな、ものすごい顔でやってたそうですよ。やり終えて、「ああ、仕事をやったんだ」と思ったんですが、あんな感じかたをしたのは、ほんとうに何年ぶりだったですね。う全員がスタジオを去れないふん囲気で、お金出しあって飲みものや食べものを買ってきて、だんスタジオで飲み食いするのは許されていないんですけど、あの日ばかりはみんなで大騒ぎしてね。夜中の2時までがんばりました」

3「日本にはアンコ型の低い音はいますけど、筋肉質の低音って非常に少ないんです」(市川)

AM.「声を当てるということでおうかがいしたいんですが、いちばん最初に悪役をおやりになるとき、何かを参考にされましたか」

Ichikawa.「ぼくは『青年がみな死ぬとき』って舞台でやった憲兵将校役シャーキンの声のヒントになっています」 AM.「それがシャーキンのときに、どこかと結びついたんですね」

Ichikawa.「ええ、憲兵というのは私の気持ちからいうと悪役なんです。これをいっちゃうと年がわかっちやうけど、小学校のころ少年兵が敬礼を忘れたっていうんで、目の前で上官になぐられるのを見ているんです。その少年たちはぼくらに乾パンくれたり、とっても親切な人だったんです。あるとき、その上官を見つけ屋根の上からカワラを5枚重ねてぶつけちゃった。そしたら、ひたいを切り、あとを追っかけて来たんです。ぼくらは路地に逃げちゃったけど、翌日、憲兵が小学校へ来て……。学校はじまって以来の不祥事だってね、そのときからダメなんです憲兵のイメージが」

AM.「そのイメージが舞台につながって、さらにシャーキンなどのアニメに発展したわけですね」

Ichikawa.「舞台のときは演出家からほめられました。まあ、いろんな経験がありますが、悪役用の自分の引き出しを持っていなかったもんですから、とにかくカッコよくやろうというのがホンネだったですね。それがたまたま幸か不幸か、ひょうたんから駒みたいなことでうけちゃったんですね」

AM.「でも、当時はカッコいい悪役はめずらしかったでしょう」

Ichikawa.「はじめてじゃないですか。その前に「あしたのジョー」でカ石がありましたけど。あのときはお葬式まで出ましたがね」

AM.「伊武さんのデスラーのしゃべりかたは、独得なものがありましたけど、これは外国の俳優さんとかのしゃべりを参考にしたというようなことはあるんですか」

Ibu.「これは内緒の話ですけど、あのしゃべりかただと、トチらないということはあるんです。あれだけゆっくりですからね。それともうひとつ、おふたりの話をきいていると、すごく自信が感じられるんですが、自信があるということは、スッといなせるみたいなところがあるでしょう。もし自分に自信があったらよけいなことをいわなくても「おれはこう思うよ』こって、はっきりいえるでしょう。それで、そういうときのしゃべりかたというのは、ゆっくりしゃべるほうがいいと思うわけですね」

AM.「池田さんは、主役級ではじめてのアニメなわけですが、声だけで演技するというのは、どんな感じだったですか。 やっぱり映画とかテレビで芝居なさっているときとは違うと思うんですが」

Ikeda.「ぼくは昔、ラジオドラマやってましたから、ラジオドラマだという意識をまず持ちましたね」

AM.「ところで、悪役のしゃべりかたというのはあるんですか」

Ichikawa.「あるといったら、さっきのパターン化された悪役になっちゃうでしょうね。だから、それはないんだけれど、ただドラマのうえではバランスをとっていかなきゃいけないと思うんですね。それから、たとえば悪の組織があって、部下に非常にキレる男がはいってきたりすると、それより上に位置する人間というのは、とってもやりにくい。逆に自分が部下になるほうがらくですね」

Ibu.「そんなこといったら、ぼくはデスラーやってるあいだ、ずっとらくじゃなかったですよ。ぼくのうしろにつく将軍というのは、みんな10年も20年もやっている人ばかりでしょう。ドメル将軍は小林修)さんですしね」

Ichikawa.「伊武さんは声で勝負できる人なんですよ。ぼくも長いあいだいろんな方の声聞いて、びっくりするほどいい声を持ってるなと思った人もなん人かいます。若山弦蔵さんの声をはじめて聞いたとき、すきっ腹にひびきましたからね。世の中にこんなすげえ声の人がいるんだって、ほんとにびっくりしました。日本の俳優として得がたい声の持ち主ですね。日本にはアンコ型の低い声はいますけど、筋肉質の低音って非常に少ないんです。私の知るかぎりでは内海賢二さん、小林恭治さん伊武さんと・・・・・・なん人もいないですよ。アメリカの俳優には多いけど、これもやっぱりカッコいい悪役の資質の一つといえるでしょうね」

4「『ヒス、きみはバカかね』という、デスラーが副官にいったセリフ、そのいなしが印象的ですね」(伊武)

