Friday, May 19, 2023

24 Hours with a Seiyuu (Animage, 1980)

Reiko Tajima (January)

アニメ初のレギュラー

『ベルサイユのばら』のアニメ化を日本テレビが発表した際、少々大げさにいえば、大ベテランもふくめ、ほとんどの女性声優さんたちが色めきたったという。「オスカルをやりたい!」スカーレット・オハラや、はたまた五木寛之の原作もののドラマ化ならまだしも、30代を迎えようかというベテラン女優陣が、アニメーションの主演の座にこれほどの執着をみせるのは、きわめてまれな現象であるという。ベルばら"のオスカルは、声優界にとって、そういう、特異〟な地位を占めた役だった。その競争率激しい大役を、ダークホースよろしく飛びだしてきてかっさらっちゃったのが、この世界では、ほぼ新人といっていい田島令子さん。しかも、テレビの連続アニメへのレギュラー出演は、このベルばら"がはじめてというから、2度ビックリである。「原作は、友だちのところにあったので読んでましたけどネ。宝塚の舞台も、映画も見ていない。今度のアニメも、どうしてもオスカルをやりたいなんて気持ちはぜーんぜん。でも、かえってそれがいいみたい。原作で大当り、宝塚で大ヒット、映画でまた大当り。ファンのあいだに強烈なイメージができているから、前のものを意識しちゃったら、もうがんじがらめ、身動きできなくなっちゃう」選考事情を知ってか知らずか、実に淡々としたオスカルの弁である。

多いテレビドラマ出演昭和24年2月17日生まれの30歳。声優歴は、2年前、日本テレビで放映された連続テレビ映画『地上最強の美女バイオニック・ジェミー』のジェミーことリンゼイ・ワグナーの声をアテたのが最初というから、文字どおり、カケだしの新人だが、女優歴は100年を迎えようというべテラン。当然、テレビドラマへの出演も多く、NHKの大河ドラマ『国盗り物語』(昭和48年)にもでていたし、ついこの間終了した松坂慶子主演の『水中花』では仲谷昇の愛人役、現在放映中のTBS系の昼帯ドラマ『愛の終りの時』(後1・45~2.00)では、主人公夫婦の娘・中野富貴子役でレギュラー出演中。もともとは舞台の女優さんでもある。日大芸術学部演劇科在学中、論壇の大御所・福田恆存氏の主宰する現代演劇協会の研究生になり、卒業後、その流れをく劇団(けやき)"を経て〝昴(すばる)"に在籍する。余談になるが、当時の現代演劇協会はいまは劇団“円”として分裂した芥川比呂志、岸田今日子、中谷昇らそうそうたるメンバーが顔を並べ、福田恆存氏の高名ともあいまって、大学の演劇部に籍を置く女子学生たちにとってその研究生になることは憧れの的だった。当然の理として、その入団試験はいまのアナウンサ試験にまさるとも劣らない狭き門である。「試験はありましたネェ。でも、受けた動機は単純。役者になるなら基礎をやらねばならぬ。基礎をやるなら新劇。たっそれだけで受けたんです。その新劇への認識も、暗いところで、こむずかしいこといってて、ぐらいのイメージ。新劇やるつもりもなかった。あそこは、研究過程終えると劇団〝雲〟と〝〟のどちちらかへ行くことになっているんです。""は中間演劇で…って説明され、中間演劇って何だかよくわからないけど、アッそれにしようなんて…..」御大福田氏が聞いたら目をむきそうなことをアッケラかんという。

天性の無欲さ

オスカルの大役を射止めた感想といい、この話といい、欲がないというか、ギラついていないというか・・・。そういえば、声優としての初仕事だった2年前の「バイオニック・ジェミー』の主役の弁にしてからが、「日本テレビの“遠くへ行きたい”に出ていて、それをみていた日本テレビのプロデューサーの方が推せんして下さったらしいんですけど・・・」この無欲さ、どうやらポーズでもなんでもなく、生来のものらしい。演劇界の内情をよく知るベテラン記者氏がいう。「ズバリいえば、ちょっとアサッテの方向をみながら役者やってるって感じの娘。"じゃ中堅どころで、舞台に立たせるといい芝居するんだけど、ちょっと変ってるんだよネ。たとえば、主役になったとする。ライバル意識を燃やしているほかの女優陣はカリカリしているのに、本人はさして感激するでもなく、かといってヤル気がないというのでもない。要するに、ふつうの顔をしている。たとえば一年ぐらい全然、仕事がなかったとする。ふつうなら、あちこち顔をだし、仕事を下さいって運動してまわるものなんだが、これまた全然やらない。"ないなら、いいわ”って顔で悠然としている。まあ、張りきるとか、アセるとか、並みの女優の行動形態になれちまつ人間には手ごたえのないことはなはだしいんだけど、そこが彼女の個性であり、いいとこなんだよネ」

一見、清楚な美女風だが・・・

「どんな女優になりたいか、なんていう以前に、これからずうっとこの仕事を続けていくかどうかも、決めていません」ドキッとするようなことをいいだした。でも、10年もつづけてきたんでしょ、つづけさせてきた源泉は?と聞いたら、「喰わねば・・・」ズバリ、ひと言。神奈川県生まれ。両親はいまも神奈川に健在だが、仕事の関係上、24歳のとき、東京で一人住まいをはじめた。「親元に帰るのはたやすいけど、イイ年して、まだ親をアテにするなんてみっともないですヨ」あえて絶世とはいわないが、相当な美人である。たとえば、高校・大学時代ならキャンパスでかなり目立ったであろう、男の子が守ってやりたくなるタイプの美人。が、みかけとはウラハラに、彼女の腹のすわり方は、並みの男どもよりはるかに上のよう。『ベルサイユのばら』は、周知のとおり、強烈な固定ファンが多い。放送開始以来、田島さんのところへも、さまざまなファンレターが殺到しているが、なかには"私のオスカルのイメージとは違う!"なんて、激烈抗議の手紙も舞い込んでくる。田島さん、初主役として、そんな外野席の雑音〟にオドオドするどころか、「”知らんワイ、そんなこと、ゴチャゴチャゆうとるあいだに勉強せ"なーんて、一人でつぶやいたりなんかしまして.......」みかけは清楚な美女ふうだが、酒もタバコもいける。「タバコは19のときにおぼえました。親は怒りましたけどネ。お酒は最近、弱なりましたネェ。昔は、日本酒、ウィスキー、ビール、なんでもかでも、チャンポンで飲んで翌日はケロッとしていましたが、このごろあとに残って。河岸(カシ)は昔から新宿、渋谷界わい。これは不思議に変わりません。30歳と書いたが、どうみたって、せい大学卒業前後のお嬢さんってふんい気だ。それが、いっぱしの中年酒飲みみたいなセリフを吐く。そのアンバランスさが、失礼ながらタマラなくカワユイ。

理想の男性像は・・・・・・

かんじんなことをいい忘れていた。ちろん、目下、独身である。現在は、レギュラーの仕事がベルばら"とTBS『愛の終りの時』(名古屋収録)の2本。「ベルばら”が水曜一日あとは名古屋にいって、あとは千石にある劇団(三百人劇場)に顔出したり・・・」の毎日。「ヒマで家にいるときは、洗たくしています。好きなんですよ、洗たく。そうじに料理?それはあんまり・・・」女優もずうっとつづけるかどうか決めていないが、かといって、二者択一的に結婚しようかなんて気もないそうだ。理想の男性のタイプは?「ジョージ・シーガル。日本じゃ、いません。昔?昔は、市川雷蔵さんも好きだったし、アレもコレもみんなよかったけど」もちろん、以上のようなしだいであるから、今後、どんな役をやりたいとか、どんな女優になりたいとかの目標はナシ。当面、心がけているのは、「オスカルの声をうまくやるというより、アフレコをやることになれちゃいけないと、それを一番気をつけてやっています。もちろん、毎回、家では見れないから、日本テレビのプレビュー室で、かならず番組はみることにしています」日本テレビの関係者が、田島令子オスカル抜てきの理由を話してくれた。「外見はきゃしゃで弱々しいが、実は気も力も強くてというバイオニック・ジェミーでの彼女の演技がキメ手だった。これは、オスカルにも共通するところがあるし、田島さんをふくめ、何人かのオーディションはしたけれど、プロデューサーの頭には田島さんという気持ちが一番大きくあったみたい」田島さんの日大在学当時は、ちょうど70年安保で、かの秋田明大ひきいる日大全共闘全盛時代だった。「一時期、私もやりましたよ。デモに入って“ワッショイ、古田(古田日本大学会頭)タオセッ。なんてネ」。長いつきあいあるベテラン記者がいまだに「よくわからないところがあるコ」といいちげんうぐらいだから、一見の人間に彼女のすべてがわかろう道理はないけれど、意外とジェミータイプの女性…かも、ふと、そんなことを思った。

Kōsei Tomita (February)

アキのないスケジュール

この8月1日、青二プロを円満退社、 新プロダクション「バオバブ」をスター トさせたばかり。小原乃梨子、富山敬、 神谷明、水島裕ら多くの人気声優が設立 に参加したが、富田さんは、いわばその 精神的リーダーともいうべき位置にいる。 まさに、そのとおりの風貌の人だった。 なんとなくなんでも相談できそうで、頼 れそうで、それでいて、カミナリ親父ほ どこわそうでもなくまずは、ゴッド ファーザーならぬゴッドブラザー(?) とでも呼びたくなるイメージの人。 富田さんは、テレビ界にアテレコなる 職業が誕生したその瞬間から、声優の仕 事に携わってきたベテラン中の大ベテラ 当然、オーソン・ウェルズ、ロッド・ スタイガー、リー・J・コップ、ジョー ジ・ケネディなど持ち役は多いが、アニ メの世界に関しては、ほとんどがワキ役 専門だった。 現在のレギュラーは? 「えーと、ぜんぶおぼえているかなァ。 『チャーリーズ・エンジェル』のボスレ -「がんばれ!ベアーズ』の飲んべ監督 『サイボーグ009』に『マルコ・ポー ロの冒険』に、NHK教育の『ぺぺとミ ミ』 これは、なまずのおじいさんやって います。それにフジの「ママとあそぼう ピンポンパン』。えーと、あとはCMか+」 ――週のレギュラーが? 「そうです。うち、ピンポンパンは週にか ならず2日、朝の10時から夜8時までア ナブースの中にカンヅメです」 昭和20年代に青春時代をむかえた現代 の中年族というのは、ほんとにタフだ。 まるで、仕事をするのも遊ぶのも、いま このときしかないといった感じのどん欲 さで、目いっぱい動きつづけているよう なところがある

鉄クズひろいのアルバイト

昭和11年2月4日生まれの43歳。生ま れも育ちも、東京は王子の江戸っ子だ。 高校時代、演劇部と自分たちの演劇グ ループふたつの”劇団”に所属し、役者 への道を目ざしはじめるが、ご多分にも れず出てきたのが親の反対。なにせ、富 田さんの父は、お堅いうえにも堅い銀行 マンであった。 「ふつうのサラリーマンになれってこと で、いちおう中央大学の商学部に入った。 でも、1年で退学しちゃった。 親にはま る2年間、退学のことを隠していたけど ネ。 あとで姉にわびを入れてもらい、許 してもらった」 昭和20年代から90年代前半は、いまか 思えば、貧しくはあるが日本全体がま だまだ若さにあふれていた時代だった。 「やればなにかができるんだって不思議 に信じられた時代でしたネ。だから退学 なんてちっともめずらしいことじゃなく て、ぼくと一緒に入学した仲間も、ほと んどが中退しちゃった」 そのまま劇団『東芸』に入る。もちろ ん、劇団に入って即、食えるほどなまや さしい時代ではないから、当然、ありと あらゆるアルバイトに手を出した。 「池袋あたりのサンドイッチマンとかネ。 でも、一番もうかったのは鉄くず屋。 時 間の制約はないし、くず鉄集めてきて売 りゃ終わりだから、芝居やってる人間に は非常につごうのいいバイトだった」 昭和28年、テレビ開局。外国映画の吹 きかえ放送がはじまり、アテレコなる職 業が誕生したとき、多くの新劇人がそこ へ殺到したのも同じ理由による、という のが富田さんの意見である。 「映画やテレビドラマだと、リハーサル はある、ロケはある、へたすると1本で 週3、4日はとられちゃう。その点、ア テレコだと、当時はナマ放送だったし、 どんなにかかったってまる1日。舞台を やる人間には、うってつけの仕事なんで す」

大ケッサク!! ナマ放送のアテレコ

ナマ放送のアテレコって、どんな感 じでやるんですか。 「ぼくの最初のアテレコは、たぶん開局 と同時で、日本テレビの「アニーよ銃を とれ』か『ロビンフッド』だったと思う けど、それはすさまじいものでした。ま ず、何人出演者がいようとマイクは1本 きり。画面をじっと見ててネ、自分の セリフのところになるとマイクの前にと んでいってペラペラ。当然、出演者どお しマイクの奪いあいになるし、トチって アッ、イケネー”なんていうとそのま ま放送に入っちゃうし、ひどいときにな ると、マイクの前にたどりつけず'アッ、 アッ、アッ〟と奇声を発しているうち、 1時間終わっちゃうなんてこともあった。 テレビがはじまって約1年間ぐらいでし たけどネ、ナマの時代は。それでも、こ んな心臓に悪い仕事、オレ、長生きした いからよすヨっていってやめちゃった人 間もだいぶいました」 爾来四半世紀、富田さんはこの道ひと 筋、30年代なかばからアニメまんがのブ ームがはじまるや、その初期の作品『鉄 人28号』からかかわりを持つなど、文字 どおり声優界の生き字引的存在として今 日にいたる。

