Sunday, December 24, 2023

Other Features in My Anime 1981

April

Leiji Matsumoto Feature & Roundtable

Roundtable Participants:

Leiji Matsumoto
Kenichi Matsuzaki
Kazutaka Miyatake
Shōji Kawamori
Yuki Shimoyama
Tomoko Suzuki


不死鳥「宇宙戦艦ヤマ ト」―元祖ヤマトは アステロイド6

Shimoyama. 松本先生とぬえ"の出会い の作品はなんだったのですか。

Matsumoto. 「宇宙戦艦ヤマト」だね。

Miyatake. そのあと「ハーロック」「999」 でも…。 あと細かいもので 少しありますね。

MA. ぬえ”の方々はデザイン を依頼された場合、松本先生のイメ ージを図形化するのにどういった苦 心をしておられるのでしょう。

Miyatake. 先生がふだん作っているデザ インの中から、先生的要素というの をピックアップする作業が一番大 変です。たとえばヤマト側とガミラ ス側とは根本的にデザインを変える 必要がありますが、それでいて両方 とも先生の世界に入って不自然であ ってはならないわけです。

Suzuki. "ぬえ" の方々は、松本先生 の世界をどう見てますか?

Miyatake. 非常に美術的な世界です。

Kawamori. 世界観がハッキリしてる。

Matsuzaki. というか、完全に個人の世界 なのね。

Miyatake. だから先生が前面に出てくれ ば、ふみはずしというのは絶対にな いですよ。

Suzuki. ところで、メカ設定の場合は やはり動かす時の ことを考えて設定 するんですか?

Miyatake. 本当はそこ まで考えなくちゃ いけないのですが。 理屈より何よりも、 動かしておもしろい もの、格好つくもの、 ということでやらなけ ればね。人物と同様、 カもキャラクターだと いうことなんです。

Suzuki. 私も少しアニメを やってるんですが、すぐ 逃げたくなるんですよね、 メカは(一同笑)。

Matsuzaki. ま、〝ぬえ"なんかは その点、アニメーター泣か せなんですよ。

Matsumoto. 私もそういう点では、 みなノイローゼにしてまわっ てるね。

Suzuki. ええ、999号の動きな んかもう大変なんですよ。

Matsumoto. ただね、私のデザインの 基本というのは、まず見てもっと もらしく迫力があり、デザイン的 に破綻をきたさないこと。だから 動きを多少犠牲にしても、あえて右 と左を変えたり、ムードに流れるほ うなんですよ。 松崎さんとこは違う ね。動かし方については、かなり厳 密だよ。

Shimoyama. そうしますと「ヤマト」の場 合の設定は・・・・・・。

Matsumoto. "ぬえ"にはね、いわゆるア ニメとは少し違って、デザイナーと してのデザインの総まとめをやって もらったの。ただ、艦内の通路だと かハッチとかにつ いては、イメージ とデザインの傾向 を指定しておまか せしたような記憶 があるけど。トイ レにしても、艦が 一回転してもトイ レだけが自在球み たいになってジャ イロで動かないと か....。

Miyatake. ま、トイレは、ちゃんとセル までできて撮影もしたんだけど放映 されませんでしたね。島が入って、 身をブルブルっとふるシーンまであ ったんですよ。

Shimoyama. わあ、それはぜひ見たかった なあ。ヤマトの艦内生活って、あん まり多くは出てないですものね。

Matsumoto. ウーン、長さの関係です。作っ てはあったんだけど、そういう場面 は極端に少なくなっちゃった。

MA. ヤマトの場合、実際の大和 がありますね、それをどのように宇 宙戦艦ヤマトに写したのでしょう。 宮竹 実物の大和、あれ横巾が非常 にあるんですよ。

Matsumoto. タライみたいなね。

Miyatake. ところが、大和の写真という のは横からだけしか写されてません から、もうひたすらスマートで実に きれいなフォルムに見える。だけど 実際は、防水区画と魚雷用の耐弾装 甲との関係で脇に非常に大きなバル ジがあって、世界中例をみないほど 巾の広い戦艦になっているんです。

Matsumoto.それを宇宙戦艦にするときは 万人が大和に持っているイメージを こわさないようにと。我々はあの時、 と改良を加えた。 大和のコンバーシ ョン・モデル、改 良モデルというふ うに言ってたんだ よね。だから、あ くまでも基本型は 大和のシルエット を活かし、なおか 空を飛んで三六 ○度まわりから見 てもおかしくない ようにデフォルメ

Shimoyama. そのヤマトですが、戦艦大和 を宇宙へ飛ばす発想は一体どこから きたんですか?

Matsumoto. 「宇宙戦艦ヤマト」というタ イトルと企画書は、西崎氏のところ にすでにあったんです。

Miyatake. それは、松本先生が関係する 一年前から話をおこさなければ・・・。

Shimoyama. じゃあ、その頃からもう 「宇 宙戦艦ヤマト」というアニメを企画 してたわけですか?

Matsuzaki. その頃はヤマトじゃなく 「ア ステロイド6」という名前で、 え〟の前身である"クリスタル・ア ート・スタジオ"もかんでいたんで す。こちらはアステロイドをくり いて、それをいろいろ中で作りあげ から飛ばして、周りのアステロイ ドの岩が吹き飛ぶと戦艦の格好をし ているというシロモノでね。これを アチラの要望にこたえて、だんだん デザインを変えていったら、長門と いうか日本の戦艦に近くなって。そ の間に、制作にあたるはずだった虫 プロがつぶれちゃって一年間空白が あったわけですよ。それからアカデ ミーが松本先生のところへ行って、 企画が別に練り上げ直されて、もう 一度ウチに話がきたわけ。

Miyatake. 戦艦だったら大和じゃないか ということで。

Matsumoto. まあ、武蔵大和かっていえ ば、名前の通りとかで確かに大和の 方が......。 ただ、正直いってこの話 が来た時「なんで俺が大和を」と、 そういうためらいがあったことは事 実。大和というといろいろな思いが かぶるんで、扱い方が難しいなと思 いましたよ・・・・・・。

Shimoyama. それはやはり、先生が本物の 大和の最後を知っておられるから?

Matsumoto.ウン、知っているというか、 現実に大和は二千か三千の遺骨を抱 いたまま、まだ引き上げられていな いし、御遺族の方たちだっていらっ しゃる。そうしたことを考えた場合、 この問題は、配慮に配慮を重ねて軽 率に扱うべきではないと思った(一 同、神妙な顔つきになる)。だから絵 コンテか台本の段階で遺骨の問題を 取り上げていたのだけれど、カット されちゃった。本当はそういう問題 こそ、きちんとやらなければならな いんだよね。ま、それで、あそこま でやりながらいまひとつ心理的に歯 切れが悪くて……………。といっても、こ れはあくまでも内容そのもののこと でね、デザインとか、そういうこと は別ですよ。

アルカディア
テレビと映画、形が違うそのわけ は――マッコウクジラ型誕生秘話

Shimoyama. 先生の作 品にはハーロッ クっていう名前 がよく出てきますね。

Matsumoto. ハーロックというのは、今現 実に使っているキャラクターの中で は一番古くてね。ただ、アニメの場 合 「ハーロック」と「999」とい うのは、松崎さんはよく知ってるけ ど、企画書の原形を作った時は「9 99」を先に書いてあったわけです よ。

Matsuzaki. それで「ヤマト」作った直後 だったし、いくらなんでも「999」 ではなじみがないというんでハーロ ックの名前が先に出ちゃった。

Shimoyama. ハーロックっていう名前は、 なにか出典でもあるんですか?

Matsumoto. 出典は秘密結社の合言葉。ハ ーロックといえばハーロックと返っ て。〝開けゴマ”と同じことだよ。 原形ではキャプテンというのは、艦 長じゃなくて大尉の意味だった。

Shimoyama. ああ、陸軍の。

Matsumoto.そう。だからハーロック大尉 だったわけ、一番最初はね。

Suzuki.ハーロックの故郷、ハイリゲ ンシュタットというのは?

Matsumoto. 北ドイツとウィーンの郊外の 二カ所に、まったく同じ地名が実在 してます。本来の場所は北ドイツで、 今の東ドイツ領内にある。またの名 をアルカディアといってね。それで 船の名前をアルカディアにした。

Shimoyama. アルカディア号も”ぬえ"の 方々がデザインしたのですか?

Matsumoto.「999」の時を両方ともそ う。イメージとラフをして、協議 して作ったんたよね。

Shimoyama. アルカディア号の特徴ってい うのは後部のたいなところで すが、 あれの発想はどちらが?

Miyatake. あれは松本先生。

Matsumoto. 海賊船だからね。大海賊とい うと、あのキャビンがないことには おさまりがつかないもの。

Suzuki.先生は海賊がお好きみたいで すね。

Matsumoto. 子供の時から八幡船が好きで 中学生の頃は、よく海賊のマンガを 描いてたっけ。昔の映画には海賊も のがけっこうあってね 「地獄の奴隷 っこうあってね「地獄の奴隷 船」なんかの影響を受けたみたい。

Shimoyama. アルカディア号は、映画とテ レビで形がだいぶ違いますね。

Matsumoto. 映画の時は、テレビ版のアル しようということ カディア号 で。あの時の質武さんだっけ。

Miyatake. ええ、アルカディアに関して は全体的に僕で。前のデザインが いまひとつアニメではなかった ですものね。

Matsumoto.テレビで放映されてみたら、 寸づまりになってね。

Miyatake. あれは、アルカディア号とい うのが、僕個人としては大気中を飛 ぶ宇宙船のイメージが強かったんで す。それでひと思いに、アルカディ ア号は、ヤマトなど今までの宇宙船 と根本的に違った広大な翼をくっつ けてやろうという意図があったんで すよ。 ところが..。

Matsumoto. ウン、翼がやたらに巨大にな って、真下から見た構図ではブーメ ランというか、凸の字が動いている ような異様なことになっちゃった。 まあそんなわけで、全長を伸ばした。 それと「999」の内容で、都市を 頭で押しつぶしてけちらしながら行 くというのがあったため、頭に重量 感を持たせて、あのマッコウクジラ みたいな格好に変えたんだよね。

MA. テレビと映画で色が違いま すけど。

Miyatake. ええ、まあいろいろとありま してね..。

Matsumoto. 本来、船というのはぬりわけ るものじゃないですよね。それで、 戦艦というのはごく同系色の色でう ずめるというイメージで、映画では 色を変えたんです。ま、テレビと映 画じゃ予算がまるで違うから、手を かけられる。「ヤマト」の時に、ガ ミラス艦をまだら迷彩でやろうとし たら、動かせないっていうんで一色 になったけど、「ハーロック」では エメラルダス号をまだらで動かして みせた。やってやれないことはない んですよ。手間の問題で。

本物を知ってればホラ のつき方がわかるー 研究は趣味で楽しく

Shimoyama. 松本先生のメカの内部は、丸 いメーターがやたらに多いですね。

Matsumoto. あれは完全な趣味の問題で。 四角いのもたまには使うけど(一同 爆笑)。これは私が飛行機狂なんでね。 クルマを買うときもメーターが四角 いと買わない。

Suzuki. じゃあ、先生がお好きなクル マは?

Matsumoto. ベレット1600GT、これ なんか丸いメーターの行列。前のク ルマはこれだったけど今はスカイラ イン。昨年の暮れに、家の鉄柱にぶ つけてバンパーがへの字になっちゃ ってるんだなあ(一同唖然)。

MA. アルカディアやヤマトのブ リッジが出っぱっていますけど、そ れまでああいうのはなかったですよ ね。相当新鮮でしたよ。

Matsumoto. あれもまた、ひとえに私の好 みでしてね。じつは、戦艦とか空母 の資料が極端に少なくて、映画なん か見た記憶で再生するしかなかった んですよ。戦艦の本自体はたくさん 出てるけど、ブリッジ内部の写真て のはほとんど無いですね。

Shimoyama. それじゃ資料は映画だけ?

Matsumoto. ウン。でもイメージっていう のは拡大されてしまうんでね。実際 のものよりも8畳敷的に広がってい くわけ。だからヤマトがあんな大艦 橋になってしまう。

Miyatake. ぬえ"お得意の倍数効果と いう言葉を生み出すことになるんで すよね。実際に入 らないサイズの中 に、視覚的には入 れてしまうという やつです。

Suzuki. 作品を作るた めの資料集めは大変 でしょうね。

Matsumoto.かかってから資 料を集めるっていうの は非常に苦しいね。 時 時だけど、せっぱつま って持ち出したあとで資 料をあさる騒ぎがある。 これは研究する時間がな いため、非常にストレート 資料が出てしまう上、生 煮えになってしまって。だ から日頃趣味として、勉強じ ゃなくね、楽しく知っておか ないと仕事にならないですよ ね。

Miyatake. ま、多少のかたよりはあ るけど、出てるニュースとか本 とかは買いあさって暇さえあれ ばめくってますね。金はたまり ませんけど(笑)。資料といえば、 最初のヤマトの時スタジオで、オ シログラフのコピーを提供されて あれは圧倒的だった。

Matsumoto. あれは某社の友人に頼みまし てね。実物はこうだから、こうやっ てれば間違いなかろうってことで。

Matsuzaki.とはいってもね、そのとおり うまくいかなかったり(一同爆笑)。

Miyatake. メーターの数が半分に減って しまったりね。

Shimoyama. 僕の仲間のSFマニアの間で は“ぬえ"っていうのは、機能を一 番においてデザインしていくのだと 評価されてるんですが。

Miyatake. それは迷信です(笑)。

Shimoyama. えっ、迷信なんですか。

Matsuzaki. それは、だいたい考えればわ かってもらえると思うけど、あり得 ないものを描いてるのに機能ばかり 追いかけてたら実物が作れちゃう。

Suzuki. すると、メカのデザインや設 定で実際には無い架空のもの、ああ いうのは自分の想像だけで描いてい くんですか?

Miyatake. ですから、まったく架空のも のを作る場合には、現実が踏み台と なるわけ。何もないところからはも のは発想できないでしょう。

Kawamori. その分、理屈も解釈しておか ないと、松本先生も先程おっしゃっ たように、資料がモロに出てしまう というか、全然新しいアイディアがつ け加えられないで出てしまう。(これ まで、じっとみんなの発言に聞き入 り、その一つ一つを吟味していた感 の河森さんが発言に加わる)。

Matsumoto. 知らない世界では、ホラを吹 くと不安があるわけ。ホラがホラに ならなくなるものね。

Shimoyama. ハインラインの宇宙の戦士" のパワード・スーツ。あれも架空な わけですが、でも、もしできるとし たらやっぱりあのデザインしかない んじゃないかって気がするんですけ ど(真剣な表情で)。

Suzuki. そうね。動きの機能や守りの ことなんか、とてもよく考えてある みたい。

Miyatake. パワード・スーツに関しては 僕も加藤も松崎 も、当初からひたす ら作品自体にほれこんでいたから。 あれは作品にまとめる以前に、ブレ ーン・ストーミングを二年ぐらいや ったし。

Shimoyama. そういうのは、松本先生のア ニメにも活きているんですか?

Miyatake. ヤマトにしてもアルカディア にしても、細かいとこのこだわりっ ていうのはずいぶんやってますね。 機首にバーニア・ノズルがくっつい てるでしょ。

Matsumoto. たとえば照準器。 照準器とは あんな格好をしている、というのを 持ち出したのはあれが最初だった。

Kawamori. 結局、本物を知ってればホラ の吹き方がわかるという形で・・・・・・。

Matsuzaki. どっかでふざけて書いてあっ たけど、摩訶不思議な力で飛ぶ、そ れだけはなしにしようということで ね(一同大爆笑)。

フランスで大人気ーキャプテン・ アルバトーレことハーロック

Shimoyama.先生のアニメは、だいぶ海外 へも出てますね。

Matsumoto. フランスでは「ハーロック」 が「アルバトーレ」というタイトル になってね。なんでもむこうに「キ ャプテン・ハードック」っていうの があるんだってさ。

Suzuki.ハードックなんて、ハーロッ クがなまったみたい。

Matsumoto. ただ「ハーロック」は、受け 入れられ方は大変スムーズだった。 アメリカ人にしろヨーロッパ人にし ろ、たいてい先祖に海賊がいるって わけですね。だからむこうには「アル バトーレ」があるんですよ。本屋に。

Suzuki. おもしろいもんですね。

Matsumoto.その他には「999」 「ヤマ ト」「スタージンガー」、みんな放映 されてますよ。

Shimoyama. そういえば、英語版のパンフ レットを見かけたことあるなあ。

Matsumoto. アニメもちょっと前までは、 ずいぶんいい加減に扱われてね、ヘ タをすると外国人の名前が作者とか 監督の位置に座っているような改編 のされ方で放映されているのが多か った。ただ、この頃はそこらへんが 厳密になって、作者自身の肉筆のサ インが無いと契約書がなりたたなく なってきたんです。だからこれから は外国で放映された「ハーロック」 でも、日本人が描いているとわかっ てきますよね。

Shimoyama. そのために、先生が初めて横 文字でサインをなさったとか。

Matsumoto. ウン、どうすりゃいいんだろ うか、日本語でいいんだろうかって いったら横文字でっていうんで。 ア ラビア語みたいになったけどね。

Shimoyama. アメリカでは、ヤマトの名前 も変えられたんですか?

Matsumoto. ウン、戦艦なんだったかな。 ゴーゴン、ゴーゴン(つぶやく)。

Shimoyama. まさかミズーリじゃ(笑)。

Matsumoto. だからヤマト作る時にね、ソ 連へ持っていけばポチョムキン、ド イツならビスマルク、アメリカなら ミズーリとかアイオワになるように 作ったらどうだと話をしてたんだけ ど。ま、これからは輸出のことも考 えて、外国の国民感情とか民族感情 を充分配慮してかからないとね。

SF感覚の差異歴然― 鉱石ラジオ世代とテレ ビ・ゲーム世代

Shimoyama.先生も"ぬえ"の方もSFの ファンだと思うのですが......。

Matsumoto. 私は単純な意味でのSFマニ アでね、ごく単純な。

Miyatake. 僕なんかは、本当の意味での SF世代でしょうね。SFを知り始 めた頃が物心のつき始め。

Kawamori. もう僕なんかになると、それ に感化されて純粋培養になってる。

Matsumoto. 世代が違うんだね。私なんか 二枚羽根の飛行機を現実に見て、B2 を現実に見て、シューティング・ス ターが初めてドロップ・タンクを翼 端につけて飛ぶのを朝鮮戦争の時に 目撃して、という具合に順番にそれ らを見てるわけ。だから私らがSF として憧れた世界と、今の若い人が すべてそういうものを過去のものと してある上に組み立てていく世界と は、えらい違いがある。

MA. 二〇代、三〇代、四〇代の 差異でしょうね。

Matsumoto. 歴然ですね。まだ鉱石ラジオ なんてものを組み立てて喜んでた世 代と、ビデオだテレビゲームだとい う世代とではねえ。

Shimoyama. ズバリ子供の頃、一番おもし ろかった、影響されたSFは?

Matsumoto. 映画だったら「宇宙戦争」が おもしろかった。見に行った時に非 常に感動しましたなあ。それに「禁 断の惑星」 なんかね。これを見たの は高校の時だったかな。

MA. 「禁断の惑星」のロボット なんかはアナライザーに......。

Matsumoto. イメージ的な影響はあります ね。いわゆる役柄としてね。

Miyatake. 僕は宇宙の戦士”ですね。 この世界にひっぱりこまれた映画は 「2001年宇宙の旅」。 ここに僕の 世界があると思ってしまったのがウ ンのつきですね。

Matsuzaki. 僕もだいたいそんなもの。

Kawamori. 僕になると完全なアニメ世代 になっちゃう。 ヤマト世代。

Shimoyama. 先生、この頃はどうですか。

Matsumoto. この頃は、見たり見なかった り。ますます手がこんできましたな あという感じ(一同笑)。善し悪しは 別にしてね、ひと理屈こねないとす まなくなってきたんで非常に苦しい と思うんですよ、両方が。 作る方も 見る方も。

MA. 松本先生の作品のサーベル ね、あれは切れるんですか?

Matsumoto. まずコスチュームの一部分と してデザインしたけど、武器の機能 として、理屈をつけろといわれれば どうにでもつけられますよ(笑)。

Shimoyama. 「ガンダム」のビーム・サー ベル、あれは「スター・ウォーズ」か らきたんでしょうか?

Matsuzaki. あれはどっちかっていうと、 プラズマトーチだよね。

Kawamori. 光るサーベルというと「海の トリトン」があるし、はるか昔まで 遡っちゃう。

Matsuzaki. 結局「スター・ウォーズ」は独 自のアイディアもあるけれど、日本の アニメや特撮から採っていったのが ずい分あるからね。

Kawamori. だいたい見てればわかるよ。 かなりのシーンが見覚えあるって。

Miyatake.ところがいかんせん、見る側 があれをオリジナルだと思ってしま うのが問題なんだなあ。

Matsuzaki. 何せ「スター・ウォーズ」とい えば、他のものと比べてメジャーで すから(一同笑)。

Matsumoto. 我々が作るものが、みんな盗 作よばわりされたことがあるからね え。つい近年、アメリカでね。でも 時間的に逆(制作年度が)だという ことが、しだいしだいにハッキリし てね。

昨日の真実が今日は大ウソ メカ・デザイナー残酷物語

Shimoyama. 昔のSFにはかなり発想 的なものがありますけど、最近 のSFは特にとっぴだっていうよ うなものはみかけないみたいです ね。

Matsumoto. 現実に多少、追いつかれたき らいがある。感覚の世界の発想がね。 それで、昨日いったことが今日は大 ウソになるというとまどいがでてき た。 土星の輪なんかがそうだね。 こ うどんどん変わっていく時は、しょ うがないのかねえ。

Kawamori. 現実の方が、人々に理解され ないぐらいに進みすぎてるというこ ともある。たとえば宇宙船に積むよ うなレーダー・アンテナ。 クシャク シャに丸めておいて手の中にも入る ようなやつが、熱を加えると何十メ ーターにも広がるなんて機構が開発 されちゃってるけど、それを見たと しても見てる側にとっては、とても 信じられない。ウソみたいで。

Miyatake. 社会全般の科学技術に対する イメージと、実際の技術レベルとの 格差がどんどん大きくなったうえに 科学の分野も広がりすぎて、一人一 人の知識では、とても全体を見るこ とができなくなりつつありますね。

Matsuzaki. さっき河森がいった金属など 実際に存在するにもかかわらず、作 ないもの。 品の中で使ってもウソにしか思われ

Miyatake. だから、最近のSFの新しい アイディアはSF作家からではなく みんな科学者が生み出している。九 割九分までね。カール・セーガンと か、オニールとか。「ガンダム」の スペース・コロニーなんて、あそこ までスケールアップしたものなど 残念ながらSF作家は考えることが できないでいる。

Shimoyama. ハアー(ただただ感心)。

Matsumoto.でも、根本からそういう発想 で創作をしていく人間てのが出るは ずで、将来は現実の科学知識と創作 感覚の世界の合体物になるよね。

Shimoyama. そうすると、これからはマン ガを描く時も科学者の目で見ていか なくちゃなりませんねえ。

Matsumoto. そう、これからは大変ですよ。 そういう点での知識を吸収した人間 でないと、やりにくくなる。

Kawamori. しかも考える時に、科学者的 な目を持つ必要があるとはいえ、そ のままそれを表現したんじゃ、理屈ば かりが前面に出ちゃって、なかなか一 般に受け入れられなくなるし。

Matsumoto. それをうまく翻訳するのが感 覚の作業。 この感覚の世界が理屈で はどうにもならない世界なんで、こ れはやっぱり特異な才能が無いと。

MA. 最近のSF映画で「ブラッ クホール」がありましたね。で、結 末はブラックホールの中へ飛びこん でいきましてパッと終わっちゃう。 なんかアッケラカンとして。あれを "ぬえ”が作ったら、あのあとはど うなるんでしょう。

Kawamori. まずブラックホールを持ち出 さないんじゃない!?

Matsuzaki. まだちょっとこわくて、でき ないよね。あれはもう科学者でさえ いくらでも説があるというもので。

Miyatake. 逆に、わからないからできる というものもあるけど。でも、だっ たらそれはまるでわからない方がい いんで、少し足がかりがついた段階 というのが一番いや。

Suzuki.それは、たとえば?

Miyatake. 僕は今、宇宙船をデザインす るのが非常につらい。スペース・シ ャトルによって、ほんの二、三年後 には大変新しい金属が生まれるはず なんです。 この金属で作る宇宙船は 確実にこれまでの二百分の一の重量 になってしまうんで、デザインがも う根本的に違ってしまいますから。

Kawamori. 戦闘機なんか紙のようになっ て、あるんだかないんだか・・・。

Miyatake. でも、それを描いたら、さっ きも話に出たように、見た方からウ ソだといわれるんですよね。といっ て、そういったことを視聴者の側に 一々知っておいてくれというわけに はいかないし。

Matsuzaki. 一つ一つ説明してたら、作品 の筋がどっかへ行っちゃう(笑)。

Kawamori. やっぱり見せ方の問題になる わけだよね。

Miyatake. ですからこれからの数年とい うのは、デザイナーにとっては本当、 地獄ですね。

Shimoyama. 地獄ですかあ (神妙な顔で)。

Kawamori. 逆に、やりがいという点で今 が一番楽しい時期でもあるけど。 近は一つ科学技術を導入したら、世 界が全部変わるとみておかないと。

Miyatake. 一つの科学理論の上に立った 世界観を構築して、それが作品世界 全体を傷つけないという配慮がと かくむずかしいですね。ま「ガンダ ム」ではミノフスキー粒子を持ちこ んだだけで、世界観全部のぬり直し が必要になったほど。あれは架空理 論を持ちこんだことで現実から完全 に脱却して、大ボラが吹けたんです が、それをやるためには、逃げ道の 作業が大変だったんですよ。

Shimoyama.「ガンダム」っていうのは、ミノ フスキー粒子が存在しないと根底か ら崩れちゃうんですか(驚き)。

Matsuzaki. まったく全部崩れます。必然 性がなくなっちゃうの。

Miyatake. だからあの時代にはできてい ない小型核融合炉も、ミノフスキー粒 子の媒介によって初めて可能になる という仮説を持ちこんで逃げてる。

Kawamori. なにかわからないことがあっ たり、技術が進みすぎてる部分があ るとミノフスキー粒子でまかなって しまってるんだよね。

Shimoyama. まるで魔法の呪文ですね。

Miyatake. そう、その魔法の呪文を知ら ないと、あの作品は全部ウソになっ てしまう。

Matsuzaki. そういえば早とちりの視聴者 がいて、ミノフスキー粒子の出ると ころを全然見ていずに他を見て、ア レはウソだって文句をいってきたこ とがあったよ。

Matsumoto. SF作品には、そういった架 空理論を導入する見極め、思いきり、 SF的なセンスといったものが必要 になるわけね。

Miyatake. 「ヤマト」についていえば、 ものの見事に波動理論というのを持 ちこんできたでしょ。あれは事実上 架空理論ですからね。

丸ダンゴから美人体型へー女性 キャラクター自立の親は松本先生

Suzuki. だいぶむずかしい話が続いた ので、このへんで女性のことを。 先 生の作品では、女性がかなり重要な 地位を占めていると思うのですが。

Matsumoto. あれはもともと単純な話で、 アニメに出てくる女性がみんなキレ イに見えなかった。「白雪姫」の、昔か ら。それが不満だったのと、自分の 作品に比較的そういうキャラクター が出てたんでアニメにも強引に出し たんだけど、非常に不安はあったん ですよ。初期の森ユキの顔なんか、 まあソーレツだものね。

Suzuki. 昔のアニメは男の世界って感 じで、女は出てきても添えものにし かすぎなかったですよね。

Matsumoto. 女性をメーンの役として扱っ に「アタックNO1」、当時あれを 担当したプロダクションの人から相 談をうけたんですよ。なにか少女も のをやりたいけど、いかんせん描き ようがないと。それで、少女マンガ のスポ根ものをやれば、動きが速い から破綻をきたさないでしょうとア ドバイスしたの。 そこらへんから徐 徐にアニメに女の キャラを描く可能 性がでてきた。そ れまでの丸ダンゴ の女キャラじゃな くて、いわゆる美 人体型のね。

Shimoyama. 最近は少女 マンガのアニメ化も進んでいますね。 「キャンディ・キャンディ」や「は いからさん」。少女マンガの歴史は、 アニメとしては新 しいから、まだア ニメ化されてない 分野はあるんでしょう。

Matsumoto. ジャンルと いうのはいろいろ 広大無辺だけど、 まだまだあるよ。

Shimoyama. たとえば・・・。

Matsuzaki.時流と、そ れからスポンサー で決まります(シビ アに)(一同爆笑)。

MA. これから のアニメの予定は どうなっておられるのですか?

Matsumoto. TVと劇場用の「1000年 女王」と、夏公開の「わが青春の アルカディア」、それにあともう一 本が決まってます。 「1000年女 王」というのは、メカニックなSF ものというより、感覚的な世界を描 いたSFといえますね。ちょっと怖 い感じのもので.........。

Suzuki. '82の「わが青春のアルカディア」の方は?

Shimoyama. 戦場マンガですか?

Matsumoto. ウン、一部ね。いままで作っ SF系のものとは、まったく違い ますよ。発想を変えてるから。

MA. これも”ぬえ"とご一緒に?

Matsumoto. ええ、ハーロックとその先祖、 子孫を含めて代々続く限り共同して やろうと思って。 ね。 ま、大いに期待していてくださ いよ。

MA. お忙しい中、長時間、あり がとうございました。これからも、 よい作品を作ってください。

漫画と、 アニメの仕事 一松本先生談一

私がアニメを作りたいと思い出し たのは、小学生の頃です。特に「ガ リバー旅行記」 「白雪姫」あたりを 見たあとは、強烈にそう思った。 さて、いざアニメに関わってみる と、いろいろあるわけです。漫画家 の場合はプロダクションがあっても 基本的には自分一人、徹底して一人 です。一人っていうのはまことにラ クなんで「おらぁやぁめた」で、す むわけ。アニメの方は基本的に共同 作業だから、そうはいかない。どう 転んだって一人じゃできないし、各 各得意とするものを合体していかな いといいものができない。 漫画家としては、好きなものをの どかに描いていたい。 一枚一枚丹念 に、ベタも自分でね。それから、 業中は絶対人に見られたくない。こ れは絵描きの本性じゃないかなあ。 でも、そんなこといってたら失業し ちゃうけど(笑)。 アニメの仕事は猛烈に体力を消耗 します。アニメをやってなかったら、 私などもっとブクブク太ってたかも しれないなあ。長編を一本やると、 あきらかに最後の方はやせてる。ア ニメというのは、気苦労が、多いで す。チームが大きいし、交渉ごとが 入ってくるでしょ。 人間関係などは 気を使っていても、やめるやめない の大騒動が必ず何度かある。まなじ りあげてやってる最中は、ヤダナア、 ヤメタイナと思うけど、終わるとケ ロッと忘れるんですよ。そしてまた 次の制作に夢中になって。それのく り返しだよね。 あと、アニメの制作には、原作者 として最低やらねばならないライン があります。どんなにもめようと、 血の雨が降ろうと、そこは譲らない という。そうしないと出来上がった ものが、自分の作品でもなければ人 の作品でもない、という甚だ妙なこ とになってしまいますからね。

My Anime Life: Yoshinobu Nishizaki

私の暗黒時代は昭 和50年の春だった」

今、アニメは花ざかりである。空 前のブームのおかげで、アニメ関係 者は我が世の春を謳歌している。 事 実、アニメーターの生活もずいぶん 向上した。それはそれで結構なこと と思う。報われて当然以上のことを しているのに、まったく報われない というアニメ残酷物語〟の世界に 生きてきただけに、業界の著しい盛 況は我がことのように嬉しい。しか し、その反面、むずかしい時代に入 ったなという気がする今日この頃で ある。 とにかく、ブーム到来前のアニメ 製作に携わっていた頃、「冬来たりな ば、春遠からじ・・・」 を夢見て苦闘し ていた。それが昨日のように思われ、 一挙に夏が来たという想いである。 しかも、いつのまにか私は、アニメ ブームの火つけ役ということになっ てしまった。 「宇宙戦艦ヤマト」が、このアニ メブームの発火点になったとは、よ くいわれることである。たしかに、 その通りだろう。しかし、それは結 果であって、TV版・第一作の放映 時に、まさかそうなるとは想像すら できなかったのである。もちろん、 私自身は「宇宙戦艦ヤマト」に全力 投球をしていた。しかし、それに賭 ける私の気持ちとは、まったく裏腹の、 低い視聴率で惨憺たるものだったの である。 「宇宙戦艦ヤマト」に限らず、ど ういうわけか、それまでも私の手が けたTVアニメ作品は(すべてとい ってよいが)、視聴率がわるかった。 たとえば、昭和44年にものしたTV アニメ第一作の「海のトリトン」、続 いて放った「ワンサくん」が、その 好例である。そんな次第で、昭和4 年の「宇宙戦艦ヤマト」がだめだっ たら、この世界にいられなくなると いう心境で、それこそ精魂こめて製 作にあたった。ところが、フタをあ けてみたら、やっぱり視聴率の壁は 崩せなかった。その時のショックは、 ちょっと筆舌に尽しがたい。 もう俺には才能がないんだ!」 心の底から思いこんでしまった ほどである。どこの局へ行っても、 「あいつは4、6、8のチャンネル を、全部食いつぶした男だ・・・」とい われたわけで、まったく立場がなか った。とにもかくにも、50年の春先 には39本になっているはずのヤマト が、26本で打ちきりになったときの 絶望感といったらなかった。 この気持ちは私だけでなかった。松 本零士氏にしても、豊田有恒氏にし ても、その他、今、第一線で活躍し ているアニメーターにしても、この 作品が当たらないということは絶対 にありえないという気持ちがあった。 それだけにスタッフ一同の挫折感は 痛々しいほどであった。