AM.「それぞれに当たり役があるわけですけど、忘れられないセリフというのはありますか」

Ichikawa.「シャーキンの場合は、脚本では何もいわずに死んでいたんです。口が動いていないんですよ。そこをお願いして『妖魔帝国に栄光あれ』といって、自分の胸をつくようにしてもらったんです。最後までカッコよく死なせてほしかったんですよ。それが『おまえが味方だったら、どんなに力強かったろう』というセリフを主役にいわせる一つのきっかけになったんです」

Ibu.「ぼくは『ヤマト』のパート1で、デスラーが副官にいったセリフカわりと心に残っていますね。ヒスっていう部下が報告に来たときにいった『ヒス、きみはバカかね」というセリフです。ふつうなら「何をいいに来たんだ』とか、そういうセリフなんですけど「総統!なんとかァ!!!!』って来ると、『きみはバカかね』っていう、そのいなしが非常に印象的なんです」

AM.「シャアは短いですけど、忘れられないセリフはありますか」

Ikeda.「シャアというのは、わりとキザなセリフをしょっ中いってるんですけど。第1話だったか、最後のセリフで結局、主役をやっつけるのに失敗するわけですけど、シャアというのはいつも冷静だから、落ち着いて『認めたくないものだな、若さゆえの誤ち、というものは』というんですね。そのとき永井一郎さんがいっしょにやってたんですけど『やあ、キザなセリフだな』っていうわけ。それで、いうほうもテレちゃってね」

Ichikawa. 「テレちゃったらできないよね、美形悪役は」

Ikeda.「だから、こっちは開き直ってしゃべるんですけどね」

Ibu.「シットしてるんだよ」

Ichikawa. 「そうなんだよ。カッコいいセリフなんていうのは敵役かヒーローしかしゃべれないから」

Ibu.「ひと言いうたびに、うしろで「なーにがあ』なんてね」(笑)

Ichikawa.「悪役にかぎっていえば、やり過ぎたかななんて、おじけづいたらダメですね。のると笑いがのびるなんてことがあるね。絵は黙っているのに『ワハハ….....』あ、いけねえ、二つ長かったなんてね」

Ibu.「トチリは山ほどありますよ。なかったらおかしいくらいです」

Ichikawa.「悪役のセリフっていうのは、聞いただけではむずかしいことばが出てきます。それをやさしくいいなおそうとするんですけれど、辞書をひかせてもいいからつかいたいことばもありますね。リヒテルのセリフなんかでも、最後に「たとえこの身は宇宙の果てに朽ち果てようとも、幽鬼となってきさまを殺さでおくものか』って、まるで歌舞伎ですよ」

Ibu.「ことばが、ものすごく粗雑になってるという感じがあるから、逆にちゃんとしたことばをつかっていくべきだという気がします」

AM.「これからやってみたい悪役のイメージはありますか」

Ibu.「『真夜中のカーボーイ』でダスティン・ホフマンのやったのは、救いようがないというか、いわゆる汚れ役ですね。だから悪役が汚れ役だとしたら、徹底した汚れ役というのをやってみたいな」

Ichikawa.「そういうことでいうのなら、ヒーローにしろ悪にしろカッコよくて、きわめつけという役はやってきたので、メロメロにどうしょうもなくなっちゃう悪役をやりたいな。そんなのがあってもおもしろいと思うんだけど」

AM.「これまでやってこられた中にはありませんか」

Ichikawa.「ないですね。アニメではそういうキャラというのは、ちょっと出てこないですから。ぼくが一つ企画を暖めているのは、三好十郎さんが書いたホーマーの『イリアッド』、やさしくいえば「トロイのヘレン」。あれは絶対にアニメになると思うんです。このアイデア盗んだら承知しないからな」(笑)

Ibu. 「ぼくは徹底的なウジ虫ですね。ファンレターなんか1通も来ないような。たとえば、行列にわりこむようなヤツは、ぼくにとっては悪人なんですよ。そういうのはとってもイヤだなと思う。そのほんとうにイヤだということを、積み重ねた役をやってみたい」

Ikeda.「悪の評価のしかたには、いろいろあると思うんです。ぼくは映画がすごい好きなんですけど、映画を悪だという人もいる。性善、性悪説じゃないけれど、生きた悪をやっていきたいと思いますね。その点、いまのアニメのヒーローは、人間性がなさ過ぎるんじゃないですか。勝った、負けたで喜んだり、愛は永遠だとか・・・・・・ということでね」

Ichikawa.「古代のヒロイズムが地球を危機におとしいれたってこともあり得ることでしょう」

Ibu.「もっとヒステリックでもいいんだ。あの古代進っていうのは」

Ichikawa.「そうそう。それをひっくり返していえば、悪というのはそれが可能だし要素も秘めているということですね。ヒーローだって食っちゃうし、逆にとってかわることだってできる」

Ichikawa.「来週からの主役はおれだなんてね」

AM.「早くそういうおもしろい番組が登場するといいですね」(笑)

(おわり)

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