新人の見分け法は・・・・・・

その富田さんに昨今の声優ブームはど ううつるか。 「まず、声優ってのは、アニメの主人公 1~2回やって、それで一人前なんてな まやさしい仕事じゃないってことです。 一部のスター声優にスポットライトが当 たることにより、ブーム的状況が起こっ て、声優界全体が押しあげられたという 面では、たしかに大いに評価すべきだと 思う。が、スポットライトを浴びている 人間以外にも、もっと上手で、もっと一 生懸命努力していて、しかもぜんぜんめ ぐまれないでいる人間がいっぱいいる。 ぼくは、ブームの奔流のなかで、こうい う人たちを踏みにじるような行為があっ たらこれは絶対許せない。いまの若いも のは・・・なんていい方はきらいだけれど、 この一点、10年、20年一生懸命努力しつ づけている人間を踏みにじるような行為 ぼくは絶対させない、これは〝バオバ ブ〟設立の精神でもあるんです」 温厚そのものの表情が、一瞬、キッと きびしくなった。 富田さんからみて、まあ一人前の声 優と呼べるようになるまでには、何年ぐ らいかかりますか? 「非常にカンのいい子で、まず5年はか かる。それも、声の勉強だけしているん じゃ絶対ダメ。演技者として修業しない と、絶対、ダメ。 それと、創造力のない 人間もつづきませんネ」 -共演している若手声優の演技開眼な どは、すぐ気づきますか? 「直接はいわないけど、これは、すぐわ かりますネ。〝勉強してるネー、うまく なったネェー、セリフいえるようになっ たネー"なんて、ベテランどおしで話す ことはよくある。あとで聞いてみると、 そういう子は”じつは、このまえ、舞台 やりまして”って場合が多い」 かの見分け法は? 新人が声優として伸びるか伸びない 「本をたくさん読む子、舞台の勉強をキ チンとやる子、先輩のいうことにきちん 耳をかたむけ、その意見をきちんとセ レクトして吸収できる子。そういう子は、 だいたいのびますネ。 先輩のいうことに 聞く耳持たないってのはまずダメみたい」 だんだん声優入門講座みたいな趣きの インタビューになっちゃったが、なんの おもんぱかりもなく、ついついなんでも 聞いてみたくなる不思議なムードが、こ の人にはある。

歌は"浪曲子守唄" 家庭には高3 (男) 小5(男) 小3 (女)の3児あり。 「長男はことし大学受験なんで、いまヒ ーヒーいってますよ。休日は、月1回あ かなしかだけど、日曜はなるべく早く 帰宅するようにして極力、スキンシップ をはかっています」 20代のころは”斗酒なお辞せず”の酒 豪だったが「いまは毎晩、ビール大びん 2本プラス水割り3杯ってのが平均か」 1日の睡眠時間は平均5時間。 健康に 特別注意を払うというわけでもないが、 やはり声の商売ということで、ノドにだ けは気を使っている。 「酒飲んだら歌わないとかネ。そう、ス ナックなんか行くと歌いたくてムズムズ するほう。レパートリー?“浪曲子守唄" とか兄弟仁義"ネア、タバコも4日 前から禁煙中」(禁煙と禁歌に関しては、し ゃべっていたときの富田さんの表情から察し て、現在もなお、守りつづけられているかど うか、保証のかぎりではありません)

"がらくた工房" 第一回公演

"バオバブ"のほう はまず理想的な歩み をつづけている」と いうことで、いま、 富田さんが最大に情 熱を燃やしているの が、新しく作った演 劇同人組織「がらく 工房』を通し、日 本人がもっとも苦手 とするといわれてい る喜劇に新分野を開 いていく仕事だ。 バオバブ"所属の声優さんをそのまま 『がらくた工房』の同人に横すべりさせ たりせず、同人に名を連ねているのは、 富田さん、富山敬、肝付兼太さんらベテ ラン6~7名のみ。 ピンポンパン”の台本を書いていた榎 雄一郎という28歳のすばらしい作家がい ましてネ。 彼に演出兼座付き作者的な立 場で同人に加わってもらい、年1~2回公演を打っていこうと思っ ています。つかこうへいほ ど極端ではないが、榎君て のが、今日的なすばらしい ニューコメディの台本を書 くんです。彼の台本で、新 しい喜劇はかくあるべきだ って感じの舞台を作ってみ たい。声優へのファンの声 援にこたえるために公演を うつのならば、せめてこれ ぐらいのレベルのものを、 という舞台を作るつもりで す」 13日、東京・平河町の砂防 会館ホールで「王様の耳は 「ファンタジー」を上演する。 先の同人のほか水島裕、井 上和彦さんら、若手の声優 も出演するが「彼らには舞 台で修業させるため出演さ 「せます」と、ピシャリ。 先々月号で紹介した柴田成に青熟味っ いうことで「シンフォニックドラマ」の完 成に情熱を燃やせば、かたや富田さんは 「舞台は舞台、公演をうつ以上、それと して一人歩きできるレベルのものを」と、 かたくななまでにケジメをとおす。 どちらかといえばツッパリ型の柴田さ んに対し、あくまで自然流の富田さん。 どちらもピシリと背骨が通っている。 戦後の激動期をめいっぱい生きてきた、 中年族の生きざまにつらぬく背骨のたし かさをあらためて感じさせられた2回の インタビューだった。

Toshio Furukawa (March)

声優、役者、劇団運営....

周知のごとく声優界には、過去新劇の 役者だったという経歴を持つ人が圧倒的 に多い。が、今回登場の古川登志夫さん は、団員50人をようする劇団「櫂」の幹 部俳優であり、声優業とともに役者業、 さらに劇団運営と、ひとり3役をこなす 現役中の現役役者さんだ。 そのひとり3役の日常はいかなるもの かと、本拠地、東京・吉祥寺のビルの3 「階にある「櫂」の稽古場を訪ねた。 古川さんの声の仕事のレギュラーは『青 い鳥』のナレーター 『宇宙空母ブルーノ ア』のドメニコ、ザイテル総帥 『サイボ ーグ009』のブラフマー、テレビ映画 『白バイ野郎ジョン&パンチ』のパンチ、 ラジオ版『巨人の星』の花形満などつご う9本。なみの感覚からすれば、これだ けで1週間のスケジュール表はまっ黒、 劇団の仕事は、幹部俳優とはいえ、まあ 定期公演に顔を出す程度と勝手に想像を めぐらせ出かけたのだが・・・。 約50畳ぐらいの広さの「櫂」の稽古場。 10人ばかりの着物姿のティーン(たぶん) が、木刀を脇に正座、中央で行なわれて いる殺陣の稽古を熱心に凝視している。 Gパンの上に黒紋付の着物をはおるとい う珍妙なイデタチの小柄な男の人・古川 さんが、ときおり「きみは型だけにこだ わってるんだよ。ほんとは真剣だってこ と忘れてるんだ。ハイ、もう1回やって みて!」と、きびしく声をかける。 一次の公演の稽古ですか? 「いや、これは、具体的な公演とは関係 のない劇団研究生たちの基礎訓練のひと つ。このほかにも空手や日舞、バレエな どの必須科目を設けています」 古川さんはその指導もやっている? 「殺陣など、できるものはネ。でも、研 究生、幹部の関係なく劇団員全員の必須 科目ってのもあるんです。空手なんかそ う。これは、執行部と若手の隔絶をなく すという意味もあるけど、役者は体を動 かせなくなったらおしまい。その訓練の 意味でも全員でやってるんです。どうし たって幹部俳優のほうが体なまってるか ら、若手にバカにされながらエイ、オー とやっていますヨ」

自称“フケ目の若づくり"

それに定期公演が加わって、プライ ベートタイムなんて皆無? 「ないですネェ。これまでは、紀伊国屋 ホールなどでおこなう本公演が年2本、 研究生もふくめた小公演年5本のペース でやってきたんですが、ことしから本公 演5本、小公演7~8本のペースでやる ことになったし、いったいどうなること か」 なにせ、週9本のレギュラーで、月曜 ~土曜はびっしり声の仕事がある。 「それに研究生の基礎訓練を最低月6[ はみなきゃいけないし、公演の準備があ ったりで、いちど都心に出て声の仕事を すませ、とんぼ返りで吉祥寺に戻り、劇 団の仕事を終えて再び都心へなんてこと はしょっちゅう。睡眠時間も平均4時間 ぐらいですからねぇ」 ー20代ならまだしも、三十路を越える とこたえるでしょう、といったら...... 「こたえます」 ー"フケ目の若づくり”と自称する童 顔をクシャクシャにして、実感をこめた ひとこと。 ところで、その劇団幹部としての発言 だけを聞きフヶ目の若づくり"なんて いわれると、古川さんのことを即、その 道数100年の大ベテランの中年と誤解され そうだが、昭和24年7月16日生まれ、か の神谷明氏と同年の33歳。ちょっと無理 すりゃ、立派にヤング世代を自称できる 年齢である。演劇の世界に首をつっ込ん でからも、たったの(?)10年。

アングラ演劇を横目に・・・・・

栃木県の生まれ。15人兄弟の末っ子と いうこともあり、中学から「親子ほど年 の違う」お兄さんの いる東京へ。高校時 代、演劇部に籍を置 いていた関係から、 「バクゼンと役者に なろうと思い」 大学 の演劇部を目ざした。 「最初、早稲田の演 劇と思ったけど、受 験勉強するのがいや だったから」日大演 劇部へ。 時あたかも70年安 保の嵐吹き荒れたこ 日大演劇部はそ の学生運動の台風の 目のひとつ、日大全 共闘の拠点だった。 授業もヘッタクレも なかったそういう時 期に、そういう大学 に入った。 「大状況はそうなん ですよネ。でも、ぼ くは不思議に日大で は勉強したんです。 演劇概論とか演劇に 関係ある科目は片っぱしから受講したし、 歌舞伎の研究までしました」 ついでにいえば、この時期は、新劇界 にとっても、唐十郎の状況劇場、早稲田 小劇場などアングラ演劇が胎頭、既成の 新劇が総攻撃をくらっていた時期。この 新しい演劇界のすう勢に心動かす人間が もっとも多かったのも日大演劇部。それ 「外の状況にうとかったのかなァ、そう いう動きがあるってことは知ってたけど、 心動かされるってことは全然。 バクゼン と大学出たら劇団にはいろう、入るんな ら、俳優座から分裂した青年座かなあと 思っていて、その青年座が、創立者であ 中田浩二さんを中心に劇団”現代"と して分裂したから、その〝現代”から3 年前、中田さん自身が出て櫂"を作っ たんで、一緒に創立に加わったというよ うなわけで」 気負うこともなく、てらうこともなく、 あくまで淡々とその役者志望の経緯を語 ってくれた。本人が淡々としているぶん だけ、当時の演劇状況を知るものには "天然記念物"的貴重人間に見えてくる から不思議である。

15人兄弟末っ子の強み

「だけど、いざ大学出て、仕送りとめら れてあらためて思い知ったのは、芝居っ てこんなに食えないものかってこと。新 劇やってもうかるとはもちろん思ってい なかったけど、とにかく食えないんです」 どうしたか。 「高度成長のまっただ中、働こうと思え ばバイトロには事かかなかったし。それ に劇団にくりゃ、最低インスタントラー ーメンぐらいは食べられるし、泊まれま すしね。だから、役者やめちゃおうとは 一回も思わなかった」 それに、15人兄弟の末っ子というのも 大いにモノをいった。 「子供のころ亡くなったりして、いまは その半分ぐらいですけどネ。高校のころ は15人なんて、絶対、なにか秘密がある んだと思い、戸籍謄本取り寄せて調べた りしたんですが、正真正銘おやじとオフ クロの間に15人生まれていた。で、一番 上の兄なんて親子ぐらい年が違う。あ は食えないんだって兄弟みんなが思っ るから、怒りながらも、ときどき小使い くれたり、公演があればキップを何10枚 単位で引き受けてくれたり、大いに重宝 しました」

マジメ人間の本領は・・・・・

最初に、役者として金の入る仕事をし たのはテレビドラマ。 「NHKの大河ドラマ"新平家物語〟に 赤鼻の伴トの家僕役で出たりしました。 だけど、ロケなんかふくめ1週間拘束さ れて4万円。それが定期的にあるわけで もない、出演料で食うなんてとても・・・」 だから、役者の収入で最低限食えると いう状況になったのはほんの3年ほど前、 劇団の主宰者であり、声優界の大ベテラ ンである中田浩二さんの縁で声の仕事を しだしてからだという。 「それでも、ぼくなんかギャラ安いから、 いまぐらいの数の仕事をしてやっと食え るという状態。どの程度に食えるかって エー、6年半いた高円寺の4畳半の アパートをようやく出まして、いまは家 賃7万円の荻窪のマンションに住んでい ます。クルマ? とんでもない。ほしい けど、そんな余裕はとても・・・」 みじめっぽいのとは正反対のアッケら かんとした口調は、およそ芸能人という 感じではない。いってみれば、大学時代 の旧友と久しぶりによもやま話に興じて いるといったムード。 新宿でバーテンのバイトをしていたく せに「お酒は一滴もダメ。スラップステ ィックの曽我部(和行)なんかがノンベ だから飲み屋につきあったりしますが、 どうしても飲めない。女もダメ。ぼく、 本質的にはホント、マジメ人間みたいで す」 ふつうの人がいえばイヤ味に聞こえる マジメ人間”なることばも、この人が いえば、すなおにうなずきたくなる。 マジメ人間の本領は、フル回転の仕事 のすみずみにまで発揮されている。 「自分の出ているアニメやテレビ映画は、 放映時間にはとても見れないから、全部 ビデオにとって、深夜とかたまの休日に まとめてみています。それと、話題のア ニメ、あるいは新番組の1回目は自分が 出てなくてもネ」 声優ならあたりまえのことといった表 情でそういわれると、こちらは絶句ある のみである。