「アニメへの傾斜は "口惜しさ"から・・・」

こんなことを記すと、「そんな気持 ちになるくらいなら、アニメの世界に 入らなければよかったではないか」 と思う読者もいることだろう。 その通りだ。私自身も、今の読者 ぐらいの時代には、まさかアニメの 世界に入るなどとは夢にも考えてい なかった。ただ、私の中学・高校時 代(昭和22~28年)は、アメリカ の映画がどっと入ってきたわけで、 その頃の中・高校生が観に行けるも のといえば、ディズニーものとSF ものだけといってもよかった。ちょ うど娯楽に飢えていた時代だけに、 そういうものは端から観ていった。 それでも娯楽が足らず、必死になっ て本を読み漁ったものである。ちな みに、「チボー家の人々」なんかを読 んだのも、たしか私が中学三年の時 であった。 テレビはまだなく、ビジュアルな ものといえば映画と漫画だけの時代 だった。それだけに、活字ひとつに しても、自分の頭の中でビジュアル 化できるタイプと、活字を追うだけ のタイプとがいたような気がする。 私は、わりと夢想家のほうで、活字 で読んだものをビジュアル化させる ことが好きなほうだった。 今、振り返ってみると、本格的に SFが好きになったのは手塚治虫先 生の「ロスト・ワールド」「来るべき 世界」「メトロポリス」のSF三部作 に接してからのような気がしてなら ない。ところが、夢想家がすぎて、 自分が他の人間を演ずる芝居の方向 に行ってしまった。 ちょっと脇道にそれるが、私は頭 の中だけでいろいろ考えるよりも、 すぐに行動に移すタイプである。一 回は自分でやってみないと気がすま ない。いつの時代でも、試行錯誤と 行動力というのは若者の特権である。 だから、十代で若いと思いこんでい 若者をみても、トライアル・アン エラーができないやつは、若者 だと思えない。逆に、三十代に入っ ている人でも、行動力があればすご 若さを感じられる。私自身がそう だから、実際に脇道へ行ってしまっ たが、それについてはまったく後悔 していない。 話を元へ戻そう。私がアニメの世 界に入ったきっかけは、手塚治虫先 生のゼネラル・マネージャーになっ たことである。しかし、その時もま だ、アニメのプロデューサーになろ うなどと思っていたわけではなかっ た。それよりも、彼自身をいかに活 かすかということを考えなければな らないと思った。 そして、 虫プロへ 入ると、いきなり「私の作品を売っ てください」ということになった。 これも彼を活かす一つの道だと思い、 たまたま「ふしぎなメルモ」という 作品があったので、それを大阪の朝 日放送にあっさり売りこんだわけで ある。ところが、この作品の視聴率 が想像以上にわるかった。それだけ ならまだしも、最後は私自身がある いということになってしまった。自 分自身が創造し、プロデュースした もので、それがだめというなら納得 できるが、まったくその逆である。 つまり、他人が創ったものをただ 単に売っただけにもかかわらず、そ の作品の評価まで売った人間に課せ られるという不合理に、正直言って 私は泣くに泣けぬ心境であった。 も ともと音楽制作と舞台のほうでプロ デュース経験があっただけに、その 時はふざけるな・・・"という気持ちが 強かった。従って、私がこの世界に 入ったのは、単純にアニメーション が好きで好きでたまらないといった 理由よりも、むしろ口惜しさ”の ほうであった。その気持ちが、私をこ の世界に傾斜させたのである。

「はじめてのアニメ プロデュース作品」

そんないきさつから、自分自身の 資質に合うものがあれば、悔いのな アニメ作品を創ろうと決意だけが 固まっていった。そんな折り、「青い トリトン」が新聞連載された。 漫画 としては尻切れトンボに終わった作 品だが、舞台は海で夢もロマンもあ る。これを自分なりに再構成し、起 承転結をつけて、目的ドラマにして みようと思いたった。 その頃、アニメーションは漫画の 動 くものという考えかた、見かたが まだまだ強く残っていた。当然、対 象年代も、小学校低学年あたりとみ るのがあたりまえだった。だから、 ドラマづくりにおいても、子どもの 注意力から演繹して一話一話完結し ているほうが間違いのないつくりか たと思われていた。それに対して、 私は一話完結を踏襲しても、〝母探し" という最終目標にたえず向かってい くドラマづくりを図ったのである。 一話完結的に見せながら、実際には 27本で完結するという目的ドラマに したのは、ことアニメに関して私が はじめてだと思う。 この「海のトリトン」は名実とも にはじめてのプロデュース作品であ りながら、ただひとつ失敗したこと は、対象年代層を誤認したことであ った。つまり、この作品において私 は小学校の低学年を中心視聴層にお いてしまったのである。ところが、 実際に放映されると、この作品につ いたファンはほとんど中学生だった。 ちょうど今の「機動戦士ガンダム」 と同じ状況を呈したのである。 キャ ラクターは小学校低学年向け、そし て中身のドラマは中学生向け のチグハグさが、もうひとつ下の子 どもについていけない要素になり、 視聴率の低下を招くという結果にな ったのだと、今にして思う。それが 後になって、再放映時、はじめて「海 のトリトン」は評価され、かなりの 数のファンクラブが結成された。お そらく、日本であれだけまとまった ファンクラブができたのは「海のト リトン」が最初であったはずである。 いずれにしても、私のプロデュー ス作品の場合、必ずテレビ放映時 に視聴率がよくなく、あとになって 評価されるという結果が多い。あれ だけ当たった「宇宙戦艦ヤマト」も、 最初に述べたように視聴率がわるか ったのは、私の考えていた視聴対象 年代と放映側の決めつけていた対象 年代とが食いちがっていたことによ るものである。 いずれにしても、「海のトリトン」 は、虫プロを離れてからの作品であ るので、売り込みには苦労した。 オ フィス・アカデミーという会社を設 立してはみたものの、作品を創る前 に、まず食うことを考えなければな らなかった。30代半ばをちょっとす ぎていた私が、プロデューサー業の 看板を掲げても、それだけで食って いけるとは思っていなかった。そこ で、キャラクター商品の二次使用化 を図ることにした。つまり、当時は もらうものと思われていたカレンダ ーを、「キャラクターものだったら売 れるものになるだろう」と考えた。 そこで、はじめてつくったのが、「ム ーミン・カレンダー」。これを売り歩 きながら「海のトリトン」の製作を していたわけである。

「ワンサくんでアニ メづくり開眼!」

キャラクター・カレンダーの製作 と販売をやりながら、つぎに手がけ た作品は白い秋田犬の雑種を主人公 にした「ワンサくん」であった。 こ の作品の製作においても、私にとっ てはまだ試行錯誤の連続であった。 「海のトリトン」もそうであったが、 この「ワンサくん」を通じてつくづ く思ったことは、音楽の重要さであ る。それまでも、アニメ製作におい ては局サイドでもレコード会社サイ ドでも、音楽には絶対カネをかけな いということが常識になっていた。 しかし、それは間違いじゃないかと かねてから思っていた。 私には20代の10年間、音楽の世界 で食ってきた自信があった。それだ けに、アニメーションの映像と音楽 のドッキングに対しては人一倍の興 味を持っていたのである。ちなみに この「ワンサくん」の音楽制作費は 「宇宙戦艦ヤマト」の第一作に対し て約2倍に近い経費をつかったほど である。とにかくディズニーばりに 音楽的な試みは徹底的にやってみた。 それが視聴率でみると、ちっとも報 われない。今になってみれば、いい 勉強になったと笑っていえるが、当 時はそれどころではなかった。 ついでに記すと、対象年代層を私 が間違えていたということ、自分の つくるドラマを、当時のTV局がい ちばん要求していた小学校の低学年 に無理矢理合わせようとしていたこ とが間違っていることに気がついた のが、この「ワンサくん」であった。 しかし、なんといっても最大の苦 労は、完全に自分がプロデュースす るという主張を局側に納得させるこ とである。東京のキー局にはほとん ど相手にしてもらえず、大阪へパイ ロット・フィルムを持って売り込み に必死になった。ちなみに、私が製 作した作品の中で東京をキー局にし たものは一本もないほどである。そ れくらい大阪へはよく通った。 また、作品を創る上で、それ以上 の苦労はカネづくりであった。放映 が決まったTV局から製作費の前受 け金をもらっても、それだけでは到 底足らない。しかも担保になるもの は何もない。しかし、自分の思った 通りの作品を創るためには、その不 足分を自分自身が用意しなければ、 本当のプロデューサーとはいえない。 そうした資金面での苦労は、いい勉 強になった。銀行通いの連続といえ ばきこえはよいが、本人にしてみれ ば死にものぐるいの毎日であった。 話はまた脇にそれるが、よく映画 製作に夢をもつ20代から30代の人が 「もし機会が与えられ、自由につく らせてもらえたら、あんな監督なん 問題じゃない・・・」と言ったりする のを耳にすることがある。私に言わ せれば、そんな風に考えているとし たら、その人はもう終わりである。 「もしカネがあれば・・・」とか「もし 機会が与えられれば・・・」ではなく、 自分自身が本当に映画づくりに賭け ているならば、そういう場は自分で つくることである。これはなにも映 画プロデュースに限ったことではな いと思うのだが......。

「視聴率は悪くても 人材が育った・・・・・・」

「海のトリトン」、「ワンサくん」の 苦い製作体験から、「宇宙戦艦ヤマト」 を製作するさい、最初に脳裏をかす めたことは、小学校高学年から中学 生ぐらいの世代を対象とするドラマ に徹底しようという気持ちだった。 こ の年頃というのは、男であること、 女であることを互いに意識しはじめ る。漠然としたものではあるが、そ うした気持ちが高まって初恋につな がってゆくー… この”初恋時代”のひとつの特徴 は、自分の未来への期待と不安が漠 然とした中にもあるということであ る。世の中の制約など知らない中で、 未来に対する期待感が、受験勉強な どで極端にせばめられている。自分 の未来に対して、何が不安で何が期 待かと特定はできないが、不安感の ほうが強くあらわれる世代は不幸で あると、私は考えるものである。そ うした世代に、未来志向の強いもの を与えなければというのが、「宇宙戦 艦ヤマト」の、第一のモチーフであ った。 私が生まれてはじめて自分のアニ メスタジオを東京・練馬の桜台のパ ン屋の二階に設けたのも、一種の使 命感のようなものであった。このス タジオに一週間に五日はこもりっき りで製作にあたった。不眠不休の努 力は必ず報われると、それだけを念 じて、放映当日の視聴率は絶対20% はいくと思っていた。ところが、今 でもまざまざと記憶しているが、第 一回の視聴率は6%強で、ニールセ ンの調査では5%台という惨憺たる 結果であった。後は冒頭に述べたよ うな絶望感が襲ったのである。 けれども、天は我を見捨てなかっ た。小学校低学年の時間帯に放映さ れていたにもかかわらず、私がター ゲットにしていたミドル・ティーン が観ていてくれ、そういう人々がブ ームに火をつけてくれたのである。 ひじょうに運がよかったといえばそ れまでであるが、私の意図した作品 に共感をもって迎えてくれる世代が いたということ それがもうなに よりも嬉しかった。 それともうひとつ嬉しかったこと は、「ヤマト」の製作に関わってきた 人たちが、以後のアニメブームの中 でつぎつぎに羽ばたいていったこと である。具体的に言えば、松本零士 氏にしても「ヤマト」を通じて、ひとつ の宇宙イメージが明確になったとい ったら言い過ぎになるだろうか。ま た、アニメーターでも、今トップク ラスといわれている宇田川、白土、 安彦、小泉の各氏も、「ヤマト」で育っ た世代である。プロデューサーの役 割として、自分の作品を創るのはも ちろんのこと、その作品を通じて人 材を育ててゆくことも重要な任務で ある。「宇宙戦艦ヤマト」で、それが できたことは、私の二番目のプライ ドである。 三番目のプライドがあるとすれば、 「宇宙戦艦ヤマト」でアニメという 紙に描かれた絵にどうやって質感を もたせるか、それを音楽でいかに強 調できるか、そのテクニックを完全 に把握したことである。ドラマ性の あるアニメと音楽の効果的な組みあ わせとノウハウ――これについては 大変生意気のようだが、他の追随を 許していないと自負している。

「今度こそヤマトに さよならを言おう」

ところで、最近のアニメ界はます ます過熱化して留まるところを知ら ないかにみえる。ことTVアニメに ついては、視聴者が気楽に観ている 点でまだ広がりがあるといってよい だろう。しかし、俗にブームのもと になった劇場用アニメの先行きにつ いては、今のままで行ったらという 但し書きの上で、あと二年でだめに なるだろうと、私は見ている。 理由は簡単である。TVで見られ るものを、わざわざ劇場に観に行く というのは、そこにそれだけの価値 観があるからであって、それが今の アニメブームの特徴であるといって よい。ところが、最近はただ人気が あるからということだけで、TVア ニメをそのまま劇場に持ちこんでい ると思われるものもあるくらいであ る。専門的になるが、我々は絵コン テひとつつくる場合でも、TV用と 劇場用とでは違ってくる。2メート ルぐらい前で見るTVの小画面なら、 それなりにアップの連続カットでも 通用するが、映画というあれだけ大 きな大画面を支えきってゆくために は、かなり細部までも描きこんだ画 像を必要とするのである。それだけ ではない。劇場の広さを考えに入れ ると、サウンド・エフェクトがTV とは比べものにならないほど大きな 比重を占めてくる。そして、いちば ん重要なことは、大画面を支えるよ うなドラマ性がなければならない。 そうした諸々の計算上に立って、 劇場用のアニメが今後どんどん くるというなら話は別である。 なことに、TVの小画面ですみそう な作品を劇場で見せているという が、昨今の状況である。極論になる が、漫画を劇場で見せているような ものがあまりにも多すぎるような気 がする。やはり、劇場というのは映 像作品という言葉が適用するような ものでなければならないだろう。そ ういう考えかたと姿勢をもたない限 り、若者がわざわざ劇場まで行って 感動を味わいにくる気持ちを失ってし まうのではなかろうか。ブームに便 乗してパカパカつくるというなら話 は別だが、劇場に掛けるだけの良質 のアニメ作品を創ろうと思ったら、 三年はみなければならない。TVア ニメが劇場でも通用するんだという ことの証明をしたのが「宇宙戦艦ヤ マト」であったと自負しているだけ に、私は、こうした状況をぼろぼろ にして欲しくないと、 つくづく考え る次第である。その意味で、私は「さ らば宇宙戦艦ヤマト」で結末がつい ていたはずの「ヤマト」に対して、 何度もマスコミに露出してきた決着 を、今度こそ劇場でつけなければな らないと思った。明年公開の完結編 は、テーマだけははっきりしている。 つまり、おのれの意志で消えていく ヤマトがメイン・テーマであり、エ ンドシーンはもう既に決めてある。 はるか永遠の宇宙の彼方に、かつ ての戦場を、14万8千光年のマゼラ ンを過ぎ、アンドロメダを過ぎ、暗 黒星団帝国を過ぎ、そしてはるか二 重銀河の先 ―人類未踏の世界の中 に、人間の意志によって追いやられ るのではなく、彼(ヤマト)は自ら この意志をもって消え去っていく。 同時に、主人公古代とユキの未来 に向かって歩いていく姿をダブらせ る。古代とユキの間に、何か新しい モノの誕生があり、それを見届けた 安心感をもって、人格化されたヤマ トは浄々と去っていく……その結末 を見せるだけに、私は完結編を創る のだといってもよい。それが、TV の小画面ではあまりにもヤマトがあ われである。これまで絶大の支持を 受けてきたヤマトを去りゆかせるた めには、絶対に70ミリの大画面でな ければならないのだ。そのために、 明年の八月公開を期して、昨年の八 月以降二年間をこの一作だけに集中 すべて自分の時間を空けてある。既 にこの一月下旬から台本づくりに入 った。もちろん、今度もストーリー 原案は自分で書いている。これまで 「ヤマト」につきあってきてくれたフ アンと共に、私自身もヤマトに惜別 する日を想いながら......。

Director Note (Eiji Okabe)

アニメ作品の誕生には、ピラミッド型の関係者の努力が!!

テレビアニメの初期の頃――
今、日本ではNHK、民放各社を含めて、 週に二十数本もの、テレビ用アニメーション 映画(ギャグ漫画映画、劇画調漫画映画、名作 路線と呼ばれる映画など色々あるが、それら を含めて)が作られ放映されている。アニメー ション全盛時代と言っても過言ではないだろ う。質の点から言っても、内容的にも、技術 的にも、かなり高度な作品が見られるように なった。 しかし、ここまで来るまでには、アニメ関 係者(制作、演出、アニメーター、美術、撮影、 仕上げ関係など)の、並々ならぬ努力があった からだ。それはピラミッドが多くの労働者の 手により建てられたように、集団の力によっ て作られるアニメーションも、多くの関係者 の汗と涙で今の繁栄を得たのだと思う。 それは、十数年前、私が初めてアニメーシ ョンの社会に入った頃には、思いもつかぬこ とだった。 私が初めてテレビ用アニメーション映画を 演出したのは、昭和三十九年から四十年にわ たって放映された、手塚治虫原作の「ビッグ X(エックス)」という作品だった。「鉄腕アトム」 「鉄人28号」「狼少年ケン」「少年忍者風のフジ丸」 などが作られ放映されていた頃で、虫プロ、 東映動画、TCJ(現エイケン)、東京ムービー など、各社あわせて、週に七、八本しか作ら れていなかった。 作品はもちろんモノクロ(白黒フィルム) で、ポスターカラーの白から、灰色を段々に 濃くして黒までを十段階ぐらいに分け、塗り 分けて、色の表現に替えたのだが、二、三年 後、虫プロで「ジャングル大帝進めレオ」 カラーで制作したのを初めて見た時は、正 直言って、驚きだった。 今の子供たちに、「おばけのQ太郎」や、「怪 物くん(カラーで現在再び作られ放映されて いるが)」「パーマン」などの藤子不二雄の人気 漫画映画が、十何年前にモノクロで作られて いたなど、信じてもらえないのではないだろ うか。 テレビ局が発足し、番組を提供しはじめた 頃の実写映画(アニメーション以外の、俳優 が演技し作られる映画や記録映画など)が、ラ ジオ出身の演出家や、劇場用映画出身の監督 により作られたように、アニメ映画の草創期 にも様々な前歴の演出家によって作られた。 劇場用映画から来た人、人形劇の演出家、 人形アニメ出身の演出家、雑誌漫画を描いて いた人、アニメーターだった人など、様々な 分野の演出家が、テレビ用アニメ映画にとり 組んだのである。 当時、私はテレビ映画の制作に当たってい たが、最初に映画に関係したのが、今は無く なったが、新東宝という映画会社で、特殊撮 影のスタッフの一員で、「戦艦大和」「人間魚雷 「回天」「鋼鉄の巨人・スーパージャイアンツ」 「明治天皇と日露大戦争」などで、ミニチュア 撮影や、合成撮影、ブルーマスク方式による 移動マスク合成などの仕事をしており、アニ メーションには興味を持っていた上、映画界 入りが演出志望だった関係から、東京ムービ ーでアニメの演出のチャンスを得た時は一も 二もなくとびついたのであるが、今考えると 当時は冷や汗の連続だった。 映画にはかわりないが、実写映画と、アニ メ映画とでは、作り方に、かなりの差がある からである。 実写の場合でも、シナリオを映像化するた めにコンテを作る。つまり字に書いてある場 面を想定し、構図を決め、カットを割り、イ メージを固定化し、撮影をスムーズにはこぶ ためにもコンテは必要なのだが、それは台本 上にメモしたり、頭の中に描いたりですむ場 合が多い。 しかしアニメの場合は、そうはいかない。 実写の場合は、目の前に被写体(演技者なり 自然なり)があるから、キャメラをのぞき、 演技者を動かして構図を決め、撮影すること により、すぐに映像をフィルムにすることが 出来るが、アニメーションの場合は、そう簡 単にはいかない。フィルムになるまでには、 一カット一カット、原画家が動きの基本とな 原画を描き、それに動画家が全部の動きを 描き入れ、描かれた動画用紙から、セルロイ ド板にトレスし、それに彩色し、別に描かれ 背景の上にのせ、初めて撮影出来るのであ る。自分のイメージが、目の前で展開され、 すぐにフィルムに収められるというわけには いかない。 アニメ映画は三十分番組で、原動画を描き 上げるのに一か月以上もの日数がかかる。そ れも何人ものアニメーターが、かかってであ る。四、五千枚の絵が描かれるのだから、大 変な作業である。作画に入る前に、演出家と アニメーターと、綿密な打ち合わせをするの だが、そう何日も覚えていられるものではない。 そこで詳細に演技を記した絵コンテが必要 になってくる。一カット一カット、構図を決 め、キャラクター(登場人物、動物、機械など) の演技、表情、感情を記し、セリフを記し、 所要タイムを入れ、アニメーターが、それを 見れば、すぐ打ち合わせを思い出し、作画出 来るような絵コンテを作らなければならない。 ところが、この絵コンテを作る作業という のが大変なのである。 演出という仕事は、一カット一カット、映 像をつみ重ねて、見る者を楽しませ、面白が らせ、悲しませ、感銘を与え、テーマを理解 してもらうことであると思うが、それゆえに、 その一カットが大切な要素をしめるのである。 意味もないカットや、わけのわ らぬカット は、たちまち視聴者を混乱におとしいれてし まう。一カット一カット、的確な構図を決め、 最上の表現で見てもらわなくてはならない。 また、カットの積み重ねだけでなく、シー ンとシーンとのつながりを、どう無理なく、 時には、しゃれて、つなげるかも工夫しなく てはならない。 ところが、イメージの貧困といってしまえ ばそれまでだが、シナリオの活字が、なかな か的確な構図となって、頭の中に現れないの だ。 少しでも良い絵コンテを作ろうと、一緒に やっている他の演出家のコンテを、そっと見 て参考にしたり、アドバイスを受けたり、プ ロデューサーや、アニメーターに相談したり して勉強したものだった。今考えると無我夢 中の時代で、試行錯誤をくり返しながら、あ っという間に数年経ってしまった。苦しかっ たが、反面、活気に満ちた時代だった。段々 アニメ演出の仕事にもなれ、他からも絵コ ンテの仕事を頼まれ、ややもして気がゆるみ そうになった時、白黒時代の原画セルを取り 出して見ては、初心を忘れぬいましめとしている。

アニメーションは無限の可能性を持ってい ることについて―
アニメーションは、無限の可能性を持って いることは確かだろう。想像に限界がないよ うに、確かに実写では描ききれないものも、 アニメなら表現出来得る。幻想的な場面、動 物の世界、人間の感情なども、工夫次第で映 像に表現し得る。 先年、「アンネの日記」を手がけた。その作 り方は、ナチス・ドイツの侵略や、今に残さ れた、アンネたちが隠れた家をドキュメンタ リーフィルムと実写で、隠れ家でのアンネた ちの生活と、ベルゲン、ベルゼン収容所でア ンネが死ぬまでをリアルなアニメで、そして 隠れ家の中でアンネが書いた童話を、絵本風 なアニメ・幻想的なアニメで描く、といった 構成で作ったのだが、その中の童話の話の「恐 怖」という作品で、 一少女(アンネが自分自身 を想定したのだと思うが)が、ナチの空襲で外 に逃げたが、いつの間にか父母と別れ別れに なり、火の中をさまよって逃げているうちに 野原に出、そこで寝てしまう。目がさめてみ ると戦争は終わっており、父母と再びめぐり 会うといった話であるが、この部分を担当し たアニメーターは恐怖におののく少女という 独特のキャラクターを強烈な光と色の中に埋 没させ、アニメならではの効果を上げたもの である。 アンネの演出にあたった時、アンネの日 記を読んで疑問に思うことがあった。それは アンネたち家族と知人のファンダーン一家、 歯医者のデュッセル氏と八人もの人々が、厳 しいゲシュタポ(ナチの秘密警察)に見つから ずに、二年余の間も、よく隠れていることが 出来たということだった。オランダのアムス テルダムに、アンネたちが隠れていた家がそ のままの姿で、アンネ記念館として残され、 全国からの見学者が絶えないという話を聞き、 私たちスタッフは、実写の撮影とロケハンを 兼ねて現地へ行った。私は実際に自分の目で 隠れ家を見ることによって、疑問が氷解した。 ナチに抵抗したオランダ人の援助もあったろ うが、隠れ家には、うってつけの構造だった。 オランダは運河の多い街で、いたる所、運河 が張りめぐらされている。貿易の盛んだった 昔から運河を使って品物を運搬したため、運 河に面して、こぞって家が建てられた。その ためか間口の狭い、奥行きの長い、鰻の寝床 のような建物で、明かりをとるために中間に 中庭を作った。そのために前の建物から後ろ の建物に行くには、細い廊下を通らねばなら ない。アンネたちはその廊下の入り口に本棚 で扉を作り隠れていたという。アンネたちは 密告されて、ゲシュタポに捕らえられてしま うのだが、ともかく、ロケハンの必要性を痛 感したのだった。 近年、外国の名作物がテレビ化されたが、 現地へロケハンし、設定され、作られた作品は 皆、それぞれ説得力があるように思われる。 アニメは無限の可能性があると書いたが、 それは表現上のことで、実際にテレビ用アニ メ映画を作る上では、ある程度の制約が生じる。 自然な動きをそのまま再現するとなると、 撮影するフィルムの流れは、一秒間に24コマ だから、アニメで本当の動きと同じように再 現するためには一秒間に24枚の絵を描かなく てはならない理屈になる。とすると三十分番 組を作る場合、CMなどを除き正味二十二分 をアニメ化したとして、千三百二十秒の二十 四倍即ち、三万一千六百八十枚の絵が必要と なってくる。現在の実行予算と制作日数から テレビアニメで使用出来る作画枚数は四千枚 から五千枚が限度である。その中で最大限の 効果のある動き、演技を考えなければならない。 以前「アタックNO.1」という作品を 演出したことがある。病気がちだった一少女 がバレーボールの選手となり、高校生ながら、 世界一のアタッカーに成長していく、といっ 少女・スポーツ根性物だったが、試合の多 い話になって、はたと困った。二十四人の選 手がコート上を動き廻るのである。一人だけ がスパイクした動きがあっても、あとの人物 がとまっていたのではサマにならない。ボー ルを追って選手は絶えず動いていなくてはな らない。いちいち、ていねいに動きを追って いたら、膨大な枚数になってしまう。そこで 考えだしたのが、フレーム(枠)を有効に利 用するテクニックだった。 映画には枠というものがあって、これから は抜けだせない。どんな広大な世界を描くに しても、どんな狭い場所を描くにしても、こ の枠の中で表現しなくてはならない。 今度の 場合、逆にその枠を利用することを考えたの である。初めに選手がサーブをする前の緊張 感のコート全面を見せ、次にサーバー一人に よりサーブをする所だけを作画する。 次は飛 んでいるボールだけ、次はレシーブする選手、 上がるボール、ここで何人かいれこんでトス を上げる選手、次にスパイクする選手、とい った具合に、カットを細分化していったので ある。これらのカットを連続してつないで見 た場合、見ている人は、枠外に居る選手たち も頭の中で動いて見ているのである。いろん なパターンをこしらえて、試合の進展を描き、 そのために動画枚数の方は、なんとか許容内 で収めることが出来たが、カット数がふえて しまった。打つ、飛ぶボール、レシーブなど、 それぞれの秒数は二、三秒足らず、ものによ っては何コマもといったカットまで出る、三 十分番組のテレビアニメの総カット数は、二 百カットから三百カットを少し越えるぐらい が普通である。ところが、ほとんど試合ばか りの話を上記のような方法で作ったところ、 なんと五百カット近い作品になってしまい、 一緒にやっていたエディター(フィルムの編 集をする人)に、「カット数だけは、巨匠なみ だ」と冗談に笑われたことがあった。 よく他人から、アニメーションのような夢の ある、クリエイティブな仕事をしていて、楽 しいでしょう、といわれることがある。 はたから見るとそう見え、結果として視聴 者を楽しませ、子供に夢を与え、希望を持ち せ、といった作業をしている、あるいは実際 に楽しんで制作にあたっている人も居ること と思うが私の場合、ピンとこない。シナリオ をもらうと、どう料理したらいいか悩んでし まうからだ。 私の場合、演出のモットーとして、わかり やすく作ること、楽しんで見てもらえること (せっかく作って見てもらえなかったら、な んにもならないから)を常に頭に入れている が、どうしよう、こうしようと考えていて制 作予定の締切りが迫って来ると、だんだんい らだって来る。 楽しいなんてものではない。 四苦八苦して絵コンテを完成させた時は、ホ ッとする。締切りに追われた小説家の気持ち もこんなものかと思う。時には、もうこりご りなんて思うこともある。ところがである、 数日たって、なんとなく気持ちが落ち着いて くると今度はどんなシナリオが来るかな、な んて考えだすのである。そして面白いシナリ オであればよいが、などと心待ちしている自 分に気づき、既に物を作る喜びのトリコにな っている自分を笑うのである。 ある陶器を作る人が、何千という数の茶碗 を焼いたが、自分で満足出来るものは幾つも なかったといった話を聞いたことがある。 私も今までに随分たくさんの絵コンテを作 ったが(自分で演出したものもあれば、他の演 出家から依頼されたものもある)満足のいく ものはいくらも無かった。これからもアニメ の演出をやっていくことになるのだろうが、 少しでも、自分の満足のいく作品が作れれば、 と思っている。

キャラクターについて――
アニメーションの魅力は、なんといっても キャラクター(登場する人物や、動物など) である。 キャラクターは子供たちのアイドルである。 魅力あるキャラクターは、子供たちの願望をか なえてくれなければならない、子供たちはそ のキャラクターになりきって、アニメーショ ンの世界に溶けこむのだ。 アニメーションの場合、大勢のアニメータ ーが同じキャラクターを描かなければならな いために最初にキャラクターの設計図をこし らえて、だれが描いても同じ絵になるようにす るのだが、時に面白いことがある。キャラクタ ーが歳をとるのである、「アタックNO.1」と いう作品は二年間にわたって放映したのだが、 最初主人公の鮎原こずえは中学一年生だった。 最後は高校三年生になり、終わるのだが、最終 回に回想シーンで、中学生だった最初の頃の フィルムを使用したところ、かなり違ってい るのである。顔も、身体つきも、すっかり高 校生になっているのだ。いつの間にか成長し ているのである。実写の映画俳優や、舞台の 役者が、「役になりきる」ということを聞くが それと同じで、アニメーターが役になりきり、 キャラクターになりきったのだろう。二年間、 描いているうちに、無意識のうちにちゃんと 主人公を成長させたのである。 テレビアニメの場合、漫画雑誌に連載され ている原作物が多い。私の場合も、「おばけの Q太郎」「パーマン」「怪物くん」「アタックNO. 「1」「空手バカ一代」「ギャートルズ」「天才バカ ボン」「ドカベン」「野球狂の詩」など、ほとん どが原作物だった。これらの場合、原作者の イメージがあり、そこから中々逸脱すること が出来ない。本当のアニメーションの魅力は、 オリジナルのキャラクターを創造し、その世 界をふくらませることにあるだろう。 「ひろすけ童話」「オリバー・ツイスト」「芥川 竜之介の河童」「三国志」など、まだまだたく さんある。そんなアニメーションをこれから 創作することが私の夢である。 四月から放映される、カルピス名作劇 場、「愛の学校・クオレ物語」の制作にとりか かっている。百年前のイタリアの少年たちの 学校や家庭での愛情をテーマにした心温まる 物語である。派手な作品ではないが、百年前 のイタリアの少年たちの生き方に、現代の少 年たちが共感し、何かを感じとってもらえる ような作品が作れればと思っている。

Kei Tomiyama Feature

果てしなく広がった高梁畑の向こ うに、真っ赤に燃えた夕陽が沈もう としている。 乾燥しきった大地から舞い上がる 土埃のせいだろうか、遠い地平線の 上でそれはゆらゆらと揺れていた。 詰めこめるだけ詰めこんだ大きな リュックを背負い、持てる限りの荷 物を手にした母と子が、その沈みゆ 大きな夕陽を見上げていた。 あの夕陽の下あたり、奉天の近く の、小高い丘の上に、二人の弟達が 眠っているのだ。 わずか三月ほどのうちに、事故と 病気で二人の子を亡くした母は、ま 悪夢を見続けているかのように、 言葉もなく、じっとその場に立ちつ くしていた。 やがて、母と子はくるりと踵をか えすと、茜色に染まった満州(現、 中国の東北地区)の空を背にして、 南東に向けて歩き始めた。 もう、あの奉天にも、住みな れた鞍山にも再び帰ってくることは あるまい。 靴からはみ出した親 指の皮がむけて痛かった。 とみやまくにちか -昭和二十年の夏、富山邦親、 七歳の時のことである。 遠くの方で、ソビエト軍の連 射するマンドリン (自動小銃)とト ムソン銃が、バリバリとカン高い響 きを上げ、不協和音をつくりだして いた。 頼みとする精鋭関東軍に見捨てら れ、敗戦の悲哀を背負わされて、た だひたすら故国をめざして落ちてい 日本人を、それはせき立てるよう にけたたましくがなり立てていた。
歓声が一段と激しくなった。観客 の口ぐちに叫ぶ声がただワーワーと こだまして、劇場内を圧している。
「ケイさーん!」
「トミヤマさーん!」
昭和五十四年四月五日、東京・日 劇の広い観客席を埋めつくした二千 人の女性客の黄色い声が、かたまり となって、ステージ上の富山敬を迎える。 五色の紙テープがステージめがけ て、あとからあとから投げられる。 それが空中に舞ってからみ合い、も つれて観客の頭上を色あざやかにお おった。 連日、日劇を満杯にさせ、興行師 を驚かせた「声優フェスティバル・ ボイス・ボイス・ボイス」の初日、 プログラムは進行し、場内は興奮の るつぼと化していた。 熱狂的な歓声に応えて、精いっぱ い歌い終わった彼は、ホッと一息を いれた。顔を上げると、巨大なアー ク・スポットが自分をフォローして いる。 キラキラと輝いてまばゆい。あの 満州で見た夕陽のように、それはゆ らゆらと燃えていた。 あれから、もう三十年の歳月 がたった。貧乏神ともすっかり仲良 しになっていた俺が、何で突然、こ んな観声の渦 の中に立たさ れているのだ ろう。 この強烈な スポットライ トは俺には眩 しすぎる と、彼は当惑 した。そ うだ、あの時 も、こんなに 眩しかった。 彼の心は 富山敬から、 富山邦親へとかえっていく。
貨物船の船底に押し込められたま ま、陽を仰ぐこともなく、幾昼夜の のち、やっとの思いで祖国日本にた どり着くことができた。 初めて見る日本。舞鶴港の船上か ら見上げた、あの時のめくるめくよ うな陽の光。 舞鶴からは汽車を乗り継ぎ、宮崎 県高岡へ。客車は人で溢れ、デッキ や機関車にまで復員服姿の男達がぶ ら下がっていた。 走りゆく窓外の景色は、満州のそ れとは全く違っていた。緑の谷間を 縫い高原を越えていく。 のうまさ。 高岡の駅からバスに揺 られて一時間、祖父が待 っている神社の森の見え る停留所に降りた時、母 はしっかと彼を抱きしめ て泣いた。やっと帰って 来たのだ。 ここが父の生まれた故 郷。この森が、この川が 父のふるさとなのだ。 その神社の宮司である 祖父が、二人をやさしく 迎えてくれた。久しぶり に食べる畳の上での食事 それから二年後、シベリアに抑留 されていた父が、毛布を縫い合わせ 外套を着て、重い軍靴を引きずる ようにして帰って来た。 敗戦後、やっと富山家にも幸福が訪 れた。富山敬、九歳の時のことだった。 一家は、生活を立て直すために上京 を決意し、東京へ向かって旅立つ...。 そして東京・世田谷での、間借り生活 が始まった。家の経済は決して楽では なかったのに、正則中学校から高校に 進んだころ、いつしか彼は演劇に熱中 し始め、東宝児童劇団に飛び込んでし まっていた。兄弟のいない寂しさをま ぎらわすためであったのかも知れない。 初舞台は、水沢草田夫作「金のうぐ いす」の、海賊クロ次の役。芝居好き 若者達と舞台をつくりあげていく楽 しさ。彼はますます演劇の世界にどっ ぷりとつかっていく......。 大学へ進むことを考えながら、演劇 に熱中のあまり、とうとう一浪の身と なってしまった。 やはり大学へは行くべきだなと 考え直し、受験勉強にとりかかる。そ して翌年に、日大芸術学部演劇科に入 学。彼の演劇熱はますますエスカレー トするばかり。 昭和三十五年、当時、若手新劇俳優 で結成していた劇団〝葦"に研究生と して入団。「三文オペラ」の公演で、研 究生から抜擢され、与太者の役がつい た。 舞台をやったからといって、それで 食べていけるものではない。当時の 新劇の公演ではギャランティはもら えない。幹部の人達は、ラジオやテ レビに出演して収入があるが、若手 連中や研究生は余暇にアルバイトを しなければ、その日その日を食いつ ないでいけない・・・・・・。 彼もいろいろなアルバイトをやっ た。バーテン、キャバレーのボーイ に客の呼び込み。そしてサンドイッ チマン。日銭が得られるものは、何 でもやった。 時給が百二十円で、一日五時間働 いて六百円。それで何とか飯が食え て、タバコが吸えた。 どんなにつらいつらいアルバイト でも、それで芝居がつづけられるの なら......と、大学も中退して、がん ばってみたら、なんと頼りにする劇 団は赤字公演がつづいて、あっとい う間につぶれて解散。研究生は、 またたく間に放り出された。 ただただ、食うがためのアルバイ トの日々がつづく。飯は食えても、 演劇への情熱のはけ口を絶たれるほ うが、ずうっとつらいことを彼はこ の時知った。 東京・四谷の喫茶店で、ウェイター をやっていた、そんなある日、その 店へひょっこり入って来たのが劇団 の大先輩で、声優としても活 躍していた千葉順二氏だった。彼も 驚いたが、千葉先輩も驚いた。 仲間を統合して”河の会”を結成す るから君も入らないか・・・と、誘われ た時の嬉しさ。この時の先輩の一言 が、自分をドン底から救い上げてく れたことを、彼は今も忘れてはいな いー。 その千葉順二氏との邂逅が、後に 声優スター、富山敬を生み出すこと になろうとは、その時の彼自身はも ちろん、周囲の誰一人想像すること はできなかった。 千葉氏は当時、すでに外国映画や アニメの声を演ずる声優として、売 れっ子であった。 この時、昭和四十年。すでに国産 テレビアニメ第一号「鉄腕アトム」 (昭和38年1月1日~41年12月)が 放映開始されて三年目、オープニン グのそのテーマミュージックは街の あちこちに流れ、アニメに対する人 気は日をおって高まりつつあった。 "河の会”のメンバーも、アニメ や洋画の声に活躍していた。「アト ム」を追いかけるようにして始まっ 「鉄人28号」(昭和38年10月27日~ 42年5月22日)の主役正太郎は、〝河 の会”の高橋和枝女史が演じていた。 富山敬は、この「鉄人28号」に、 初めてアニメのセミレギュラーとし て出演できることになった。といっ ても彼は、通行人Aとか警官Bとか 毎回違う、つまり端役引受人…。 でも、どんな役でも、出されても らえることの喜び、役者として仕事 のできる喜びは、苦労した人間でな ければわかるまい・・・。 俳優になって、初めて定収入が得 られるようになった感激を、彼は未 だに忘れることはできない。 そして昭和四十三年九月、彼はつ いに主役をつかんだ。オーディ ションで数多くの先輩達を抜いて、 「佐武と市」(昭和43年10月3日~ 44年9月24日)の、佐武役を射止め たのだ。これを機に、この番組の終 了と同時に、彼は引きつづき二本の 主役についた。「男一匹ガキ大将」(昭 和44年9月2日~45年3月28日)の 万吉と、「タイガーマスク」(昭和44年 10月2日~46年9月30日)の伊達直 人である。 それからあとは、順風に乗った帆船 のように、快調に主役を始め、重要な キャラクターを演じつづける そして「宇宙戦艦ヤマト」の古代進 は、番組の人気とあいまって彼の地位 を決定的なものにし、声優・富山敬の 名はアニメファンなら誰知らぬ者もな くなったー。
昭和四十八年、劇団の事務員、和江 さんと結婚。長女絵麻ちゃんに、明彦 くん裕介くんの双子の兄弟も加えて、 幸せな家庭もできた。 役者になって、もうかれこれ二 十五年。何とか飯が食えるようになっ て十五年。気がついてみたら、もう四 十歳を過ぎていた。 現在、数多くのアニメ番組、ラジオ のDJと、休む暇もないが、これから は子供達と過ごす時間を大切にしたい と彼はいう。 子供達の手を引きながら、真っ赤な 夕陽に向かって、「おーい、俺はやった ぜ!」と力いっぱい、叫ばせてやりた いものだ。

Star Graph: Tōru Furuya

毎年、プロ野球のドラフト会議が行 われる九段のホテルグランドパレス。 昨年 年11月原辰徳さんが巨人軍入団へと 導かれた場所である。 で、そこの1階にあるティーラウン ジで、あの星飛雄馬の声の主・古谷徹 さんと会ったのだから何となく因縁め いたものを感じずにはいられない。 1953年7月31日。何とこの日は、 古谷徹さんと私小坂恭子の誕生日であ る。生年月日が かまるっきり同じ人と出 会ったのは古谷さんも初めてのことだ ったらしく、私達ため組はそれだけで すっかり打ち解けてしまった。 その日の彼の出で立ちは、紺のシャ ツに真っ白のトレーナー。脇に白いスト ライプのは入ったディナー・ジーンズ、 そして黒のウエスタンブーツ。さり気 無く流行を取り入れた爽やかなお洒落。 右手首に巻かれたシルバーのブレスレ ットが髪をかきあげる度に光る。煙草 はハイライト。時おり忙しなく取り出 しては口にくわえる。 その瞬間の動作 とは対照的に彼の全体的なムード、そ して口調は実にゆったりとしていた。 ちょっと細めの体格なのに時々大きく 見えてしまうの のだが、きっとそれは3 歳の時から児童劇団に籍を置き、役者 としての修業を積み重ね、幼いころか ら自然に身につけてきた間のせいなの かもしれない。 芝居とは自分以外の人間をそして心 を演じる芸である訳だが、小学校時代 にはすでに、子役としてホームドラマ に出演し少しずつ洋画の子役の声の吹 き替えの仕事などもやり始めていたら しい。そして昭和41年、彼が小学6年 生の時アニメーション海賊王子”の 吹き替えオーディションに見事パス。 彼にとって初めての主役をしてレギュ ラーの仕事を勝ち得た。 私の小学6年時代といえば、仲良し の友達と着せ替え人形やお姫様ごっこ などで遊ぶのに夢中で、週一回のピア ノと声楽のレッスンには泣き喚いて行 くのを嫌がったものだが、彼の方は私 がダダをこねまくっている時、しっか と学校から撮影所へスタジオへと行き 来してはお仕事をしていたのである。 この優秀なチビッコ役者さんは中学 3年生の時、誰もが感動の涙を流した ご存じ "巨人の星〟の星飛雄馬の声の 役に大抜擢されたのである。 彼は週末になると学生服のままスタ ジオへと駆け込み、あの印象的な鼻か らぬけてゆく声で『父ちゃん!』と演 じていた訳だ。 "巨人の星”は彼が高校3年の時完結した。 幼いころから思春期へと一番多感な 時代に、普通の子供達とは異なった世界 に足を踏み入れていた訳だから、さぞ かし辛い事も多かっただろうと尋ねる と『あまりなかったですよ。それに悩 んだりするのは僕の性にあってないか らな』と笑いながら答えた。 仕事にもかなり恵まれた人であるが、 性格的にも明るさと強さに恵まれた人 である。 物心がつくかつかないかの時に入っ 芸の世界。ともすると束縛され強要 されることに慣れてしまい自分という ものを見失いがちになる。だが『いつ も自分に正直でありたい。美しい花を 見て感激できる素直な心でいたい』と、 彼自身の中から湧き出た言葉がまた、 彼の心を確かに支えて来たのだろう。 そして何よりも心の自由を彼が見失わ ず守って来られたのは、恐らく一番影 響を受けたという彼のお母さんの寛大 な育て方にあったのではないだろうか。 惚れこめる仕事に着実に出合いなが ら、彼はそれらを確実に自分の物とし て来たのであ。 ここ近年のアニメブームの煽りもあ って、彼が地方に招かれることが増え てきた。目的地へ向かう汽車の中で或 いは飛行機の中で、詩を綴る事を覚え 最近ではメロディーもよく浮かぶよう になったと言う。 彼が吹き替えしたアニメの主人公と 彼とを二重写しにしてサインを求める ファン達。『サインを求められるのは素 直に嬉しい」と笑う。 ファン同士でイザコザが起ると容赦 なく大声で叱る。どんな時でも裸の自 さら 分を曝け出し勝手に作りあげられたイ メージをまず壊してゆく。ファンは彼 のむき出しの心に触れて声優古谷徹か ら人間古谷徹へと更にまた惹かれてゆ くのである。だから逆に彼のコンサー トを通じて改めてアニメのファンにな る場合も多いという。 彼は中学時代からロックバンドを組 んでいた。そして、高校に入ってから はブルースバンドを結成、文化祭で初 めてコンサートを体験しステージにも 魅せられてしまう。 声優だけでは終わりたくないという 彼の気持ちがエネルギー源となって他 方面へと爆発してゆく。 大学時代、カンツォーネをも勉強し たという彼はビクターからソロシンガ ーとしてデビュー。 そして声優仲間で 結成されている"スラップ・スティッ ク"のメンバーでもある。彼はドラム とヴォーカルそして何とステージ衣装 ・スタイリスト役まで担当している。 それだけでもオドロキなのに、初めて ソロLPページ・ワン"の発売記 念コンサートでは、長年やってきた芝 居と音楽が一体化するのはミュージカ ルしかないという結論に達し、良きア ドバイザーでもある愛妻と二人でミュ ージカルショーまでやったそうである。 そしてまた、彼の弾き語りコンサート の企画制作構成まで全てプロデュース してきた。彼のために気心の知れた友 達が手弁当で参加して来る。三か月間共 に綿密に打ち合わせ稽古を重ねてひと つのコンサートのためにがんばりあう。 絶対的なチーム・ワークである。『だか ・ら終わった時、みんなで泣いちゃうん ですよ』。 芝居もコンサートも主役とスタッフ とで力を合わせ作ってゆく総合芸術で ある。スポットのあたらない裏方さんを 報酬なしで動かすというのは大変な事 である。イヤ、報酬を支払っても仲々、 うまくチーム・ワークがとれない場合 だってあるくらいなのだから。何なく 人を集め事を起こしてしまう彼の魅力 には計り知れないものがある。 最初50人くらいの会議室でスタート を切ったこの"ハッピィ・ステージ。 次回には150人の会場へと移り、や がて400人のホールへ、そして、 300人の日本青年館へと膨れあがっ てきたのである。『最終的には地元の横 浜球場でやりたいですね」といたずら っ子のように笑ったけれど、この人な らやりかねないと、そう私はにらん だ。 愛用のギターイバニーズモデルの事 を話す時、熱帯魚の泳ぐ海に潜る話を する時、キャビンクルーザーの事を話 す時、幼い少年のような漆黒の瞳が一 段と光り輝やく。 『たった一度しかない、自分だけの今と いう時を精いっぱい生きる』。自分で 作った徹語録の中でこの言葉が一番好 きだと彼は言った。 そして、灼熱の太陽を浴びながら泰 然自若と構えているライオンも一度獲 物を見つけると凄まじく豹変し見事な 速度で疾走してゆく。そんなライオン の習性が好きだと遠くを見るようにつ ぶやいた。 その静かな横顔を見つめながらその ライオンこそはひょっとして彼自身で はないのだろうか、と思ったー。

May

My Anime Life: Yasuji Mori

「卒業目前にアニメ 志望に切り換える」

MA. 森さんがアニメの世界に入ら れたきっかけは......?

Mori. むかしはアニメーションとい うよりも、漫画映画といった感じで したね。小学校のころはよく見まし た。ですけど、当時はこの道に入ろ うなんて、まったく思ってもいませ んでしたよ。 十八、九のころでしたか、ちょう ど戦争中でしたが、政岡憲三さんの 「くもとちゅうりっぷ」を見たとき も、感動をおぼえたというよりは、 「ム、イイナァ」という程度で、ま だ動画の仕事をやろうという気には なっていなかったんですね。そのこ ろは建築のほうを勉強中でした。

MA. それがどんな風の吹きまわし で、このお仕事に?

Mori. 卒業目前に、バイトを兼ねた 実習で歌舞伎座に行ったんですよ。 すると、図面引きばかりで、学校を 出てもこんなことを毎日やらされた んではかなわないなと思いましてね、 ずいぶん悩んでいました。そんなと きに漫画映画を見て、こっちでいっ てみようかという気になったんです。 たまたま、政岡さんの日本動画社に 勤めている人を知っている人がいま して、それで卒業制作をもってたず ねていったわけです。 それで「とにかくアニメをやりた いんですけど」って言ったら、政岡 さんは「(仕事が)もったいないから、 (アニメは) やめたほうがいいんじゃ ないか」とハナから言われました。 でも、やっぱり建築よりはおもしろ そうだから、どうしてもやらせてく ださいとお願いして入りこんでしま ったわけです。

MA. そうすると、あの政岡さんが 先に、この道をやめろとおっしゃっ たわけですか?

Mori. ぼくも、今、アニメーター志 望の若者がたずねてきたら、同じよ うにやっぱりやめろと言いますね、 ハハハハ ハ……………。当時は、アニメー ーの生活は苦しかったですし、好き でなきゃ、ほんとにやってられなか ったですよ。最近は状況も変わって、 アニメーションで儲けようという人 も出るようになりましたが、あのこ ろは芝居と同じで、アニメは絶対に 儲からないというのがふつうの考え でしたから......。 ですから、アニメ製作会社の数も 少なく、給料も安かったですね。た しか、「日本漫画」 「近代映画」 して、ぼくが入った「日本動画」の 三つだけだったかな。日動のスタッ クは、たしか十五、六人だったんで すが、それでも今と比べれば比べよ うがないくらい、のどかで、のんび りしていたことをおぼえています。 とにかく十分モノをつくるのに、二 ヵ月、三ヵ月かかるのがふつうだと 思っていましたよ。今じゃ、三十分 モノが一週間ですからね。そんな調 子でも、やっぱり徹夜もありました。 それでも、合い間に「ガリバー旅 行記」「白雪姫」や「バッタくん」 などは会社で観賞に行った記憶があ ります。しかし、ああいう長編は、 我々にはできないと思い込んでいま したよ。

「原画描きのあとに なった脚本づくり」

MA. ところで、最初に森さんが手 がけた作品は?

Mori. 熊川正雄さんが演出と原画を 担当された「ポッポやさん・のんき 駅長」(二巻・十八分)で動画を担当 しました。と言っても、今とちがって 原画と動画はひじょうに密着した関 係にあり、ほんとうにみんなでつく っているという実感と雰囲気があり ました。 その後、「ポッポやさん・のんき機 関士」、政岡さんが演出された「トラ ちゃんと花嫁」、古沢秀雄さんの「小 人と青虫」の動画を担当したわけで す。 ところが、この日動はぼくが入っ てから二年ほどでつぶれてしまった んですよ。仕方がないので、西武の 宣伝部へ行ったり、看板屋へ行った り、カットの仕事をやったりしまし てね、しばらくアニメから遠ざかざ るを得なくなりました。それでも、 その間、動画の監督さんなんかから キャラクターをやってくれとかいう 話がちょくちょくありましてね。 そうこうしている間に、東映の中に 動画部門をつくるということになり、 日動が吸収され、それでお声がかか りまして、以後、アニメ一筋という ことになったわけです。 話は前後しますが、東映動画に移 る前に、ぼくが演出した作品に「子 うさぎものがたり」(製作・ 日本動画)というのがあります。そ して、もう一本は「黒いきこりと白 いきこり」(製作・日本動画)で、こ れは浜田広介さんの原作をもとに、 脚色、絵コンテからキャラクター設 定まで全部やった二巻モノ(十五分)。 これが、ぼくの最初にやったカラー 作品ということになります。

MA. 東映動画に移って最初に取り 組んだ作品は、戦後初の長編カラー アニメ「白蛇伝」ということですが、 そのへんの苦労話を......。

Mori. スタッフのだれも長編の経験 がなく、試行錯誤の連続でした。 も絵として見ると、ヘタクソでバ クなど統一がとれていず、バラバラ なんですよ。しかし、八方破れの 力みたいなものはありますね。 とにかく原画担当の経験者は、ぼ 大工原(章)の二人だけで、原 作はあっても脚本はなし(準備稿で できていた脚本はボツになった) 絵コンテも通しではできていなかっ たんですから大変でした。 ぼくのほ うで原画を描いても、動画マンの間 でキャラクターの統一がないんです よだれがどこをやっているか、全 然見当もつかない。 しかも、絵が完 成してから脚本をつくるという、今 とまったく逆の状態でしたね。です から、アニメというよりも劇映画の つくりかたに似ていたと言えるので はないでしょうか。演出の藪下(泰 司)さんも、暗中模索だったと思い ますよ。 こうした苦い経験を経て、つぎの 長編「わんぱく王子の大蛇退治」の ときには、キャラクターの統一をと る作画監督システムが生まれました。

「動画でありながら 止めた絵が多い・・・」

MA. 昭和三十八年にはTVアニメ が始まりましたが、新媒体との関わり についてはどうだったのでしょうか?

Mori. 月岡(貞夫)さんの「狼少年 ケン」がTVアニメの最初だと思い ますが、ぼく自身は長編の班に属し ていたので、すぐに関わりをもつこ とはなかったんですが、キャラクタ ーを設定してくれというのはありま した。 「宇宙パトロールホッパ」が それにあたります。 これは後に「宇宙っ 「子ジュン」に改 題されまし たがね。 もう一作、「ハッスルパンチ」とい うのがありますが、これは会社の中 の懸賞募集に応募して当選したもの です。

MA. TVアニメ時代というものを どのように感じられてきましたか?

Mori. アニメーターにとって、いち ばんつらいのは枚数が使えないとい うことなんですよ。その一方で、最 近の子どもたちはむしろ動きの速い アニメに慣れてしまっている。 こま かいことですが、カット割りなんか でも人間の歩きかたというのは半秒 ちょっとで一足だったんです。それ が、今では逆に半秒ぴったりでない とおかしいんですね。 また、動画で絵を止めちゃダメだ と言われてきましたが、それもみん な止めちゃっても平気で見られるよ うになってきている。アニメに対す るリズム感とかテンポが変わってと らえられるようになってきたのはた しかでしょうね。

MA. そういう制作者の立 場から見て、最近のアニメ ブームについても複雑な心 境でしょうね。

Mori. コマ落としの傾向に 関連づけて言えば、アニメ ーターもそれに慣れて、動 画でありながら”見せる絵" というか”止めた絵〟という か、そういう画風のものが 増えていますね。ブームの 最中でこう言うのも変です が、血が通っていないとい うか、さわっても温かみが ないという気がします。そ ういう意味では、もう一度 漫画映画〟に戻ったほうが いいのではないかと思うん ですよ。 その漫画というのも、雑 誌の漫画をアニメにすると いうのは考えものですね。 はっきり言ってネタがない から、すぐ漫画に飛びつく というのはどうなんでしょうね。や っぱり漫画とアニメは本質的に違う ものですから、キャラクターの人気 もあり、筋もそれほど考える必要が ないということで、漫画をそのまま 動かすというのは、ほんとうのアニ メではないと思います。ディズニー が言っているように、現実には不可 能な、つまり実写や特撮では不可能 な動きのあるものを創造してこそ、 アニメと言えるんじゃないですか。 たとえば、自分の作品にしても、「草 原の少女ローラ」なんかは実写でも よかったんじゃないかと、今でも思 っているくらいなんですよ。 それから、現在のアニメづくりは あまりにも職能が細分化されすぎて、 大集団作業になってしまった結果、 自分の知らないうちに映画になって しまう……………そういう意味でも、おも しろみがなくなりましたね。描かれ た原画が、どこかで動画にされ、ま たちがうところで撮影され、ほんと うに、だれが、どこで、何をやって いるのかわからなくなっている。ま、 アニメの本流にいる連中からみれば、 こういう見方をするぼくなんか、 う古いんでしょうね。

「作画監督として、 お気に入りの場面」

MA. 自分で手がけられたキャラク ターの中で、好きなもの、気に入ら れているものに、どんなものがあり ますか?

Mori. 好きなものはいろいろありま すけど、この間、「わんぱく王子の大 蛇退治」を見て、改めて自分なりに よくできているなと思いましたね。 それまでのものに比べて、えらくシ ャープな線で、今ではちょっとこわ くてできないことをやったという感 じです。たとえば面ばかりで服のシ ワを全部省略するとか、鼻なんかも 三角で描いているくらいで、とにか 作品自体は神話をもとにしている わけですから、ハニワの感じを出そ うということで、つくりだしたキャ ラクターなんですよ。 また、よくできたなと思えるのは 「ホルスの大冒険」ですね。たとえ ば、ヒルダが一匹狼の前で倒れると ころなんかは自分でカット原画を描 いたんですが、今でも好きなところ ですよ。作品というのはみんなでつ くるものですが、カットは自分が直 接手を加えていろいろ工夫していま すから、気に入っているカットはた くさんあります。 「白蛇伝」のパン ダが出てくるところとか、「西遊記」 のリンリンが木の実を孫悟空のとこ ろにもっていくシーンなどですね。 また、「わんぱく王子」は、ぼくがは じめて作画監督を したわけですが、 いちばんはじめの ところで、お母さんが子守歌を歌い ながら、川べりでスサノオの背中を 流すシーンとか、クシナダが崖の上 でラブシーンを演ずるところも 大好きです。

MA. 森さんがキャラクターデ ザインしたものと、実際にアニ メになったものとがかなり違っ てくることもあると思いますが、 そのへんはどう思われますか?

Mori. 原画をやる人がうまいと、 まちがいなく生きてくるもので すね。たとえば、「長靴をはい た猫」の魔王なんて、宮崎駿さ んがやってすごくおもしろくな りましたよ。その逆もあって、 ぼくが気に入ったキャラクター を動かしてみたら、まるっきり みっともないものになってしま ったこともあります。とにかく 原画をやる人の技術に左右され ますね。

MA. 現在、手がけられている 「フーセンのドラ太郎」につい てはどうですか?

Mori. ぼくが最初に企画を出し たときには、「男はつらいよ」 の寅さんみたいな、ほのぼのとした 雰囲気のアニメーションはどうだろ うという程度の軽い気持ちだったん ですよ。だから、幼児向けを考えて、 「長靴をはいた猫」のキャラクター に似ているんです。 ところが、寅さ んのムードでやるというアイデアが、 いつのまにか寅さんをアニメ化する という具合に伝わってしまった。 結 局、寅さんそのものをパロディでや るということになり、だんだん対象 年齢も上がり、今じゃドラ太郎も酒 を飲んだりしてますからね。ほんと う言うと、ぼくはそういうのは苦手 なんです。大体、ぼくは幼児向きの ものしかできないんですから、気分 的には宇宙ものをやるよりは、ずっ といいことはたしかですが......。

「描いた絵が動けば 貧乏してもいい・・・」

MA. これからどんな作品づくりを しようと考えておられますか?

Mori. ぼくの希望としては、心あた たまる、ほのぼのとした作品をつく りたいということに尽きますね。年 のせいか、幼稚園から小学校低学年 あたりを対象とした、ほんとうに子 どもに向けたもの、馬場のぼるさん の「1匹のネコ」みたいな作品をや りたくなりましたね。 ちょっと話は飛びますが、ぼくも かれこれ三十年近く、原画、キャラ クターデザイン、作画監督なんかを してきましたけど、ぼくよりも古く て原画マンにもならないで、動画だ けをやっている人がいます。 その人 は、エライなと思いますね。アニメ の世界では仕上げよりも動画、動画 よりも原画、原画よりも作画監督が 上だみたいな意識があるんですよ。 しかし、実際はそんなことはあるべ きでなく、それぞれが大事なセクシ ョンであることに変わりないはずで す。今の若い人は、動画で入っても、 すぐに原画にいきたがるし、どうも サラリーマン的な考えかたになって いるようです。 ぼくなんか演助やってるころはな んでもやらされましたが、それてい てどうもカッコイイ人間が描けない ぼくなんか演助やってるころはな んですよ。だから、幼児向きのもの にどうしても目が向くんですね。そ れに徹したいという気持ちは強まる 一方ですよ。

MA. さんをそれほどまでに駆り たてるアニメの魅力とは一体、なん なのでしょうか?

Mori. やっぱり、自分の描いた絵が 動くということ、生命が入れられる ということでしょうね。これはこた えられないほど嬉しいことで、「も う貧乏してもいい」という気になっ てしまいますから。だから、芝居を やる役者さんと同じじゃないでしょ うかね。ただ、作画監督とかキャラ クターデザインとかでは、なかなか そういう気持ちになれません。自分 で描かなければ......。そういう意味 では、根っからのアニメーターなん ですね、ぼくは。 (次回6月号は安彦良和さんの登場です。)

Akira Kamiya Biography

交通量の激しい市街地を通り抜け ると、急に車の数も信号も減って運 転が楽になった。 彼は、ハンドルさばきも軽やかに ワゴン車を走らせる。気がついてみ たら、瀟洒な住宅の立ち並ぶ横浜郊 外の、真新しい滑らかに舗装された 道路に出ていた。 気分は最高だ。リラックスした彼 の口からは、自分でも驚くほど、次 から次へと歌がついて出る。 「星影のワルツ」から始まり、「小指 の思い出」、そして拓郎の「結婚しよ と、ヒットメドレーが続き、 それがいつのまにか、「鉄腕アトム」 「鉄人28号」「8マン」とアニメソン グに変わっていった。 あまりにも脈絡のないメドレーに 彼、神谷明は自分でもおかしくなっ た。しかし爽快である。明日はいよ いよ俺の人生を変える日、劇団「テ アトル・エコー」の研究生採用試験日 だ。明日でサラリーマン生活ともお 別れ、ザマーみやがれだ。当面の軍 資金は貯えられている。それにして も六年間は長かったー。 化学雑巾リーズ会社配達員の制帽 の下で、彼の顔は、思わずほころん だ。ニッと笑った口元からは、両の 白い八重歯がのぞいていた。 化学雑巾リース会社配達員の制帽 の下で、彼の顔は、思わずほころん 今日、アニメファンなら誰一人知 らぬ者はない神谷明も、生まれた時 からアニメスターであったわけでは ない。アニメの仕事についてから、 わずか十年しかたっていない。それ までの二十四年間の方がずっと長い し、苦労の連続でもあったのだ。

昭和二十一年九月十八日、彼は横 浜市の妙蓮寺で産声をあげた。父親 は家具製造工場を経営していたが、 ある日突然倒産、それがもとで父と 母は離別した。母の手に引かれて、 住まいを転々とする日がそれから続 母は働ける職場を求めて、必死 に働いた。彼もまた働く母を助け、 買い物はもちろん、母に代わってお 勝手仕事もやった。 学校もずい分転々とした。横浜の 青木小学校から鶴見の東台小学校、 そして東京・大田区の相生小学校へ。 その相生小学校のずっと先輩に、 小沢昭一のいたことが、彼を演劇へ の道へと向かわせ、歩ませることに なったのだ。もっと端的な表現をす れば、小沢昭一に憧れて、彼もまた 役者を志すようになったのである。 そして御園中学校から都立芝商業 高校へ進学する。もちろん、高校時 代は演劇部で活躍した。 彼は高校を卒業すると同時に、待 ちかねたように横浜のアマチュア劇 団「カニ座」へ飛び込んだ。 演劇にどっぷりつかれる生活に胸 ふくらませたが、アマチュア劇団で は思うような演劇活動もできず、そ れで食えるはずもなかった。そこで 彼は、レストランに就職。コックに なるべく修業を始める。働く母と二 人きりの生活だっただけに、彼は料 理を作るのが好きであったし、得意 でもあった。また、食べることも好 きであっ コック修 業は決し てイヤで はなかっ た。が、 見習いの 仕事はき つかったし、勤務は長時間で、彼は たちまち体をこわしてしまった。 家にいて体を休めている間に、ま たぞろ演劇の虫が騒ぎ出す。 彼は考 えた。 俺って人間は芝居を捨て られるわけがない。きっと死ぬまで 演劇への道を夢見つづけることだろ う。よし、プロになろう、なってみ せる。そのためには、まず金をため よう。軍資金が ちゃあ、戦はで きぬー。 そんな時、耳よりな情報が入って きた。歌手の霧島昇の付き人(カバ 持ち)が師匠のギャラを持ち逃げ して雲がくれ、付いてくれる人がい なくて困っているというのだ。彼は 早速出かけて行って、その後任の職 についた。――これで、師匠に歌の 勉強をみてもらえれば歌手になれる -。そんな淡い期待を抱き、 付き人稼業一ヵ月。大劇場も、テレ んだんと幻滅も感じ始めた。 ビ局のスタジ オも、見るも の聞くものす べてが、初め てのものばか り。 初めはワク ワクしてばか りいたが、だ 歌の世界は、たしかに華やか だが、何と演劇の世界と異なること か。演劇の世界にはアンサンブルの 美しさと楽しさがあるが、歌の世界 は一人一人がお山の大将。 厳しくも あるが薄情でもある。芝居の世界と はほど遠く俺の性には合わぬ と悟りかけた時、持ち逃げの付き人 サンが戻ってきて一件落着、彼はこの 世界から身を退いた。 金をためるために、何かせねば・・・。 母と相談して自宅を改造、ラーメン屋 を始めることにした。一ヶ月間ラーメ ン屋に勤めて修業、改造も終え、いよ いよオープン。どっと押し寄せるはず の客は、期待に反してパラパラ・・・。 場所が悪かったのか、思うようには 儲からず、彼は再びサラリーマンへ逆 戻り。横浜にある貿易商社へ。配送係 の運転手から始まって、商品管理の倉 庫番、そして営業事務へと出世はした が、もっとガバッと儲けたく、彼はそ の会社をやめた。 ガバッと儲けてやるぞと、飛び込ん だが、別荘地を売る不動産屋さん。 持ちまえの熱っぽさで走り回ったが、 二十二、三歳の若僧がいくら真剣にや ってみたところで、素直に信用してい と大金はたいてくれるものでもな い。それでもやっとのことで一件売り、 彼はここをやめた。 それからは、アイスクリームの配達 員、東京ガスの器具販売員、お弁当屋 さん……と、いろいろやった。なかで もお弁当屋さんが一番良かった。二食 昼寝付きで、時給五百円。昭和四十三 年当時では、かなりの高給だ。これで いくらかの貯えができた。 そして、化学雑巾リース会社の配 達員となったのだ。ここでの給料も せっせと貯えた。食いたいものも食 わなかったし、着たいものも買わず に我慢した。 俺には目的がある。役者にな ること、それも大勢の人サマに喜ん でもらえ、それで飯の食える、レッ キとしたプロになること、俺にはそ れができる。 彼の信念のとおり、「テアトル・エ コー」 研究生試験はみごと合格。研 究生生活が始まった。劇団は、自分 の好きな井上ひさしの作品を次々と 上演している。俺にぴったりの劇団 だ。俺の本当の人生が、今日から始 まるのだ、と彼は思った。 四十五年春のことである。

だが、研究生の訓練が始まって驚 いた。自分は、高校演劇でも活躍し ていたし、アマチュア劇団でも舞台 に立った。そして自らを端の役者 だと思っていたのに、まるで扱いが ひどい。セリフを言えば一言一言な おされ、動けば、貴様はロボットか、 と怒鳴られる。 本当に、先輩の熊倉一雄、納谷悟 郎、槐柳二らの指導は厳しかった。 なかでも、熊倉一雄の演技指導の 厳しさは定評があった。井上ひさし の一連の作品は、運動会といわれる ほどセリフも動きしい。ステ ジを駆けずり まわらなけれ ば、とても間 に合わない。 モタモタして いようなもの なら、熊倉先 輩が小さな体 矢のように 飛んで来て、 怒鳴られた揚 句にスリッパ で叩かれる。 だが、芝居 はなれて劇 団近くの飲み 屋で一杯やる 時の先輩たち は、まるで人 が変わったよ うに、やさし かった。後輩 の話に親身に なって耳を傾 けてくれた。 そこには人 間味が溢れて いて、 あ、これが役 者なんだ、これが劇団なんだ、と彼 はあらためて演劇の世界に身を投じ た喜びを噛みしめた。 しかし、喜んでばかりもいられな かった。研究生になって、初めてわ かったことだが、芝居だけやってい たのでは収入はいつまでたってもゼ ロであるということだ。ラジオ、テ レビのいわゆるマスコミからの収入 が得られるようにならなければ、俳 優としても生活していけないことを 知ったのだ。 幸運にも研究生になってから六カ 月目、昭和四十五年の十月、彼は初 めてテレビの仕事をもらった。フジ テレビの早朝番組で、セリフもない 端役だったが、初めてもらったギャ ラ袋の重みを、彼は今でも忘れるこ とができないという。 アニメ番組では、「魔法のマコちゃ ん」のいじめっ子役の声でアニメの 世界へ入る。 彼はスタジオに行き驚いた。アニ メだからといって、気楽にはやって いない。みんな真剣そのものだ。彼 はたちまちアニメの魅力にとりつか れ、声優と呼ばれる人たちが好きに なってしまった。 そして「田舎っぺ大将」で気の弱 二枚目役が廻ってき、これが彼の 方向を定めてくれたといえよう。 その時の笹川ひろしディレクター の恩を、彼は今も忘れてはいない。 研究生生活三年目の昭和四十七年 の暮れ、彼のもとへついに幸運が訪 れた。新番組「バビル二世」のオー ディションを受けたところ、その主 役に決定したのだ。初めての主役、 そして彼の声優としての人生が軌道 に乗った。 運がつき始めるととどまるところを 知らない。四十八年四月の「荒野の少 年イサム」の主役も決まった。 その後の彼は一瀉千里だ。実に多く のアニメに出演した。そして「闘将ダ 「イモス」の竜崎一矢では、彼の持って いる甘くソフトな二枚目的なキャラク ターがみごとに生かされ結実した。 また、アニメとともに歩み始めた人 生だが、健康的ホームドラマを展開す アニメ番組「ほかほか家族」に出演 して、それが縁で、同じレギュラーの 戸部光代さんと結婚、やさしい奥さん を手に入れ、マイホームを築いた。 和四十九年十月のことである。

彼は今、数多くのアニメ番組に出演 するかたわら、さらにアニメから飛躍 して、ラジオのパーソナリティーとし て活躍。毎朝ラジオのスピーカーから、 こんにちワ、神谷明です"と元気な 声を聞かせてくれている。 声優として、トップの人気を保つ神 谷明の人生は、こうして自ら切り拓い たものであるー。