自然体の演劇人

もっとも、これらをもって古川さんを ゴリゴリの石部金吉タイプの人間と判断 するのは大いに早計のようだ。 「ぼくは昔ふうの演劇青年じゃないから、 声優がその人気を利用してステージなん かやるべきじゃないとか、そんなこと全 然思わない。歌だろうと、なんだろうと やれっていえば、何だってワーワーやっ ちゃうほう。それで芝居する金稼げるな らね。わりといいかげんなんです」 る。 と自らを分析してみせたが、たしかに、 昔ふうの演劇青年とは一味も二味もちが う柔軟な頭脳構造をもった芝居人間であ もうかりもせず、食えもしない劇団 持と役者業をなぜ一度もやめようと思わ ずつづけてこられたのかとたずねたとき、 古川さんは「さあ・・・」と考え込んだきり 答えなかった。 「役者が好きだから」「こういう芝居をや ってみたかったから」ことばとしては明 快だが、シラジラしく月並な答えをいわ れるより、はるかに 納得のできる沈黙だ った。 古川さんと同じこ ろ、はるかに先鋭な 演劇理論を怒号しな がらちまたをかっ歩 した演劇学生のほと んどは、10年後の今 日 ほとんど並みの 市井人に戻ってしま っているようだ。怒 号もせず、肩もいか らせなかった古川さんは、いまも、同じ 自然体で黙々と劇団活動にまい進してい る。劇団「櫂」の演劇活動の堅実さから みて、この姿勢は将来も容易に崩れるこ とはないだろう。 念のため付言しておけば、古川さんは 独身にあらず。「25のとき、結婚しました。 女房は芸能界とは無関係。デパートに勤 務していました。食えない時期には養っ てもらったりして・・・」 最後までつつみかくしのない人だった。 (次号は三ツ矢雄二さんの予定です)

Yuji Mitsuya (April)

「ほんとは何をやりたいのか......」

声優にかぎらず、芸能界で売り出し中 の若手タレント一般にとって、春秋のテ レビ番組2大改編期は最大の“勝負”の 時である。ここで新番組のレギュラーの 座をがっちり確保できれば、上昇中の人 気をより定着させることができるし、な によりも、むこう半年から一年の生活は バッチリ保障されるからだ。 いきおい、この時期になると若手たち は、必死になってレギュラー出演のため の活動をはじめることになるのだが、こ こにひとり”レギュラーなんていらない よ。それよりアメリカに遊びに行きたい" と米国遊学宣言、さっさと4月スタート の新番組ぜんぶ降りちゃうという豪の 者"が現われた。 人気声優の三ツ矢雄二さんだ。 話はしたがって、仕事のほうはそっち のけ、まずはアメリカ行きの話題に集中。 ―むこうにはどれくらい? 5月下旬から7月まで約2か月。去年 から思いつめてて、ふだんは金銭感覚ゼ 口だけど、ちょっとまじめにお金貯めて、 ……………。2か月だと旅費、滞在費ふくめて 百万円ぐらい。できたらニューヨークで アパート借りて、そんなゼイタクするつ もりないから ブロードウェイでミュ ージカルをじっくり見てきたいんです」 昭和30年10月8日生まれだから、ただ いま24歳。160秒、45という小柄な 体に加えてごらんのとおりの童顔。ちょ っと見はせいぜい大学一年生といったく ったくのない表情で、アメリカ行きの動 機を語りつづける。 「帰ってきて、また同じように仕事が入 ってくるかどうか何の保証もない。不安 がないといえばウソになりますよネ」 と認めながら、それでもこの時期に渡 米を決意したのは、つまるところ、 「声優として恵まれ過ぎたスタートをき たしかに居心地がいいんで、安易に ここまできちゃったけど、このままズル ズルいっちゃうのはこわいと思い出した。 自分はいったい何やってるのか、ほんと は何をやりたいのか、白紙の状態でゆっ くり考えてみたかったから」

学生アルバイトだった声の仕事

自ら恵まれ過ぎたスタートと認めるよ うに、三ツ矢さんの声優歴は、まだたっ たの3年。いわゆるアニメブームの渦中 に声優となり、下積み経験ゼロでけっこ うお金を稼げるようになった。声優界で は例外的存在である。 生まれ育ちは名古屋市。 小学校6年ご ろから名古屋国際児童劇団に所属、地元 のテレビやラジオに子役として出演して いた。 「NHKの〝中学生日記〟にも竹下景子 さんなんかといっしょに出ていました。 ぼくは童顔なんで、高校時代もふくめ4 年ぐらい中学生やらされたけど」 そのまま役者になるか別の道にすすむ か、シカと決めかねたまま、両親にも進 学するがごとくしないがごとく、アイマ 言質を残したまま高卒と同時に上京。 「親には内緒で、すぐアメリカに行っち やった。子役のころの貯えが少しありま したからね。ニューヨーク、シカゴを中 心にベビーシッターなんかしながら3か 月ぐらい暮らしてヨーロッパまわって帰 ってきた。その旅行で、やっぱり大学へ 行って4年間を執行猶予期間にして、進 む道をゆっくり考えようと思ったわけ」 「大学行くから学資出して」と両親に申 し入れ、半年の受験勉強ののち、翌年春、 明治大学に入学。 「ちょうどそのころ〝中学生日記”のデ イレクターがNHK名古屋から東京に転 勤になったんですね。大学2年のとき、 教育テレビの“ぷるるクン"という人形 劇の声をバイトでやらないかと声かけて くれて、軽い気持ちで出演した」 共演にベテラン永井一郎さんがいた。 『コンバトラーV』のオーディションを 受けてみないかとすすめられ、 なんとなく受けたら受かっちゃ って、その後はチョロチョロと、 切れ目なく仕事が来るようにな り、大学3年の後半には月収20 ~25万円は稼ぐ身分に。 「で、大学出るころには大変な アニメブームでしょ。声優の仕 事自体は好きだけど、ハタと気 づいたら、オレ何やってるんだ ろうって感じ。考えてみたら、 人脈に恵まれてここまで来たっ 感じもあるし、大学4年間が 執行猶予にならなかったから、 もう一度、執行猶予期間を設け、 考えなおしてみようってのが、 アメリカ行きの一番の動機なん です。」

ピアノ、合唱団、バレエ、絵・・・・・・


ふつうの24歳の感覚でいけば、きわめ て納得のいく説明ではある。が、ブーム の渦中にあり、そのブームの恩恵をフル に享受している人間の言葉として考えれ ば、なんともクールなつき放しようとい うか、決断力のよさというか...。 このアメリカ行きにかぎらず、一事が 万事、並みの芸能人とはひと味もふた味 も違った肌ざわりで生きている男のようだ。 たとえば、24歳というトシにしてはあ まりに豊富なケイ古歴(?)。 「幼稚園から小6までピアノ。親の意志 でもあったのだけど、ぼくは3人兄弟の 末っ子のうえに両親とも働いていたから、 いわゆるカギっ子だった。やることない から、塾のハシゴをやってたんです。歌 やりたくて合唱団に入ったり、モダンバ レエを6年間ぐらい習ったり、絵の塾に通 ったり、ぜんぶ自主的に通った」 カギっ子によくあるように、テレビに かじりついてアニメに夢中になるなんて こともほとんどなかったという。 「一人で所在ないときはネ、子どものこ ろからフトンにもぐって空想にふけるク セがあった。宇宙のはしのはしのはしは どうなってるんだろうかとか、考えてる とぜんぜん退屈することなかったナァ」 子どものころからそれだけ自分独自 の世界、独自の生きざまを持っていたと すると、友だちなんかとも、そうつるん でなくても不安にはならないほう? 「まんべんなくはつきあうけど、いなく ても、まあ、痛痒は感じないほうかな」 いまでも、時間があると、レコードを 聞くか本を読むのが余暇の過し方。週3 冊平均は読むというが、その本がまたナ ミじゃない。 「演劇関係じゃブレヒトとかスタニスラ フスキー、ギリシャ悲劇から能・狂言の 古典書まで一応ぜんぶかじったと思う。 いま、2DKのアパートに住んでいるけ ど、四畳半の部屋のほうは本とレコード が山積みでまるで倉庫」

アパートに"3人"ずまい

一昔前ならスタニスラフスキーなん てふつうの本屋でもあったけど、ペーパ ーブックスはんらんの最近では捜すのも 大変でしょう? 「だから古本屋専門。新本で買うと3千 円~5千円はするし。大学のころなんて 手ぶらで学校いって、帰りは山ほど本か かえて帰ってくるなんてしょっちゅう」 そういう意味で、声優という仕事は三 ツ矢さんにとってきわめて性に合った仕 事でもあるそうだ。 「空き時間、パッと喫茶店に入って本読 めるし、本屋やレコード屋まわれるし、 フル活用できるんですよネ」 もちろん独身。「マンションじゃなく アパートにネコふたりと」同棲中。「ふ つうの「駄ネコ」とのことだが、蘭丸(オ ス) 竹千代(メス)とも大変かわいがってい るそうだ。 「マメなんです。 そうじもセンタクもき らいじゃないし、料理もアレンジ能力あ るから得意だし、そうなりゃ、奥さんな んていないほうがめんどくさくなくてい いんじゃないかと......」 ニューヨークから戻ってきて、ぜんぜ ん声の仕事がなく「最悪の場合は喫茶店 でバイトをしてもいい」ぐらいの覚悟は しているというが、2か月間むこうで沈 思黙考し、この世界から足を洗っちゃう ということは、まず、ありえないという。 むしろ、むこうへ行く最終目的は「キ ザにいえば、ステージ・パーフォーマー というか、舞台で通用する役者として飛 躍したいから」

ひとまわり大きな役者に・・・・・・

声優業の片手間にときどき芝居をやり たいということではない。 「戻ってきたら、オーディション受けた り、つてを頼ったりして、自分で舞台の 仕事をみつけることもはじめたい。最終 的にはミュージカルとかショーとか、視 覚的に楽しい舞台を作れる役者になりた いし。声優も好きだし、お金稼げるし、 できればつづけるつもりですけど、この 仕事だって、しゃべれればできるっても んじゃない。長年芝居をやってる人って のは、しゃべりは少々ヘタでも、共演し ていてやっぱり負けると思うもの」 この1月「がらくた工房」の芝居に出 演、そのレッスン中に、モダンバレエを 6年もやったはずの自分が、せいぜい1 年ぐらいのレッスン歴の人間よりはるか っていた。 に体が動かないのを知りガクゼン 「また、レッスンに通い始めたんです。 でも、3月半ばで当面最後のレギュラー の仕事がんばれベアーズ"の収録が終 わって、なんにも仕事がなくなったら、 やっぱり不安になるのかなァー」 最後はちょっぴり弱気の発言。 だいじょうぶ。三ツ矢さんが所属する バオバブの〝大親分"富田耕生さんがい 「若手で、これはのびるナってわかるの は、その子が舞台に 意欲的かどうかって こと。人気の渦中に あっても、芝居をや らなきゃって自覚し 勉強している子は 必ずのびる」 三ツ矢さんは人脈 だけでここまできた といったけれど、そ の人脈とて、三ツ矢 さんが子供のころか らいろんなレッスン を積み、驚嘆するほどの読書量を誇り それだけの中味をそなえた役者だったか らこそ、できあがった人脈と解釈すべき だろう。 心おきなく〝執行猶予の旅”を楽しみ、 ひとまわり大きな役者になって、ふたた び秋の新番組でファンとあいまみえんことを! ファンもそれを期待していよう。 Bon! Voyage!

Akio Nojima (May)

ピヨピヨ大学・チャボ博士

「ヤクルトホールでの最初のコンサー のときネ、幕があいたら満員の客。 神谷 にサーっとスポットライトが当たるとワ キャー、曽我部でまたワー、古谷で ワー、ぼくにはワーっとは来なかったけ ど、ほんとそばでみていて、ひたすら”へ ー”ホーツ〟。アニメブームってホント なんだなァと感嘆符の連続だった」 このことばでお気づきの方もあろう。 今月の登場は「スラップスティック」の リーダー、野島昭生さん。 アニメの主演はほとんどなく、レギュ ラー作品も通常、多くて2本。アイドル 歌手なみの熱狂につつまれているスラッ プのほかのメンバーにくらべ、いわゆる アニメ世代”には、いまひとつなじみ が薄いようだが、メンバー全員から兄貴 分として慕われ、尊敬されている。いわ ばグループの精神的支柱である。 なにせ、キャリアが違う。 「テレビ放送が始まったころ”ピヨピヨ 大学”って人気番組があったの知ってま す? あの中の5代目チャボ博士がぼく。 あのころから出ていました。だから、ア テレコもナマのころからやっている。 最 初の仕事は『地方検事』って外国映画で ネ、父親が殺され、ショックで口を聞け なくなった子どもの役。セリフはだから たったひと言。最後に犯人を指さしこ の人だ!"・・・」 40を越えた中年のオジンを想像しても らっては困る。新宿御苑の真裏、所属す る俳協センター近くの喫茶店。目の前に いるのは、いかにも若々しい感じの、ひ とりの若者”である。 頭こんがらがるから、最初に年齢を。 「昭和20年6月3日生まれ。つまり、子 役出身です。だから、声優界じゃ年のわ りに変な地位にいるんです。世代や感覚 からいえば、明らかに曽我部、神谷、森 功至ら声優第二世代に属する。だけど仕 事は、納谷悟朗さんとか山田康雄さん、 富田耕生さんら第一世代の人たちとずっ とやってきたから、こちらの感覚もわか る。つなぎの世代というか、妙な役まわ りのところにいるナと自分でもときどき 思います。『ローハイド』なんかにも山田 さんたちと一緒にずっと出ていましたし ネ」