Nobuo Ōnuki Feature

時代や歴史を超える作品評価

口にギャグ物”といっても、ギャグ物と は、こうこうこういう物ですと、明確には答 えられないような気がします。一応笑いが主 たる要素になったものとしても、笑いにだっ て、ギャグ、ユーモア、ジョーク、エスプリ、 ナンセンス等、言葉や国の違いだけではない、 微妙なニュアンスがありますが、私は、評論 家のように、ジャンル分けして、それぞれを 定義づけするなんてことは、あまり好きでは ありませんし、自分でもよくわからないので す。そこで、あまり理論的に厳密には考えず、 世間一般に通用する程度の、ジャンル分け、 意義づけで、この稿を進めたいと思います。 なにしろ、ギャグを論ずるのに、あまり肩ひ じはるのも変な話ですので······かといって読者 すっかり、ギャグの世界に引きずり込んで、 おもしろおかしくしてあげられるだけの筆力 も才能も、私にはありませんので、まあ、演 出家のメモ程度と思って、軽い気持ちで読ん でいただければ、幸いです。 さて、世の中には数々の分野の作品があり ますが、ここでは自分にとって、身近な分野 である、文芸、絵画、彫刻、写真、書、映画 などをさすものと仮定いたします。これらの 作品とは、いろいろな要素というか、その目 的によって、それを見る人に感動を与えま す。それは快感かも知れませんし、不快感か も知れません。また単に美しいとか、それを 見る人に希望を与えるとか、心の慰めになる とか、また逆に怒りが湧いてくることがある かも知れません。喜び、怒り、悲しみ、興奮 等、感動にもさまざまありますが、しかし、 それを見る人にどんな種類の感動も与えない となると、その作品は駄作ということになり ますが、これもハッキリと駄作といいきるこ とは、難しいのです。例えば、ある時代には 駄作と評価され、人々に見向きもされなかっ た作品が、ある時代になって、突然見直され、 高い評価を得、爆発的ブームを呼んだりする 例も多々あります。そこで駄作駄作でない こともありうる、と定義づけできるかという と、またそうでもなくて、駄作駄作である ことの方が多いわけです。ではその差は何か" というと、その差は作品の質といえるのでは ないでしょうか。その時その時の評価とは関 係なく、その作品の持つ質だけは、時代を超 えて存在しつづけるのだと思います。 ですが、ここでは質とか、時代の評価まで考 えに入れて論じていると、ちっとも前へ進み ませんので、その点にはあまりふれないで一 応、評価は現代、質は最低限レベルを保って いるものとします。

漫画と映画の合体がアニメか

さて、前おきが長くなってしまいましたが、 そろそろ私の本職であるアニメーションに入 りたいと思います。私はもともと漫画家志望 で、漫画家のアシスタントなどをやりながら、 コツコツ自分の漫画などを描いて、投稿など していたのですが、ひょんな運命のいたずら から、アニメーションの世界へ足を踏み入れ、 途中絵本とか、イラストに転じた一時期を含 め、ドップリとアニメーションに漬かって今 日まで来てしまいましたが、今にして思えば それだけ、アニメーションが自分に合ってい たのか、魅力があったのでしょう。 アニメーションとは私流に簡単にいえば、 漫画と映画の合体といえます。もう少しつき つめれば、漫画を目的とし、映画を手段として いるといえなくもないでしょう。したがって、 漫画といえば“笑い”と連想するように、漫画 もアニメーションも“笑い”の要素なしには考 えられませんでした。 現在では漫画もアニメーションも、さまざ まにジャンル分けされ隆盛をきわめています が、そもそもの出発点は、それを見る人を、ど う笑わせ、どう楽しませるかに焦点をあてて いるというか、それが目的であったわけです。 この作品はギャグ物だからとかいった考えは ありませんでした。 私のアニメーションの出発点になった、虫 プロの社長であった、手塚治虫先生は、漫画に も、アニメーションにも必ず“笑い”の要素を 強く求めました。私のアニメーターとしての スタートは、日本初のテレビシリーズの「鉄腕 アトム」ですが、「新宝島」「銀河少年隊」を経て 「W3」で初めて演出を手がけ、絵コンテなる ものを描いたのですが、その時もストーリー どう展開していくかより、どこにどのよう な形で“笑い”をもりこんでいくかに苦労した ものです。 そしてよく注意を受けたものに”楽屋おち” があります。 これは自分たち仲間だけに通用 するギャグなのですが、描く方としては、おも しろくて描き易いので、ついついそこへはま り込んでしまうのです。それと、もう一つお ちいりやすいのが、その時、その時の流行で す。これはタイムリーにいくと大変おもしろ いし、受けるので、いちがいに悪いと決めつけ られないのですが、再放送などで時代が変わ った場合、古くさく感じてしまうことと、虫 プロの場合、いつも海外売りを考えていたた め、外国人にもわかるもっと普遍的な笑いを 求められたのです。 私が手塚先生に教えていただいた、笑いを 作るテクニックの一つに、必ず三回以上くり かえせというのがあります。それはただ単に、 石につまずいて転ぶということでも、ただの 一回こっきりでは、単なる事故というか、ヘ タをすれば気の毒にということになってしま いかねません。現実には一回でも転べば、見て いた人が笑ったりすることがありますが、作 品となると転ぶには転ぶだけの意味がなくて はなりませんので、笑わせることができなけ れば、ギャグとしてはまったく無意味であり、 となれば転ばせたことそのものが、その作品 にとって意味がなくなるわけです。そして二 回目にまた転ぶと、はじめてまたやったとお かしく思い、三回目以上になると、これがそ のキャラクターの個性ともなって、見る人を 初めて笑わせることができるというものです。 これは転ぶという単純なことを、一つの作 品の中において、三回以上行わせた場合です が、ギャグ物のように即効性の笑いを期待す る場合、連続してやらせることもできます。 例えば空カンにつまずいて転びそうになる 運よく垂れ下がったロープ、そのロープに しがみついてホッとするまもなく、そのロー プがしばってあった木が折れて、あえなく下 の水たまりへ頭からザッブーン、そしてさら にその頭上へ折れた木が落下、というように、 たたみこんでいくわけですが、だからといっ ただ三回以上重ねれば笑いが生まれるか というと、そうは見る人も甘くはなく、あく までもこれは考える上での基本であって、や はり手をかえ品をかえアイディアを練らなく てはなりません。 現在は漫才ブームとかいわれ、お笑いタレ ントがもてはやされていますが、日本では笑 "ということがなぜか、一段低くランクされる きらいがあります。“笑い”は人生にとっても、 人間関係においても潤滑油ともいえるし、ま 精神衛生上からも大変結構なものなのに、 その貴重な“笑い”を与えてくれる人をバカに する心理は、どこからくるのでしょう。よく 喜劇役者そのものまでをバカと思い込んでし まうからでしょうか? もう一つ考えられるのは日本人の国民性で す。私たちはともすると笑っているとフマジ メ、泣いていたり、歯をくいしばっていたり、 ハチマキをして勉強したりしていると、マジ メだと思うようなところがありますから......。 しかし、そのバカにされる“笑い”を創る立 場になりますと、泣かすより大変難しいこと で、人を泣かすのなら、ドラマの設定で、そ のストーリー構成を、どんどん不幸や悲しい ものにしていけばすみますし、それこそ、不 幸な人の身の上ばなしでだって泣かすことは できます。また、最愛の人を殺したり、すれ ちがわせたり、友情をこわしたり、復活させ たり、タネはいくらでもありますし、こうい 話の場合多少語り口は下手であっても、そ 話の内容で十分人を泣かすことができます。 また泣く"ということのなかに、感情面では、 喜びもあれば、悲しみもあり、くやし涙もあ ります。ですから作者としては、そのどれか をくすぐってやれば、見る人の身分、年齢、 人種等に関係なく泣かすことができますが、 一方“笑い”となるとそうはいきません。“笑い” なんて一見単純そうですが、その笑いの中に は、身分、地位、貧富、年齢、心理、職種、 人種、環境、土地柄といった複雑な要素が入 り混っていて、同じ話をしても、笑ってくれ る人もいれば、逆に怒り出す人がいるかも知 れません。相手が小さな子供なら、ひょうき んな顔をしたり、バカバカしい動作をくりか えしやるだけでも、大喜びしてくれますが、 それと同じことを大の大人にやったら、せい ぜいよくて苦笑か、冷笑、普通は無視、悪く すればバカにするなといって、殴られかねま せん。また下品な話題で喜ぶ人もいれば、顔 をしかめられるか、下手をすればその場から 追い出されることもありえます。それだけに 一つの作品をとおして、より多くの人に笑っ てもらおうとすることは、難しいことなので す。ですから上質な笑いを、絶えず提供しつ づけることは、はたで考えるほど楽なもので はありません。そして笑いほどテクニックと タイミングを要するものはないでしょう。ズ バッとタイムリーに笑わせるのもテクニック なら、タイミングを狂わせて笑わせるのもテ クニックであり、またそれも、タイミングに ほかならないというように、すべて計算の上 に成り立っているのです。これが舞台などで したら、観客の反応をみながらネタを使いわ けたり、また思わぬところで受けたりするこ ともありうるでしょうが、映画のようにあら かじめ創った作品を観客にゆだねる場合、偶 然は期待できませんので、スミからスミまで 計算して構成しなくてはなりません。それに 送り手側と受け手側の思いが合致しなければ、 どうにもなりません。 こんな時テレビシリーズのつらいところは、 我々がそれを考えて創っている時点と、それ を見た人の反応が、我々に伝わってくるまで に約半年くらいの開きがあるため、不評だっ たからとあわてて方針を変更しようとしても、 その半年の間に約二十六本近くの製作に着手、 もしくは完成してしまっているため、おいそ れと対応できないのです。それだけにああで もない、こうでもないと、手探りで知恵を絞 るわけですが、人は我々が考えあぐねて苦し んでいても、努力しているとは思ってくれず "なーんだバカバカしい、そんなことをシンケ ンに考えるなんてアホなんじゃない"と冷笑さ れるのがオチなのです。

楽しい笑いを作るテクニック

さて“笑い”と一口にいっても、その笑いの 中にはさまざまな感情があって、冷笑、苦笑、 微笑 哄笑、失笑、爆笑、泣き笑い、思い出 笑い、忍び笑い、ふくみ笑い、等々の形で 現れてきます。 我々が作品に盛り込もうとしている笑いは あくまでも楽しい笑いです。そしてその笑い を引き出す方法として、さまざまなテクニッ ク、アイディアを使うのですが、笑いを創るテ クニックといった方法論は一応あるにはある のですが、その通りやったからといって、け して成功するわけではなく、やはり作者の 資質に大きく左右されるようです。 一応方法論としては、まず考えついたアイ ディアを思いつきで使うのではなく、よく練 りに練ることが大切です。見る人の思うよう になったというのも、笑いを誘う一つの方法 ですが、そこで止めることなく、その先にも う一つ思いもしなかったことを用意しておく 必要があります。また、ああでもない、こう でもないとひねりにひねっているうちに、出 発点にもどってしまうことがよくあります。 そんな時には、そのアイディアをストレート に使用すると、見る人はまさかわかりきった ようになるとは思わず、きっと何かとんでも ない、どんでん返しがあるはずだと勝手に期 待して待っていると、結局なんでもなかった ということになって、見る人の期待を外す。こ れもある意味のどんでん返しということがで きます。しかしこの手は前もって、ひねりに ひねった、アイディアの積み重ねがあって、 はじめて生きるのであって、最初から安易に この手ばかりでは、見る人にソッポを向かれ てしまいます。その他、登場人物等がバカバ カしいことをやるので笑う、しぐさの誇張で 笑う、身につまされて笑う、等々あります。

マンネリを作りだす努力

ではこのへんで現在私が手がけている”タ イムボカンシリーズ"についてふれてみたい と思います。"タイムボカンシリーズ"は、竜 の子プロダクションのオリジナル作品で、メ カ物のギャグ路線、もしくは逆にメカ路線の ギャグ物ともいえる作品です。このシリーズ の第一作目の「タイムボカン」がテレビに登 場した時、私はまだ他の作品を手がけていた のですが、まったく新しいジャンル(メカ物と いえば絶対的にシリアスムードの、勧善懲悪 物と相場が決まっていた)であることと、アイ ディアの奇抜さに驚いたものです。私がこの 「タイムボカン」を手がけるまでに、手がけ ギャグ物といえば、「ドラえもん」(前作)と 「さるとエッちゃん」の二作だけですが、こ の「タイムボカン」は従来のギャグ物とも、 まったく異質でした。 このシリーズは偉大なるマンネリと評され たことがありますが、その単純ともいえるワ ンパターンの中に、マンネリでワンパターン であり続けるための努力がなされているので す。だからこそ六年間も続けて好評を博して いるのだと、携わっている者として自負して います。このシリーズの人気の秘密は、総監 督である笹川ひろしさんの卓抜したアイディ ア、そして、キャラクターの魅力と声優さん の力が一体となって支えているのだと思いま す。私は現在笹川さんと親しく、共にアイディ アを練ったりしているわけですが、いつもそ のアイディアの発想の奇抜さに感心していま す。よく人に毎回毎回よくもあんなバカバカ しいことを考えつくもんだ、と妙な感心し かたをされますが、まさにこのシリーズの面 目は、そのバカバカしいことを臆面もなく展 開していくところに、あるのではないでしょ うか。タイトルにしても、一作目の「タイム ボカン」はまあともかく、「ヤッターマン」「ゼン ダマン」「オタスケマン」「ヤットデタマン」と まあ恥ずかし気もなく命名できたものだと、 関係者の一人なのに、あきれています。そし て更にタイトルでは善玉が主人公なのに、内 容は悪玉の三悪が名前こそ変われ、ずっと主 人公然として君臨しているのです。もちろん 声優さんもずっと同じ方々です。 演出的にも絵コンテを描く場合、このシリ ーズは慣れて描くということができません。 いつもいつも発想しつづけ、アイディアを練 りつづけ、ひねりつづけなくてはなりません。 このシリーズは何をやっても許される性格 の作品なのですが、この何をやってもいいと いうことは何かやらなくてはいけないという ことで、そこが大変なところであり、またお もしろい部分でもあるのですが......。 またこのシリーズの特徴としてあげられる のは、キャラクターが独り歩きをする部分で す。普通ストーリーにそってキャラクターが 存在する作品の多い中で、キャラクターの持 パーソナリティーで展開していく部分が、 かなりの比重を占めています。 特に悪の三人 組にそれがいえます。悪のはずなのに妙に親 しみが湧いて、描く方としても、アニメのキャ ラクターというより、前からこの三人組を知 っていたような存在感があります。この存在 感の秘密は、もちろんキャラクターの性格づ けもありますが、この三人の声を演ずる声優 さんが、キャラクターに声を入れるというよ それぞれ、このキャラクターを自分だと 思い込んでいるようなところがあり、声優さ んからああして欲しい、こうして欲しい、ま たこの方がおもしろいのではないかと、いろ いろな注文がつけられますし、我々の方もキ ャラクターと声優さんがほとんど同一人物の ような錯覚にとらわれています。 悪玉なのに ファンレターが多いのも、おもしろい現象で す。 また、善と悪が絵づらでは命がけの闘いを するのですが、なんとも奇妙な連帯感で結ば れて、悪玉の方は自分たちだけで事がうまく 運びすぎるとかえって不安になって、善玉の 登場を心待ちにして、結局善玉の登場でメチ ヤメチャにやられてはじめてホッとするよう なところがあります。そして善玉の大時代風 の登場の仕方とセリフ、普通ならテレてやれ ないところですが、わかりきっているのに毎 回毎回、臆面もなくやってしまうズウズし またこのシリーズには目玉が二つあって、 その一つが子供番組なのに登場する女性ヌー ド、もちろん下品にならないようお色気どま りに心がけています。そしてもう一つの目玉 視聴者参加です。本編の中でファンレター をとりあげたり、スチール写真を登場させた り、声の参加をしてもらったりもしています。 これはとても反響があるのですが、なんせ、 限られた本数のため、全部紹介できないのが 残念なくらいです。 なにはともあれ、失敗して笑われるのではな く、良い作品を創って、成功して笑ってもら いたいと、念願しています。

June

Makio Inoue Feature

麗峰富士を真近に眺め、黒々と高 く連なる南アルプス山系を遙かに望 む、甲府盆地の南端の田園地帯に、 彼、井上真樹夫の生家があった。 その田んぼに囲まれた田舎家で、 彼は生まれ育った。れんげ畑をわた るやわらかな風に春を知り、小川に 泳ぐげんごろうやみずすましを追っ 夏を送り、秋の夜は、鳴きすだく 虫の声を聞きながら満天の星空を仰 ぎ、冬は降り積む雪を炬燵で眺め、 彼は幼き日々を、自然の中で、自然 の移り変わりとともに過ごした。 彼が小学校二年、七歳の時、田ん ぼの向こうの工場に、働く人たちを 慰める芝居がかかった。兄に手を引 かれ、蛙のうるさく鳴き騒ぐ田んぼ の道を歩いてその工場へ行き、彼 は初めて芝居というものを見た。 板がなって幕が開き、多くの化粧 をした人たちが笑ったり怒ったり、 どなってみたり、ささやいたり。見 るもの聞くものすべてが初めてのも のばかりで、彼は目をみはった。 やがて劇は進行して、ヤマ場とな る。可憐な少女が、いかにも憎々し げなまま母に、手にした煙管で折檻 される。少女はのたうちまわり泣き 叫ぶ。だが、まま母はなおも執拗に さいなみつづける。少女はたまらず 悲鳴をあげて、髪ふり乱し逃げまどう。 真樹夫少年は、その恐ろしさにい たたまれず、隣に座る兄の手をふり 切ると、脱兎のように走り出し、真っ 暗な夜道を一目散に逃げ帰った。胸 は早鐘のように打ち、家にたどりつ いてからも、なおしばしの間、震 震え が止まらなかったという。 これが、井上真樹夫と演劇との 初の出会いであった。その鮮烈な印 象は、どうしても拭い去ることがで きないと、遠い過去となった多感な 少年時代を回顧して彼は語る。 その多感な少年が、一家とともに 東京に移住し、中学生になったばか りのころ、二度目の演劇との出会い を経験した。それは、学校巡演の移 動劇で、「ヘンゼルとグレーテル」で あった。小学生が見るような童話劇 であったが、彼は役者たちのつくり 出す不思議な世界に、ぐんぐん引き ずりこまれていった。 みにくい魔法使いの老婆は、七歳 の時に見た村芝居のまま母のように 思え、グレーテルは、あの時の可憐 な少女のイメージとダブり、中学生 の彼はたちまち、七歳の少年の心と なっていく・・・・・・。 劇が終わるまで、彼は怒り、恐れ、 胸をときめかせた。幕がおりた時、 彼はどっと疲れていた。だが、なぜ 彼はすぐ家に帰る気にもなれず、 観客の去ったあとの会場内をうろつ きまわり、幕をまくり上げて、舞台 をのぞいてみた。 彼は驚いた。たった今、グレーテ ルを食べようとしていた、あの魔法 使いの婆さんが、ヘンゼルやグレー テルらと一緒に、笑いながら仲良く 弁当を食って いるではない さっき見た あの世界とは 全く違う...。 また別の世界 がそこにあっ たー。 彼は困惑し ながらも、こ の不思議な不 思議な世界に 住む人たち、 役者というも のになぜか引きつけられていった。 魔法にかかったように、演劇の世 界に引きずりこまれていく自分を、 この時、ハッキリ意識したと彼はい う。 その後、東京都立文京高校へ進ん 彼は、受験勉強に日夜明け暮れる 友人たちを尻目に、演劇部の活動に 熱中した。 文京高校といえば、当時は 有名な進学校であり、教師も生徒も 大学受験にたいへん熱意をもってお り、進学率も高かった。 そうした高校で彼のやっていたこ とは、夜遅くまでの演劇の練習とそ れから深夜におよぶ道具作り。 これ で無事でいられるわけも ない。呆れ果てた先生か ら、退学処分をほのめか す戒告を受けた。 だが、彼は演劇活動を やめられず、三年生の時、 卒業も間近いというのに 転校を決意し、都立北園 高校の夜間部へ移った。 そして彼の演劇熱はま すます高まり、日曜日・ じっとしておられず、 曜講習の、東京アナウン スアカデミーに通い始め た。発音、アクセント、 朗読・・・と、言語表現の基本を彼はこ ここで学んだ。 その時ここで、二十九歳の青年講 師、勝田久へこれボクのこと、スミ マセーン!>と出会う。熱心な指導者 であったが、若すぎて、あまり頼りに はならなかったかも...。 しかし、もう一人の講師、山口純一郎 は、キャリア十分の新劇人。その先生 の薦めで、北村喜八氏が主宰する北 の会> 公演 「バーナーディーン」に、 少年役で出演できることになった。 これが、プロの劇団での初舞台とな る。井上真樹夫十八歳の時のことである。 これを機に彼の演技力が認められ、 NTV(日本テレビ)の初カラー化の ドラマ、内村直也作「花と光と」に出 演した。夜間高校に通う苦学生の役で あり、実生活そのものの役ということ もあってか、彼は実に素直に好演した。 一回こっきりの予定だったが、レギュ ラー出演ということになり、毎回役も ふくらんでいって、これでテレビ演技 も覚えることができた。昭和三十四年 の秋のこと! そのころ、TBS(東京放送)の外 国テレビシリーズ「ドビーの青春」が 放映開始に先だち、主人公ドビーの声 を演ずる新人を公募していた。 彼は臆せず応募、みごと合格、チャ ンスをつかんだ。声優の世界へ入る突 破口となったのだ。 だが、やってみて驚いた。一秒間に 二十四コマ走るフィルムの速いこと。 外国映画に声を当てることの難しさ を、この時彼はイヤというほど思い 知らされた。特にこのフィルムはア メリカコメディー。そのセリフの速 いのなんの。猛スピードでドラマは どんどん展開していく。いくら懸命 にセリフを言ってみても、あちらの 演技に追いつけない。気ばかりがあ せる。 それまで演技に多少の自信があっ た彼も、すっかり打ちのめされ、自 信を失い、アテレコ恐怖症にもなっ た。 しかし、ここでくじけて諦めてし まったら、今日の井上真樹夫は存在 しなかっただろう。 彼はさらに演技力をつける努力を 続けた。舞台公演にも積極的に参加 した。イオネスコ作の「義務の犠牲 者」(表現座)、竹内健作の「ワクワク 学説」(発見の会)・「埋葬伝説」(表現 座)、馬場あき子作「般若由来記」(表 現座)などの公演に客演として参加 している。
昭和四十三年三月、その後三年半 も続き大きな話題を呼んだアニメ番 組「巨人の星」が始まった。 彼は幸運にも、主人公、星飛雄馬 の宿命のライバル、花形満の役に選 ばれた。「巨人の星」のヒットととも 彼のアニメスターとしての地位 は決定的なものになっていった。 「巨人の星」を追うようにして、そ の後すぐ「佐武と市捕物控」が開始 されたが、途中で主役・佐武役の富山 敬がノドを痛め、番組を降りなけれ ばならなくなってしまった。 そのピンチヒッターとして、彼が 引き継いで佐武を演じた。彼にとっ て、アニメ番組では初めての主人公 役になったわけだが、代役という苦 しさがあったという。それは富山敬 が佐武になりきっていただけに・・・。 また、彼も後、「キャプテンハーロ ック」の時ノドを痛め、何回か代役 をやってもらったが、ハーロックに なりきっていただけに、はがゆかっ たともいう。 昭和四十五年九月に始まった「男 どアホウ!甲子園」の藤村甲子園 役を皮切りに、翌年十月「原始少年 リュウ」、四十八年四月「ミクロイド S」と、立て続けに主役を演じ、ま 「侍ジャイアンツ」「ドカベン」「ル 「パン三世」と個性ある脇役を演じ、 アニメスターの座を不動のものにし た。そして昭和五十三年三月から始 まった「キャプテンハーロック」で は、甘いソフトなボイスで、主人公 のハーロックを演じ、多くのファン を魅了した。 また、その活躍は、アニメだけに とどまらず、ナレーターとしても、 現在NHKテレビの「海外ウィーク リー」で、軽妙洒脱なナレーション 若い視聴者を引きつけている。
彼は、よく絵を描き、詩を創る。 絵を描くことは幼い時から好きで、 よく描いていたが、詩を創るように なったのは、敗戦の混乱時に栄養失 調で弟を失った時からで、その悲し みをいやすために書き続けたのが、 いつしか習慣になったという。 絵も詩も、実に繊細な、やさしい 心でものをみつめ、自らの内なる心 を謳いあげている。 その心は、クリスタルのように透 き通り、一片の不純さもなく、てら いもない。 きっと、彼を育んでくれたあの甲 府盆地の清らかな水や空気が、彼の 心をも、汚さず、清らかに守ってく れたのかも知れない。 昭和五十六年三月二十九日、早咲き の桜がほころび始めた春の宵、代々木 の桜がほころび始めた春の 代々木 の森の近く、東京・渋谷公会堂の舞台で は、当代人気声優たちが演じる、シン フォニック・ドラマ「星のオンディー ヌ」が上演され、宇宙の彼方からやっ て来た妖精オンディーヌと、若い騎士 ハンスとの恋物語が展開されていた。 ヒロイン、オンディーヌを演じるの 増山江威子、そしてハンスは、彼、 井上真樹夫である。 客席からはハンスがささやくたびに 溜息にも似た嘆声が上る。その言葉の 一つ一つが詩となり、音楽となって、 聴く人の心に沁み入っていくからだろ (敬称略)

My Anime Life: Yoshikazu Yasuhiko

「気がついたら十年間 アニメをやってきていた」

「東京に来たら "なんとか"なっ てしまった」

もう何度も言ってきたことなのだ けれど、アニメーションを仕事とし て始めたのはほんの偶然がきっかけ だった。2、3センチ四方くらいの 小さな求人記事をたまたま見つけた という、たったそれだけのことが僕 アニメに引き合わせたのだ。 仕事は70年の秋から、より正確 には77年のお正月明けの、新番組 「さすらいの太陽」製作開始から 始まった。しかし、正直に言って"水 を得た!"というような劇的な感じ はなかった。自分にもなんとかつと まりそうだという、ややホッとした ような漠然とした印象の他には、め ぼしい感興は何もなかったと言って もっとも、それはそれなりに大変 なことではあった。不器用で、要領 が悪くて、世間知らずで、無能で、 大学さえ出ておらず、もとより何の ライセンスもなかった僕にとって、 恰好の仕事などそうそうある訳はな かったからだ。事実、右も左も判ら 東京で職を探してウロウロして いる間にも、何人かの人から僕はこ う言われた。 「東京へ来りゃなんとかなるって考 えてのことだろうけど、甘いよ。そ んなものじゃないんだよ世の中って ・・」身に滲みる苦言だった。事実、 「東京でならなんとか……」と、僕は 大変に甘く、そう踏んでいたからだ。 なんとか"になどなってはいけな いのだった。少なくとも世の中の常 としては......。 しかし、何の間違い のせいかこれが”なんとか"なって しまった。僕に、よりによってこの 僕に割合向いていると思われる仕事 が見つかってしまったのだ。 っぱり東京だ ―と僕は思った。そ して、この仕事には当面、とにかく しがみついていなければと思った。 振り落とされでもしたら、それこそ 本当に僕は完璧に路頭に迷うしかな い。早い話が、絶対に生きていけな い――そう否応なしに確信できたからだ。

「アニメづくりって、 因果な仕事だなァ・・」

とにかく仕事にはくらいついた。 当然薄給だったから、アルバイトに なるような小仕事も喜んでさせても らった。コンテの清書、宣材やタイ トルバックの作画、なんでもやった。 単調な動画仕事からしばしのがれて そうした雑用に手を染めることがで きるのは、それだけで嬉しくもあっ た。そして何よりもそうした雑用の 地点というのは、言ってみればちょ っとした小高い丘のようなもので、 そこからは比較的良く 「TVアニメ 作り」という、仕事の景観を見通す ことができた。 皆目、様態の定かではなかった「T Vアニメの世界」というものが段々 と良く見えるようになって、僕はよ うやく自分のいる地点、立場の ようなものがのみ込めてきた。そし て、言ってはなんなのだが、少々ゲ ンナリしてしまった。 アニメ作りというのは因果な仕事 なと僕は思った。少なくともそ れは、どこをどう見てもおよそ魅力的 ではなかった。まず、全工程をどこ で切ってみても決まって出てくる金 太郎アメみたいな一定のカオ――「莫 「大な手仕事」という現実があった。 バカバカしいほどの労苦の産物とし てのアニメーション。それが、しか 現実にはどう見ても社会的にはま ともに扱われていないという実感も 無論あった。 みみっちい原作の拝借、 仰々しい制作のカセ、自主規制、 高 い制作原価、そして安い売り値、制 作スタッフの没主体性・・・・・・斜陽期に しかかった虫プロダクションとい 会社ならではの部分も無論あった だろうが、ともかく見るもの聞くも の、気の滅入るネタばかり…という のが実際のところで、僕はいよいよ かたくなに、この仕事を〝メシのタ ネ"と厳しく規定せざるをえなった。

「とにかく前へ、 他人よりも前へ・・・・・」

大学という回り道のおかげで、 虫プロ入社時、僕はもう二十二歳 という、言ってみれば分別ざかり の齢になっていた。幸い僕と同期 の養成所生には同い齢の男が二人 い、更に途中からはT君という一 層の年長者が加わってきたりもし て、おかげで年齢的な悲哀をなめ ることは少なかったが、それでも 安穏としておられないという事情 には変わりがなかった。ハラをく くって仕事にくらいつくという 悟ができると、今度は少しでも早 ・他人よりも上手くならなければ という焦りが昂じてきた。 上京したての田舎者がまず出っ わす驚きに、東京の盛り場の雑踏、 そしてその中を泳ぐように歩く人 の足の速さがあるが、見わたす限り 人、人・・・・・・で満たされた感のあるア ニメの制作現場の事情もそれと似通 っていた。雑踏の只中のような見通 しの悪い身の置きどころにあっては、 さしあたっての問題はともかくも、 他人よりも前に出、そして視野を広 げ、自分にとっての可能性の領域を いていくということ、 ただそ れだけしかないのだから...... 僕は都会の人々に負けない速足で 歩くことにした。肩を巧みに使い、 狭い人と人との間をすり抜ける術も 覚えた。ノンビリとしている人たち などは、得たりとゴボウ抜きにする ことにした。着実に増加する負債に 屈して虫プロが倒産に追い込まれる ころには、そんなわけで僕は、かろ うじて「一人前」と呼ばれる程度 TVアニメーターになっていた。

キレイゴトで、 マイナーなんて・・・
僕を拾ってくれた創映社(現日本 サンライズ)は、当初からマイナ ”を地でいくような会社だった。 虫プロの現場プロデューサークラス が設立したこの会社は、口の悪い連 中に言わせると「虫プロという沈没 船からいち早く逃げたネズミたちの ケチ会社」ということになっていて、 事実そのような印象もないわけでは なかった。 確固たる製作理念のなさそうなこ とは一見して知れたし、金銭的な羽 振りも良くはなさそうだった。野心 も、冒険心もなく、あるのは少数の 人たちの間の、なにがしかの共生感 のみ……虫プロの「疲れ」もしくは 「カゲ」そのもののような創映社と、 そこに出入りしていた人たちの図は、 今にして思えば、例えば南シナ海を 漂うボートピープルのような風情だ った。 マイナー"という話が少数者の威 勢のいいかけ声として一般的に使わ れだしたのは、比較的最近のことだと 思う。とにかく昨今ときてはパリパ リのメジャーでさえもが“マイナー" という呼称を、勲章として欲しがった りもする。そのような変な時代だか 気を付けなくてはならないのだ が、元来、マイナー"とは〝悲哀" の代名詞であったはずである。 手塚治虫という日本マンガの主柱 をバックとして、文字通り業界の大 メジャーであった虫プロダクション から「創映社」への転落、当事者にと ってそのプロセスは「悲哀」そのもの であったことだろう。創映社=サン ライズの意気のあがらぬのは当然の 話だった。「マジンガーZ」が敢然と して切り拓いてくれていた「低俗商 業アニメ」への途へ、サンライズが自 暴自棄的にのめり込んでいくのは、 見えすぎた必然であったに違いない。

「偽善がこんなにも まかり通るということ・・」

およそ子供を相手にした文化と称 される世界ほど、「偽善」というもの がおおっぴらに横行している領域は 他にあるまい。僕はどっちかという と、「偽善」という言葉の、問答無用的 な切り捨ての語感を好まない。単純 悪よりはよっぽどマシな「偽善」が世 の中には一杯存在することも、それ あってこその、この世間であるこ とも承知している。しかし、実際に 見知ってきた、例えばアニメ界の偽 善のあり様はとにかく愉快ではない。 要するに露骨すぎる。可愛げがなさ すぎるのだ。 早い話、「教育的な愛のドラマ」を 本質的に教育とも愛とも無縁な制作 者がこしらえることは容易である バクチの開帳者がそのアガリを福祉 事業に寄附するというよりも、多分 それは簡単であるはずだ(なんと言 っても当人のハラはちっとも痛まな いのだから......)。しかし、偽善的なバ クチの胴元に対するほどには、世論 は偽善的な子供文化の仕掛人に対し て厳しくはない。 当然たくさんの意識的、無意識的 偽善者たちによって牛耳られた子供 文化の領域は気味悪く歪んだものに なる。さながら風化した言葉や観念 のはき溜めの観を呈したりもする。 ムナクソの悪い押しつけ倫理や、 にもクスリにもならないヒマつぶし ドラマが「天下公共の器」と称され る高価なテレビ電波に乗って全国に バラまかれていく..。 結果として「偽善」に対する反作 用は、例えばザ・ドリフターズふう の「偽悪」的ポーズとして現れてく る。倫理性を、反倫理の立場から見 直すということになる。確かに危険 ではあるが、これは十分に理に叶っ た途なのかもしれない。

「偽善的な〟俗悪〟こそ どうしようもない」 無論、子供文化に於ける「俗悪」 をおしなべて買いかぶる気などはと うにない(ドリフターズだって、僕 は格別に好きではない。最高だった のは元気だったころのクレイジー・ キ キャッツだと、実は今でも確信して いる)。最悪なのは言うまでもなく、 偽善的で、尚かつ低俗という手合い である。そして面倒なことに、サン ライズというマイナーな弱小会社が 主たる仕事の領域として選びとった のは、そのような「最悪のパターン」 に限りなく近い、実にきわどい部分 だったわけなのだ。 いきおい作り手は慎重にならざる をえない。 社会的な賛辞というよう な報いは最初から期待しないとして も、「最悪」のそしりだけはなんとか まぬがれようということになれば、 彼はともかく、注意深く「偽善」的 部分を回避しつつ、できる限り巧 みに「俗悪」を料理するという以 外にない。これは、尋常でない難 である。単に「技術」を売ると いうような、並みの作り手にはで きるわけがない。

「当事者間のアニメ 論があったっていい」

きわどい一線を辿っていく「俗悪」 への風当たりは当然に強い。更に それがまた「アニメ」ということに なると、輝かしい 「正統史」を後 ろ楯にしての批判がこれに加わる。 つまり内容に加え、表現手法もまた俗 悪であり、低劣だというわけである。 優雅にして上品な、かつ、健康な古 典的アニメに与して「俗悪・低劣」を 撃つほどに簡単なことはない。し ばしば実際に見られるのだが、ズブ の素人が、たいそうな高所からこれに 唱和するということもある。いずれ にしても、泥まみれの「当事者」と しては "いい気なもの だ!"とい うほかはない。 アニメというのは因果な仕事だ! という僕の最初の印象は的を得 ていたと、今にして思う。実際それは、 因果めくほどにどうしようもないシ ロモノなのだ。 なによりも面倒なのは、アニメー ションというのが、徹底してつくり ものだという事実である。「ただ単に 歩く」「ただ単に走る」というふう な単純この上ない描写でさえも、 アニメーションにとっては、そして またその技術屋にとっては、実に深 刻な対象なのである。彼等は眉間に シワを寄せ、エンピツとストップウ ォッチを握りしめ、その「ただ単に ・・・」を描出しなければならない。彼 等のチビたエンピツがそれを慎重に 描き出さない限り、たったひとつの 「ただ単に…………」さえもが、スクリ ーン上では作動しないのだ。 えてみれば、これは全くオソロシイ 事実ではないだろうか。 単純な「ただ単に……………」の集積に 始まり、微妙なニュアンスを含む演 技や、気の遠くなるほどに面倒な効 果技術に至るまでの全プロセスを、 徹底して「つくり通す」ということ が作品成立の基本条件となるアニメ ーションは、その技術的な特殊性に よって、どうしてもかなりに閉鎖的 な「作り手側のブロック」を生む。 つまり、つくるという過程の実際の つらさをよく知っている者のみの世 界を、である。 事情通や作り手(当事者)だけの 閉鎖世界といえばどうしても印象は 陰湿になる。実際、現実に考えられ そのようなものは、あまり健全でも なく、建設的なものでもありそうに ない。しかし、アニメーションとい ものが特殊な「一切合切をつくり 抜く」という工程の上に立った表現 領域である以上、本当に実際情況に 見合った、現実的な相互批判や提言 は、そのような当事者間の世界以外 ではなかなかに得られにくいと思う。 早い話、「つくり抜く」という宿命 的課題の重たさを理解しない人間の 無責任な古典賛美などを、僕は拝聴 しようとは思わない。そんな視点か らの提言や圧力に振り回されるのは 御免こうむる。僕はこの因果な仕事 =アニメーションなるものと、何故 かしらかかわり合いしてしまって、 そしてそのことによって、実際に泥 んこになって苦労している御同輩た ちの意識に、より多く学ぼうと思っ ている。

「気がついたら十年・・・ でもごれからも当分・・」

これを手放したらもう本当に食う アテがない――そういう切羽つまっ た思い込みがあったとはいえ、移り 気な僕を十年余りもつなぎとめてく れたアニメーションという、この因 果な仕事の不思議さそれはやは 「魅力」と呼ぶべき何かなのだろう。 そして、それに加え、現在の僕にア ニメーション技術と同等、もしくは それ以上にアテになる技術の持ち合 わせのないことも確かな事実であ る。ならば当分、僕のパートナーは アニメーションであってくれなけれ ば困る。幸い、ここ数年の情況の変化 は、「激変」というに近い。どんな可 能性や新しい局面が前途に拓けてく るか、好ましくない分をも含めて、 まるで見当もつかない。 ままよ、いってみるしか方法はな い。マイナー"は幸か不幸か尊称 と化した。「俗悪」に偏し、時とし て低俗に近づいたとしても、でき得る 限り偽善的なクサミは排する、という 姿勢にも反省はない。 画業を例えにすれば、ようよう絵 筆の持ち方を覚えたというあたりが 現在のところかとも思う。キャンバ スに向かうのはむしろこれからであ る。数年後に一体何が描けているか、 そもそも何かが描かれ得るものか・・・・・。 自分自身としても、興味は結構、 尽きない。

Information Corner

ディズニーの名作が、新キャストで再公開!納谷六朗/アニタ・一城みゆ希/クルエラ・平井道子/ポンゴ・池水通洋/パーディタ・松金よね子/ロジャージャスパー・熊倉一雄/ホーレス・山田康雄

「1匹わんちゃん大行進」 ディズニーの長編アニメーション映 画の不朽の名作、あの1匹わんちゃん がこの夏、再び上映される。 物語は主人公の売れない作曲家のロ ジャーとその相棒のダルメシアン犬の ポンゴがくり広げる犬と人間、犬の親 子の愛情を中心にしたメルヘンの世界 だ。製作面のエピソードも事欠かない。 画期的なゼロックス・トレース法や全 編を通して描かれた犬の縞模様が60万 150名のスタッフで3年の力作だ。

清恵子の星占いのペンネー うの知ってる!? レコードム・漫杏蘭っていにもついてるゾ!!

アニメ声優のプリンセス、潘恵子が 初のLPレコードを出す。アルバムタ イトルは、ズバリ「潘恵子」で全10曲 の予定。曲の中には彼女自身による中 国語のセリフ入りの「チャイニーズテ ィー」など興味深いものが多い。また レコードには彼女の大好きな星占い付 きのポスターもセットされている。今 回のレコーディング・ディレクターの 野間敬男氏は彼女のヴォーカリストと しての魅力を高く評価している。LP はキャニオンレコードより発売。 また、シングル盤はA面「明日も片 「想い」、B面「AI・愛・AI(KE IKOのテーマ)」の2曲をピックア ップしている。今、一番ノリにノッて いる潘恵子を聞いてみよう!!

滅亡喜劇「眠れる森のメタモルフォーゼ」に、客席と舞台が一体となった表現のすばら しさを実感した!!

4月3日から6日まで、劇団「がら 「くた工房」のミュージカルドラマ第2 弾!!!「眠れる森のメタモルフォーゼ」 のステージが華麗に行われた。主演の 佐々木秀樹をはじめとして、白石冬美、 水島裕、富山敬など、当代人気声優た ちがくり広げる、おかしなおかしな滅 亡喜劇は、2時間半という長い時間を 忘れさせるほど、若いファンたちを熱 狂させてくれた。前述の主演者の他に、 富田耕正、肝付兼太、山田俊司、野沢 雅子、緒方賢一、井上和彦、井川栄 子などが出演していた。会場となった 東京・千代田区の砂防会館には、中学 生から若い女性までがつめかけ、ファ 層の幅の広さを語っていた。

アニメーション作家25年の鈴木伸一氏のパーティでの顔ぶれに、 日本アニメ界、明日へのエネルギーを感じた!!!

知る人ぞ知る・・・あの「小 池さん」こと鈴木伸一氏の 「アニメーション作家二十 五周年を祝う会」が、4月7日東京の新 宿プラザホテルで開かれた。 発起人は、相原信洋、赤塚不二夫、 石森章太郎、岡田英美子、岡本忠成、 小野耕世、川本喜八郎、手塚治虫、中 村伊助、藤子不二雄、古川タク、森卓 也、横山隆一の各氏。 この鈴木氏、トキワ荘から「スタジ オ・ゼロ」時代と、石森、藤子、つの だ氏たちとは長いおつきあい。段上に 上がった各氏から「鈴木さんの仕事場 に行ってびっくりしました。アニメの 仕事をなさってて、そ の仕事場にテレビがな いんですよね」と、カラ テレビをプレゼント されて大感激!!! その テレビに付けられた寄 せ書きの絵が傑作。小 池さんがラーメンを啜 りながらテレビを見て て、画面には鈴木氏の 作品「ピコレット」の CMが映っているのだ。

アニメの新しいコミュニケーションの場が文 化放送に現れたゾ!! 提供・バンダイ/ポピー

アニメの学校ができたら ―そんな願いを文化放送の番 組「アニメ・NOW」(毎週土曜日午後11時30分~12時)がか なえてくれた。番組は三ツ矢雄二、潘恵子の二人が司会、進 行を行い、最新のアニメ情報をもり込んだインフォーメショ ン・コーナー、オールドアニメの名場面などを再現したり、 今はちょっと聞けなくなった声優さんの登場するアニメ・ラ イブラリー・コーナー、SF作家高千穂遙のトーキングによ アニメ・カレッジコーナーというふうに、盛りだくさんな番 組の中で、招いたゲストと楽しくアニメの知識を学べるよう になっている。また、プレゼントも豊富で、プラモデル、ガン ダム・トレーナーなど色々なものを用意してある。アニメフ アンはもちろん、アニメを知りたい人は必聴の番組だね。

第1回「山形漫画・アニメ同人カーニバル」ってのを知ってるかい!? 第2回も企画中、是非 とも参加して、山形アニメ文化を盛り上げよう!!

去る3月21日、22日の2日間にわたって、山形市民会館で 第一回「山形漫画・アニメ同人カーニバル」が開催され、地元の アニメファンの間で話題を呼んだ。「カーニバル実行委員会」 企画、実施したこのカーニバルは、第一日目は各サークルの 交流を深める目的で、仮装をこらした出し物や「抜き打ちの ど自慢」「人間ジューク・ボックス」などを開催し、情報交換 も含めて楽しく過ごした。 カーニバル第2日目は、同人誌を 中心にセルやイラストなどの展示即売会が開催された。これ には県外からの参加者もあり、かなりにぎやかにくり広げら れた。第1日目の会場移動など、いくつかのアクシデントが あったが、まずまずの成果をおさめて無事終了。 カーニバル 実行委員会では、この調子で第2回の催事も準備中だ。

笑顔で「がんばってください」と呼びかける望ちゃんに、 郵便局員もニコニコ!! スパンクも汚ダ犬名を返上!!


4月20日の第48回逓信記念日に合わ せて21日、東京・日本橋郵便局では井 上望の「一日局長」のセレモニーを行っ た。「おはよう! スパンク」のテー マソングを歌う井上望は、ちょうどこ の日は同LPの発売日でもあったこと から、ぬいぐるみのスパンクを引き連 れて大奮闘。郵便局内の巡視、局員へ の激励、日本橋東急デパート正面でサ イン会、そして、幼稚園児100名を集めた 「郵便教室」では歌とぬいぐるみのス パンクを披露、大きな拍手を受けた。

漫画やアニメを文 化とするために、一大センセーションを巻き起 こして、キミもアニメ・漫画文 化に貢献するのじゃ!!

新人グループのニューアルバムのレ コーディングか!!と思いきや、漫画家 の先生たちとは・・・・・・!! 現代漫画界の 第一線で活躍する漫画家たちが、「マン 「パク音頭」をレコーディングした。 の「マンパク音頭」は、7/24~8/5の期間に 東京・渋谷東急百貨店本店で開催され る「マンガ博覧会'81」のテーマソングな のだ。一流漫画家が参加の「マンガ博 覧会実行委員会」主催のこの博覧会は、 3年後に、東京タワーの中に設立する 「マンガの殿堂」の資金作りのため、漫 士劇など、いろいろなイベントが予定 されている。そして、近年の異常なまで のアニメブームを一文化として定着 させることが本当のねらいだそうだ。 さて、この「マンパク音頭」を歌うス タッフの顔ぶれは、石森章太郎、杉浦 幸雄、やなせたかし、中島弘二、牧野 圭一という豪華メンバー。 子門真人と ともに「マンパク合唱団」の5人の先生、 不馴れな本格的レコーディングも、一 杯ひっかけながら無事終了。案外いい デキとご満足とか......!!

古川登志夫のソロアルバムは、語り調と夏に向けてのサウンド がミックスされ、大人っぽい古川登志夫にとまどいそう!

古川登志夫が初のソロアルバムに挑 戦!!! まずシングル盤は発売で「オ ールディズ・ラブ」「今、ブルーノート」 (作詞曲/津田義彦 編曲/矢野立 美)の2曲は、快調に録音も早々終了。 続いてLP盤は8/5発売 「TIME WAVE TOSHIO ファースト」 12曲入り。A面には、作詞が古川本 人で、作曲があの「スラップスティッ ク」の仲間、曽我部和行のコンビの手 による2曲も含まれているのだ!!! B 面の6曲はテーマを旅に定め、作詞 松本一起 作曲/井上かつお 編曲を 青木望で、テーマをバラエティに味つ けした6曲にまとまった。全体に大人 っぽさがにじみ出て、古川登志夫の新 しい魅力も引き出した。本人も役者と してのセリフなどが入ったレコーディ ングでない、いわば音だけの勝負のこ のレコードに、相当な入れこみよう!!! さて、その熱唱をいち早く聞きたい人 特報!!!に東京・銀座の三越デパ ート屋上にて新曲発表会。12時30分~ と、14時~の2回。ゲストは潘恵子だ!!

日本アニメーション のお楽しみ!

あの日本アニメーションの作品で、 ファンの間で話題の的の資料集シリー ズは、3種類出そろって通信販売され ている。その3種類とは、 『未来少年コナン・レイアウト集』『赤 毛のアン・資料集』『トム・ソーヤの冒 険・資料集』、以上の3種類で、各本と も3P、カラー8Pで、B5判、定価 は1200円(送料240円)。申し込み方 法は代金・送料を合わせて、現金書留 郵便為替で左記まで。 一丁1-1東京都多摩市和田21の2 日本アニメーション(株) 内 日本アニメサービス資料室通販 M係 なお、設定書、セル画なども販売し ているので、希望者はカタログ請求を。 ■東京・新宿西口センタービルでは「日 本アニメーション名作フェア」(期間 ~所)が開催され、セル画の販売やア ニメ映画の上映、また、潘恵子、竹田 えり子など人気声優のサイン会も行わ れ、盛大なイベントであった

ジョー、それはヒーローだ!!

7/4夏休みロードショーに先 立ち、26、東京・渋谷パンテオ ンでジョーのファンの集いが。 出演はおぼたけし、 梶原一騎、 ちばてつや、あおい輝彦各氏。 ラフに現れた あおい輝彦は たは 司会は麻上洋 子。

「BENT」は風刺劇でもあり、娯楽 ものでもあり、日常劇でもあるんだ!!

「1934年、退廃の ベルリンを舞台にホモ セクシャルという異 常愛を通し、人間の愛 と存在を問いましたが、 意外に若い方に受け、 大変うれしく思います。 今後も稽古を重ねて再 演!!!」と演出を担当 した野沢那智氏は語る。

Director Note #3

演出の仕事といっても、私の演出論"だの ”演出に対する一考察〟なんて、開きなおった 肩苦しいことを私がのべたところで、きっと おもしろくもなんともないと思う。そんなこ 諸先生がたがいろいろ論じていられるの だから、私の場合、気楽に東映動画での生活の 思い出など、特に「わんぱく王子の大蛇退治」 のことなどを中心に語ってみよう。(ヤング向 けテレビ番組にしか興味のない読者はとばし 読んでくださって結構です)。 私のアニメ演出家としての出発について... キネマ旬報の日本映画監督全集の私の項で 森卓也氏は、私が映画界にはいったのはごく 自然のことであった"と書いておられるが、 これは正解である。私は東京シネマ商会"と いう小さな映画会社を経営する家庭の子とし て育った。父も二人の兄も叔父も映画人だっ た。育った環境がすべて映画の世界、したが って小学生のころから、自分も映画人になる のがごく自然のこと”ときめてかかっていた。 そしてその通りになった。独協高校という高 校へはいったが、この高校は語学が英語専修 独逸語専修とに分かれていた。その独逸語の ほうへはいってしまったので、早稲田の独文 科へ進んだ。 入学試験の語学も独逸語で受け た。したがって私は中学、高校を通じて英語と いうものを習ったことがない。おかげで第二 外語の英語の時間はまさに恐怖の連続だった。 卒論専攻はヘルマン・ヘッセを選んだ。このへ ッセ文学の影響はアニメ演出になってからも、 色濃く残ることになる――「わんぱく王子の 大蛇退治」「サイボーグ009」「Xの挑戦」「わ たしたちの法然さま」にいたるまで 「永遠に母なるもの」 (EWIG MUTTERLICH) の愛、 ヘッセがゲーテから受けついだものを、 おこがましくも私が受け継がせてもらってい るわけだ。 卒業後、今はもうなくなってしまった新東 宝という映画会社の企画文芸部へはいった。 映画ファンなら覚えておられるだろうが、溝 口健二監督「西鶴一代女」、伊藤大輔監督「王 「将」、五所平之助監督「煙突の見える場所」など、 数々の名作を生んだ撮影所である。 3年後、私は志願して助監督部に移った。 後年、東映動画には実写の撮影所から移って 来た人が多かったが、ほとんどが東映京都撮 影所か東映東京撮影所からで、他社の撮影所 出身なのは私だけ、しかも私が行った時はま るまいか? * その連中は誰も来てはいなかった。 私が東映動画にはいった時、高畑勲氏や黒 田昌郎氏はすでにいるにはいた・・・(製作課の事 務員さんとして)。かくして私は日本で最初の 漫画映画の助監督となったのである。 そのころ、作品は「西遊記」が準備中であっ た。アニメーターに大工原章さん、大塚康生 さんなどそうそうたる連中がいた。 宮崎駿氏はまだいなかった。(現宮崎夫人は いた。女だてらに無愛想で、とてもオッカナイ 少女だった。おっかないだけに、たまにニッ コリ笑ってくれる顔はとてもチャーミングだ った。そう、ピンク・レディー以上だった) と、このぐらいお世辞をいっとけばカンベン してもらえるだろう。 もちろんそのころ、アニメ界には安彦良和 くんなんてカゲも形もなかった。おそらく、 我々の作品を、お母さんに手を引かれて漫画 映画をみに行ってた幼稚園児だったんじゃあ アニメーターの中に、アゴヒゲがもじゃも じゃとはえて、眼玉のギョロギョロッとした おっかなそうな原画の先生がいた。きっとこ わくて一番うるさい人だろうと思ったが、つ き合ってみると一番やさしかった。これがな んと森康二さんだったのである。 * * * 私が演出助手として最初に与えられた仕事 が「安寿と厨子王丸」だった。ところが監督の 下先生はいきなり、「きみ、コンテをきって みてください」といわれたのだ。私は、とび あがるほど驚いた。 実写の世界では監督が助 監督にコンテをきらせる例は聞いたことがな い。しかし、やれといわれたのだからやらね ばならない。アニメーションの”アの字〟ぐら いしか知らない私は、いろいろしくじりなが らとにかくコンテをつくった。この時の四苦 八苦の経験はつらかったが、後々大いに役だ った。そして、この「安寿――」の仕事の時か ら、プロデューサーの飯島敬氏と親しくおつ き合いするようになり、今日にいたっている。 仕事も酒も、ともによくやり、よく飲んだ。 脚本の田中澄江先生について二人で神楽坂 の旅館にこもったことがあった。酒豪の田中 先生は、特別な銘柄”奥の松〟しかめしあがら ない。当時この酒は渋谷の東急会館のそばの 酒屋でしか売っていなかった。したがって、 車はわざわざ渋谷回りで神楽坂へ。ところが この珍酒を、夜中に私と飯島氏の二人で全部 飲んでしまったのである。さあ翌朝、田中先 生が烈火のごとくおこられた。「同じものを補 給しないなら仕事をしない」とおっしゃる。 責任をとって、私と飯島氏は渋谷へタクシー を走らす羽目となった。 この時代にはライブアクションの撮影も356 ミリキャメラで本格的に撮影されていた。も ちろん俳優さんのコスチューム、小道具など もキャラクターと同じものがつくられ、撮影 されたフィルムは専用のコピー装置でトレス され、それをアニメーターがみて作画したの である。「安寿」では、その声を演じる俳優 さんが自分で自分の役のライブをやった。な にせ、山田五十鈴、佐久間良子、 北大路欣也 など大物ぞろいなので、衣裳、小道具の手配 などまでやらされた私はキリキリ舞いのし通 しだった。だがこの仕事を通じて私は、実写 劇映画と漫画劇映画の大きな違いに気がつい た...。 同じドラマをつくるにして、実写では誰か 俳優が演じる。誰それ演じるところの何々で あり、その役が斬られて死ぬとしても、それ は真似だけであり、御本人はチャーンと生き ていることを観客は百も承知でみている。 かし漫画映画では、その登場人物はその人自 身で誰が演じているのでもない。そして殺さ れるとしたら本当に殺されてしまうというこ と、つまり、実写のようなリアリティーは無 い仮象の世界ではあるが、場合によってはよ り強い実在感が生まれてくるというわけであ る。最近のものに例をとるなら、「宇宙戦艦ヤ マト」は、本物として観客はうけとめる。しか これがもし実写だったら、「ヤマト」はセ ットとミニチュア特撮の組み合わせなのだと いうことが、観客の頭からはなれないのだ。 ライブアクションで最も本格的だったのは 東映動画全作品を通じて、「わんぱく王子の大 「蛇退治」のアメノウズメの踊り(岩戸神楽)の シーンだと思う。 これはまず作監の森康二さん、担当原画の 永沢詢さん、演出の私、演出助手の高畑勲さ ん、プロデューサーの飯島敬さん、作曲の伊 福部昭さん、それに振りつけの旗野恵美さん (このかたは、現在東映動画のプロデューサー である旗野義さんのお姉様です)と、ざっと こんなメンバーが集まり、コンテを中心に綿密 打ち合わせが何度もなされて(この打ち合 わせは皆、熱がはいり、まったくしつこかっ た)、伊福部邸でピアノスケッチがくり返され た。ある時には伊福部先生、「ここでティンパ ニーのリズムがはいる。飯島さん、私のピア ノに合わせてそこにあるボンゴをたたいてみ て!」なんて、プロデューサーがお手伝いを命 じられ、また飯島氏すっかりのっちゃって、 じつに見事なボンゴ演奏をやってのけた 幕もあった。こうしてある程度固まったとこ ろで、今度は少数のオーケストラ編成でテス ト盤が録音された。少数といっても約20人、 今のテレビBGなみである。そのテープをも とに、またまたディスカッション連続。この ころには永沢氏など、もう岩戸神楽の鬼と化 していた。そして、ついにこの音楽一曲のた めだけに50人に近い編成で本番が録音された。 まさに伊福部メロディーの極致ともいうべき 名曲であった。だがこれからあとが大変だっ た。今度は旗野恵美さん、永沢さん、私、高 畑氏、それに4人の”タカマガハラ・ダンシン グチーム" の作画を担当する彦根範夫さんも 加わり、振りつけの打ち合わせの連続。途中 から、旗野バレエ団の男性4人(ダンシング チーム)と、ウズメを踊る役の女性(妙子ちゃ んというかわいい少女で、皆からかわいがら れた)が加わり、実際に踊りながらの打ち合わ せくり返され、暑い夏のある日、40数カッ トのライブアクション撮影が行われた。すべ てコンテと同じサイズ、同じアングルである (ウズメが空をとんだりするところは人形を 使った)。もちろん、35ミリ、キャメラはミ ッチェル。 40数カットを一日で撮るのはきつ い。それに私にとって、セットで実写の、し かもプレイバック(事前にとった音楽に合わ 俳優を動かす撮影)の監督なんて初めて だ。しかも当時高畑先生なんて、実写なんて 全然知らないし、カチンコも打てない。しか たないから監督自らカチンコ打ちと助監督を 兼ねての撮影・・・・・・。まったくわんぱく王子の 一番長い日であった。そして、このフィルム 音楽に合わせて編集し、作画、トレス、彩 色があがり、撮影がすんでラッシュがあがっ たものからはめかえていったわけである。今 ではたまらなく懐かしい。あんなぜいたくな ことが、もう一回できるなら死んでもいいと 思っているが、その当時は二度とイヤだと 思ったぐらいしんどい部分だった。 「わんぱく」のライブアクションでは、お もしろい逸話がもう一つある。火の神退治の シーンで必要な火の動きの撮影である。担当 原画は楠部大吉郎氏、ボロ布と石油、ガソリ ンをたっぷり用意し、危ないからというので、 スタジオ所員がほとんどいなくなる夜9時ご ろから始めた。相手が火だから人間の俳優を 撮るよりなお大変だ。そこへ楠部さんの注文 がいろいろとでる。 まず火が地面に燃え広が るところ、これは石油を細長く地面にまいて おいて、はしから火をつけた。うまく撮れた と思ったら消すものを用意するのを忘れてい 大あわてて所内から消火器をとってくる 羽目になった。次は火の玉がとぶ時の炎の尾 の形を知りたいという。これはボロ布を丸め 石油をしみこませ、針金をつけてぐるぐる 回してOK。最後の難問がでた。火の玉がロ ングから正面へとんでくるカット、さあどう やったものだろう? 考えぬいたあげく、ま ずキャメラをスタジオのすぐそばへ真上に向け てセットし、30センチくらいのボロ布の丸玉 に石油をしませ、スタジオの屋上から火をつ けて、 キャメラめがけておっことしたのだ。 なんのことはない、爆弾みたいなものだ。と ころが、これをくり返しているうちに管理課 長がとんできた。「きみたち、何をやってんだ。 消防署から電話がかかってきたぞ!!!」。私は大 目玉をもらってしまった。 それからしばらく、私は”ライブアクション 恐怖症”になってしまった。かの”ヤマタノオロ チのシーン"を大塚康生氏と月岡貞夫氏が描 いたことは周知のことだが・・・・・・、大塚さんがオ ロチの動きを本物の蛇を使って撮ろうなんて いいだしたらどうしよう。私は蛇と蛾は死ぬ ほどきらいだし、まして「大きな蛇で」なんて いいだされたらどうしよう? 動物園からニ シキ蛇を借りてくるわけにもいかないし、な んてあらぬ妄想で悩んでしまったものだ 大塚さんの仕事でライブを撮ったのは、オロ チに迫られたクシナダ姫が地面をはって、あ とずさりをしながらオロチに石をぶつけるシ ーン。これはたしか撮影所の若い女優さんに やってもらったと思う。石のかわりにお手玉 をバラまいておいた。ところが、この女優さ ん、大熱演のあまりお手玉を力いっぱいキャ メラにぶつけてしまったのだ。ああ! 本物 の石でなくてよかった。1千万円からするキ ヤメラが台なしになって、またまた大目玉、 いや大目玉なんかじゃすまなかったかもしれ ない。しかし、この熱演は大塚さんの手によ って見事に画面に再現された。私は今でも覚 えている、お手玉を投げる演技をキャメラの そばでみていた大塚さんの真剣なまなざしを。 いつもの冗談をとばしている時とはまるで別 人の眼だった。あれこそはアニメーターがア ニメーターとして生きている時の眼だ。私は そう思った。 「わんぱく -」でやはり一番忘れられない 人は森康二さん、それに作曲の伊福部さんだ (もちろん、ほかの人たちとて一日も忘れたこ とはないけど)。 「マイアニメ」第2号”マイアニメライフ"に森 さんがでていた。実に懐かしく拝読させてい ただいた。これだけでも「マイアニメ」に敬意 を表する価値がある。私は映画演出技法の手 ほどきを新東宝時代、並木先生、中川先生から うけた。森卓也氏は私の「わんぱく」が、 “映画”になっていることを評価すると書いて くださっているが、これこそは並木、中川両師 たまもの 匠の教えの賜物といってもよいだろう。そし 東映動画にきて、まずアニメ演出技法を 下泰司先生に教えられた。そして、アニメ作 家としての心、根性のようなものを森康二さ んに教えられた。森さんはとても優しかった。 しかし、一度「ダメだ」といいだすとテコでも いうことをきかない人だった。優しさの中に も真のアニメーターとしてのきびしいシンが あった。今もきっとそうだと思う。いや、お 年をしたからもっとガンコになってるかも (森さんごめん)森さんは、自分の作画の 人物の動きを自分でやってみることがよくあ る。これにはいろいろ伝説がある。「ちびっ子 レミと名犬カピ」の時、森さんが壁にもたれて 悲しげに頭を動かしているのにでくわして、 私はびっくりした。壁にもたれて、その後ろ 姿はたしかに泣いている。何かお身内にご不 幸でも?と思った私が、「森さんどうしたの ?」といおうとした寸前、ケロリと向きなお 動画机に戻ってまた仕事を始められた。森 さんはレミと別れなければならぬバルブラン 夫人が一人悲しむカットを自分でバルブラ ン夫人になりきって研究しておられたのだ。

July

My Anime Life: Keisuke Fujikawa

短所をクール に見つめるこ とから、始めること にした」

「ムーミン」の企画、それが私のア ニメーションとのつきあいの始まり でした。デビュー以来深い時間帯の ドラマを中心にして仕事をしていた こともあって、アニメーションに関 係するということは、正直に言って かなりの抵抗がありました。それと いうのも、当時のアニメーション番 組は、どうしても幼児のものという イメージがありましたし、内容的に も満足できるものがなかったからで した。ひと口で言ってしまうと、マ ンガマンガしてしまっていて現実感 がまったくなく、いわゆる絵空事と してうつっていたからなのです。 「ムーミン」の企画依頼があったこ ろ、すでに児童番組執筆のきっかけ になった「ウルトラマン」シリーズ を書いていましたが、内容的にいう アニメーションとはまったく異質 のものでした。そんなわけでいささ か尻込みしかかったのですが、「ムー ミン」の原作を読んで、その素材の 面白さに魅かれたのと、アニメーシ ョンを知る絶好の機会だと考えて参 加していったのです。 ここでお断りしておかなくてはい けないのは、私がアニメーションと いう分野が嫌いだったのかというと、 決してそうではありません。問題な のはその内容にあったのです。アニ メーションというのは、ああいうも のしかできないのか、そういった不 満感だったと思います。私が「ムー ミン」にのったのは、何か地に足の ついたものがやれるのではないかと いう期待感があったからですが、ア ニメーションという媒体については、 クールな目で見つめていこうと決め ました。そしてアニメーションの長 所よりも、むしろ短所を見つめるこ とから始めることにしたのです。 い わゆるアニメーション畑の多くの人 が、それに溺れきって出発している のとはまったく違った出発をしたわ けです。 このアニメーションに対する姿勢 は、その後の私の運命を左右したと もいえる、重要なものでした。アニ メーションしか知らない人よりも、 幅広く作品を見つめられるからです。 世の中で、あばたもえくぼ"という ことを言いますが、少なくとも作家 たるもの、欠点は欠点、長所は長所 として見抜けなくてはいけないし、 それらをすべて含めた上でアニメー ションを愛するのでなければ、本当 にアニメーションを支え、未来を担 うことはできないと確信していたの です。

「とにかくアニメ作家の勝負は、 着想がポイント」

アニメーションの最初の仕事が、 「ムーミン」であったことは私にと って幸いでした。 メルヘン調のものでしたが、そ の裏側にはかなりシビアな人生 というものが隠されていたか らです。私の好みにも合い ました。そして、この作品 には、何とも言えないいい雰囲気が 漂っていたのは、実はシビアな世界 が背後に隠されていたことによって、 より強く表れたのだと思います。 ア ニメーションでは、ただシビアなリ アリティだけを追っても駄目だし、 情緒にのみ流れてしまっても成功し ません。それが一つの発見でもあり ました。 そしてついでにお話しすると、ア ニメーションではかなりシビアな素 材を投入しても、情感を失わないとい う発見をしました。逆に言うと、絵 の世界ではその色あいが、実写のそ れと比べるとかなり薄められてしま うということです。さり気なくとい う表現が実に苦手な世界だと思いま した。ですから登場人物にしても、 かなり際立って書かないと存在感の ないものになってしまうのです。こ のへんを極端にやるとギャグになる ということでしょう。 こんなことを発見しながら、「ムー ミン」「アンデルセン物語」を書きま したが、そのころ、「さすらいの太陽」 という私の原作がテレビ化され ました。この原作は、これ までの私の持っていたマンガ 感や、アニメーションを知る ことによって得たノウハウ によって書いたものでした。こ れは『少女コミック』に一年ぐらい 連載したものですが、この時、企画 というものが、どんなに大事なもの であるかを知りました。これは編集 者から、ある新人マンガ家を何とか 売り出したいと相談を受けたのです が、私はその人の絵を見ながら企画 十三回分の原作を書いて出しまし た。歌手を目指す対照的な二人の少 女の物語です。 ところが、初めその原作を読んだ 編集者は、これまで音符を使ったマ ンガで成功したものはないというの で、一寸心配しました。しかし私に は自信がありました。 歌の世界とい っても、狙いは歌そのものではなく、 そこで生きる二人の少女の人生を描 くことにあったからです。 幸い編集 長が大変ってくださって、無事に スタートすることができました。そ のころアニメーションでは、いわゆ スポーツ根性物の全盛期でしたが、 私はそうした風潮をとらえ、逆境を 生き抜く別の根性物にしたわけです。 ところが、三回までのマンガが描 き上がってきて、びっくりしたこと が起こりました。 主人公の父親があ っさり死んでしまっているのです。 私の構想では十二月のクリスマ ス前後にドラマチックに死 なせるつもりだった のですが、マ ンガ家は早く主人公を不幸へ追い込 みたくて、あせったのでしょう。そ れと、実はそのころまでの少女マン ガのパターンというと、薄幸の主人 公はたいてい両親を失っているか片 親を失っていることになっていまし た。私は人間の死を軽々しく扱いた くなかったし、これほどドラマチッ クなことを上手く利用しない手はな いと考えていたので、変更してもら いました。私がアニメーションやマ ンガの世界へ飛び込んだのも、そう いうことへの不満を外から眺めてい るのではなく、内部へ入ってすこし でも変えられるかどうかという狙い を持っていたのですから―――。 とにかく、作家の勝負というもの は、企画で始まる。その着想がポイ ントだということを痛切に感じたも のです。「さすらいの太陽」は、スポ 根ではなく歌の道を歩む人生根性物 語であったことに成功の鍵があった と思いますし、さまざまな点 から分析して得た信念を曲げ なかったことがよかったと思っ ています。 余談になりますが、 今を時めく人気アニメーターの安彦 良和さんは、テレビ化されたこの作 品でデビューしたということです。

「いい作品を作るためには、 集中的に精力的に」 その後、私は、「天才バカボン」「新 「ムーミン」「マジンガーZ」「ワンサく ん」「キューティー・ハニー」「星の子 チョビン」「グレー コート・マジンガー」 を書きました。おおまかにいって、 情感物からアクション物への転換期 でもありました。私自身、アニメー ションの世界にすこしずつ慣れてき ていましたので、いろいろなものが やってみたくなっていたのです。作 品を見ても、メルヘン、ギャグ、ア クション、ミュージカルと、千変万 化なのがわかります。それがすべて 私にとっては、アニメーションで初 めて経験するものばかりで、戸惑っ たり発見があったりして楽しい時期 でした。 そして前がおとなしい作品が多か ったせいか、うっせきしたものがす こしずつ噴き出してきていました。 そのせいでしょうか、「マジンガーZ」 「グレート・マジンガー」では、百 三十本中九十本ほどの脚本を書いて いました。「ワンサくん」も集中的に 書きましたが、劇中の歌も作詞しま したので、大変な作業でした。やは 作家として狙いを徹底させ、成功 させるためには、散発的な仕事では 駄目なのです。アニメーションでは それまで、ほとんどの番組が五人も 六人もの人によって書かれていまし たが、それは制作上の必要からでし た。いっぺんに何本もの脚本を完成 しないと間に合わないからなのです。 そうなると、どうしても、シリーズを 通して見た時に不満を残すことになっ てしまいます。勿論、すでに出版し 原稿がある場合はその弊害も少な いのですが、原作といってもキャラ クターだけだったり、オリジナル作 品である場合は、たくさんの人で書 くのは難しいのです。私は集中的に 書く作品と散発的に書く作品を適当 に配分するようにしていきました。 きちんとした原作のある場合は、そ の原作の味をたっぷり生かそう、そ してオリジナルに近いものでは強烈 に自己主張したものにしよう、そう 心に決めました。そしてついに、 者の仕事に入ったのです。