貧しさにイジケなかったプライド

旧満州国の生まれである。父親は生後 40日目、終戦のわずか1か月前に赤紙が 来て召集、そのまま戦死した。 母親の腕に抱かれ、姉と3人で、生死 半々といわれた内地へ引きあげる。 「記憶があろうはずもないが、よく母 連れて帰ってくれたといまでも感謝して います。どうせ途中で死んでしまうなら と、子どもを中国人にあげてくる親もい っぱいいたわけですから。よく〝私の肉 親を捜して下さい”って新聞記事がでる でしょう。もしかしたらぼくもって、い までも見るたび思います」 芸能界にも戦後、中国から引き揚げて きたという経歴を持つ人はたくさんいる。 が、野島さんが引き揚げの話をするその 口調には、他の人のそれにはない"何か" があった。 たぶんそれは、この一家が日本への引 き揚げ後もずっと、自分が起こしたわけ でもない戦争の犠牲をもろにかぶって生 きつづけねばならなかったことに由来す るのだろう。が、口調はあくまで淡々と している。 「おふくろが外で働きづめに働 いて、ぼくたち姉弟を育ててく れましたからネ。家なんてない。 ずっと四畳半のアパート。そう いう環境で芸能界に入ったわけ でしょう。休憩のときなんか、 あれを冷蔵庫で冷やして食べる とウマイとか、そんな雲の上の 生活の話が耳に入ってくる。子 どもながら変なプライドがあっ た。テレビ局では車で送り迎え してくれるんだけど、見られる のがいやで、絶対、家まで送っ てもらったことはなかった。角 まで来るとぼく、ここでいい です"って降りちゃう」 ただし、生活の貧しさによってイジけ たり、ひねくれたりはしなかった。逆に その貧しさを冷静に腹の中にたたき込み "とにかく自分の足でたたなきゃだめな んだ"という強じんな性格へと昇華させ ていく。

天性の明るさ

「メンコでもビー玉でも強かったですよ。 なにせ、元手がない。勝って増やすより ないんですから。高校のときなんかネ、 正月越す金がないという。おふくろ待っ てろっていって、当時はやりのパーティ 企画しましてネ、パー券大急ぎで刷って さばいて、ほい、正月の金できたなんて」 高校は東京都立井草高校。「経済的にい って公立しかダメだと思ったから集中的 に勉強して、そういう集中力はあるんで す」 大学へも進むつもりで、実際二つの大 学に合格したが「どう考えたって金の出 どころがない。高校卒業したらオフクロ くわせてやらなきゃあとも思っていたし」 スッパリと進学を断念。 「考えに考えた 末、演劇の道に進むことに決め」 当時、 富田耕生、森山周一郎さんら声優界の先 輩が在籍していた劇団「東芸」に入団した。 生活の苦労などほとんど知らずに育っ たとしか考えられないおだやかで、フワ ーとしたムード。現在の野島さんには、 そういう意味での青少年期の生活の痕跡 はおよそ感じられない。 「みんな、そういう。おまえ、いいうち でフワーっと育てられたんだろうってネ。 これはたぶん天性なんだろうけど、子ど ものころから本当に、明るくて活発な性 格だった。その性格にカバーされている んです。実際いうと、いまでも幼年期の コンプレックスの裏返しかなァと思うよ うなところもいっぱいあるんですけどネ。 女房はわかってるみたいだけど・・・」

「理不尽なことにガマンできない」

家庭では、ことしピッカピカの一年 生になる」 6歳の男児を頭に3歳、0 歳と男児3人のパパ。結婚式の仲人は名 バイプレーヤー・花沢徳衛さん。 「エプロン父さん”というテレビドラ マで共演して以来、かわいがっていただ いて」。この花沢さんにかぎらず、長年、 芸能界で辛酸をなめ、現在の地位を築い てきた超ベテランの役者さんたちには、 つい目をかけたくなる”何かをこの人 は持っているようだ。 「ホント、かわいがってもらっています ネ。自分では、人にきらわれない自分の 性格がときどきイヤになって、個性の強 いヤツにあこがれたりするんですが・・・」 たぶん、かわいがられるのは、性格の せいだけではないだろう。筋を通さねば ならないときには自分の利害を度外視し て、一直線に行動する強烈な正義感がそ れ。 声優が注目される以前だから記憶して いるかたは少ないかもしれないが、昭和 44年、声優さんたちが待遇改善を要求、デ モやストライキで立ちあがった”事件" があった。声優はいってみれば個人企業。 押しも押されもしない大ベテランならと もかく、野島さんら若手の場合、この種 の闘争の先頭に立つことはすなわち、そ の後の仕事をホサれる危険に身をさらす ことでもある。 「熱くなっちゃうほうなんですネ。 先頭 になって旗ふった。闘争に負けたら、一 生仕事来なくなるとは思ったけど、や っぱり理不尽なことにはガマンできない 性格だから・・・」 現在のレギュラーはフジテレビの4月 番組『爆発! デューク』と、登場時期 は未定だが 『ベルサイユのばら』の黒騎 士ベルナール・シャトレ役の2本。

「毎日が勉強〟これが本当」

「意識してやってるわけじゃないけど、 レギュラーってのは、だいたいいつも1 本ですね。ボクのペースとしてはちょう どいい。1本だと、洋画劇場なんかの長 尺ものの仕事とれますしネ」 声優、テレビドラマ、芝居、最終的に どれをやりたいと、ジャンルをしぼるつ もりはないそうだ。 「しいていえばぜんぶやりたい。よく、 マスコミの仕事ばかりやってると勉強に ならないなんていわれるけど、これはウ ソ。1本1本、懸命にやればそれがちゃ んと身についてくる。花沢徳衛さんに最 初にいわれたけど毎日が勉強だこれ がほんとだと思います」 「いまいちばんやりたいことは?」と聞 いたら「外国旅行、ラジコン等々、月並 みにいっぱいある。だけどつきつめて考 えてみると、口ではいってみるが、本当 にそれやりたいかというと、どうでもい いみたい、そういう意味でのやりたい こと」といってから、ポツンと「笑われ るかもしれないけど、ホントのところ、 とってもプチブル的な生活にあこがれて いるところがある」 芝生の広がる明るい庭があって、ポロ ンポロンとピアノの音が流れ、ときにヨ ットを駆って外洋を旅し・・・ そういう文字通りのプチブル生活だと いう。

無農薬野菜にみる強烈な意志

3年前、借金して自分の家を買った。 「ちいちゃな家ですヨ、だけど、ときど き柱なんかながめていると、ホント、こ れがオレのものなのか、自分の家なのか って不思議な気持ちになる。ずっと四畳 半のアパートでしたからネ。だから、プ チブル生活へのあこがれってのも子ども 時代のコンプレックスの裏返しなんです、 たぶん」 休日はチビ連3人を連れて「必ずおフ クロのところへ遊びに行く」のが一家の ルール。ルールといえば、自然食品以外 食べないというのもある。 「玄米食に無農薬野菜。 サルなんかにい まどんどん奇形児が生まれてるでしょ。 サルの場合、人間の1世代が5世代ぐら いのテンポでしょ。すると、ぼくの孫か そのつぎの世代ぐらいにそういう現象が でてくる計算になる。その危険をできう るかぎり防いでやるのが親としての最低 の義務だと思う。だから、入学しても給 食は食べさせない。弁当を持っていかせ ます。学校と相当、めんどうな交渉にな るだろうけど、やるつもりです」 少年期の苦しい時代を回顧するときも、 将棋、カメラ、ギタ なんでも首をつ っ込み「専門家はだ し」のところまでい くが、その時点でパ ッとつぎの対象に乗 りうつってしまうと いうハバ広い趣味の 話をするときも、野 島さんの明るくおだ やかな口調は一貫 て変わらなかった。 ただ一度、ヒヤッと するほど強烈な意志 をムキ出しにして語ったのが、この自然 食の話。 生を受けると同時に、自分に何の責任 もない戦争のもっとも苛酷な犠牲を問答 無用におっかぶされ、いやも応もなくそ れをはねのけながら生きつづけねばなら なかった一人の少年の心に、意志として 刻印された、自分たちをひきずりまわし たものたちへの絶対的不信感。これ以 上ふりまわされてたまるか”ささいな自 然食の話に、そんな叫びを聞く思いだっ たといえば、いいすぎになるだろうか。 本名も野島昭生。34歳。本来ならば「戦 争を知らない子供たち」の第一世代に属 する人である。

Rihoko Yoshida (June)

男っぽい性格の持ち主?

『ベルサイユのばら』『ムーの白鯨』『一 休さん』など、レギュラーがつごう週6 本、大忙しの吉田理保子さんを訪ねたの は声優さんたちの〝梁山泊〟「バオバブ」 の事務所。 ローズピンクと濃いブラウンと白を大 胆にあしらったジョーゼットのツーピー ス あとでたいへんな誤解だとわかっ わきかけたところへ、ダブルパンチ。 「あっ、この洋服? ハハハ、たまには スカートはいて女っぽくしないと、洋画 の色っぽい女性の役をぜんぜんやらせて もらえないから。けっこうみかけで判断 されちゃうんですヨ。私みたいにGパン パンタロン以外仕事場に着てこない人 間は、とくにネ。それで最近、心を入れ かえまして・・・」

人一倍旺盛だった"自立心"

昭和24年1月24日の東京生まれ。育ち もむろん東京。3歳からバレエをはじめ、 中・高校は練馬区中村橋にある女子高 富士見高校・・・・・・と履歴書ふうにかいてい くと、ン!!ふたたび、やっぱ、女っぽ い人と思いたくもなってくるが、 「とにかく子どものころから騒々しくっ てにぎやかな子だった。遊び友だちはみ んな男の子で、やることといえば野球、 馬とび・・・・・・。少しは女らしくということ で中学から女子校に入れられたんだけど、 まるで逆効果。女ばっかりだと、女らし い子はますます女らしく、男っぽいのは より男っぽくなっちゃうのネ。ちょっと 気持ち悪いけど、下級生からラブレター もらっちゃったり」 自立心のほうも、ガキンチョのころか 人一倍旺盛。 「バレエだって、親がやらせたんじゃな いんです。3つのとき偶然稽古見にいっ たら、私もやるんだって、練習生のあい チョコマカ動きまわり、レッスン場 からでようとしないんですって。邪魔に なってほかの人に悪いし、親はしかたな 月謝払って入団させる破目に。一貫し てそう、自分のやりたいことには親兄弟 といえども口をはさんでほしくないって ほうだった」

声優一筋だった10年間

「こまどり」への入団も自分できめたこ とだし、高校を卒業し、いよいよ進路をき めるにあたって、やっぱり役者でと決断 したときも自分ひとりで。20歳になり 「どうしてもやりつづけるというなら、 家をでて自活してみなさい」と両親にい われれば、ちゃんと家をでてアルバイト で食いつなぎながら、立派にひとりで生 活してみせる。その決断力と度胸は相当 のものとみた。さいたる例 が、現在の職業、声優の道 に進んだときだ。 「児童劇団で中途半端な年 齢になってどうしようって 悩んでたとき、フジテレビ の人に、声やってみないか って青二プロ紹介されたん です」 ことわっておくが、吉田 さんはそのとき、声優経験 はまったくのゼロ。はじめて「さるとび えっちゃん」のオーディションにいき、 「ヘェー、子どもの声も、こんな大人が だしてたの」とビックリしたというくら いに声の世界にかんしてはドシロウトだ った。 「でも、声やる以上は3年間、この仕事 だけに専念しようと思ったんです。ほん とにスッパリ 声優に転身。 顔出しの仕事 なんて、まっ たくしなかった」 トントン拍 子にレギュラ ーの仕事がき たわけじゃな い。村人A的 役しかもらえ なかった初っ ぱなから、こ のいさぎよさ。 なんとも見上 げた女一匹" である。 「シロウトの恐ろしさでネ。最初はコワ イもの知らず。なんだ、声優ってこんな ものかって感じで調子よくやってたんで すが魔女っ子"あたりからかなあ、 だんだんこわさがわかってきた。ひとこ とのセリフが恐ろしくてなかなかいえな いような状態になってしまって…・・・・・」 恐ろしい先輩もいた。現「バオバブ」 のボス”富田耕生さん。 「ふるえちゃうぐらいこわかった。どな るんです。新人でしょ。ついつい台本見 ながらセリフいっちゃうんです。台本見 まず、画面見るんだッ!" 即、声 がとんでくる。こわくてネ、同じく新米 だった神谷(明)クンなんかと、台本見て、 画面見て、ついでにチロッとうしろにひ かえる富田さんの顔見て・・・・・・毎日そのく り返し。でも、それが本当に勉強になっ たんですネ。ふつうの先 輩だったらぜったい声に だして怒ったり教えてく れたりしないのに富田さ んの場合毎朝起きたら かならず新聞を声をだし て読め”とか、いろんな ことを教えてもらいまし た」 "まず3年間は専念”の 3年はとうに過ぎたけど、 じつは、吉田さん、声優 界にワラジをぬいで以来 10年近く、それ以外の仕 事を完全にシャットアウ してきた。 「ずうっと夢中でやって きて『未来少年コナン』のモンスリーあ たりで、ようやく芝居やってるんダナっ て実感がわきだしたけど、だから、今後 は顔出しの仕事もボツボツとなんて気持 ちはぜんぜん。美女から子ども、老婆ま でやれる声の仕事のほうがダンゼンおも ろい。顔出しだと、だいたい、どんな 役柄ってイメージづけられちゃうでしょ。 そういうふうに思い込まれてしまうの 本来的に不愉快なほうだし」 と、あっぱれスッキリしたもの。

二日酔いは天国にいるみたい

わすれないうちにいっておけば、モチ、 花の独身貴族〟。お酒も大好き。 「18歳のときまでお酒なるもの飲んだこ となかったのに、悪いのはNHKの人。 ドラマの打ちあげパーティで、まあ一杯 だけとさかんにいわれて、ゴクッとやっ たのが運のつき。ものすごくおいしくて、 なんでこんなおいしいものいままで飲ま なかったんだろうって深く後悔し、以後、 たまり場だった”骨と皮"というスナッ クに連夜の入りびたりですっかり腕をあ げちゃいまして・・・・・・」 友だちと、最高どれだけ飲めるか挑戦 とシャレ込んで2人でビール1本あけち やったり、水割り24杯なんて記録作った り。運の悪いことに(?)、並みの人なら 二度と飲むまいとカイない反省しきりの 二日酔いもこの人の場合「ファーファー と、世界がゆれて、まるで天国にいるよ うな心地よさ」というユニークなものと あって、酒絶ちの理由なんぞいまだみつ けようもないのである。 ただし、これで即、翔びまくってひっ くり返りそうになっている、今流〝ん でる女”を想像してもらっては困る。 まだ、声のレギュラーがつかず、声優 としての先行きが見通せなかった一番苦 しいとき、お母さんが「ことしダメだっ たらもう結婚しなさい」といいおいて、 ガンで亡くなった。四人兄弟だがいまは 吉田さんがのこされたお父さんのもとに もどり、お手伝いさんもおかず父娘水い らずで暮らしている。 「そうじもセンタクも料理も一応やりま すヨ。じつは、親孝行と思って、18歳か 2年間ぐらい花嫁修行もしたんです。 お花、お茶、洋裁、ぜんぶひととおり。 もっとも、お料理のほうは父のほうが上 手でネ、母が元気なあいだは、台所のな さえ入ったこともなかったくせして、 ナゼだか、いまやバツグンの味つけする の。しかも、いくら”コツ教えて”って 頼んでもぜったい教えてくれないのよネ .。 じつの娘なのに惜しいのかしら」 洋裁の腕などいまもたしかなもので、 この1月おこなわれた、がらくた工房の公 演『王様の耳はファンタジー』の衣裳も、 「ぜんぶ自分で作りましたよ」。

一番好きなのはメグちゃんとコナン

自分の出演番組は、再放送もふくめて ぜんぶ見ることを鉄則としているのみな らず、他人の出演作品も「時間が許すか ぎり勉強のために見る」という仕事熱心 さもある。 過去の出演作品で一番好きなのは「メ グちゃんとコナン」。今後、やってみた い声は「動物、そのほか、人間じゃない ものの声」。 三十路余りひととせ”になりたてのホ ヤホヤ。本人はどちらかといえば、20代 前半のセンスに近く「裕クン (水島裕)な んかと騒いでいてもぜんぜんズレを感じ 「ない」と思っているが、 「彼らにいわせるとネ”なにいってんの、 あわせてやってるのヨ”だって」 「ま、なんせオバンですからネ、いまや」 くったくない表情で笑った。 吉田さんはいま、ラジオ大阪で「アニ メトピア」というDJ番組をもっている。 そこへ、口の悪い高校生あたりから投書 がくるのだそうだ。 「オバン、しっかりやれ」 「こういうズバっとした大阪の感覚って とっても気持ちいい。さわやかなのネ」 それ以上にさわやかなのは、吉田さん のキャラクターのほう。インタビューの あと彼女 は、水島 裕ショー に出演す るため大 阪に向か った。 ふ と、水島 さんたち 「バオバ ブ」の若 手にとっ てこの人 は〝話の わかる、 ときにちょっと甘えられる中姉御”的存 在じゃないか、なんの脈絡もないのだ がそんなことを思った。 大姉御ほどこわくもケムたくもなく、 女性的魅力もいっぱいあって、しかも男 のようにサバサバしていてじつにさわや かで......。 (姉御"という語感の悪さはゴメンなさい、ひ とえに当方のボキャブラリーの貧しさをおわび します)

Hirotaka Suzuoki (July)

人気ベスト10の常連

「声優24時の担当のくせに・・・」と、鈴置 ファンにバカにされることを承知であえ てみずからの無知をバラス。 「鈴置洋孝なる名まえにはじめて注目し たのは、TBSが昨年はじめに出したあ 広報資料の中でだった。たぶんナッ チャコパック"の中でだったと記憶する が、声優の人気投票をおこない、そのベ スト10を発表した資料である。神谷明、 富山敬、井上真樹夫、山田康雄など常連 にまじり、3位の座にサン然と輝く「鈴 置洋孝」の4文字。 そぞろ好奇心をかき たてられ、即座にTBSの広報マン氏に TEL。 「鈴置洋孝って何者?」 「さぁ、ぼくもアニメくわしくないか らよく知らないけど、なんでも野沢那智 さんの薔薇座にいる役者さんらしいですよ」 いまから考えると、野沢さんにも鈴置 さんにも、まことに失礼な憶測だったが 「自分の番組が選んだベスト10の中で、 自分自身が上位にランクされることをき らった那っちゃんが、鈴置さんをいいふ くめ身代り登場させたのかな」 手にそう解釈したりしていた。ところが、 それから2~3週して発表されたべつの ラジオ局の同種の調査で、またまたベス ト10に鈴置洋孝の名まえがあった。 したがって、初対面の質問第一声は、 失礼をもかえりみず単刀直入に、 ナゼ、そんな人気があるんですか? 「たぶん『ダイターン3』がきっかけだ ろうと思うんですけどね」 モシャモシャ頭に白の木綿シャツとコ ットンパンツ。若手タレントによくある ように、ペンダントだとかブレスレット などの装飾はいっさいなし。腕時計さえ なし。タレントの中村雅俊をもう少しキ リッと引き締めたようなイメージ。

彼女獲得"の計画的(?)謀略

「ぼく、この世界に入ったの遅いんですよ」 昭和25年3月6日、名古屋生まれの30 歳。昭和48年、大学卒業と同時に野沢那 智主宰の劇団「薔薇座」の研究生となり、 はじめて演劇の世界に首をつっ込んだ。 「中学も高校も大学も、演劇とか文学と か、そのたぐいのものはいっさい無縁。 薔薇座もね、女房と一緒に受けに入って、 彼女はたぶん受かるだろうと思ったけど、 ぼくはダメだと思ったから、就職せねば 三鷹市役所とか地方公務員の試験受け だけど、競争率激しくてオールダメ。職 安なんぞに足を運んでいるところへ、二 人とも合格通知が来た。演劇やろうと思 ったのは、彼女の影響も若干あるかなア まるで、他人ゴトのように淡々とした 口調ながら、何の脈絡もなく聞き手をド キッとさせるような言葉をポンポンとし やべる人である。 女房って、つまりは学生結婚? 「式をあげたのは24のときだけど、一緒 になったのはぼくが22、彼女が1。彼女、 不幸だよネー。そう、大学のクラブの後 輩。べつに、最初は結婚しようとかそん な気持ちはぜんぜんなかったんですけど」 本人はいうが、彼女こと、現薔薇座女 優・秋野真理子さんを”ワガモノ"にす るにあたっては、相当、計画的な〝謀略 があったようす。 大学は東京・国分寺にある東京経済大 学の二部。 「一浪して入ったんだけど、ヌルマ湯育 ちのぼくには、本当に百八十度ともいえ る環境の激変だった。仕送りしてもらっ てるのはぼくだけ、クラスメートは全員、 自分の生活というか存立基盤を持ってい る。アセリました。自分を変えなきゃ ダメだと思った。人前では絶対ものもい いたくないって性格だったのに、何かを やらなきゃってことで、フォークソング・ クラブを作っちゃった。それまで、ギタ なんてさわったこともなかったクセに ネ」

動機不純の大学志望

夜9時に授業を終え、それから部室に 集まってワーワーという生活をつづけて 2年目の4月の某夜、ひとりの”生贄の 羊〟が、部室に迷い込んできた。 「この大学に演劇部ありませんか」 演劇部はゲンにあった。が、その女学 生の顔をみた鈴置さん、そんな素ぶりは ケほどもみせず、シラッとしていっての けた。 「ンなもんないよ。本大学でそのテのク ラブはわがフォークソング部だけ。ここ へ入っちゃったら?」 謀略"はつづく。 だまされて(?) 部員になった彼女が、 ある日、鈴置さんが友人と同居していた 4畳半のアパートに遊びにきた。と、隣 室の3畳から耳よりな話が聞こえてきた。 "近々、引っこす。盗み聞きの後ろめた さもなんのその、またまた何食わぬ顔で 鈴置さん、 「どうせなら、隣に移ってくれば」 で、やがて〝ムムム"の関係に持ち込ん じゃったんだから「最初は結婚なんて気 は…」もなにも。 高校時代は、税理士になろうと思って いたそうだ。人前でしゃべるのもいや、 営業マンのように外をとびまわるような 仕事もまっぴら。ただ、 黙ってすわって いれば食える仕事はないだろうか。 高2 の進学相談の折り、臆面もなく担任教師 に持ちかけた。敵もさるもの、驚いた風 もみせず答えてイワク。 「オレの兄貴が税理士やってんだけど、 あれいいぞう。ただ、黙ってすわって、 ときどき計算機ピコピコ押すだけでおカ ネがガボガボ入ってくる、おまえ、あれ やらんか。ものなんか んぜんいわんで もすむ」 それが動機の税理士志望。だから大学 も、東京経済大学を選んだ。 「昼間働 いている 夜間部の 学生と接 して、性 格もガラ っと変わ 「う」と本 人はいう が、のん びり、ひょうひょう、フワーッと生きつ づけたいという生来の性格は、ほとんど 破壊されることなく、鈴置さんの根底に 存在しつづけているようだ。

最初の"声"の仕事は......

薔薇座に入団してことしでまる7年。 小劇団のことゆえ、芝居で食えようはず もなく、当然バイトしながら劇団活動を つづけるという毎日だったが、声優とし ての仕事もかなり入りはじめた今日でも いつか有名になってバンバン稼いでや る"とか"金を稼げる役者になってやる" といった、並みの意味でのギラギラした "上昇志向〟はほとんど感じられない。 「ドラマの顔出し? やりたい、やりた い、バンバンやりたい」「金稼いで、い い家建てて、かっこいいクルマ乗りまわ して…………… そうなりたいって志向、大いに 「あり」なんていってはみせるが、聞いて るほうにはなるんなら、そうなっても いいけど、なれないなら、それでもいい より・・・そんな調子で聞こえてくる不可思 議なムードの持ち主。 「最初の声の仕事は、4年ぐらい前 『熱 狂のレーサー』って洋画 の観客1ってやつで、セ リフはひとこと”ワー" っていうだけ。それでも、 出演料3千円也。ワリか いやあ、野沢さんがア ラン・ドロンやるよりよ かったりして」

芝居で食える "夢"

アニメの最初の仕事は 『ボルテスV』の端役。初レギュラーが 『ダイターン3』。現在のレギュラーは 『ムーの白鯨』の白風信役1本のみ。 「世代的にはアニメで育ったクチで『ア トム』とか『ジャングル大帝』とかけっ こう夢中になって見てたけど、ファンレ ター書こうなんて気はなかったナァ。そ れより「コンバット』の大ファンでネ、 あれに出てた山田康雄、 納谷悟朗さんな んかは永遠にあこがれの人。いまでも仕 事場で会うと〝ワー”なんて思っちゃう」 「自分で出た番組は見れれば見るけどV TRにとってなんて気はないナァ」 一見、声優としての職業意識ゼロとも 受け取れる発言とも聞こえるが、この人 の場合「がんばってます、勉強してます」 なんてマジな顔でいわれるとかいってウ ソっぽくなる。 したがって、鈴置さんの現在の活動の 7割方は、薔薇座の活動に注がれている。 「まったくのドシロウトに近い状態でこ の世界に入ったから、かえってつづいた といえるかもしれない。その後入ってく 研究生みていても、なまじ演劇経験の ある人間のほうが早くやめちゃうみたい。 それ自体で食えないのに7年もつづいた 理由? ウーン、しいていえば仲間意識 かなァ。食えないやつばっかりでケンカ したりつかみあいやったりして、 の芝居やって、楽日”ヤッター、終わっ た!"って充実感というか、解放感、あ 味わいたくてやりつづけているのかナ」 もっとも”食えなくてもいい、芝居さ えやれれば”なんて、一昔前の新劇青年 のようなセンチメンタルなストイシズム は、鈴置さんの場合、ない。 「やる以上、食えないというのはおかし いと思う。さいわい、ウチの劇団の場合、 自前の舞台で薔薇座全体が食えるという ・状況がかなり現実的になってきた。一舞 台に2千人の動員体制ができてきました からね。現在の演劇界の常識でうちぐら いの規模で、それができれば、ほんとに すごいですからネ。それが夢じゃなくな ってきた」

暴走族に水ぶっかける

日曜を除く月~土の1000AM~6. 00PMが、劇団でのレッスン。 モダンダ ンス、バレエetc。 「タイツなんぞを はいてマジメに教わり、そのあいまに声 の仕事。あとはヒマがあれば酒飲んでい る」というのが1週間の通常のスケジュ ール。 京王線沿線にあるマンションで「一貫 してぼくより生活力ある奥さん」とふた 暮らし。「女性のバイタリティはすご い。奥さん、いまも夜はバイトやってい るから、近ごろ寝顔しか見たことない。 稼ぎは最近ようやく五分五分ぐらいにな ったけど、なにせ歴史的経過からいって 発言力なくって」と、さして気にしてい るふうもなく、くったくのない〝昔、ヒ モ亭主〟の弁。こういうのを、ほんとの 男”という奥さんに稼いでもらうこ とを気にするようじゃとても大物にはな れぬ。 演劇以外で夢中になったものありま す? と 聞いたら、 そくざに 「女。恋。 もっとも 狂ったっ て、ウチ の奥さん、 ぜんぶ、 お見通し だからナ ア」(勝手 セ マンシ ョンは甲州街道沿いにある。深夜は暴走 族の通り道。 「アタマぐるから、ときどきベランダか ホースで水ぶっかけてやる。警察はな んでアレ、放置しておくのかなァ。左翼 のデモをあんなに取りしまるんだから、 暴走族封じ込めるぐらいわけないでしょ。 やっぱり泳がせてるのかナァ」 そういう社会的視野も、しっかりと持 っている人である。少ないアニメ出演に もかかわらず、鈴置さんを、この人! と見込んだファンは、ホント、目が高い。