「ヤマトは私にとってもエポック・ メーキング・・・」

「宇宙戦艦ヤマト」がそうでした。 SF物で「マジンガーZ」でないも のという注文を受けて企画が作られ、 その後松本零士さんが参加して今の 形になっていきました。いわゆる原 作のない仕事です。打ち合わせが午 前三時ごろまで続き、その日の夕方 までに初稿原稿を上げて決定稿打ち 合わせという猛烈な作業が続きまし た。おそらく普通の人ではすぐにぶ 倒れてしまったに違いありません。 この作品がいろいろな意味で私の 思い出に残っているのは、アニメー ションとしては珍しくリアリティー を重んじたこと、そしてアニメーシ ョンの特性である飛躍性とが見事に マッチしたことです。そしてそれま でのアニメーション作品には見られ ない丁寧な作られ方をしたことでし ょう。残念ながら放送時の視聴率は 悪かったのですが、作業をしていて がっかりしたことはありませんでし た。脚本を書いている充足感が味わ えたせいでしょう。それともう一つ、 現場の人と身近にいることができた のは、私にとって大変いいことでし た。さまざまなセクションの人が、 それぞれに仕事をして一本の作品が でき上がっていくことを肌で感じる ことができたからです。アニメーシ ョンでは、特に一人だけの力で傑作 ができるものではありません。いろ いろなセクションの人がバランスよ 力を発揮しなければならないとい うことが、よくわかりました。 その後、「宇宙戦艦ヤマト」はいわ ゆるブームを巻き起こして、その後 アニメブームの橋がかりとなり ました。前にもお話ししましたが、 幼児のものだと隅っこへ追いやられ ていたアニメーションが、この一作 の大ヒットで社会的に認知されたと いっていいと思います。年齢も幼児 から青年層にまでも拡大されました。 「宇宙戦艦ヤマト」のアニメーショ ン界に果たした役割は大きかったと 思います。この後、私は、「グレート・ マジンガー対ゲッターロボ(劇場)」 「鋼鉄ジーグ」「クムクム」「グレンダ イザー」「コンバトラーV」「ガ・キ ーン」「氷河戦士ガイスラッガー」「超 人戦隊バラタック」「世界昔話」と書 いていきました。おわかりのように SFロボット・アクションがほとん どです。かつて「マジンガーZ」が 大ヒットした時、巨大ロボット物が 次々と現れたように、「宇宙戦艦ヤマ ト」の大ヒットによって、一味違っ たSFアクションが、次々と現れて きたようです。一言でいうと、悪役 側をきちんと書こうとするようにな ったことでしょう。ストーリー性も 強くなっていきました。私はアニメ ーションの世界の可能性に光を見つ け出しました。とにかく頑張ろうと 決心したものです。

「新人が目標とするような仕事 の仕方をしよう・・・」

私はさらに、「グランプリの鷹」 「一 休さん」「銀河鉄道999」「宇宙戦艦ヤマ ト2(劇場)」「新エースをねらえ!」 「宇宙戦艦ヤマト2」を書いていき ました。いわゆるヤマト・ブームの 頂点のころでした。 私の家へも、高校生がたくさん訪 ねてきてくれるようになりました。 私は彼らと会うことによって、若い 人が何を考え、何を欲しているのか ということをつかむようにしました。 そしてそれに対して、作家として何 を訴えかけていけばいいのかという ことをよく考えるようになっていま した。だれが見ても楽しい作品を書 きたい。しかし、ただ楽しいだけ、 若い人に迎合するだけの仕事はした くないという気持ちからでした。本 当にいいものには、楽しみながら何 かを感じてもらえるものを持ってい るはずです。私はいつも志を高く持 っていようと心がけてきました。そ のおかげで、いろいろな方から一緒 に仕事をしようと誘っていただける のだと思っているのです。そしてこ れは世の中の常ですが、一歩でも二 歩でも前進したら、前進した力でし なければならないことが出てくるも のです。 でき上がった企画にのって、 とにかく脚本を書くという新人時代 とは違った責任のようなものを感じ るようになっていきました。若い脚 本家が、あいつを目標にしてやろう と思ってもらえるような仕事の仕方 をしようと思うようになったのです。 私は私生活も仕事中心に切り換え ました。そして、三年間無茶苦茶に 仕事を続けたら一年はゆっくりする ようにすること。それから一年のう ちでも、春、夏、秋にはきっちりと一 週間ぐらいずつ休みを取って、旅行 をしようと決めました。休息をとる のと同時に、新鮮な刺激を受けてま た仕事を向かうためです。脚本家に なってつくづく思うのは、自制心の 勝負だということです。自分に克て ない者は絶対に駄目です。そしてあ らゆることに興味を持つこと。これ 決めて何かを実現しようという時 は、たとえ困難があってもじっと我 慢しながら、一歩一歩目標へ近づい ていかなければなりません。何かに 賭ける執念がなかったら、何もでき ないと思うからです。

「存在は地味だが、理解と信頼に 応えるために―」

アニメーションでやれそうなこと はすべてやってみようという気持ち で仕事を続けていました。このころ 書いたものには、「新エースをねらえ !(劇場)」「さすらいの少女ネル」「チ ルチルミチルの冒険旅行」「宇宙戦 艦ヤマトⅢ(劇場)」「マリンスノーの 伝説(TVスペシャル)」「永遠の旅人 エメラルダス(TVスペシャル)」 「宇 宙戦艦ヤマトⅢ」「君は母のように愛 せるか」(TVスペシャル) 「鉄人28号」 「Xボンバー(人形アニメ)」があり ます。傾向としては、大型作品が大 変ふえてきているのと、実写、アニ メーションを問らず、企画依頼が大 変多くなってきていることです。 今、私はすこしでもやりたいこと を自由にやれる時がきているように 思っています。脚本家の存在は地味 なものですが、作品を決定づける力 を持っているのも脚本家だと思って います。そういう意味で、私の作品 に向かう情熱に理解を示してくださ る方が、次々と出てきてくださるの は、この上なく嬉しいことです。 しかし、それだけに責任も大きく のしかかっていると思っています。 今はアニメーションの将来のために も、有能な若い脚本家を一人でも二 人でも育てて押し出したいと思いま す。とにかく、技術的なことは何年 かたばみんな上手くなっていくも のです。それでは何で差が出てくる のか。それは未知のものに立ち向か う努力とハートだと思います。どう きっちりと脚本が書けても、何も漂 ってこない脚本はいい脚本とはいえ ません。温かで豊かな心を持ち、何 を開拓しようという決心で脚本を 書くことです。アニメーションはそ こから始まるのです。

「後追いをせず、無限の可能性に 賭けてゆこう・・・」

今年に入って、「荒野の叫び声・吹 えろバック(TVスペシャル)」「どん べえ物語(TVスペシャル)」が放映 され、春から「新竹取物語・10 0年女王」が始まりました。そして 同時に、来年春に劇場公開する映画 の脚本を執筆しています。 松本零士 さんとホテルにこもったりして、打 ち合わせを重ねていますが、一味違 ったSFを作りたい、と思っていま す。それと、もう何年もの間あたた めている素材があり、それに映画化 のお話もきています。また、いろい な障害と戦いながら、その実現を目指 して、じっくりと準備を進めていか なくてはなりません。 しかし、どうも私は昔からぬるま 湯が嫌いで、大きな目標に向かって じっくり迫っていく作業が好きだし、 その結果が大きく花開くことが多い ようです。さて、これからどういう ことになるか 孤独で厳しい作 業を自分に課して、一歩一歩あるい ています。支えは温かな目で応援し てくださる同志の力だけです。 アニメーションを愛してくださる みなさんへ、いろいろお話しをさせ ていただきました。私のアニメーシ ョンへの取り組み方がどんなものか、 すこしはわかっていただけたのでは ないかと思います。とにかく、楽し くてずしりとした作品を作りたいの です。 これからアニメーション作りに取 り組まれようとする人は、脚本家で あれ、他の分野の人であれ、現実は どうであろうと、志を高く持って、 とにかく自分の作品を作り上げるん だという情熱を持っていただきたい と思います。そして、自分のどうし てもやりたいものを実現するために、 血みどろになって葛藤していただき たいと思います。そういう努力もし ないで愚痴をこぼしていても何もな りません。私自身、昔からそういう ことに賭けてずたずたになりながら 書いてきました。それゆえに強くも なれました。これからもずっとそう してゆくでしょう。他人の後追いを しないという決心を持って アニメーションには、無限の可能 性があります。ただ溺れているだけ ではなくて、しっかりと見るものは 見て前進していきましょう。 どうかこれからもずっと見つめて いてください。いろいろな人に出会 い、いろいろな人に助けられながら、 一生懸命書き続けていきます。

We're Anime People: Masahiro Kase

とにかく、子供の頃からマンガや アニメが大好きでした。

小さな頃から大変にマンガやアニメ が好きな少年だったんです。そんなも ので、絵を描ける仕事につきたいと日 ごろから思っていました。そのために 大阪デザイナー学院へ通って、グラフ ィックデザイナーを目ざしていたので すが、何というか、先生と感覚的に合わ なくておもしろくなかったんですネ。 そんな時、あるマンガ雑誌から日本ア ニメーションという名を知り、さっそ く電話したわけです。マンガやアニメ は好きだったんですが、なにぶんにも 知識がなかった。だから率直にどうし たらアニメーターになれるかと聞いた んです。すると、試験を受けてみなさ いと言われて、その場で男の子のキャ ラクターを渡されて、その男の子が縄 とびをしていて、そこに犬が来て驚く までを描いてみなさいと言われたんで すよ。それがキッカケでこの世界に入 ったようなわけです。

SF的なヒロイックファンタジ ーをアニメにしてみたい。

上京して一番うれしかったことは、 アメリカンコミックが簡単に買えると いうことです。大阪にはその手の本を 置いてある店が少なくてね。今でも洋 書店で目に付くとうれしくなってすぐ に買ってしまうんです。 仕事はいままでわりと名作路線のも のをやって来たんですが、実はSF物 が大好きなんです。だから、ひまを見 つけてはSF小説やSF映画を見に行 きます。自分の気に入った作品をアニ メにしたいなんて思いながらね。特に 小松左京さんの「結晶星団」やR・E ・ハワードの「コナンシリーズ」なん かはアニメでやりたいですねえ。

Director's Note: Yugo Serikawa

前回につづいて、私のアニメ生活を気楽に ふり返り、「おやゆび姫」のことなどを中心に 語ってみることにする。

昭和38年、虫プロ製作の「鉄腕アトム」を皮 切りに、日本のアニメ界にもテレビ時代が始 まった。前回にいろいろ語った「わんぱく王 子の大蛇退治」も終わるころだったと思うが、 月岡貞夫氏に、「芹さん、ちょっと一緒に行っ てみない?」と誘われるままに、気軽に富士見 台の虫プロのスタジオへくっついて行ったこ とがあった。小さなスタジオの中は、夜であ ったにもかかわらず、びっしり並んだ動画机 に、アニメーターがかじりついていた。今に して思えば、その連中のなかに、今日のアニ メ界の大物が何人もいたことになる。製作中 の作品は、「鉄腕アトム」。この時、手塚先生に おめにかかったが、先生ご自身も忙しそうで、 「先生の作品、カット数は? 僕の場合は......」 なんて話し出したと思ったら、月岡氏に袖を 引っぱられて連れ出されてしまった。 「先生、今夜はすっごく忙しいもんで」なん て、頭をポリポリかきながら月岡氏が弁解し ていた。 手塚先生にはその前にも、東映動画 のスタジオでお会いしたことはあったが、お 仕事中の先生の姿を見たのは初めてだった。そ の夜の印象としては、テレビ漫画の仕事って、 忙しいんだなァ"というところだった。 そうこうしているうちに、東映動画でもテ レビ漫画第一号「狼少年ケン」の製作が始まっ た。やっぱり忙しかった......。 忙しいなかで も、月岡氏をはじめスタッフはよく頑張 いたようだ。特にワンクールの前半ぐらいは、 まだ製作のシステムも確立されず、われわれ 応援スタッフもよく徹夜をした。 「狼少年ケン」につづいて、「少年忍者風の フジ丸」が始まり、それと相前後して、製作現 場のスタッフは数を増していった。東西の東 映撮影所からもスタッフが移ってきた。 このころは、飯島敬氏と共によくシナリオ を書いた。「狼少年ケン」にしても、彼が第一話 二本足の〟を書けば、私が第二話”白銀のラ イオン"を書くといった調子で、その後もい ろいろな作品にわたって、かなりの本数をこ なしている。このシナリオ製作の面でも、飯 島敬氏のつねに適切なリードとアドバイスを 忘れることはできない。行き詰まると、よく 彼に相談を持ち込んだものである。 かくしてテレビ漫画は普及の一途をたどり、 アニメのプロダクションもつぎつぎに誕生し て、ブラウン管を賑わせることになったのは ご承知のとおりである。 だが、一方、このリミテッドアニメによるテ レビ漫画の発達は、日本のアニメーションそ のものに、徐々にではあったが、結果におい て大きな変化をもたらししていった。つまり、 ディズニー指向のフルアニメに、テレビ漫画 によって確立された"止メ”と”3コマどり”の リミテッドアニメの技法が浸透し始めたので ある。そして、今日では,フルアニメ""リミ テッドアニメ”と区別して考える観念さえ無く なり始めている。そんな言葉でさえあまり聞 かれなくなってしまった。平たくいえば、ご ちゃまぜになってしまったのだ。

従来の劇場用長編アニメとはちょっとおも むきを異にした作品として、演出を担当した のが「サイボーグ009」、続編の「サイボー グ009・怪獣戦争」。 この時は、前者は飯島敬氏と、後者は飯島 敬氏と白川大作氏と、共同で脚本を書いた。 共に練馬の旅館にこもっての執筆だったが、 飯島氏の的確な企画構成力と白川氏の豊富な 発想力に啓発されるところ大であった。この 時のシナリオづくりも、楽しい思い出である。 「サイボーグ009」は、その後TVシリー ズでも、何本か演出あるいは脚本を担当した が、一番思い出すのは第16話”太平洋の亡霊”。こ れは脚本の辻真先氏とアイディアを練って、 辻氏に書いていただいたものだが、「魔法使い リー・ポニーの花園」 「魔法のマコちゃん・ 「パパとデート」と共に、私と組んだ辻氏の脚 本中の傑作といってよいだろう。

その後、長編「チビッ子レミと名犬カピ」 など、劇場用、TVシリーズと、いろいろ手 がけ、思い出すこともたくさんあるのだが、 誌面に限りもあることだし、残念ながら割愛 させていただき、一気に「おやゆび姫」の話 題にとんでしまうことにする。

「1月20日、大藪郁子さんと第一回脚本打ち 合わせ』 昭和52年の手帳に、こう書いてある。テレ ビの「キャンディ・キャンディ」と「ジェッター マルス」をやっていた私に、突如、高見プロデ ューサーから電話がかかってきたのは、たしか 正月休みのことだった。劇場用長編「おやゆ び姫」についてだった 私は「キャンデ ィ・キャンディ」「ジェッターマルス」とオー バーラップしながら、この仕事に入っていった。 高見氏(現在「さよなら銀河鉄道999」を 担当中)は、実に温厚で有能なプロデューサー である。”カドの無い人柄〟とは、こういう人の ことをいうのだと思う。やりたいようにやら せてくれる、まかせてくれる。それでいて、 ニコニコしながら、守るべき枠は守らせ、こ ちらから引き出し得る成果はチャーンと吸い とってゆく、そんなタイプのプロデューサー である。 「おやゆび姫」でも、私の構成案で脚本の大 藪さんと打ち合わせをさせてくれた。 「あのう、悪人を一人も出さないでいただき たいのですが・・・・・・」 大藪邸で、私はまず切り出した。テーマは "愛と友情”、しかも勧善懲悪の型をとらず、だ れもが友のために良かれと思ってすることが、 立場、境遇の相違から、主人公のおやゆびち ゃんを思わぬ運命に陥れてゆく。しかし、そ の中でも、友情を最後まで裏切らなかったおや ゆび姫の愛が結果として大きく報われる そんな構成の中から、何かしらほんのりとし たムードをかもし出すのが狙いだった。 前回に述べた私の学生時代の専攻科目=へ ヘルマン・ヘッセの『メルヒエン』という短編 集の中に、不思議な力によって、だれから れる力を与えられた青年が、それによっ てまったく満足が得られず、再び願いを立て だれをも愛し得る力に変えてもらう、そして 不遇の中にも心の安らぎを得てゆく、という 話があるのだが、実をいうと、それがこの構 成案のヒントだったのである。 大藪さんも私の狙いをよく理解して下さっ て、素晴らしい脚本をつくり上げて下さった。

「2月15日、メインスタッフ顔合わせ』 スタッフ・ルームも決まって、製作準備段 階に入る。 そして、キャラクターデザインは、手塚先 生が担当して下さることになった。 「おやゆび姫」の脚本からコンテにいたる製 作方法は、独特なスタイルのものとなった。 これは、画面構成担当角田紘一氏のイメージ・ プランを中心に、スタッフが各場面のアイデ ィア、イメージを出し合い、それを画にして ゆく(これをイメージボードと名付けた)。イメ ージが固まってくると、私がそれをもとに、 そのシーンのラフコンテを切る。そのラフコ ンテを中心に私と角田氏で打ち合わせをし、 角田氏がレイアウトをつくる。 ラフコンテと レイアウトをもとに、作監の木野達児氏が清 書コンテを作成してゆく。従って作監、美術、 仕上げ、撮影、編集、音楽、録音など各スタ ッフが手にする画コンテは、フィルムの画面 とほとんど一致している。創作にスタッフの 意見も入るし、演出の発想の領域もひろがる。 それまでのいくつかの長編作品では、ストー リーボードシステムとして、まず美術設定と キャラクターのみで、演出がコンテを切り、 そのコンテを縦10センチ、横25センチぐらい の画用紙に、作監または担当原画がほとんど 模写したりして、それを壁に貼ってスタッフ で検討する、という演出コンテ先行型であっ たが、この場合コンテを拡大しただけだから ボードの数ばかり多くて(「わんぱく王子 では約1500枚)、わかりにくく、アイディ アも出しにくい。単に既成コンテの説明に終 始し、創造性に欠けるケースが多かった。そ の点、「おやゆび姫」のイメージボードシステ ムは、合理的であったと思う。このシステム については、角田氏の積極的な提言に負うと ころが多かった。 この作業が始まる以前から、手塚先生のキ ャラクターがつぎつぎと届き始めた。主役か ら脇役、端役にいたるまで、数多いキャラク ターのすべてをこと細かに描いて下さる先生 の熱意に、秀れた才能と豊かな発想力にわれ われスタッフ一同は、改めて感動させられた ものだった。 先生からいただいたキャラクター原案は、 かなり分厚いものになった。 作画も後半に入り、すでに手塚先生のキャ ラクターデザインもひととおり終わったころ のことである。モグラのモグラーさんが得意 穴掘り器(これは角田氏の考案によるもの で、劇場ではかなり子供たちを喜ばせていた) で、いとしのおやゆび姫のいる野ねずみばあ さんの家までトンネルを掘ってしまうくだり で、冬眠中のオケラが「安眠妨害」と怒り出す、 というアイディアが加えられたのだが、この たった2カットにしか登場しないオケラさん のキャラクターが難物だった。昆虫図鑑に額 を集めたスタッフが、ああでもない、こうで もない、と知恵を絞ったが、どうもこれだと いう決め手が出てこない。ところが、その後 で、手塚先生がつくって下さったオケラさん を見た時、スタッフの口々から、「なるほどね え……」と感心の声がもれた。主役のおやゆ び姫や王子さまなどのキャラクターを見た時 とはまた違った「なるほどねえ…」だった。 という。 先生のオケラさんは、苦虫噛み潰したような 顔に、貴族的なタキシードを着ていて、しか も首に手拭を巻いている。このタキシードと 手拭のなんともチグハグなとり合わせが、地 面の下の粗末なねぐらにかくれているくせに、 気品ばかり高くてこうるさいオケラさんの個 性を見事に、しかもユーモラスに表現してい たのである

ところが、いざとなると東映動画調のキャ ラクターに慣れてきた作画スタッフにとって、 手塚治虫調のキャラクターはなじみがなく、 むずかしいことが多かった。そんな時、参加 して下さったのが、長年手塚先生に師事して おられたベテラン中村和子さんであった。手 塚キャラクターを完全に生かしきれる方とし 手塚先生ご自身の推薦によるものだった 中村さんは以前、東映動画におられたのだ が、「西遊記」を終えて虫プロに移られた方で、 10数年ぶりの里帰りというところである。 彼女は木野達児氏と共に、作監として精力 的に活動を開始した。初めのころのある日、 セーターのおなかの部分についた透明ビニー ルの大きなポケットに、アラン・ドロンの写真 を入れて現れた時は、スタッフ一同がびっく りしてしまった。彼女は、大のアラン・ドロン のファンで、動画机にもいつも写真がかざっ てあった。 天衣無縫の情熱家というべきか、実に仕事 熱心で、ひとたび仕事のこととなればいうべ きことはズバズバいう。教えるべきことは、 手をとるように細かく親切に教えておられた。 ある時など、動画机にむかっていた彼女が、 突如クルリと腰かけごと私の方へむきなおり、 「芹川さん!!! おやゆび姫、良い作品にして 下さいね」と、真剣な顔で激励して下さる。あ んまり突然だったので感動すると共に、びっ くりしてしまったこともあった。 こんな調子で、スタッフの人気も良かった。 私は今でもいろいろなベテランアニメーター とおつき合いをしたが、何かひと味違う熱気 を感じさせる "アニメ界の烈女"とでもい うべき人である。 中村さんにつづいて、社内スタッフの他に 湖川友謙氏、高橋信也氏などが原画担当とし て参加して下さり、「おやゆび姫」は同年の11 月末、無事に初号プリントが完成した。

その後は「SF西遊記スタージンガー」のチ ーフディレクターを経て、「日生ファミリース コペシャル・若草物語」(昨年5月放映)を担当 した。この年の前年あたりから、テレビ漫画 には単発の1時間半ないし2時間のスペシャ ル番組が登場し、次第にその数を増している。 「若草物語」は、ルイザ・メイ・オルコットの 長い原作からして、一つの家庭を中心にした 日常的なエピソードの連続であり、激しいド ラマの起伏は無く、また起承転結のはっきり した劇構成もない。無理にそういうものを引 き出そうとすれば、逆に原作の良さを壊して しまう。それに正味1時間10分前後のドラマ にするには、エピソードの量があまりにも多 すぎる。脚本の今戸栄一氏もこの点で苦心な されたようだ。そして、私もいろいろ苦心し た。何しろ、こんな坦々とした構成から何ら かのテーマ、盛り上がりをつくる演出は、私 にとっては新しい分野だった。苦心はしたが、 良い勉強になった作品である。 その間、テレビの「銀河鉄道999」とオー バーラップして、つぎは法然上人の伝記映画 「わたしの法然さま」(50分)をつくった。こ れは、浄土宗総本山知恩院の企画発注によるも ので、まずスタッフと共に、京都知恩院など にロケーションを行い、アニメーションドラ マの中に、実写を組み合わせてゆく手法をか なり思い切ったやり方でとり入れてみた。 こ れも私にとっては、貴重な経験であった。 そして現在は、当誌先月号でも紹介された 「夏休みファミリースペシャル・恐怖伝説・怪 奇!フランケンシュタイン」(テレビ朝日系で 7月27日放映予定2時間)の製作に追われ ている

フランケンシュタインと真っこうからとり 組んだ長編アニメは、おそらく最初だと思う。 それだけにむずかしいが、非常にやりがいの ある題材である。 生命は神のみがつくり得る聖なるもの、そ の神の領域が犯された時、つまり人が大自然 の摂理にそむいた時、いかに恐ろしい悲劇が 起こるか?それを怪奇スリラーのムードの 中で描く、それが前半の焦点。 しかし、当の フランケンは、つくられた自分が持って生ま れた本能のままに行動する。 フランケンの周 囲に渦巻く、名誉欲、出世欲、物欲の数々は 神、大自然の摂理によって生命を得た純正人 間の側にばかり起こり、逆にフランケンは少 女エミリーによって、内面に眠っていた人間 らしい心に目覚めてゆく とすると、怪奇、 スリラーをベースにした”愛のテーマ”も考え られてくる。私がこれまでのアニメ生活で追 い求めてきた"愛"とは、ちょっとニュアンス を異にした形になると思うが、それだけに意 欲も湧く。作監の芦田豊雄氏とは初めてのお 付き合いだが、いろいろと協力して下さる。 東映動画プロデューサーの勝田氏とは、「SF 西遊記スタージンガー」で苦労を共にした仲 だし、今回も呼吸が合う。まったくタフなプ ロデュースぶりで、引きずってくれる。とい う次第で、シンドイかもしれないが精力的に 食いついてゆける仕事と思っている。

まったく勝手な手前味噌ばかり並び立てた 感じだが、紙幅もつきたのでこの辺で筆をお かせていただくことにする。(拙い文章を終わ りまで読んで下さった読者のみなさんに、 からお礼を申し上げます。)

Masako Nozawa Feature

少女は夢を見る。夢を見るから少 女なのである。 東京・荒川区の日暮里に生まれた 野沢雅子も、やはり、少女のころ夢 を見た。大きな舞台でスカートをひ るがえし、精一杯演じて、満場の客 かつさい から割れるような喝采を浴びる。そ んな夢を見たものだ。 昭和の初め、人々がまだ映画のこ 活動写真と呼んでいたころのこ と、松竹映画蒲田撮影所に佐々木清 乃という清純スターがいた。 その映画スターを叔母として生ま れた野沢雅子は、わずか三歳の時に、 もう映画カメラの前に立たされてい た。 監督さんの言う通りに、カメラの 前で笑ってみたり、泣いてみたり、 知らず知らずの間に演ずる心を身に つけていた。 しかし、幼いながらも、一コマ一 コマ、細切れに演じていくことに何 となく不満を感じ、やがて物心のつ いたころには、大きな舞台で精一杯 演じられたら......と、舞台俳優を夢 見るようになっていったのだ。 高校一年の終わりのころ、舞台女 優目指して、劇団「東芸」に研究生 として飛び込んだ。 当時そこでは、大塚周夫、森山周 一郎、富田耕生らが、まだ二十歳台 の新人として、汗にまみれて稽古に 励んでいた。 女優陣には、テレビでの売れっ子 さんもいたし、地味なワキ役さんも いた。まだ高校生の彼女にとって、 すべてが吸収できるすばらしい日々 が続いた。

野沢蓼洲と号す日本画家の父は、 芸術家であっても、やはり、大事な一 人娘のこととなると、世の親と同じ で、彼女が高校生のうちから演劇に 熱中することを好ましくは思ってな かったという。そして、学業第一が、 彼女に課せられた厳命であった。 しかし、彼女も賢い少女、若いな がらも自分の立場をよく認識して、 まず高校の学業に精を出し、余暇を 作っては劇団の稽古場へ通うように していた。公演の際にも、舞台に立 ちたいというはやる心を抑えて、小 道具作りや、効果音作りなどの裏方 さんのお手伝いとして参加、高校生 としての立場を守った。 授業を終え、週に数日、放課後駈 けつける劇団の稽古場では、先輩 ちが汗を流して稽古に励み、演出家 がきびしいダメを出す(悪い点を指 摘すること)。仲間たちが、あれやこ れやと意見を出し合い、創造上の議 論をする。 そんな稽古場の雰囲気が、彼女は たまらなく好きであった。 やがて高校卒業。卒業と同時に、 やっと父の許しが出た。そして、彼 女はどっぷりと劇団生活につかって いく。 彼女は劇団で最年少ということも かわい あって、先輩たちには可愛がられ、 また、彼女もたちまち先輩たちに溶 けこみ、すぐに娘役として舞台に立 つことが できた。 ラジオや テレビへ の出演の 機会にも 恵まれ、 役者とし て、ラッ キーなスタートがきれた。 先輩や仲間は、みんな気のいい人 ばかり、しかし、みんな限りなく貧 芝であった。たまのテレビ出演で得 る収入だけでは、食べることにさえ こと欠く始末。それでもみんな劇団 へ通ってくる。 朝、下宿で目覚めたら、財布に十 しかない。さて、この十円でコッ ペパンを買って食べるか、それとも 電車賃にして劇団に行くか・・・・・・、ハ ムレットのように迷いに迷ったあげ く、やっぱり劇団へやって来た、 と いう先輩もいた。 彼女は、ラジオやテレビの出演で もらったギャラをはたいては、よく パンや弁当をしこたま買い込み、そ れを抱えて劇団へ通ったものだ。 劇団の連中は、演劇の世界にしか 生きられない、世間を上手に渡り歩 くこともできない芝居バカばかり。 そんな不器 用な仲間たち が、彼女はた まらなく好き だったし、そ んな人間にな りたいと思っ たものだ。 こうした世 界に溶け込めたのも、父や母の理解 があったからだと、彼女は今も思っ ている。 劇団の公演が近づくと、それぞれ に何十枚とキップの割り当てがあっ て、それを売ってこなくてはならな い。劇団員にとって、一番憂うつな 仕事だ。しかし、彼女の場合は、い つもそれを、父が黙って買い上げてく れた。 高校時代には厳しく反対していた父 が、今は女優として成長していこうと する自分に力を貸してくれている。そ んなやさしい父の心を知った時、彼女 は涙がこぼれたという。

昭和三十二年ごろから、アメリカか らテレビ映画が輸入され、日本語版に して放送されるようになった。いわゆ るアテレコ番組の誕生である。輸入さ れるテレビ映画の本数が増えるにした がって、若い舞台俳優たちが、にわか に忙しくなってきた。それは、一秒間 に二十四コマ、あっという間に飛んで いくフィルムの動きに合わせて、日本 語をピタリと当てていく、そんな仕事 には、鋭い反射神経と演技力、それに 正確な標準語をしゃべることが必要で あり、若い俳優にうってつけの役割だ ったのだ。 彼女もテレビ局のスタジオに通う日 が多くなってきた。そして、若い俳優た ちが、どんどんこの世界に入り込んで きた。後、世にこの俳優たちを声優と いう。 アテレコ初期の時代には、放送と同 時にフィルムに声を当てていくナマ放 送が多かったし、録音の場合も、録 直しは容易でなく、トチリ(失敗)の 少ない、演技力のある俳優が要求さ れた。 少年役を巧みにこなす演技力のあ る彼女に場が多く与えられるように なったのは、至極当然だ。 昭和三十八年、国産テレビアニメ 第一号「鉄腕アトム」誕生、声優の 仕事はアニメへと広がっていった。 もちろん彼女も出演した。すぐ後、 「宇宙パトロールホッパー」「魔法使 いサリー」などにレギュラー出演、 そして四十二年の暮、「ゲゲゲの鬼太 郎」のオーディションを受け、みご とに主役の鬼太郎を射止めた。 言うまでもなく、「鬼太郎」は大ヒ ット。彼女は、個性ある鬼太郎少年 の人気とともに、テレビアニメにお ける少年役の声優として、その地位 を確立した。 その後も、「いなかっぺ大将」の大 ちゃん、「ど根性ガエル」のひろし、 「ドロロンえん魔くん」のえん魔く ん、「おれは鉄兵」の鉄兵と、主役の 少年を演じて大活躍、そして、一時 に「トム・ソーヤの冒険」「銀河鉄道9 99」「釣りキチ三平」「怪物くん」(新 作)の四作品に主演、同時に四人の 主役少年を演ずるという快挙を、彼 女はやってのけた。 今までに出演したアニメの数は、 おびただしく、数えきれないくらい ある。しかし、長い彼女のアニメ出 演の歴史の中で、少女役を演じた記 憶は、「あした のジョー」の ワキ役の少女 だけ、という のも面白い。 彼女の、カ ラッとした性 格、いつも笑 顔で、大きな 目を輝かせて いて、失敗し てもクヨクヨ せず、すぐに 立ち直ること のできるバイ タリティーと、 少年のような 機敏な行動力、 そうしたパー ソナリティー を持っていた からこそ、少 年役をあたえ られたのであ ろうし、人は また、その魅 力のとりこに なったのであ る。 鬼太郎、ひろし、鉄兵、鉄郎・・・・・・ と、それぞれの時代に育ったアニメ ファンは、これから後いつまでも、 それらのキャラクターを忘れること なく、野沢雅子の声も耳に残されて 消えることはないだろう。

アニメにどっぷりつかって、十八 年、今後も続けられる限りは、この 仕事を続けていきたいと、彼女は言う。 しかし、現実は厳しい。マスコミは 常に新たなものの誕生を歓迎し、そ れを追いかける。彼女をマークし、 日夜練習を続けている若い人たちが たくさんいることも確かだ。 このような厳しい世界の中で、 女もまた、たゆみない努力を続けて いる。 アニメの録音の合間を縫っては、 全国各地へとイベントの仕事で出か けて行き、多忙な毎日を送っている 彼女だが、舞台活動の意欲も燃やし 続け、その灯を消そうとはしていな い。つい先ごろも、声優仲間が多く 参加した舞台公演「眠れる森のメタ モルフォーゼ」で、華麗な演技を見 せてくれている。

初めてカメラの前に立ったのが三 歳、それから数えたら、彼女の女優 としての歴史は、もうウン十年となる。 その長い歩みの中で、彼女はいつ も夢を見てきた。 少女時代には、華 やかな衣裳を着て舞台狭しと大活躍 する夢を見、高校時代には、演技力の ある女優目指して、そして、アニメ の中にも夢を追い続け、つねに夢に 向かって歩んできた。 彼女はその夢を一つ一つ実現させ、 アニメ声優として幅広く活躍している。 十五年前、隣家からのもらい火で、 借家と家財を全焼、全くの丸裸にされ たこともあったが、彼女の持ち前のバ イタリティーでそれも克服、現在は、 やさしい旦那様(声優・塚田正昭)と一 粒種の由華ちゃんの三人で、幸せな家 庭を築いている。 今、彼女は自分の歩いて来た道を振 り返ってみて、何一つ後悔することは ない。夢を追いながら精一杯やってき た。そして、それができたことを何より も幸せだと思っていると言う。 (文中敬称略)

Stargraph: Keiko Han

晩春から初夏にかけて、夜空には一等星ア ルクツールが、美しい光を放つ。 太古の人々は、星空を仰ぎ見て流浪の旅の 方位を計った。そして今も昔も、人々は星占 いで、自分の人生を確かめようとする。 雨あがりの夕刻、にぎわう新宿の街の上に 一番星が輝き始めるころ、とある喫茶店で、 潘恵子さんに出逢った。 星占いの大家でもある恵子さんは、神秘的 で、美しく愛らしい女性であった。 小柄ながらも体の線はバツグンで、細身の ジーンズジャケットとパンタロンがよく似合 っていた。全体的に漂う東洋的ムードは、中 国人である父親の血を受け継いでいるからな のだろう。ミー ーハー的観点から察すると、今 まで男性に相当モテた人だろうと思う。話し がうちとけていくうちに、まさに幼稚園時代 から、松田聖子チャンも真っ青なほど、男の 子たちの超アイドル的存在だったことが判明 していった。しかし、だからといって人気者 の彼女が社交家だったと思うのは大間違いで、 病弱なうえに内向的だった彼女は独り、部屋 に閉じこもり、絵を描いたり、歌をうたった りする、いわばどこか翳りのある少女だった。 「本当に今思うと、私の少女時代も青春時代も とっても暗かったワ。人前にでるのはイヤ、 話すのもダメ、なぜか心が抑圧されてて、や り直せるものなら、もう一度あの暗かった時 代をやり直したい」。彼女は、三人姉妹の末 っ子。彼女のご両親は、年齢の差を区別せず に彼女を育てた。しかし、当然のことに一番 幼い彼女は、いつも二人の姉に取り残される のを感じないわけにいかない。末っ子であっ ても上の姉たちと同じ教育を強いられた彼女 の胸中には、ジレンマと敗北感がウズまいて いたに違いない。 しかし、蛹が蝶に変身するように、人間に も転機というものがある。暗く寂しい彼女も やがて、ある出来事をきっかけにして変身し ていった。彼女の醸しだす孤独でエキゾチッ クなムードに、あるプロデューサーが白羽の 矢を立て、舞台で三重苦を持つヘレン・ケラ ーを演じることになったのだ。最初はためら っていた彼女も、ある友人に勇気づけられ、 彼女は見事にヘレン・ケラーを演じた。 サリバン先生によって、やがて心を開き、 言葉をしゃべるまでに成長したヘレンのよう に、彼女自身も思いきってヘレンを演じるこ とで、新しい指針を発見し、積極的に歩みだ してゆくようになった。それは彼女が高校3 年生の時のことであった。 眠っていた才能が目覚めた・・・・・・とでもいお うか、高校を卒業して日本大学の演劇科へ進 学した彼女だったが、自分の夢に忠実な彼女 は、学校という枠の中での演劇にものたりな さを感じ、演劇科を退く。そして、今度は、舞 台美術にも興味を抱き、描きためた絵を抱え て、水森亜土さんの在籍する”未来劇場〟の門 をたたいた。が、あいにく亜土さんは不在。 そのあとで、絵を見てもらうよりも、なぜか 芝居のオーディションを受ける羽目になり、 そして見事合格。即、役者として舞台に立つ 毎日となった。 男であれ女であれ、なにかに飢えている人 は、一か所に長くとどまっていられない。次 から次へと夢を求めてやまない。だから、ど うしても波乱万丈な人生を送ってしまう。 「もう役者をやめよう、やめて結婚しよう、と 考えた時もあったし、役者になることを勧め てくれた友人に相談しにカナダまででかけた こともあったワ。で、死のうとまで思いつめ た時もあったの。その一番苦しかった時、『サ ザエさん』でワカメちゃんの声の野村道子さん に、やめちゃもったいないっていわれて、ヨ シ、あと3年間やってみようと決心したの」。 その日から、ちょうど今年が3年目。充実 した仕事のスケジュールでビッシリ。精神的 充実度もバッチリ。 2年前から始めたという 一人暮らしの部屋で、「目覚まし時計を気にせ ず、ゆっくり眠ることが唯一のたのしみ」と、 童女のように笑った彼女。「私が一番誇れると ころ? そうね、愛すること。愛する心はだ れにも負けないワ、きっと・・・・・・」。 声優として、そして星占い人として、仕事 を始めて4年。また、歌手としての仕事もい よいよ本格的になってきた現在…。 ついに、6月21日に彼女のLPがでます! 「スタジオでストリングスをとった時、その美 しい音色に感動して思わず涙がでちゃって、 みなさんに、あっ泣いてるってヒヤかされた の。でも音楽ってホントに素晴らしいですね ~!」。'60年代ポップス風の期待度300%の LPなのだ。あっ、それからコンサートなん かもある予定。”マジカル・ローラー・ディス コ〟なるステージで、ローラー・ブーツをはい て滑りながらうたう、キュートな恵子さんが 見れる。私ことニャンコママも、絶対にでか けるつもりなのだ。 彼女には、芝居を始めたころから、フェデ リコ・フェリーニ監督の「道」(イタリア映画) を、いつか舞台化したいという夢があった。 「ジェルソミーナという、ちょっと間が抜けて いるけど、いるだけで微笑んでしまいそうな ほど、温かくてもの悲しい娘。ふつうの女の 子なのに、最終的には、ある男の人の心にグ サッと残ったという、ジェルソミーナ役を舞 台でぜひ演じたいの…………」。 星のきらめきにも似た彼女の瞳は、その夢 を語る時、よりいっそう輝いていた。 順風に帆をあげて、大海原を行く船のよう に、彼女はマイペースを守りながら、自分の 夢の国まで、航海して行くに違いない。 夜のとばりがおりて、あたり一面がすっか り暗くなったころ、私たちはあいさつをかわ して右と左に別れた。 ふり向く私の瞳に、彼 女の華奢な後ろ姿が映った。彼女はおそらく、 たとえどんなに年老いても、あのフローネの ような笑顔を失くさない人だろう。 恵子さん、あなたは永遠のミルキー・レデ ィーなのですか...!?