Yō Inoue (September)

趣味は畑仕事

今月は「機動戦士ガンダム』のセイラ・ マスの声でいまだファンのあいだに強烈 な印象を残す井上さん。 東京・新玉川線桜新町にあるしょう酒 なマンションの3階。 3LDKの井上さ んの〝城”は、いわくいいがたい不思議 なふんい気を持った空間だった。 ただいま独身の女ひとり暮らし。しか し、初対面の記者やカメラマンが城にち ん入してきたからといって応接間一室に 閉じ込め、なんてセコイことはやらない。 玄関わきにあるベッドルーム、つづくキ ッチンとリビングルーム、その奥にある 和洋の2室、つづく広いベランダ、ぜん ぶ、みごとにあけっぱなし。和室には、 古びた足踏みミシン、洋室には渋沢龍彦 全集などが並ぶ本箱とピアノと寝椅子な どが鎮座。 いわゆる生活臭なるものをほとんど感 じさせず、きちっと片づけられているが、 といって〝ケッペキー"て文字が即座に 浮かんできそうなムードではない。 ベランダには、実をつけはじめたナス やトマトなどのハチうえが所狭しと並べ られている。 「ナス・トマト・ピーマン・シソ・ニラ ・クコ・パセリ・赤カブ・白カブ・ニン ジン・ミツバ・ミョウガ・サンショウに ミント、なんだって作ってますヨ。いま や、畑仕事が趣味なんてもんで・・・」 キッチンで氷ガチャガチャ、ちん入者 のためにお茶の用意をしてくれている声 の主を、だから、その一事をもってもう 草花いじり”が似合うようになったオ バンなどと想像するのは早計だ。

アルバイトでテレビ初出演

150秒ちょっとの小柄な体におかっ ぱ頭、化粧っ気のほとんどない顔に、ま つ毛の長い大きな目がクリクリ。街を歩 いてりゃ、大学生にでもまちがえられそ うな美少女”が、この城の主なのである。 昭和45年、早大卒業と同時に、当時、 唐十郎の状況劇場などとともにアング ラご三家"と称されていた全盛の早稲田 小劇場に入団して以来、かれこれ、この 世界での生活も100年。少女”でありえ ようはずはないのだが、どうみたって芸 能歴10年なんてムードはないんだから仕 方がない。ムードどころか、この人、10 年たったいまも、自分が芸能人だなんて、 ミジンも思っていないのだ。 「早大時代劇研”に所属していて、卒 業後、早稲田小劇場に入ったんだけど、 劇団主宰者を中心にガッチリ組織され、 徒党を組むというか、そういう息がつま りそうなふんい気にどうしてもなじめな くて1年で退団。バイトのつもりでTB Sの『ヤング・セブン・オーオー』に出 たのが、この世界に入るきっかけ。でも、 タレントになろうなんて気はなかった」 本人にはその気はなくとも、使う側は この異能”少女”にぞっこん。つぎつぎ と仕事が舞い込みはじめた。TBSのクイズ番組『Q&Q』の声、同じくTBS の『モーニングジャンボ』のヤング情報 担当者......。 「テレビに出はじめて3か月ぐらいかな あ。街歩いてると人が指さすんですよネ、 本人はタレントになったつもりなんてぜ んぜんないから、最初は原因がわからず 気持ち悪くて。で、あるときハタと気づ いたワケ。テレビだ!"以後、意識的 に声の仕事に切りかえたんです」 切りかえたって仕事の幅がどんどん広 がっていくのが、この人の多才というか バイタリティのあるところ。今度は声に 加えて、物書きの仕事までむこうから舞 い込んできた。

"女"の3つの顔

「それまで、自分の出るものは自分で台 本を書いていた。あの子は書けるってこ とで、大橋巨泉さんが司会をしていたT BSの『お笑い頭の体操』の構成をやっ てみないかといってきたんです。 25~26 人の作家でやってたんですけどネ、私自 身、やりながら、台本作家になろうとい う気はなかった。でも”お笑い――" が 終ったあと「引きつづき「クイズダービ ―』もやってくれっていわれて・・・・・・」 い まじゃ『――ダービー』の問題作成と構 成、関西テレビ制作の『相性診断ピッタ ンコ』の構成、それに今秋スタートのク イズ番組の構成と、3本のレギュラー番 組を持つプロ作家なみの売れっ子に。 その多才さを「与えられると、ナンで もこなしちゃうというところがあるみた たい」と自己分析してみせた。 「仕事を下さる方は、たとえば構成の仕 だって、あの子ならできるって期待を 持っているから下さるわけでしょう。そ のご期待にこたえなきゃって、一生 懸命にやっちゃうところがあるんです。 CMソングなんかも、そのデンでずいぶ ん歌ってるんですヨ」 台本作家。『伝説巨神イデオン』(12c) 「闘士ゴーディアン』 (2)人形劇『ペ ぺとミミ』(NHK教育)と3本のレギュ ラーを持つ声優。さらにモダンダンスの 第一人者、西田堯氏の門下生として、年 に何回か国立劇場、日生劇場の舞台に立 ったりもするダンサー。〝期待〟にこた えなきゃと一生懸命やっているうちに、 この年にして3つもの"顔"ができてし まった。 「でも、いまもって、どれが本職という 意識はない。将来、どれを主軸にしてと いう心づもりもなし。だいたい、ここで」 しか自分は生きられないって感じ で狭い世界に閉じ込もり、ゴソゴ ソやっているのは、見ていて無気 味というか気持ち悪いですよ。声 の世界に入っても、台本書いてて もここじゃなくっても自分は生 きていける" つねにそう思っ ていられるのが私の最大の強みかナ」

週1回の大パーティ

「仕事は週に3日、あとは自分で 自由に使う」と決めている。 自由に使う時間の中でも、とり わけ重要な位置を占めているのが、 週1回は必ず開いているというホ ームパーティ。開催が決まると、 1週間ぐらい前からメニューを作 り、買い出しをし、料理もすべて 自分で作りあげる。 参加者は仕事仲間? 「ぜんぜん関係ない人。同じ世界 の人間が肩寄せあって固まっちゃ うっていうのが、いちばんイヤな んですよね。役者さんもいれば作 家もいる。お医者さんもいるし、 プロの主婦もいる。1回5~6人 規模で人の輪をひろげていくんで す。自分の現状に閉じ込もってしまわず、 もっと何かやりたい、べつの世界がある んじゃないかって思っている人の輪をパ ーティを通じて広げていきたい」 でも、人間、年をとるにしたがい、 つきあう人間が固定し、世界が狭くなっ てくるっていうのがふつう。どうやって、 それだけ多彩な人間を集めるんですか? 「ひろがりますよ、いくらでも。自分が そういうつもりで生きていれば」 現在は独身だが、結婚歴あり。45年秋 にクラシックのギタリストと結婚。 年と9か月もちました」とケロリ。 離婚の直接原因は、相手の女性問題だ ったというが「だけど、夫婦の関係って どっちがいいわるいって問題じゃないで すしネ。最近は、結婚していたことにす ごく感謝している。既婚者というおスミ つきゆえに、その間は、仕事上での義理 のつきあいやら、あらぬゴシップにほと んどわずらわされずに済んだという面も ふくめてネ。関係がダメになったらなっ たで、その7年9か月は人間的な財産と して残ったと思うし。この間、偶然、相 手から電話かかってきたから”ありがと う”ってお礼いっちゃった」 つっぱりでも何でもな ごく続々た 婚しているときは、相手が料理うまくっ て、私やらせてもらえなかったんですけ どネ、作るの見てたんでしょうネ。恋人 できると、なんとかおいしいもの食べさ せてあげたいと思うでしょ。見よう見ま ねで一生懸命作っているうち、いろんな 料理をおぼえた。恋人はとっくにいなく なったけど、料理の腕は残り…………って感 じ。あれは、やっぱり食べさせたい人が いるから、おぼえたり、うまくなったり するんですヨ」

成績はビリから2番

東京生まれの東京育ち。中学校までは 学年で3番を下ったことのない秀才だっ たが、現在のマルチ多才人間、井上瑤の 片りんが現れはじめたのは都立八潮高校 に入学したころから。 「相対的に目立つっていうか変わってる 子ってみられていたみたい。全校生徒の 前で怒られるなんてことも再三。卒業の とき担任教師に”おまえのいたおカゲで 3年間楽しかった”なんていわれたり。 高2の進学指導のとき早稲田受けるって ていわれてヨクヨクみたらヒリから2番」 なぜだか、そのころは芝居の大道具や りたくて、文学部の演劇科と教育学部の 心理学科を受けた。いわゆる難易度ラン クでいけば、はるかにやさしいはずの演 劇科のほうを落ちて心理学科に通るとい うアマノジャクな結果。 アマノジャクつ いでにいえば、当時の早稲田は70年安保・ 沖縄闘争吹き荒れる学生運動の牙城。 4 年で卒業する学生などイモあつかいされ るマカ不思議な大学だった。 「学生運動やってるのと演劇やってるの は、留年があたりまえって感じで、まる でファッションみたいにネコもシャクシ も留年していた。それがイヤでネ、アホ でも卒業できるんなら、してもいいじゃ ないって、あの闘争のさ中、まじめに心 理学やりまして、4年でちゃんと卒業・・・」

とびきりの魅力

後進性の典型的な現われでもあるのだ が、日本ほどスペシャリストを尊ぶ国は ないといわれる。逆にいえば、一芸に秀 でることを尊ぶあまり、多芸に秀でる人 い、コレもなんていってる人間でもみつ ければ、まるでハンパもの扱い。 井上さんはこんな日本的風潮に体当た りの抵抗を試みているようにみえる。 3LDKのマンションに1人ずまい。 仕事は週3日、あとは、自分のやりたい ことをやる。文字で書くと、優雅さだけ が目立つけれど、それは意識して作った 優雅さ。「自分がびたいと思うかぎり、 にさわれば、ヤケドしかねないが、従来 の日本女性とはまったく異質の、とびき りの魅力を持ったひとふと、セイラ・ マスを思い浮かべた。 アニメの主人公にアナロジーされるな んて、井上さんは不本意かも知れないが、 サンライズの富野氏は意外とこの人の本 質を見抜いたうえでこの人選をしたので はないか。

Mari Okamoto (October)

熱海で深夜のインタビュー

今月は『花の子ルンルン』の岡本茉利 さん。インタビュー指定場所が、なんと 熱海ニューフジヤホテル。ここで行われ ている半年通し興行の沢竜二・大江美智 子共演ショー『夢の花道』に出演中だと いうのだ。 どさまわり芝居の強烈なにおいをふん ぷんと放ちながら東京に乗り込み、たち まち中央演劇界を席巻してしまった沢竜 二、女剣劇の大江美智子・・・それと 『花 の子ルンルン』の声優。いったい、どこ で結びつくっちゅうねん! もうひとつ、やっかいな要素がある。 茉利さんは、じつは松竹映画『男はつら いよ』の準レギュラーで、映画界では山 田洋次)組のひとりといわれている女優 さん。寅さんファンならご記憶のムキも あろう。 寅次郎が旅先でときどき出会う どさまわり芝居一座。あの座長の娘で、 寅次郎を「車先生、車先生」と神のごと く慕い尊敬する丸髷のマドンナが茉利さ ん。しつこいようだが、あれと『花の子 ルンルン』 どうしても結びつかん! 深夜零時、2回のショーを終えた茉利 さんと会った。化粧を落とし髪をおろし てちょこんとすわる姿は痛々しいまでに きゃしゃだ。この人が、つい30分前まで あの激しい芸居をしていた茉利さんかと、 思わず目をこすりたくなるほど。 ニューフジヤホテルでの公演は、12月 24日までやっているから、アニメファン にも機会があれば「ダサイ!」なんて食 わずぎらいせずにご一見をおすすめする。 なにしろ、なんとも迫力のある舞台なの だ。 だしものは『人生劇場』とちょっぴり 古くさいが、飛車角=沢竜二、おとよ= 岡本茉利の配役で展開する芝居の間とテ ンポは、完全に80年代のもの。息もつか せぬ激しい立まわり。エンディングの、 おとよと飛車角が斬りきざまれて川の中 で抱き合って息絶えるシーンでは、なん と、15の水をたたえた大水槽が登場。 茉利さんはカツラに着物という時代劇の 扮装のまま、その中にどっぷりつかり、 水中にもぐったまま10近く離れた沢さ んのところまでにじり寄って、そのまま ガクッとくるという水中ラブシーンを演 ずる。東京の大劇場などでは決してお目 にかかれぬ破天荒、かつなんともナウい 演出の舞台なのだ。

"ルンルン"からおとよへの切りかえ

「水中っていっても泳いじゃいけないん ですよね。息もたえだえで、必死に沢先 生のところまで行こうとするシーンです から、水も飲んじゃいますし・・・」 消え入りそうなか細い声。 なんとなく 声優さんのイメージとあわなくて、いつ もそんな感じで話すんですか、と思わず 聞いたら、 「たぶん、まだ舞台のおとよをひきずっ ているんだと思います。 動作も話し方も」 声優さんがどうして、沢竜二とか大 江美智子さんなんて、既成のイメージで は結びつかないジャンルの役者さんの舞 台に出ているんですか? 「わたくし、沢先生の事務所に所属して いるんです」 さっき舞台見ていてふっと感じたん だけど、ふつうの商業演劇とは違い、か なり個性の強い沢さんの芝居にあれだけ 自然に溶け込んでいるってことは、沢門 下生になって相当経つ? 「いえ、昨年からです。昨年7月、はじ めて沢先生の『終三十郎』の舞台に出さ せていただいて、それが縁で」 いつの間にか席へ来ていた沢竜二氏が 口をはさんだ 「この人の感性の 切りかえの早さっ てすごいんだよネ。 『花の子ルンルン』 からおとよへの切 りかえ程度、すぐ やっちゃう。わず か1年足らずで、 ぼくの舞台をあれ だけこなしちゃう っていうのは、や っぱり基礎ができ てるからだろうネ」 日生まれ。わずか25歳の若手女優の”基 礎の説明を若干しておくと。 じつは、茉利さんの芸能界デビューは ぐっと早くて昭和36年、小学校1年のと き。いわゆる子役出身である。 「なりたくてなったわけでもないんです。 父の勤めの関係で当時、大阪・枚方市の 香里団地に住んでいたんですが、ある日、 そこで松竹の『団地親分』て映画のロケ をやってましてネ。子どもだからめずら しくて見物していたらちょっと、そこ の女の子、こっちいらっしゃい”とスタ ッフの人に声かけられて、そのまま映画 に出されてしまったんです」 翌38年にはNHK大阪児童劇団に入団。 以後16歳まで、ほとんど切れ目なく映画 ・テレビ・ラジオ、あらゆるジャンルの 仕事に顔を出しつづけている。NHKの 学校放送、朝のテレビ小説、民放ドラマ、 舞台・・・・・・出演したものをいちいちあげて いたら1~2ページは簡単に埋まってし まいそうな量である。 「でも、16歳ぐらいまでは女優とか役者 って感じの仕事じゃありませんよネ。子 どもの遊びの延長。何をやってもいい子、 いい子で済んでしまいますし」 茉利さん自身も、女優になろうという 目的意識を持っていたわけではなかった。 そんな彼女に、ふっと女優になっても いいなと思わせたのが、山田洋次監督の 『男はつらいよ』。仕事ではなく、高1の とき、一観客として映画館でそう思った というのがこの人らしいところ。 「すごく感激して、こんな映画に出れる 女優さんになりたいなって思ったんです。 でも、そのころは山田組の方々とは一面 識もなかった。それが、たった3か月後 に『男はつらいよ』の第8シリーズ (寅次 郎恋歌)に出ないかってお誘いが来たんで す。偶然というにはあまりに符合しすぎ ていて、ほんと恐 ろしいような気持 でした」

俳優、照明、録音・・・ なんでも勉強

山田監督は、常 識では相当芸能界 ズレしているはず のこの少女の、あ まりの初々しさに すっかり惚れ込み 「女優らしくない 「女優」と評し、即 座にレギュラーの 一陣に加えてくれ た。 「ほんとに山田組ではいろんな勉強させ ていただきました。勉強したいならいつ でもいらっしゃいっていって下さって、 出番のないときでも大船撮影所に通い、 助監督のマネごと、照明や録音などスタ ッフの仕事までいろいろお手伝いさせて いただきました。だから、寅さんにはど さまわりの娘役のほかいろんな役で顔だ しているんです。 カチンコなんか鳴らし ていると〝おーい、ちょっと岡本クン、 出前持ちの役、やってくれないか"なん ていわれて、すぐ、スタッフから役者に 早替りしたり・・・・・・」 もっとも、山田洋次という当代随一の 売れっ子監督に、これほど見込まれ、女 優としての本格的スタートをきったから といって、自分を山田色一色に染めあげ てしまわないところが、この人の真骨頂。 山田洋次監督にしろ、現在の師沢竜二 氏にしろ、タイプは違うが、人間として は相当に個性が強く、周囲の人間をたち まち自分のペースに巻き込んでしまうほ どの人間だ。その最側近にいながら吸 収できるものはぜんぶ吸収するが、でも、 わたしはわたし”という不思議な強さを この人はもっている。 山田組で修業する一方で、声優の仕事 にも手を染め、着々と実績を積んでいく。 昭和45年、フジの「みなしごハッチ』が 最初の仕事だが『いなかっぺ大将』『てん とう虫のうた』など、レギュラー出演も 相当数にのぼる。

しつけがきびしかった一人っ子

さらに、その一方で大学にもきちんと 進学した。 文化学院大の仏文科。卒論は プルーストだった。 「ちょうど卒論の時期と『男はつらいよ』 の撮影がぶつかったんですね。 助監督の 朝間義隆さん(今夏寅さん”と同時公開され 武田鉄矢主演 『思えば遠くへ来たもんだ』の 監督)が仏出身で、ずいぶん助けていた だきました」。 こういう、一見のめり込んでいるよう で、決して他人のペースに巻き込まれな 自分の強さを、茉利さんは、 「子どものころから、きびしすぎて萎縮 してしまうぐらい、母のしつけがきびし かったから」と分析する。 ひとりっ子である。ふつうなら甘やか し放題に育てられるところだが、 「母が体が弱く、自分が早く死んでしま っても、きちんと一人立ちして生きてい ける子に育てたいという強烈な思いがあ ったんでしょうね。子役時代から仕事に は必ずついてきて、目を光らせていまし た。光らせているのはただ一点なんです。 子どもだから、大人の役者さんたちにま じって、ついこまっちゃくれたこといっ たりするでしょう。即座にナマ意気なこ というんじゃありません。あなたは子ど もなのよ、子どもらしくなさいって…」 現在、テレビ、ラジオのレギュラーは 持っていないが、単発で入ってくる声の 仕事などを昼間東京でこなし、4時ころ 新幹線で熱海入り。夜の公演を終え、翌 朝また新幹線で東京へとんぼ返りという 毎日。こんなきついスケジュールをこな し、舞台に打ち込んでいるからといって、 将来は舞台女優1本でなどと考えている わけではない。 「映画・テレビ・舞台・声優とジャンル をしぼることはできないんです。いまは すべて勉強。たとえばネ、アニメのアテ レコで、水におぼれるシーンがでてくる とするでしょう。アッとかキャーとか、 声にならない声を出すにしても、この『人 生劇場』の大水槽で水を飲む苦しさを体 験していて出す声と、完全に想像で出す のとでは絶対違うんですね。その関係は 映画と舞台、声優とテレビ、ぜんぶの関 係でなりたつと思うんです」

趣味は乗馬・水泳

しゃべる内容は、たしかにプロに過ぎ るほどプロ意識に徹した演技論だ。が、 目の前にいるのは、化粧っ気もない、小 柄でやさしそうな、およそ女優さんとは 信じられないふつうの女の子。 本名・野田睦美。157秒、45 まじめで勉強家という性格の一方で、 味が乗馬にスキューバーダイビングに水 泳という意外な一面も持っている。 もちろん独身で、現在、両親と3人ぐ らし。「結婚はなりゆきにまかせます」。 『花の子ルンルン』と熱海での沢竜二公 演と寅さんと、どこでどう結びつくのか という最初の疑問にもどる。一晩どまり のインタビューということで、話は書き きれないほど聞いた。当方の未熟さもあ るのだが、結局、岡本茉利さんが、どん な女性であるのか、とうとう統一したイ メージをつかみきれなかった。 こちらまで居ずまいを正したくなるほ どの礼儀正しさ、20年近くも芸能界に身 を置きながら、まったく、そのにおいを 感じさせない、完ぺきなまでの人間とし てのういういしさ 列挙してみても、 ぜんぶ、この人の一現象形態にすぎない 気がしてくるのだ。つかまえても、つか まえても、実体は別なところにあるよう な気がしてくる。

Ryusei Nakao (November)

"ミルク"の好演が気になった

中尾隆聖という役者、じつは昨年の夏 からずっと気にはなっていた。 昨年8月、東京・池袋の文芸坐「ル・ 「ピリエ」で神谷明らフォー・イン・ワ ン” のメンバーが「ザ・バースデー・ゲ ーム」の公演をやったオリのこと。舞台そ のもののできも、声優の手なぐさみなん て域をはるかに越えるすばらしいものだ ったが、とりわけ光ったのが、神谷明ら 4人の若者の住むアパートに不意に闖入 して来る大金持ちの気弱なボンボンミ ルク"を演じた中尾隆聖という役者。 「まあ、声優って、自分のジャンルをか ぎっているわけじゃないですからね」 その印象深かった「ミルク」さんに再 会したのは、東京・原宿にあるプロダク ション「バオバブ」の事務所。昨年11月 に移籍したばかりだという。 「その前は15年ほど俳協にいました。 前 身のプレイヤーズ・センター時代からね。 で、いったんフリーになったんだけど、 ひとりだとやっぱりいろいろ面倒なんで、 またここにお世話になることにしたんで す」 夏中、たっぷり遊びましたって感じで まっ黒に日焼けした顔。Tシャツにジー ンズ。ちょっと見は、どこにでもいる都 会育ちの大学生といったおもむきだが、 その芸能歴はかれこれ25年になる。 昭和 2年生まれの29歳。「はじめての仕事は 4つのときかな。ラジオで横山隆一さん のマンガ〝フクちゃん"をドラマ化して、 そのオーディションを受けたんです。 フ クちゃんの近所の子どもで、キヨちゃん て子の役を5年間ぐらいやりました」

セリフは口うつし

お母さんが、事情があって再婚してい たため、お姉さんと一緒に祖父母のもと に引きとられ、そこで育った。 「自分でやりたかったというより、祖父 母がそういうこと好きだったんですね。 4つだから、台本スラスラとはいかない。 毎回、おじいちゃんについてきてもらい まして、ぼくの番になると、おじいち ゃんが台本読んでぼくの耳もとでゴショ ゴショっていう、それを口うつしにしゃ べる、そんな仕事のヤリ方でした」 以後、ほとんど切れ目なく、本名・竹 尾智晴の名で子役の仕事を続けてきた。 「中学まではね、役者になろうもヘッタ くれもない、子役ったって遊びの延長。 NHKラジオのホームラン教室〟とか NHKテレビの夜6時台のドラマとか、 小林桂樹さんがはじめてテレビ出演した TBSのドラマとか、いろんなのにレギ ュラー出演したけど、当時の番組っての はいまみたいに半年や1年で終わらない。 最低2年は続くんです。当然、レギュラ 出演者はひとつの家族みたいになっち ゃうんです。本当の自分の家とテレビ局 と家が2つあるみたいで、毎日毎日、楽 しくて...」 役者になろうかと自覚しはじめたのは 中学になってから。 中・高校とも、あの 王選手のといおうか、あの荒木大輔のと いおうか早稲田実業。 「そばにある早大がストばっかりやって いるときでね。オッ、大学がストだ、き ようは授業休みなんて大喜びする生徒」 野球も学生ストも関係なく、竹尾少年 は、ひたすらべつのことを考えていた。

"美少年” ふたりのバー

高校を卒業したら大学なんか行かず、 スナックをひとつ持って、役者として本 格的に歩みだすべく生活基盤を確立すること。 「で、卒業と同時に新宿二丁目に〝骨と 皮って店を出しました」 出しましたって、開店資金は? 「高校時代にせっせと貯めて 出演ギャラを貯めて? 「それもあるけど、そんなんじゃたりな いからせっせとバイトした。学校に通い ながら、あいまにラジオやテレビに出て、 夕方から新宿の飲み屋でボーイのバイト。 夜中にそれが終わると、ギターを持って 新宿の街々を弾き語りのバイトでまわる。 高3の1年間は、一日平均2~3時間し 眠ってい ませんね。 若いから、 そんなムチ ャクチャも できたんだ ろうと思い ますけど すさまじ い1年の汗 と涙の結晶 さらに借 金をあわせ 350万円也。18歳で友人とふたり、み ごと、スナックのオーナーに納まったも のの、じつは、事件はそれから起こった。 18歳未満はべつに知る必要はないが、 じつは昭和46~44年というのは、ひそや かに第一次オカマブームが起こっていた 時期。 そのメッカが新宿二丁目の飲み屋 街だった。もちろん、いまほどゲイやホ モが市民権(?)を得ていないころのお 話。高校でたてのガキンチョに、そんな 土地の事情がわかるはずもない。 「さあ開店だってことで、勇んで近所に あいさつまわりしたんですが、どうも、 ようすがおかしい、あっと気づいたとき はアトの祭り」 店はよくはやった。なにせ、経営者は 紅顔の美少年ふたり。いまじゃ名まえを いったらすぐわかるようなソノ道の大先 輩たちが続々と常連についた。 断っておくが、紅顔の美少年ふたりの ほうは、全然、そのケはなし。夜な夜な、 カウンターの内側からお姉サマ"方の 開けっぴろげてエゲつなく、かつ直載な オシャベリを、驚き、これ、ヨンひっ くり返る思いで眺めていた。 「いま考えると、大変な人生勉強ですよ。 もう、びっくりするというか、こんな人 生もあるのかって感嘆するというか...」 結局、4年間、店を続け、開店時の借 金を返し終えたところで閉めた。

演技はぜんぶ独学

店をやりながら、役者の仕事も、もち ろん続けていた。 萬屋錦之助主演の『真 田幸村』では息子・真田大助役、桜木健 一のデビュー作『太陽の恋人』へもレギ ュラー出演している。声優としても、中 1のとき「宇宙パトロールホッパ』で初 体験して以来、その出演作品は無数。 しかし、たぶん、性格なのだろう。こ の人の場合、ある作品に出演し、そのプ ロデューサーなり、主演役者にうまくわ たりをつけて、べつの言葉でいえば〝ヨ イショして引き続きつぎの作品で使っ てもらおうとか、その種のカケ引きがほ とんどできない。 「子役時代からそうやってりゃ、大した 人脈になっただろうと思うこともありま すヨ。だけどダメなんですネ、そういう 人間関係つくることにすごく尻込みしち やう」つまり、相手と対峙していて自分 の中につぎも使ってほしいなんてコビが あると気づいたら最後、もう自分がイヤ になって、さっさと逃げ出してしまう。 そういう性格。コビて売り込んで仕事と るくらいなら、自分で台本書いて、自分 で演じるひとり芝居を、ちっちゃな舞台 でシュシュやっていたほうがはるかに気 楽、そういうタイプといってよい。 「実際、そういうひとり芝居ずっとやっ てたんです。 四谷のコタン」て言で・・・」 フォー・イン・ワンの舞台などをみて いると、相当、基礎からタタキ込まれた って感じの確実な芝居をみせるが、じつ は正式に演技の勉強をしたことは一度も なし、ぜんぶ独学だという。 「高校のころは、やっぱりきちんと基礎 勉強したほうがいいんじゃないかとか、 ちょっと悩みましたけどネ、結局、正式 学校や劇団には入らずじまい。だから、 ぼくの芝居はぜんぶ、現場で共演者から 学んだもの。その気になれば、ずいぶん 勉強になるものですよ」