August

Stargraph: Yuji Mitsuya

小坂恭子の マイゲストルーム

オペラ歌手を夢見てた少年が ある日から… ミュージカル映画といえば、私自身も連続 8回も観てしまった超名作「ウエストサイド 物語」、そして最近ではCMでおなじみの「フ エーム」などがある。 三ツ矢雄二さんに逢った時、それらのミュ ージカル映画の中で、エネルギッシュに歌い 踊っていた若者たちを咄嗟に思い浮かべた。 1930年代風のテ 0年代風のテクノカットの髪、ダー クレッドのBIGIのシャツ、そしてジーン ズ。腰にはウォークマンがさげられていた。 彼は女性の目から見ても、羨ましいほどの、 むきたてのゆで玉子のようなツヤの良い膚を していた。きっと連日、ジャズダンスの猛レ ッスンに励み、イイ汗をかいているからなの だろう。 うらや 話す時、体全体をダイナミックに動かす彼 には、どこか大陸的な香りが漂う。 さて、小学校時代から合唱団で活躍してい た彼は、その合唱団を指導する先生の影響も あって、オペラ歌手になることを夢見ていた。 「先生から、オペラには歌とそして演技の要 素も必要なのだといわれて、自発的に児童劇 オペラをやりたいがための入団であったが 彼の子役としての才能は次々に認められ、N HKの1年連続の少年ドラマの主役をはじめ、 仕事の依頼が殺到。当時、名古屋に住んでい た彼は、東京、大阪、京都と忙しく撮影所を 飛び回るようになり、しだいに本業の歌のほ うはおろそかになっていった。 「中学、高校と僕は職業学生〟だったんです よ。ちょうど、思春期時代を学校と仕事で通 りぬけてきたから、いったい自分は何をやり たいのか、どう生きるべきなのかを考え悩む 暇もなかったわけ。だから僕は、高校を卒業 したらとにかく東京に在住しようと思ってい た。 両親から東京に出て、一応4年間は面倒 をみてやるとい いわれてましたから......」 頼る人もない東京へ、彼は一人で乗り込ん だ。当時18歳。とりあえず大学を受験。 そして、失敗。自分でも当然わかっていた結 果であった。ふり返れば、職業学生に明け暮 れて、受験勉強をする時間もなかったのだ。 「受けた大学をみんな落ちて、予備校へでも 行こうかな?と思ってた時、あるキッカケ でアメリカ、ヨーロッパを3か月ほど旅行す ることになったのです。親にないしょの旅だ ったから、エラク貧乏旅行でね。 で、歌や芝 貧乏旅行でね。で、歌や芝 居を観たり、見知らぬ街のいろんな人たちに 出逢ったりしてゆくうちに、とにかく何かを やり始めなくっちゃいけないな・・・・・・と思い始 めたんですよ。たとえば、芝居をやる時には 単に演技の勉強だけすればいいんじゃなくて、 もっと広い意味で、人間としての勉強をしな くちゃいけない。そう思い始めたら、大学受 験のために予備校へ通うことが、無意味に思 えてきたわけ・・・・・・」 帰国後、彼は専門学校で少しシナリオを学 び、その後再び受験。 「いろいろ悩んだ結果、大学4年間を執行猶 予とみなすことにして、受験日の4か月前か ら必死に勉強して合格したんです」 私は思わず、「ギャーン!!!」と声をあげてし まった。だって1年の間に、外国を飛び回っ て、心の栄養をとって、帰国したら専門学校 で芝居の柱ともいえるシナリオを学んで、わ ずか4か月間の勉強で受験に合格なんて..... 決めすぎ! カッコ良すぎると思わない? 食うものも食わず 集めたレコード2000枚 スーパーマンのごとく入学したその大学で、 彼はジャズに出逢い、4年間ノンビリと学園 生活をエンジョイしようと思っていた。が そうは問屋がおろさなかった。 子役時代に彼をかわいがっていたNHKの プロデューサーが、人形劇を作ることになり、 彼に声のオーディションを受けるようにと電 話してきたのである。かくして、彼はみごと 合格、声優三ツ矢雄二の誕生となった。 つまり、またしても職業学生となったわけ。 しかし、経験を重ね人間的に成長した彼は、 中学、高校生時代より学園生活を、そして仕 「大学4年間で、ジャズのLP2000枚買 ったよ。食料はキャベツとパン。あとは全部 レコードにつぎ込んでね。あのね、ジャズは 芝居と通じるところがあるんですよ」 ジャズのためなら死ねる そうつぶやいたスナイパ ジャズの話になると、動作が大きくなる彼 そんなシャイな彼の3枚目のソロLPが、 7月5日に発売された。古き良き時代の音楽 をフイチャーした小粋なアルバム。そして、 7月28日には、東京・ヤクルトホールでソロ コンサートもある。ワインでも持って渋いジ ャズナンバーを歌う彼は、きっとすばらしい だろうな。 彼は自分のことを、〝コンプレックスの塊" といった。その言葉を聞いた時、私は彼に感 動した。人はコンプレックスをかくしたがる もので、また人は他人のコンプ ぞきたがるものである。彼は、自分が今まで 壁にぶちあたってきた原因をさり気なく語っ てくれた。そんな裸の心を見せられた時、こ うつわ の人が大物の器であることを知らされた。 三ツ矢雄二、25歳。東京というジャングル の中で夢を追い求める孤独なスナイパー。 「ジャズがうまくなるためだったら、何でも できるような気がする。何のために死ねるか …………と考えると、僕はジャズのためだったら 死ねる…………と思う。今、ジャズを歌える状態 に持ってゆくことが最大の夢さ」 これから、幾多のジグザグな壁にぶちあた ろうが、彼はその中で苦悩しあえぎながらも 確実に夢を手にしてゆくに違いない。それが 夢を追うスナイパーの宿命なのだから......。 苦悩なしに夢はつかめないし、苦悩なしに つかんだ夢は幻でしかない 「また逢いましょう」と握手を交わした彼は、 クルリと踵を返して夕暮れのダウンタウン へ消えていった。私の鼻には、アラミスの香 かすかにっていた...。

My Anime Life: Yoshiyuki Tomino

人と人とのしのぎ あいから会得した 僕のアニメ経験論

MA. 最近、『だか 僕は…ガンダム への道』を著され たわけですが、今 日はそれに書かれ ていないお話をお 聞きしたいと思い ます。まず素直に、 アニメ作りの世界 に入られ、これまでどのように感じ てこられましたか?

Tomino. トータルに言えば、テレビ アニメをやるのは自分も含めて、い ろんな意味を含めてですが、落ちこ ぼれ組〟か、初めからアニメとマン ガだけが好きという、非常に限定さ れたタイプの人間が集まっている世 界だと思いましたね。ですから、こ の世界の空気になかなか馴染めなか ったというのが本音なんですよ。そ れだけに、自分の知らなかった人の 在り方を教えてもらったという意味 て、ずいぶん勉強させてもらえたと 思います。そして、この世界の仕事 を表芸にしてゆくためには、一体、 何と何とが必要なのか、そればかり を考えてきました。ただ、この世界 に入って痛感したことは、いろいろ な人間と接触していかなければなら ないのが本来の仕事であるにもかか わらず、それをしないですむという 動機から入ってきた方も、ややいる んではないかという気がしたんです。 それは、作品を作る上での危機感に もつながりました。つまり、よほど の天才でないかぎり、作るモノが偏 向してしまうんではないか、という ことです。 僕の場合で言えば、本当の意味で のストーリーテラーになれると思え ないし、オリジナリティを自分自身 に持ち得ないだろうなという気分が ありました。そこで外部の世界から 取り込みを図り、自分の作品にどう いうふうに反映させていけるかとい 積み上げの習練に努力しようと 思いました。しかし、少なくとも虫プ ロ時代の4年間では、まだその必要 性を骨身に感じませんでした。とい うのは、すぐに演出家になってしま ったので、そういう見方をしない恵 まれた環境だったんです。正直に言 えば天狗になっていたわ けですね。映画界なりア ニメの世界なりが持って いる徒弟制度については 十分承知していましたか ら、覚悟はできていまし たけど、すぐ演出家にな ってしまったから......。

MA. それで、フリーに なられた。

Tomino. の本に書いてあることに かなり近いゴチャゴチャがありまし て、この際、多少騙されてもかまわ ないから、一度は外を見てみないと 何も言えないのではないかなと思っ たんです。つまり、作品作りをして いく上で、よく現実性があるの、ド ラマ性があるのと言いますが、そう 難しく考える前に、人と人との関わ り合いを描いていくのが作品であろ うと......。その中で、自分自身がど ういうふうに打ちのめされたのか、 あるいは打ちのめされなかったのか といったことを根本的にわからなく てはどうしようもない。で、自分が 温室育ちだとつくづくわかって つまり、口で偉そうなことを言った って結局何もわからない、できない 人間だとわかったんですね。これは 辛かった......。 そして結局、またアニメに戻って きた時に感じたのは、人と人とのし のぎ合いをドーンとぶつけ合うこと だなと、つくづく思いました。たと えば、この作品を作るに当たっては プロダクションの社長を黙らせない 限り、自分の思っていることは創造 できないとか、局の担当者のこうい う点は半分聞くが、半分は聞かない といった一線の引き方をしていかな いと、自己主張というのは絶対にで きないことがわかりました。

MA. お聞きしていますと、富野さ んの製作作法というのは、すべて経 験論から割り出したものなんですね。

Tomino. そうだと思います。何をど ういうふうに描くかという方法論に ついては、映画専攻とかアニメ専攻 の人たちが一番聞きたいことなんで しょうが、そういうことは1か月か 2か月の学習で全部わかることなん ですよ。それよりもっと大事なこと は、そういうことではなくてという 部分を、自分で見つけていかない限 り、絶対に作品作りはできないんだ、 ということじゃない んでしょうか? じゃ一体、それは なんなのかと言えば、 人間というものをど ういうふうに見、そ れを自分が創りたい キャラクターの中にどう からめてゆくかというこ とに尽きるわけです。だ から、それがアニメに向 いているかいないかとい う判断は方法論ですむこ とです。僕自身、そういう ことが32~33歳の頃はあ まりよくわかっていなか ったし、今でもわかって いるかというと、やっぱり具体的な 方法論というのは、まだ見えない。

MA. 時、デザイン学校の講師を なさいましたが、その動機は?

Tomino. 動機というのはありません。 すぎです。その結果、得たことと 言えば基本的にはあの種の学校の存 在自体をナンセンスだと思いました。 しかし、なくてもよいかということ になると、これはあったほうがいい んです。なぜならば、ああいう学校 がないと若い人がとっかかりを見出 せませんからね。それでいて、現場 の当事者であるうちは絶対に出入り してはならない所だということを、 痛切に感じたんです。せこい発想で いけば、将来、自分のライバルにな るヤツに何もノウハウを教えてやる ことなんてないじやないかというこ とが一つと、本当の意味でのノウハ ウなんか絶対に教えられるわけがな いからです。おそらく、このことは 作品作りの根本じゃないかと僕自身 は信じているんです。

モノを創る行為は、 結局、人間として の練度を高める以 外にない!

MA. 本来、教えら れるものではなく、 身につけるもので しょうからね。

Tomino. 実を言い ますと、アニメは こういうプロット があり、これにつ いてはこういう描 き変えをしないといけませんよとい うことは教えられます。アニメはこ ういうふうにできていきますという 方法論は、字はきれいに書きましょ うね、ということと同じなんです。 むしろ、一番肝心なことは、 れている字が何を語るかということ です。このことは、伝わらない人に は百万語を費やしても完全には伝わ りません。伝わる人には、簡単に伝 わるんですが。それでいいんでしょ うが..。 ことアニメに関する限り、各種学 校が基本的にはナンセンスだと言う のも、そういう思い込みが僕にはあ るからなんです。じゃ、本来、何を やったらいいかと言うと、これはも のすごくはっきりしています。感性 を高めるということですね。それが 培われないのだったら、学校という のは必要でないという気がしてなり ません。ただ、学生時代という時間 はないよりもあったほうがいいとい うことにすぎないんですが、このす がというところが、こ れがいれ言い難い・・・

MA.  芥川龍之介が、作家になるに はどうしたらいいかという質問に、 国語と算数と体操をしっかりやりな さいと答えた話が残っていますね。

Tomino. 本当にそうだと思います。 僕は算数がわからなかったから今の 世界に入った(笑い)。ただ、モノを 創りたいという人に言えることは、 理論学から入るべきでないというこ とですね。現に、僕自信の学生時代 を振り返ってみて、大学の授業から 学んだことで生かしているのは100の うち2、3といったところです。 つまり、クリエイティブな作業は、 所詮、個人プレイでしかないわけで す。それでいて、マウンドに立って いるピッチャーとは違って、出たら 最後、降りろとは誰も言ってくれな い。ハッと気がついたら、完投 いるか倒れているかのどっちかです ね。それくらいすさまじいものです。

MA. なるほど。 そうすると富野さ んのアニメ・ドラマツルギーという のは、感性の練度に尽きるというわ けですか。

Tomino. それだけ、それがすべてで す。ナイーブさと言ってもいいんで すが、それさえあれば、キャラクタ 1一つ見てもいろいろな広がりで感 じられます。ところが、あまり専門 職化を志向すると、結局、ほどほど にというか、これ以上は脱皮できな いかたまりとなってしまうことが多 いですね。自分は”まだ柔らかいな" というふうに感じられるような感性 を保つようにするためには、アニメ ーションが上手くなったり、キャラ クターを描くこと自体が上手くなっ ということではないと思いま す。人間としての練度を高めない 限り、とてもじゃないがモノを創 るという行為はできない 特に、 ここ1、2年、ちょっと思うこと がありまして、自分自身の見えて いる部分がなくなってしまって、 殺伐としていやだなという辛さが あります。

MA. ところで、これまでいろい ろな作品を生み出してこられて、 それがファン、ことにヤングが共 鳴し、迎えられているわけですが、 その点、どう思っていらっしゃる のでしょう。

Tomino. こちらが作品に正しい思い 込みをしている時にしか反応してく れないことがよくわかるから、非常 に嬉しいと思います。間違った思い 込みに対しては、絶対に反応してく れません。それが実にありがたいん です。

MA. こわいくらいに反応が返ってくるんですね。

Tomino. ですから、外交辞令でもな んでもなく、本当に反応してくれる ようなキャラクターを創ることがで きる自分自身を、嬉しく思うんです。 作品を作り終えて、こうすればよか っと思って反省しているところを、 シビアーに突いてくる。それでも、 大筋が正しければ、逆にどんなミス でも、ファンは許してくれます。そ のくらい感情移入してくれているん です。それだけに、ダサイ部分を間 違ってもカッコいいとは言いません。 実際、決めポーズがいいからとか、 一枚絵がいいからということだけで は絶対に振り向いてはくれません。 そういう小手先のことは見抜く心眼 を、小学校上級生以上のレベルにな ったら持っているわけです。これは、 なにもアニメだけに限ったことでは ないのですが......。 つまり、若い人たちは、アニメも 実写のTVドラマも映画も、素材と しては、同じ受けとめかたをする。 まったく同列なんですね。大人が持 っているような”これはアニメだか らな"という分け方で見てはいませ ん。それは時代が変わったからとい うことじゃないんです。 ディズニー 商業化してきたという実績を含め て、アニメ自体の表現の練度もいつ の間にか高まっているんです。それ を当の制作者側が意外に気づいてい ないんです。

MA. 現実に、週に30本ものアニメ 作品がテレビで放映されているんで すものね。子供だって、それを全部 見ていたら何もできません。おのず と、自分に合った作品を見分ける目 が養われるようになっていますね。

Tomino. だから、絶対に馬鹿にして かかってはいけない。今の子供たち は初めて総天然色のマンガ映画を見 ているわけじゃないんですから・・・・・・ 色が付いて、絵が動いてりゃいいだ けだったら、チャンネルをビャーッ 回してしまいます。 それにもかかわらず、送り手の側 に子供の感じ方も一世代前の論法が いまだに横行しているのはどうかと 思います。僕に言わせれば、新しい 媒体については、経験論 というのはあり得ないん です。それが横行する は危険だと思いますよ。

MA. 子供たちの感性の 芽を摘んでしまう恐れが ありますものね。

Tomino. それは極度にあ るような気がします。今 の若い人はかなりタフで してね、そういう大人の顔色をわか っていますから、まったく無関係に やっていくみたいな部分があって、 僕らから見ると、むしろそのへんを 気づいてくれる大人が出てきてもい いんじゃないかと思います。

MA.「ガンダム」におけるニュータイ プという問題提起にしても、自分た ちの将来はどうなるのかという不安 があって、そういう心情とシンクロ ナイズしたと言ってもいいのでしょ うか。

Tomino. 単純に言えば、君たちもジ クジクしていないで、君たち自身が 今度生む子供たちに夢を託せばいい じゃないか そういう指向性を、 今の大人はあまりに与えなさすぎて いるような気がするんです。そうい う手応えのある情報というものを、 親子関係一つとってみても与えなさ すぎる。つまり、ハードインテリジ ェンスというんですか、確かな情報 ですね。子供たちはアニメ作品の中 にも、しっかりとした情報があれば、 間違いなく感じとってくれて るの ではないでしょうか。 それだけに、アニメに限らず、子 供たちの世界にも本物指向が起こっ てきています。それに応える意味で 本気になってかからなければならな いと思うんです。そうならないと、 日本映画が辿ったのと同じ歴史を歩 むことになります。僕は、この4、 5年の間にそういう危機が生まれ、 本数はいくらあっても、弾劾される 時代になるかもしれないと思います。 当事者の一人として、そうしたくな いですからね。本物をと言うのは簡 単ですけど、実際に作るとなると大 変なことです。

優しさと健やかさ 「ドラえもん」は僕 の憧れの世界

MA. 現在、アニ メ界では〝ガンダ ム以後"というこ とがやたらと言わ れていますが、富 野さんはどうお考 えですか?

Tomino. これまで 言ったことを含め て、自分の中でもっと具体的に言葉 を手に入れたいと思っています。け れど、それが〝ガンダム以後〟か以 前の問題か、となるとそれは論外で す。そういう現象の問題としては捉 えていません。 僕は今年で40歳です けど、考えてみるとあまり後の時間 がないんですよね。本当だったら、 30代の時に「ガンダム」みたいな状 況があったら、すごくよかったのに 半年ほど前までは思っていました。 しかし、これも時の運で巡り合わせ なんじゃないかという受けとめ方に なりました。そういう意味では、あ まり余分なことをしていられないと 思うと同時に、いつノタレ死にしよ うと後悔しない形での仕事をしてい こうと考えています。僕自身がはっ きりした姿勢を持っていないと、若 い人たちからスポイルされてしまい ますからね......。 だから好きなこと ばかりをしてはいられない。それで いて、僕の立場で言えばTVのシリ ーズもまだやりたいですし、映画も やれるものならやりたいし、小説も 書けるものなら書きたいし、とやる ことはいっぱいある、そう思いたい のです。 ただ、僕が大変啓発された時期が ありましてね。それはアニメ雑誌が マスコミに登場する前の年で、アニ メファンクラブの集いに初めて出席 した時のことです。 墨田区の公会堂 だったんですが、千人もの観客を見 て、あっと思った。ほとんどが中・ 高校生だったんです。正直言って、 その時から本気になりました。それ までは、アニメについては観念で真 剣だったにすぎなかったんです。 実 像が見えて、あーっ、アニメってこ れまでの作り方を変えないとマズイ んじゃないかな、とつくづく思い知 らされました。今でも、その時の気 持ちをずっと持ち続けていきたいと 考えています。

MA. 最後に、これからはこういう 作品を作りたいとか、こういうテー マのものを手がけ いといった抱負をお 聞かせください。

Tomino. 具体的には まったくありません。 ただね、今までの 話と全部違っちゃうかも 知れませんけど、僕が憧 れている作品があるんで す。「ドラえもん」 なんです。 つまり、それは 僕自身の作品世界 にないものだから かも知れない。し かし、アニメ作り をする以上、あの ような世界を作り たいと思うわけで す。その理由は、 ”優しさ"を描い ているからなんで す。最初に言った 人と人との関わり 合いは、それしか ないと思えるから です。あの「ドラえもん」の世界が 持っている基本的な優しさと健やか さは、チビちゃんだけのものじゃな い。それを平易に表現するというこ とはすばらしいことです。 だから、ああいう素材の作品を作 れるものなら作ってみたい。 これは僕の夢ですね。

Kaneta Kimotsuki Feature

太郎は、父のふるさとへ 花子は、母のふるさとへ 里で聞いたは、何の声 山のいただき、雲に鳥 のぞみ大きく育てよと 遠くはなれた父の声

(「父母の声」依田準一詩) 太平洋戦争中に小学生生活を送っ た者なら、決して忘れることのでき ない歌疎開学童の歌である。 肝付兼太はあの時からもう三十年 以上になるというのに、今なお、こ の歌を忘れることができない。陽気 の塊のような彼が、今でもこの歌を 耳にすると、たちまち悲しく切なく なり、イジケタ少年のころの心にも どってしまうのだ。
あれは、昭和十九年の初夏のこと であった。 東京・板橋第四小学校の二年生の 少年少女たちが、背にリュックサッ クを背負い、手には大きな風呂敷包 みをさげ、先生に引率されて上野駅 から旅立って行った。その夜汽車を 見送るプラットホームの父や母の頬 は、涙で光っていた。これが親子の、 今生の別れになるかもわからないか らであった。 時あたかも大平洋戦争末期、もは や日本の敗色は覆うすべもなく、日 に日に戦線は後退、東京の空はアメ リカ空軍爆撃機の跳梁にまかせるば かり、市街は急速に焼土と化し、廃 墟への道をたどりつつあった。そん なころのことだ。 せめて少年少女たちだけでも救お うと、子供たちだけの集団移住が始 められた。これがいわゆる学童集団 疎開である。その列車に乗り込んだ 子供たちの集団の中に、兼太 (本名 兼正)少年もいた。
群馬県の湯桧曽は、谷川と山に囲 まれた風光明媚な温泉町。しかし、 その目に沁みるような若葉の緑も、 澄んだ川の流れも、うつろな彼の目 には、もはや美しいものとして映ら なかった。父や母の手から引き裂か れるようにして汽車に乗せられたシ ヨックだけが、いつまでも彼の脳裏 にとどまって離れなかった。 内向的で気弱な性格の兼太は、着 いたその夜から、東京の父や母を慕 ってメソメソし、涙を流した。次の夜 も、そしてその次の夜も。泣き明か して暮らす彼をもてあまして、つい に、先生は両親の元へ彼を帰した。 やっと東京にもどれた······と思 ったら、今度は我が家が過密市街地 のために立ち退き命令、強制疎開に ひっかかり、また山に囲まれた山梨 県の竜王に移住させられた。 竜王でも、村の子供たちから都会 育ちのイジケっ子、泣き虫っ子とか らかわれ、またまた泣き明かす毎日 となった。 だが、やがて迎えた終戦によって、 彼の性格は一変する。これには周囲 の人たちも驚 いた。 再び踏む東 京の地、なつ かしの板橋に 帰り着いた途 端、彼は陽気 で明るい、よ くおしゃべり する少年に変 わったのだ。 帰って来た その日から、 町中を駆けま わり、遊び仲間 を集めては、疎開先のラジオで覚え た落語や、街で見かけたGI(アメ リカ兵)の真似をおどけて、みんな を笑わせるようになったのだ。 この変身ぶりを彼自身、こう分析 する。 やはり都会っ子だったんです ね。東京に帰れたことが、ただもう 無性に嬉しくて、かつての遊び仲間 が同胞のように思え、もう抱きつき たいくらいの感激だったんです。子 供心に、もう最高に嬉しかったんで しょうねー、と。 この時彼は、自らが晴れやかな心 を持つことにより、他人を喜ばすこ とができることを知り、 そのことを快く思うよう になった。 平穏な日々が続き、や がて帝京中学、そして同 高校へと進んだ。彼はそ のころより、演劇という ものに興味をもち始め、 野球名門校にいながら、 野球には目もくれず演劇 部を創設、芝居づくり(活 動)に熱中した。 高校を卒業すると同時 に、高島屋デパートに就 職。たちまちその陽気な 性格が買われて、お得意さんまわり の外渉部に配置された。だが、入社 六カ月後、彼はサラリーマン生活に 別れを告げた。 もともと、彼のやりたかったのは 演劇の勉強。六カ月のお勤めは、失業 保険をもらうための方便であったのか も知れない。 六カ月の給料を軍資金にし、新聞広 告に掲載されていたプロダクションに 飛び込む。ところがナント、これがイ ンチキプロダクション。入会金やら月 謝などをガッポリ取られ、その後ほと んど練習もしてくれない。 当時、 東京にはこの種のプロダクションや劇 団が多かった。 いくら陽気で三枚目的な性格の彼で も、この時は必死になって、まじめに 指導してくれるところはないかと探し に探し、やっといい劇団を見つけた。 その劇団は、主宰者が人格者ではあ ったが、それだけにいつも財政難で火 の車。 兼太も、インチキプロに引っかかっ た後だから金がない。そこで彼は、こ こで無報酬で事務員として働くかわり に、演技の指導をしてもらうことにし た。これが、後にプロとして成長して いく上での基礎づくりとなったのである。 その後、若手新劇俳優たちで結成し ていた劇団「七旺会」の研究生となる。 しかし間もなく分裂、解散。やむなく さらに、若手俳優たちの集団「作品座」 に加入する。だがここもまた分裂、解 散。彼はその時知りあった同輩、青野 武とともに演劇界の外に放り出され た。当時、劇団が分裂、解散するこ とは日常茶飯事のことであった。劇 団の公演も、赤字となるのが常識と なっていたし、劇団幹部たちは公演 が終われば、その赤字を埋めるため に、ラジオやテレビの出演に精を出 さなくてはならなくなる。 マスコミ出演に縁のない若手俳優 や研究生たちは、置き去りにされた ようになり、収入の道もなく、焦燥 感にもかられて、たちまち分裂騒ぎ になるのである。 まだ卵の兼太も、俳優としての収 入はゼロに近かった。そこで、食う ためにいろいろなアルバイトをやっ た。十年ほどの苦難時代にやった職 種はいくつになるか、思い出せない くらいだという。変わったところで は、歯科医助手と、漬物屋さんの重 石役。しかし軽さのため、重石役に はならなかったとか。 ただ、青野武と組んでやったバー テン稼業は、青野の巧みなシェーカ 振りと、兼太の軽妙なジョークで お客を喜ばせ、絶妙なコンビで大成 功した。また、昭和三十九年ごろ、仲 間を集め自ら旅行社をつくり、団体 旅行の客を募っては、観光地へバス で出かけていったことがある。 そんな時の彼の役目は、バス添乗 員兼宴会司会者。観光地をバスで走 っていても、客は窓外の風景を眺め るヒマもなく、マイク片手にしゃべ り続ける兼太の軽妙な話術に抱腹絶 倒、ヒーヒー声をあげて笑い転げた ものだ。 旅館に着いて夕食がすむと、こん どは余興大会の司会者に早変わり。 これまた持ち前のサービス精神を発 揮して大活躍。司会だけでなく、歌 手や落語家から政治家まで、幅広く 物真似を演じ、存分に客を喜ばせた ものだ。彼の物真似は、動作、表情 に至るまで微に入り細にわたってい た。彼の日ごろの観察眼、研究熱心 さを物語るものである。 現在、彼が持っているアニメ出演 時の独創的な表現、即興的な創造力 や軽妙洒脱な演技力は、この時に開 発され、磨かれたといっていいだろ
俳優として陽の当たらない道を歩 んで来た彼にも、やがて幸運が訪れ 昭和四十年、「俳協」に所属してい た時、「ディズニーランド」でドナル ド・ダックの声をやっていた藤岡琢 也が、映画やテレビドラマの出演で 忙しくなり、代役を立てることにな ったのだ。そして彼が、この金的を 射止めることになった。これが幸運 のつき始め、その後すぐアメリカア ニメ「レッツゴー・ヘクター」や「バ ーバー・パパ」の主役がまわってきた。 そして、国産アニメ「おばけのQ 「太郎」のオーディションを受けたと ころ、ガキ大将のゴジラ役に決定。 この後、しばらくガキ大将役が続く。 にくたらしいようでいてにくめない、 なんとも愛敬のあるガキ大将で好演 であった。「夕焼け番長」「いじわるば あさん」では、お婆さん役を演じ、 本物のお婆さんでは表されないユニ ークなおかしさで好演、高い評価を 得た。 また、「ドカベン」の殿馬役では、 役作りの創造で一番苦労したという が、一見スケているようでいて、実 は大変な秀才という、ユニークな性 格にたまらない魅力を感じたという。 彼の内なる心と共通するものがあっ たのだろうか。
今まで彼が演じてきた役は、ガキ大 将、爺さん、婆さん・・・・・・と、数多くある が、そのどれを取ってみても、今人気 の美形キャラではない。いわゆる脇役 である。 美形キャラを演じている若手声優が 騒がれている昨今であるが、彼はそん なことにはかかわりなく、今日もスタ ジオやステージでおどけて見せ、スッ トンキョーな声を発し、客を笑わせ、 喜ばせ、楽しませる工風に余念がない。 脇役に徹し、おどけた人生を送り続 けてきたことに彼は満足し、無上の幸 せを感じ、誇らしく思っているに違い ないー。 (文中敬称略)

Ryusei Nakao Spotlight

Q&A 曲目とステージ構成

MA. 曲の傾向は?

Nakao. 夏向きに〝ノリ”のよい曲を選ん であります。ステージも夏を意識し て派手めかな。

MA. ステージの構成は?

Nakao. 三部構成。第一部がスタンダード ・ナンバー、第二部はゲスト・コー ナー、第三部で僕のオリジナル曲集 というふうになってるから、しっと りと歌い上げたあと楽しく小粋にゲ ストと語り合い、オリジナル曲でし めるかたち。 スタンダード・ナンバーは「追憶」 「インポッシブル・ドリーム」「フラ イ・ミー・トゥ・ザ・ムーン」「幸せ の黄色いリボン」なんかをね。 第二部は、これ見てからのお楽し みなんですけど、すごくかわいいゲ ストを予定しているの。とってもス テキで粋で楽しい趣向なんだけど、 当日までナイショ。

MA. 構成における苦心点は?