影武者"のオーディション

その共演者からの学び方というものも、 いかにも中尾さんらしい。たとえば好き な役者は萬屋錦之介だという。 「真田幸村〟では共演して、時代劇とい うものを教えてもらいました。芝居以外 のことにはまったく無頓着というあの生 き方も好きですねえ。 最近、そういう役 者らしい役者が少なくなったでしょう。 ぼくは娯楽を与える人間が、与えられる 側の人間と同一レベルの生き方をしてち ゃいけないと、考えているほうですから」 聞いてるほうは、当然、共演を機に積 極的に錦之介に近づき、相当親しくなっ たんだろうと思う。 が・・・ 「いや、個人的にはそんな親しいおつき あいをさせてもらってはいない。好きだ なァ、いいな、と思うから、セットの 片すみでじいっとみているんです。そう やってるといろんな勉強ができる。 桜木 健一さんと共演したときも、そうやって 開西特有のバイタリティというか、根性 のようなものを教えられましたしネ」 もちろん、既婚者。「芸能界とは縁もゆ かりもない」 奥さんとのあいだに2つに なる一児あり。 『ナッキーはつむじ風』など持ち番組が 9月いっぱいで終わり、ただいまレギュ ラーは1本もなしだが、気にもしていな い。 ありあまる手ゴマをながめつつ「さあ て、どちらの方向に進みますか」 悠 然とそうつぶやいている感じ。 舞台でキチンとした芝居もできる。 「商業演劇にも出てみたいですネ、 オー ディション受けるだけでも刺激になる」 映画にも出てみたいという。「じつは 「影武者』のオーディションも受けて、 4次審査まで行ったんです。でも、まる 1年間、スケジュールまっ白にしてくれ っていわれて、 一応、女房・子ども なきゃいけないから、とてもダメだと思 い、こちらからおりてしまいました」

作詞・作曲・歌手の才能

弾き語りで、スナックの開店資金をた めたように、作詞・作曲・歌手の才能も あり。先ごろ、キングレコードから『ナ ウ・アンド・フォーエバー』という初の LPも出した。10曲中7曲は彼自身の作 詞・作曲。一応「ビートルズ世代だから」 そのジャンルの作品だが、弾き語りが商 売になるくらいだ、演歌も歌える。 ラジ オのDJにも挑戦してみたいという。 「ブームの中で、声優が、アテレコでは なく、自分のことばでしゃべれるような 状況が生まれてきたでしょう。そういう 意味で、神谷(明)が、10月からTBS ラジオで主婦向けの生ワイドのDJやる なんて大賛成なんです。 深夜番組の場合 は、声優ブームのファン層と重複するけ ど、朝の生ワイドなんて、これまで彼が まったく接してこなかった年代の人たち が対象でしょ。たしかに冒険だけど、絶 対や てみる価値あると思う」 役者になった以上、たしかに、超売れ っ子、スターになることが、ひとつの目 標ではあろう。が、超売れっ子になるこ とにより失われる自由というものも、ま たはかり知れないものがある。 持てる才能を、自分の好きなときに、 マイペースでコントロールしながら、優 雅に役者生活をエンジョイしていく、こ れもまた、ひとつの生き方である。し され、プライベートはもちろんのこと、 役者としても、自分自身のやりたいこと はほとんどできないでいるスターたちよ り、はるかにすてきで、憧憬さえ感じて しまう生き方。その力量からいって、も っともっと売れなきゃおかしいと思う一 方、あまり売れっ子になってほしくない という気もする男、不思議に"いま"に 存在感のある、そんな役者である。

Kaneto Shiozawa (December)

祖母とふたりぐらしの自宅

「伝説巨神イデオン』のナレーション、 『宇宙戦士バルディオス』の主演にくわ え、この10月からは『宇宙戦艦ヤマトⅢ』 にヤマト乗組員・板東平次役で出演、つ ごう、レギュラーが3本。まったくのド シロウトからこの世界に首をつっ込んで まだわずか6年目の新人ながら、すっか り売れっ子声優の仲間入りをした塩沢兼 人さんと会ったのは、東京・西武新宿線 鷺宮駅。 「適当な喫茶店もないし、いっそ、ボク んちへいらっしゃいますか」、誘われるま ままに、トコトコついていった。 淡いブラウンで統一したスラックスと セーター、どことなく少年っぽい面影を のこす塩沢さんは、ちょっと見は、西武 沿線に下宿中の大学1~2年生という感 じ。なんとなくそんなふうな民間アパー トを想像しながら、たどりついたのが、 ドンピシャリそんなふうなアパート。そ こまではドンピシャリだったが「どうぞ」 塩沢さんが開けてくれたのは、アパート ではなく、母家のほうの玄関。 ご両親と同居、ほんとの自宅なんで すね、何気なくそう口にしたら、 「両親はいないんです。おばあちゃんと ふたりぐらし」 それらしき影も、暗さも、他人にはケ ほども感じさせないし、どこから見ても 親の庇護のもとのびのびと育った好青年 といった感じの塩沢さんだが、古めかし い表現をすれば、両親も兄弟もいない。 "天涯の孤児”である。 「中学2、3年で父母が相ついで亡くな り、祖母に引きとられたんです。父もひ とりっ子、母もひとりっ子、ぼくもひと りっ子。だから、両親がなくなっちゃう 親戚的なものがほとんどないんですよ ネイトコとか、叔父、伯母、そういう のぜんぜんいない」

"短絡思考”の芸能界入り

いかにも、裕福な家庭のひとり息子の 部屋って感じの自室で、器用にカルピス を作ってくれながら、あたかも、何年に 何々高校に入りといった、ひとつの経歴 でも語るような乾いた口調で、両親の死 を話してくれた。 わずか13歳の少年にとって、それがど のような出来事であったか、想像にカタ くない。事実をコンクリート詰めにし、 胸の奥深く沈めてしまい、あたかもそ んなこと”はなかったような顔をしなが ら、ガムシャラに白っ茶けてしまった世 界をつっ走るよりなかったのではないか。 「いや、高校のころは、一時期、人並み にスネてみた時期もありますよ」 まだ、たった26歳なのに4歳の人が少 年時代を懐古するような口調でそんなこ ともいった。 祖母に引き取られ、自宅近くにある日 大二高に進学。演劇部に所属しながら、 スポーツはあまりやらない、どちらかと いえば軟派系の高校生”として3年間 をすごし、そのまま日大芸術学部にすす む。 「べつにそのときは、芸能界に入ろうと か、そういう明確な志望があったわけじ ゃないんです。ただ、会社員にはなりた くないなって気持ちはなんとなくあった。 祖母は芸術学部に行くっていったら猛反 対」 ところが、 猛反対を押 し切って芸 術学部に進 んだものの 「入ってみ ると、どう もふんい気 じゃない」 1年間通っ て、さっさ 中退して しまった。 「だいたい、ちょっと短絡思考の傾向が あるんです。祖母も、入るとき猛反対し たわりには、やめるときは、スンナリ認 めてくれましたし」 大学中退して、1年間ぐらいブラブラ しながら、ふたたび、もちまえの短絡 思考〟で考えた。 「声優になろうか」 ......。 TBS系列の専門学校「東放学園」の 声優科に入学。 「そこを出れば、仕事になるだろうくら いに簡単に考えていたんです」 ―で、仕事になった? 「なるわけない。で、そのころ、同じ学 院は出たけれど組〟で作っていた〝ぐる うぷ・えいと”ってところに入って、ア ルバイトしながら、芝居の公演やったり して勉強を続けた」 自宅はあるし、小遣い銭はアルバイト でかせげばすむ。純経済面からいけば、 食うに困らぬノン気な〝浪人生活〟。

1か月目に主役がきたが・・・

-最初の仕事って覚えてます? 「タイトルは覚えてないけど、洋画の吹 き替えで、確か、同じ作品で10数回死ん だ。ガケから落ちて“ワー” っていいな がら死ぬ役で、10数人分〝ワー”“ワー" とやりました。たぶん、6年前、20歳の ときだった」 「その、たった1か月後に、こんどはい きなり主役がきた。"ハーマンズ・ハーニ ”って映画のハーマン役。ワーツ、ぼくも これでって大喜びしたのもつかのま、そ の後は、ぜんぜんお呼びなし・・・」 純・声の仕事で、食えだしたのは、ご 最近、一昨年の暮れぐらいからという。 「食えるっていっても、住むところはあ るし、小遣いがまかなえるって程度だか ら、10万円以上の収入が入りだしたって 意味だけど」 経済的に困らなかったという客観条件 もあるのだろうが、塩沢さんが売れ出す までの芸能生活6年を語るその口調には "有名になりたい” “早く売れっ子にな りたい”そんなギラギラした上昇志向 のニオイのようなものは、ほとんど感じ られない。ガラス1枚へだてて、声優・ 塩沢兼人をクールにながめながら話して る。そんな感じである。 さいかいもくよく 「役者になるために斎戒沐浴して、ひた すら精神努力するってタイプじゃ絶対に ない。まあ、そんなギンギラギンになら なくていいんじゃない、どっちかという そういうタイプでしょうネ」 アニメの最初の仕事は、フジの「タイ ムボカン」シリーズ。もちろん、ガヤと 呼ばれる、特定の役のない出演。その後 「てんとう虫のうた』 『一発貫太クン』 などに出演しているが、アニメとはこう いうものかと、アニメの声のイロハを覚 えたのは、つい最近で、フジの「ドカベ ン』の仕事だったという。 「最初のころは、決まった役はなく、生 AとかB、そんな役。やがて、一応、 役名のある役が来るようになり、最後は 甲子園に出場する“ブルートレイン学院" のエース・雪村の役。一応、最後は、全 国代表校のエースですからね、やっぱり、 これでって感じでうれしかった」 今度はスカ喜びではなく、いまや、主 演もふくめレギュラー3本を持つ、堂々 の第一線声優。 「でも、もうちょっと、忙しくてもいい いささかテレ気味にそういい、笑う。

めずらしい幼稚園退学

趣味は、お酒を飲むこと。その少年ぽ い風貌からはちょっと信じられないが、 "斗酒なお辞せず”の酒豪である。 「これって趣味ないし。 スポーツもあま りやらない。 楽器もやらないし、酒飲む から車もやらないし。結局、一番最高な のは、ジャズのレコード聞きながら部屋 で酒飲んでるときみたい」 酒量は「20歳ころには、日本酒一升あ けても平気だった」というから、まずは 酒豪の部類に入る”腕前" 「一番好きなのは、日本酒だけど、焼酎、 ウイスキーなんでも好きですよ。飲む場 所もどこでもOK。スナック、なわのれ ん、自分の部屋、そのときの気分、飲む メンバーにあわせまして……」 なるほど、部屋の片すみには〝純”と サントリーホワイト"とか日本酒の 一升びんが数本ひとまとめで並んでいる。 「子どものころの特筆すべきエピソード っていえば、幼稚園を退学させられたっ てのがあります。ひとりっ子でだいじに だいじに育てられていたのが、初めて外 の世界に触れ、変な形で感情が爆発した んでしょうネ、たちまち大変なガキ大将 になって、あげくのはて、ある日、棒で 学校中のガラスをガチャガチャン破っ てまわった。とてもあずかりかねますの で、お引き取り下さいって、たちまち退 学命令。自分じゃなんでそんなことした のか、いまだぜんぜん思い出さないんで すけどネ」 両親健在のころについて、唯一こんな エピソードを披露してくれた。

影のあるキャラが似合う...

明るく、どちらかといえば、陰という より陽の印象の語り口。酒豪といっても、 ノンベなんてイメージはさらさらなく、 部屋で話し込んでいると、フッとドアが あいて、やさしい母親が息子の知人のた めにお茶を運んでくるそんな錯覚に さえ陥ってしまいそうなムード。しかし、 塩沢さんの印象が明るければ明るいほど、 この人が13歳から2歳の今日まですごし てきた10数年が、どんなに重い年月" だったか、痛感せずにはいられないので ある。ナマの感情を閉じ込め、封じ込め、 必死で何気ないふりをよそおって生きて きた10数年だったのか、それとも・・・。 「役柄からいえば、透明感のある二枚目 ってのはあわないと思う。影があるって いうか、斜にかまえているというか、そ ういうキャラクターのほうがあうと思う。 自分の性格がそうだから...」 ポツンとそんな風にもいった。 昭和29年1月28日生まれの26歳。ただ 73歳。 ひとりの肉親のおばあちゃんは、ことし と聞いたら、 そろそろ、結婚してなんてことは? 「30歳までは、一応しないつもり。早く 家庭を持って、子どもたちにかこまれて なんて願望もあまりないみたい。子ども もあまり好きじゃないし」 他人ではどういやしようもない、かわ ききった孤独感と背中あわせの・・・ 「お 酒を飲んでジャズを聞いているときが最 高」 ......わかるといってしまえば、あま りに不遜にすぎるけれど、わかる気がす るのである。

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