Nakao. コンサートではいつもそう なんだけど、毎回が、自分に とっても聞きに来てくれる人 にとっても、常にファースト・ コンサートでありたいと思っ てる。それから、曲と想い出 って一体化してオーバーラップする ことが多いでしょ。あの曲が流行っ た時、自分はこんなことしてたっけ ってね、アレ。僕の音楽を聞いてく れた人の、そういう想い出になると いいなって思う。

Q&A 槽樂·衣裝...etc

MA. 聴衆の層は?

Nakao. 僕の場合は18歳前後の女の 子が多いんだけど、アニメの 声優としての僕を知っている 層だけじゃなく、ごく普通の 人たちにも来てもらいたいなって、 構成などもそうした人たちが違和感 を感じないように工夫してあるんで す。開演時間も、これまでは午後12 時と3時からでしたが、今回は午後 3時と6時30分からにしたし。

MA. 衣装はどんなものを?

Nakao. ステージの前半は黒でシックに、 後半は白でギンギンに迫るつもり。

MA. 自分で注意すべき点は?

Nakao. 僕の歌を聞きに来てくれる人たち ってとてもいい人たちで、会場に入 る前から、もう雰囲気ができあがっ ているのね。で、とってもイントロ がスムーズに入って いけるんだけど、そ れに甘えないように しなくちゃ。

MA. ツアーの楽しみを一言。

Nakao. 僕、食い道楽だか ら。その地方ごとで、 いろいろなものを食 べられるのがスゴク 楽しみ。食いまくり ます。

目指すは、F・シナトラ、P・コモ

中尾隆聖のレコード・デビューは 昨年8月。「オレンジ色の夢」(キング ・レコード)というシングル盤。お りからの声優人気に、レコード会社 がのったかたち。同年9月には初の アルバム「NOW AND FORE EVER」を出した。そしてこの6 24日は、二枚目のアルバム「TA KE OFF LIVE」を出している。 「ベスト10」「紅白」に出たい!

彼の場合は、ただそこにある、与 えられた歌を歌うのではなく、分 作詞作曲したものにかなりのウェ イトをおいている。いわゆるシンガ ーソングライターというわけだが・・・。 「シンガーソングライターって線で ガンバってはいるけど、なかなかね。 僕は詞が苦手なんですよ」と、あっ けなく手のうちを 披露。 「曲だって作るの に苦労してるんで すよ。なにせ、僕 はストックがきか ない。その都度ご とに作曲するわけ で、それぞれの言 葉にピタッとくる 音のフレーズを見 付けるのに、テー プを一時間はまわ してますからね。 作りながらいつも、 もしできなかった らどうしようって 感じだもの」。 もしできなかっ たらという強迫観念におそわれなが ら、テレコの前でひたすら音を口ず さむ......。それも夏などは部屋をし めきりパンツ一つで、暑さの汗と恐 迫観念の冷や汗にグショグショにな りながら......。ああ~~~。 「とてもシンガーソングライターな んて、カッコいい図じゃないでしょう」 かくして文字通り汗まみれで作っ た曲は編曲され、完成の運びとなる。 「これがすごく楽しみでね。僕が作 った曲はすっ裸の状態でしょ。それ が編曲という作業で洋服を着るわけ だからできるまではタキシードか な、ジーパンかなってかんじで」 そんなだから、初めてのレコード ができあがった時はうれしくてなら なかった。 「もう、枕もとにおいて寝たくらい うれしかった。カミさんと二人でレ コードにそーっと針を落とした時の 感激は忘れられないですね」 そして今、彼、中尾隆聖にとって 歌は声優人気にのった片手間仕事で はあり得ない。 「だって友達に歌手 もいるし、その本職 の人たちに対して、 悪いもの。やる以上 は本物を目指します」 近頃は人気者がすぐ歌を吹き込み、 本人も周囲もちょいとしたシャレで すませる風潮があるが、彼にはとて もそうはできない。冗談でレコード を出したとは、言いたくないのだ。 「歌う以上は歌手ですよ。歌ってる 時は俳優でもないし、声優でもない。 歌手の中尾隆聖です。だからテレビ の”ベスト10"にも出たいし、〝紅白 歌合戦”にだって出たい。そのくら いの情熱でやってます」 "紅白"なんぞが飛び出して、ええ ってかんじ(世代がワカル~) だが、でも彼の言いたいことはよく わかる。とてつもなく真面目で前向 きの人なのだ。

アニメ・ブームで、歌手に変身!

中尾隆聖が音楽活動と呼べること をした最初は、学生時代。バンドを 組んで、演奏のアルバイトをしてい た。卒業後、スナック「骨と皮」を 開業。なんだかひどくうらぶれた名 前だが、経営状態もその名の通り。 弾き語りの人を雇う余裕もない。で、 オーナーの彼みずからがギターを抱 え、学生時代の経験を活かして、ム ードたっぷりに歌っていた。 もとも と彼は、フランク・シナトラ、サミ ー・デイビス・Jr、ペリー・コモ といったスタンダードの大御所たち が好み。主に彼らのスタンダード・ ナンバーをじっくりと歌い上げてい たのだ。 「彼らって、スゴイでしょ。一番安 い、柱のかげみたいな席で聞いてて も、あっ、アイツは俺のために歌っ てるんだ、俺に歌いかけてるんだっ てかんじになるんですよね。ホント、 あれこそエンターティナーだと思う なあ。ああいうふうになりたい。あ こがれますよ」 しかし、その店は四年ほどでつぶ してしまった。 「僕が歌手としてデビューできたの は、やっぱりアニメ・ブームのおか げなんですよね。でも、だから余計、 時流に乗った人気者がついでに歌っ てるっていうふうにはしたくないん です」 と、意気込みも盛んだ。

一人三役、クロスオーバー人間...!!

本人はすっかり歌手になりきって いるが、中尾隆聖のもともとの大も とは俳優、なにせ、四歳の時から子 役で活躍しているのだから.........。 本格的に役者の道を志す決心をした のは高校生の時。それ以来ドラマ専 門に活躍していたが、しだいに"声" の世界へ移行してきた。そして今度 は音楽。芝居の音楽を担当したり、 ラジオ・ドラマも手がけているのだ。 それでは本職は、というと「芝居 やってる時は俳優だし、アフレコや ってる時は声優。歌ってる時はもち ろん歌手です」ということになる。 彼はそれぞれの世界で、いったい 何を志向しているのだろうか。 「俳優でも、声優でも、また歌手で も、そのそれぞれの世界で、自分の 世界というものを、もっともっと作 っていきたい。自分の内面を出して いきたいんです。いろいろやってて 八方破れ的だけど、八方破れていい と思ってます。今だからできると思 うから。昔は、はやく30歳になりたか った。30になれば何でもできるって そんな気がして。でも、30になった 今、それほどのことはできないよう な気がしてて、40になればできるっ て思いこんでる。40になったらなっ たでまた、50になったらって思うの かなあ」と独白する。

多趣味多才でも、メカには弱い

こんなクロスオーバーな人間の趣 味は、やっぱり多才。スポーツが好 きで、乗馬、スキー、ゴルフ、スキ ン・ダイビングと、いろいろこなす。 なかでもスキン・ダイビングは8年 のキャリアを持ち、夏場は暇を見つ けては伊豆方面へ潜りに行く。休み がとれた時は、もっぱら沖縄の友人 のもとへ。海の美しさが、東京近郊 とは比較にならないとか。 ふるっているのは週一回、欠かさ ず通うアスレチック。 その理由がな んと、太るため、というのだから。 年ほど続けて、48kgの体重を51 kgにしたと大喜び。 一方、彼の苦手はメカ。機械方面 はとにかくダメで天敵もの。 「スイッチをおして電気がつかなき や電気屋さ~ん。車も、いっぱし にボンネットなんかあけてはみるけ ど、何が何だかまるでワカンナイ。 カメラにしても、バカチョンだって、 僕にかかればブレをおこすんだから とにかくもうだめ。こればかりはウ チじゃカミさんの方が強くて、もう 全面的にオマカセしてます」という のだから。 さて、コンサート後、今年後半の 予定は芝居。「中尾隆聖120分」 銘打った独演や、バラ座への客演が 決まっているが、目下は歌手・中尾 隆聖として、コンサートに向けてエ ンジン全開中。

We're Anime People: Keizo Shimizu

バイトから入って現在にいたりますが、 やはり、目標は時代劇のアニメです!!

大学受験のころに見た「千夜一夜物 語」で、アニメ関係の道への予感がし ましたね、今から思えば・・・・。 日大在 学中はマジック研究会に入ってまして、 ピンポン玉やカードのマジックを覚え ました。 今でもたまにやりますよ!!! そのころかなあ、学生部の前に "アー ト・フレッシュ”というスタジオがア ニメーターのバイトを募集していまし て、そこで「あしたのジョー」「タイガ ーマスク」「アタック」を、そして、 次に行った”スタジオテイク”などで、 動画をやっていました。 その後、"ア クト〟で「ど根性ガエル」「空手バカ一 代」「ジャングル黒べえ」「てんとう虫の うた」をやりながら2年ぐらいたった 時、フラッとアニメから離れたんです よね。そして、2年あまりフリーでイ ラストをやったり、似顔絵を描いたり、 劇画を描いたりしまして、その時にあ るマンガ家に出会ったんです。 似顔絵を描き歩いた時期が、絵の修業 はもちろん、僕自身を育ててくれた!!! そのマンガ家と二人で、日本中を似 顔絵を描きながら転々と歩きましたね。 その人の地道な人生観や、物や状況の 観察力にだいぶん影響を受けました。 そして、今の“マジックバス”の出崎 さんと出会ったんです。 出崎さんがそ の時出たばかりの「フランク=フラゼ ッタ」の第2集か第3集を持ってまし て、趣味の話に花が咲き、アメコミや 劇画の好きなことまでいっしょだった んですね!!!! マジックバス"でやった 「新・エースをねらえ!」 や 「マリン エクスプレス」で実地取材の楽しさを 実感しましてね、横浜まで取材して効 果にこったのを覚えてます。

September

We're Anime People: Chūichi Iguchi

「みなしごハッチ」に出会うまで は、アニメは身近じゃなかった!!! 何といっても、アニメに入るきっか けとなったことといえば、「みなしごハ ッチ」を見た瞬間からですね。 もともとは、マンガが好きだったん ですよね。子供のころからマンガはよ く見たという記憶はありますね。でも、 ぼくの子供のころは、まだアニメもブ ームどころか、話題にもあまりのぼら ない時じゃなかったのかなあ。もっと もぼくの周辺だけだったのかもしれな いけれど。マンガが好きというのと、 アニメを見るってのは結びつかず、ア ニメは見ませんでした。ぼくの世代で、 よく子供のころ見たアニメ作品の筆頭 にあがるディズニーも、見ることは見 たけれど、そんなに印象に残らなかっ たようですね。ピタッとこなかったと いうか。 マンガでは「まぼろし探偵」「月光仮 「面」が好きな作品で、今でも、なんとな 空間がスカッと空いているあの独特 の雰囲気が、なんとなくぼくの脳裏に こびりついてましてね。必要に迫られ てイメージを考える度に、今でも! つの世界が浮かぶんだけど、どうもこ の「まぼろし探偵」「月光仮面」の空間 が湧きおこってくるんだと思えますね。 高校卒業後、2年ばかり設計関係の サラリーマン生活をしました。そのこ ろから、自分なりに本気になってマン ガを描きためていましてね。それでも、 マンガとアニメはまだ意識の中で重な らなかったですね。 そして、まあ偶然というか、何の気 なしに「みなしごハッチ」を見たわけ で、10年ぐらい前にあたりますよね。 それで、その画面にがぜん引き付けら れてしまったんです。それであんな作 品を描いてみたいなって思って、タツ ノコの笹川さんに手紙を出しました。 それで、会いに行ってタツノコに 入ることになって、アニメの世界 に踏み込んだわけですね。 「まぼろし探偵」は今でも頭 の中にこびりついている作品 タツノコには6年半ぐらいいた のかな。現在はフリーです。もう フリーになって4年目になります ね。フリーになって劇場用の「銀 「河鉄道999」に関係して、りん たろうさん、そして、小松原一男さ んと一緒に仕事をした時は、ずい ぶんと勉強になりましたね。あの 時は蒸気機関車の車輪の動きを担 当しましてね。その車輪の動きを 理解するために、D5なんかの写 真を買ったり、見学にも行き、 カ月ぐらいかけたのかな。あの時 は、いろんなことを発見したころ ですね。 これからの希望を考えると、フ リーになりたてのころ、何人か集 まってグループを組んだんですけ れど、何となくうまくいかなくな って1年ぐらいで解散してしまい ましてね。今は家で仕事をしてい るけど、やっぱり仕事場が欲しい から、グループ活動をもう一度試 みたいと思ってます。 現在は「ゴールドライタン」 本 に仕事をしぼってます。いろいろ 数をかけるよりも1本にしぼった ほうが性に合ってるみたいですね。 アニメで一人のヒーロー物、人間 のね、ヒーロー物をやりたいと思 ってます。あとは、なるたけ時間 をあけて、すきな野球をやりたい ですね。

Katsuji Mori Feature

森功至は田中深雪、田中雪弥、森 功至と、これまで三度も芸名を変え ている。彼の人生もまた、それと同 じように幾度か変わった。 田中深雪(本名)は昭和二十年七 月十日、中国浙江省で生まれた。 太 平洋戦争が終結を迎える一ヵ月ほど 前のことである。 彼の乳児時代は中国大陸の漂泊の 旅であった。父の手に抱かれ、また、 母の背にくくりつけられ、荒漠たる 大陸を南へ東へと歩きつづけ、海を 渡り、二歳の夏、やっと初めて見る 故国日本の土を踏むことができた。 東京は一面焼け野原、あちこちに 赤く焼けただれたトタン板で囲った バラックが建っていた。日本橋のビ ルの谷間に建てられた僅か一間の掘 っ立て小屋が、彼の日本での初めて の我が家となった。 ボロボロの畳の上に転がされたい くつかの風呂敷包みと、何枚かの軍 隊毛布、それが田中家の全財産であ った。 父は建築関係の仕事を見つけ、懸 命に働き、やがて、一家は東京・大塚 仲町の焼け残った土蔵を買いとり、 移り住むことができた。 雨が降っても雨もりがしない、ぬ れずに寝られる。それが一家にとっ ては夢のような喜びに感じられたも のだ。 家財も増えた。ラジオも買えた。 日本国民が総貧乏時代、楽しみとい えばラジオから流れてくる音楽やド ラマを聴くことぐらい。深雪少年も また、少年時代の毎日をやっと聞こ えるラジオに耳を押しつけ、音楽や ドラマを楽しんだ。 昭和三十年、ニッポン放送から子 供向けの連続ドラマ「少年探偵団」 が放送を開始。たちまち夢多き少年 たちの心をゆさぶり、爆発的な反響 を呼んだ。 明智小五郎や小林少年たちの活躍 ぶりに、彼も胸をワクワクさせ、ラジ オにかじりついて聴いた。その時、 明智小五郎は勝田久が演じていた。 「いつか、ボクもラジオドラマの主 役をやるゾッ!」そんな思いが彼 の体内を駆けめぐり、布団に入って も寝つかれない夜もあった。 そんなある日、「少年猿飛佐助」と いう新番組を開始するに当たって、 主役を演ずる少年を一般募集すると いうことを、彼はラジオで聞いた。 彼は小躍りして喜んだ。早速応募 の手紙を出すと、もうその日から佐 助になった気分で、庭の木によじ登 ったり、また、家ではかもいにぶら下 がったり、タンスの上から飛び降り たりして、忍者になりきっていた。 だが、彼の夢は打ち砕かれた。面 接を知らせるハガキが、その面接日 の翌日に届いたのだ。 ・・・彼はもう 狂わんばかりに泣き叫び、家中を転 げまわり、母を手こずらせた。 やさしい母は彼のそんな姿を見て、 新聞広告に出ていた児童劇団にそっ 入団を申し込んでくれた。 入団と同じ時期、四年間続いた「少 年探偵団」が終わるに当たって、新 番組「宇 宙人類! バ」の主 役を演じ 少年を ちょうど 探してい た。 彼はオ ーディションを受け、幸運にもその 少年役をつかみ、少年スター田中深 雪の誕生となった。念願のラジオド ラマの主役が、こんなにも早く手に 入れられようとは......。 毎日毎日が夢のようであった。 かし、第一回放送の翌日の新聞に書 かれた批評は、「セリフは棒読み…………」 彼はものすごいショックを受けた。 その新聞の切り抜きを、彼はその後 も大切に保存し、おごる心のいまし めとしていたということである。こ の厳しい批評が彼の向上心をかきた て、はげみになったという。 その後、「テキサス快男児」「ジェロ ニモ太郎の冒険」のラジオドラマに 出演、テレビ映画 「快傑ハリマオ」 でも活躍した。 昭和三十七年には外国テレビ映画 「ビーバーちゃん」の主役となり、 アフレコをはじめてやる。また、NH Kテレビ初の 連続帯ドラマ 「黒百合城の 兄弟」で少年 剣士の役に決 まり、長身童 顔の美剣士姿 でブラウン管 颯爽と登場。 当時の少年少女ファンの憧れの的と なった。また、「みゆきという女性が 男役を演じているのか?」という問 い合わせの手紙がNHKに届いたほ ど、みごとなボーイソプラノであり、 美少年ぶりであった。そこで、芸名も 男らしく田中雪弥と改めた。 彼にとってまさに栄光の一時期で あった。が、テレビの世界、芸能の 世界は、栄光と移り気の二面を背中合 わせに持った世界である。この二つの 番組が終了すると同時に、栄光は夢幻 のごとく露と消え、気がついた時には 何の仕事もなくなっていた。 仕事の忙しい中に高校を中退して しまったことが、今更のごとく悔やま れた。高校中退の学歴では、まともな 就職口があろうはずもなかった。 彼は退くもならず進むもならず、進 退きわまったかにみえた。しかし、運 命の女神も時には微笑んでくれるもの だ。所属事務所の俳協から、デスク勤 務についてみないかと、救いの手がの べられた。人気俳優から事務員へ。彼 は迷いに迷った。まだ若いし、野望も ある。未来の可能性にも挑戦してみたい。 彼は決断した。決断と同時に新しい 仕事に対する闘志も湧いてきた。「よし ツ、新しい人生に挑戦してみよう」 田中雪弥から再び本名の田中深雪に 逆もどり。過去の栄光をサラリと捨て 事務所に毎日出勤。所属俳優すべ てのスケジュールを掌握し、まめまめ しく面倒を見る。放送局からの出演交 渉をまとめるのも彼の仕事だ。 転身に懸命に努力する彼のけな気な 姿を見て、心うたれひそかな愛情を寄 せてくれる女優さんも現れた。 それから数年、デスク勤務もすっ かり板についたある日、突然耳より な情報がもたらされた。「ビーバーち ゃん」が再開されるというニュース だ。しかし、今度は放映局がTBS。 局が変わればキャスティングも変わ るというのが常識とされている。 彼 の身体の奥底からムラムラと役者の 魂がよみがえってきた。 「"ビーバーちゃん"を他人に渡せる か!」彼はTBSに駆けつけると、 せめてオーディションだけでも・・・・・・ と頼みこみ、なんとかオーディショ ンを受けさせてもらった。 やはり、“ビーバーちゃん"は、彼 のものであった。再び主役に決定。 新たな出発を機に、彼は芸名を森 功至と改めた。また、同時にかねて より好意を寄せてくれていた女優さ んと結婚した。まさに両手に花、人 生の春であった。運が開き始めると 仕事が続く。アニメの初仕事 「マッハ GO GO GO」がそれであった。 しかし、彼はつまずいた。どうして も絵と口が合わない。 彼は、「他人よ 余計努力しなくては!」と、ディ レクターに頼んで一人だけの前日リ ハーサルをやってもらい、汗で台本 がボロボロになるまで稽古した。 その努力が実ったのか、「サイボー グ009」で 主演し、さ さらに、後に忘 れることので きない作品と なった「科学」 忍者隊ガッチ ャマン」の主 人公、大鷲の 健を好演。こ うして、森功 至の名はアニ メの世界に定 着、ファンも できた。 昭和四十九 年九月、その 「ガッチャマ ン」がファン に惜しまれつ 放送を終了。 それと同時に またまた不遇 に見舞われた。 彼は再度失 業俳優の身に なってしまっ たのだ。彼自 身大鷲の健が 消えた時に、 く。 俳優森功至の生命も絶たれたと感じ たという。俳優稼業は浮き草のよう なもの、浮いては沈み、沈んでは浮 そして、潜在失業者は常時数千 人もいるという。 売れない役者でいつまでもこの世 界にしがみついているよりは、今の うちにスッパリ足を洗ってしまおう 決意、金融会社に就職を決めると、 サッサとサラリーマン生活に飛び込 んでしまった。 しかし、運命は皮肉、勤めた会社 がロッキード事件のあおりを食らっ あえなく倒産。たった三ヵ月で役 稼業に逆もどり。それから二、三 年、役者として鳴かず飛ばずの月日 が続く。 昭和五十二年十月、やっとアニメ の仕事「無敵超人ザンボット3」の 仕事にありつけたが、喜びもつかの 間、父がこの世を去り、それから二 週間もたたぬうちに、今度は彼が東 名高速道路で追突事故。九死に一生 を得たが一カ月の重傷。全く不運の 連続であった。 だが、禍福は糾える縄のごとし " とはよく言ったものだ、ちょうど一 年後、「科学忍者隊ガッチャマンⅡ」 が、ファンの要望に応えて始まるこ とになり、彼は大鷲の健で再びファ ンの前に登場、みんなを喜ばせた。 ちょうどこのころより、女子高校 生の間にアニメファンが急増、世に いうアニメブームの旋風が吹き荒れ 始めた。 声優のところにファンレターが殺 倒するようになったのもこのころか で、彼のやっている「ガッチャマン Ⅱ」の録音スタジオに女子学生が見 学に押し寄せ、仕事ができなくなる 騒ぎもあった。 「はいからさんが通る」「新エースをね らえ!」と、その後の快調な足どりは、 ファンの方が詳しい。

子役としてこの世界に入ってから二 十四年、山あり谷あり、いろいろなこ とがあった。俳優生活の上でも、私生 活の面でも。現在、彼は二度の結婚生活 にピリオドを打ち、今独り身となり、 これからの生き方について静かに考え ている。 俳優森功至はよく突っ走り、落ちこ み、迷う男だが、不死鳥のように甦る 男でもある。

October:

My Anime Life: Shotaro Ishinomori

25年間の画稿枚数7万枚 アニメ化されたセル原画枚数 250万枚。だから、我がアニメ ライフを語ってもらった・・・・・

「漫画描きの動機は、 自分たちの読む本 がなかったから..」
漫画家生活25周年
「四半世紀で一区切りと いう意味がありましてね、 それで昨年の十月三十一 日に祝っていただいた。 これまで夢中でやってき た。二十五年というとわりに長いん ですが、僕自身としてはあっという 間に過ぎた感じがするんですよ。 だから、これからの二十五年を、 "あっ、今日も一日が過ぎたな"とゆ っくり感じられるような、一年一年 にしてゆきたいなと、そういう気持 ちになったですね。なかな か思うとおりにはいかない でしょうけど、今後は作品 を選びながら、マイペース でこれからはやりたいなと いう感じをもったですね」 漫画との出会い 「自分 で描いたのは、自分で創っ 雑誌が最初だったと思いますよ。 とにかく終戦前後ですから、自分で です。それで、おやじの書棚から引 きだして、カントとかヘーゲルとか 小学校の頃に読んだんです。意味 なんかわからなくても、字をおぼえ て本が読みたかったし、自分たちの 読む本がないというので、姉と二人 で本をつくって、さし絵を描いたり、 漫画を描いたりしたんです。それが 漫画を描きはじめた動機ですね。 それと、漫画で読んだものとして は、戦前の『少年倶楽部』とか『幼 年倶楽部』とか、家にあったもので ね。『トラの子トラちゃん』とか、『の らくろ』とか、そういったものが漫 画とのいちばん最初の出会いじゃな なかったかと思いますよ」 同人誌づくり「東日本漫画研究 会をつくったのは、たしか小学二年 生の頃なんですよ。近所の子どもだ けを集めましてね、僕自身でつくっ 漫画雑誌の延長としてはじめたわ けです。しかし、急造の漫画マニア のもんだから、集めた子どもたちが なかなか描かないわけですよ。 これじゃしょうがないというんで、 その頃から『毎日小学生新聞』 に投 稿しまして、これが入選し投稿熱に 取り憑かれました。それで投稿雑誌 として知られていた『漫画少年』に も投稿しだしたんです。そういうこ から、東日本漫画研究会も会員を 集めようと、投稿欄みたいので募集 しまして・・・、それで後に有名になる 『墨汁一滴』という会誌がつく どに会員が集まったわけです。一 人くらい応募がありました。 その中から、とても恐れおおいこ とでしたけど選ばせていただいて、 それで赤塚不二夫)とか、長谷(邦 夫)とか、横田(徳男)とか、そう いう連中が入ってきたわけです。後 に貝塚ひろしさんとか梅田秀俊さん なんかも応募して落とされたと聞き、 ひじょうに恐縮しました」

「小説・映画作家が 第一志望で、漫画 作家は第二志望..」 ■デビュー 「(『二級天 使』が雑誌に載ること 自体、これで印刷されて 読んでもらえるというこ で、(連載開始も)ただ ただ嬉しいという感じで したね。まだ漫画家になるとは、あ まり思っていませんでした。ちょう どその頃(高校二年)は、他にやり たいことがあったわけですよ。小説 書いたり、映画をつくったりしたり というのが第一志望で、漫画は第二 志望だったわけで………。ですから、 これでとにかく東京に出るきっかけ ができたという程度のことしか考え ていなかったような気がします」 手塚治虫からの招待 「(『漫画少 年』から)依頼のある半年ぐらい前 じゃないですか、手伝いに呼ばれた のは。僕は(手塚先生の)大ファン でしたから、大変すばらしいことだ と、すぐ上京したわけです。後に漫 画家として上京したときの緊張感と ちがって、有名な漫画家に呼ばれた という感動で胸がいっぱいでした ね」 姉が第一の読者「(上京して二年 目に)たまたま郷里から上京してき ていた姉が、(映画に行って留守をし ていたときに)死んでしまったので す。それが最大のショックでしたね。 僕自身は少女漫画"から入ったと いうこともありますけど、それまで 姉を読者にして描いていたんですよ。 姉が読んでくれるということを前提 にして漫画を描いていたものですか ら、読者を失ったような気がしまし てね。プライベートなことでいえば、 これがショックでした」 ライバル意識「(昭和三十一年か らの)トキワ荘時代は、いろんな仲 間ができて、無意識のうちに研鑽し あったというか、彼がああいうのを やっているのなら、俺はこういうの をやってみようと、そういう無意識 のライバル意識が育ち、それが大変 役に立ったなあと、今でも思ってい るわけです。その後、今日までつき あっていられるというのは、それだ けすばらしい仲間が集まっていたと いうことでしょうね」 はじめての海外旅行 「トキワ荘 から出る半年くらい前 (二十三歳の とき)、三ヵ月ほど世界一周旅行にで かけました。当時は自由化の前でし たから、まだ面倒くさい手続きを要 しましたし、お金もかかったんです けど、思いきって行って視野が広が ったというか、よかったですよ。 この旅行をきっかけにして、それ まで姉一人を読者に、いいかえれば わりとマイナー志向でやっていた仕 事をパーッと切りかえたわけです。 エンターテインメントといいますか、 それに徹底してみようと思って描き はじめたのが『サイボーグ009』 です」 ペンネーム「(赤塚不二夫と組ん だ) 石塚不二太郎というのや、(それ 水野英子も加わった) Uマイアー があります。僕自身は、いずみあす という名前で、これは『幻魔大戦』 なんかで使いました。それから、 江子というのもあります。この名前 少女漫画を一本だけ描いたことが ありますね。ほかにもS イシュメ ル トーマス・ショウなど 石森" や章太郎"をもじり、片仮名にし たのもありますよ。 ところで、いろいろペンネームを 変えたのは、これによって画風も変 えたかったんですよ。僕はね、いろ んなジャンルを描けないと漫画家で はないと思っていたし、いろんなジ ャンルのものを描くには、いろんな 画風があっていいと考えていたわけ です。つまり、名前を変えることで、 画風も変わるのではないかという期 待感があった。でも、なかなか変え られませんでしたよ」 尊敬する二先輩 「漫画家に限ら ず、絵描きには若年描き、中年描き、 老年描きみたいなことがありまして ね。いずれにしても若いエネルギー がないと駄目なんです。自分でそれ がなくなったと思ったときに、潔 筆を折ったほうがよいと、僕は 思うんです。日本人的感覚からいえ ばね。僕自身もそれに惹かれるもの があるわけですよ。 そういう意味じゃ、手塚さんとい うのは年をとっても年齢を感じさせ ない若さがあるでしょ。そういう若 さというのはピカソだって同じでね、 モノ描きには必要だと思うんです。 ただ僕らにはそれがないんであって ね。そのない部分が手塚さんにはあ る…それがすばらしいと思うわけで すよ。 寺田ヒロオ)さんの場合は、 本人的潔さ。僕は心情的にはよく わかります。そういうことで、お 二人は傑出した先輩だと思うんです けどね」

「喫茶店でのアイデア 練りは、トキワ荘 時代からの習い..」

影響を受けた映画 「最初に観た映画という のは記憶が定かでないん ですけど。多分、家で連 れて行ってもらって観た 時代劇かなんかだと思う んです。 れから、当時、学校の校 庭なんかで観せてくれたソビエトの 漫画映画なども記憶に残っています ね。鮮明に焼きついているのが、ジ ュリアン・デヴィヴィエが監督した 『巨人ゴーレム』です。監督の名は 後で知ったのですが、土の人形が大 きくなって逃げだすなんて、強烈な 印象でしたよ。 漫画を描きたいというよりも映画 をつくりたいという気持ちで観たも のです。ディズニーの『白雪姫』、『フ ァンタジア』、キャロル・リードの『第 三の男』、黒沢明の『七人の侍』など には、すごく影響を受けたと思いま すね」 読書歴 「夏目漱石のものに影響 を受けたと思います。さっきもいっ カントやヘーゲルも、ただむずか しいという印象が残っているだけで、 内容は全然わからなかった。しかし、 いろんな感じで印象に残っていると いうことで影響は受けているんでし ょう。田山花袋なんかも全部読んだ ものです。 それと並行して自分でもわかるは じめての書物に出会ったのが海野十 三の『火星兵団』ですよ。あの当時 は戦後まもなくで”兵団"という字 がまだ使えなかった。それで『火星 魔団』というタイトルで出ていた。 現在は多読、乱読ですが、いちばん ミステリーが多いんじゃな いでしょうか。SFは最近 あんまりおもしろいと思わ ないんで、それほど読まな くなりました」 愛用の文具類 「ずいぶ ん長い間使っているものに ペンがありますけどね。そ のペンの中で、短くてポンと押す 飛びだす仕掛けになっているやつ、 今ではないんじゃないですか。それ をずいぶん長いこと愛用しています。 あと、本なんか大事にしていますよ。 ナポレオン時代の週刊誌とか......。 ただモノにあまり執着しないほうな ので、これが愛蔵品というようなも のはありませんね。 それよりも、かつて僕はわりと恥 ずかしがり屋で、他人としゃべるの が得意じゃなかった。そういう意味 では、道具や筆記具を愛用するとい う気持ちよりは、友だちを大事にす 大切にしたいという気持ちのほ うが強くありますよ」 アイデアの源泉 「アイデアが湧 いてくる前の蓄積みたいなものが必 ずあるわけです。雑録めいた知識 の断片が、いろんなつながりかたを して、いろいろなアイデアに変化し ていくんですね。しかも、つながり かたにはいろいろなバリエーション あります。それをタテにしたり、 ヨコにしたりと変えながら、あとは 頭の中にあるいろんながらくたの知 識を組みあわせてゆく。人とつきあ ったり、本を読む、映画を観る、旅 行する、そういったものがすべて役 に立っているわけです。それをつな ぎあわせてゆくのが、その人の才能 だと思うんですよね。もちろん、才 能はあるなしという問題ではなく、 ふつう考えるときは、そういう風に なると思うんです」 実作まで1 「あと僕の場合はコ ・ヒーと雑音でしょうね。音楽なん かも含めて....そういったものがき っかけになってアイデアに結びつい てゆく。 ここ(喫茶店ラタン)は、もう二 十年来使っていますが、こうした喫 茶店でアイデアを練るようになった のは、否応なしにトキワ荘時代から の習慣なんですよ。あの頃はクーラ もなかったし、扇風機も買えなか ったし、暑くなると喫茶店へ行って やらざるを得なかった。それがむし 習い性になって……………。 一時、〝なが 族〟というのが流行ったんですけ ど、僕らはそのハ じゃないかと 思いますね」 実作まで2 「それと僕はわりと 切り替えが早いんですよ。机の上か パッと離れたら、仕事のことはす っかり忘れちゃうんですよ。ですか モヤモヤの状態というのがまった 暑くないんです。原稿用紙が前にあっ てはじめて仕事をするという気分 になるんです。 よくアイデアは歩きながらとか、 トイレに入ってというように、いろ んなことをいう人がいますね。僕は 白紙の上じゃないとアイデアが浮か ばないんです。とにかく平面でもい いし、白い空間を見ないと。何もな いという状態が大切ですね。

「仕事が趣味だから、 作品が変われば、 それが気分転換...」

好みのジャンル 「勝 手に描きなさいといわれ たら、実験作みたいのが 必ず出てくるでしょうね。 それと、マイナー読者相 手の仕事になってくると 思います。だから、それをできるだ け抑えるようにしています。 つまり、僕の漫画家としての信条 の中には、漫画というのはあくまで も”おやつ”だという観念があるわ けです。シビアな生活の中でフッと 息を抜けるオアシスでありたいと思 うわけです。ですから、楽しく、わ かりやすく、おもしろくというとこ ろに、創作のポイントをおいて描か なければならないと思うし、また、 みんなに読んでもらいたいから描く んですよ。あくまでマイナーになっ ちゃいかんという、自分を抑える気 持ちが強く働いていますね」 実験作としての「ジュン」「ただ、 その反面で完結的な実験作を、僕は 絶対に欠かしてはいません。そして、 これは使えるなと思うものをピック アップするようにしていますけども ね。本当はSFの地味なやつを描い てみたいとか、そういう欲求はある んです。まっ、現在は、それも読ま せるため、読んでいただくために描 いている。そういう意識でつくって いますね」 スランプ 「まったく”創る"と いう行為に関しては変わらないです ね。スランプというのは、いくら考 えてもアイデアが浮かんでこない状 態が続くことをいうわけで、そうい う意味ではスランプというものがな かった。さっきいった世界 旅行も、それまでの考えか を切り替えるためのもの で、当時、アイデアが出て こなかったわけではなく、 手に余る仕事を外遊先にま で持っていったくらいなん ですよ。その後もスランプ は感じませんね」 気分転換 「僕は自分をいじめた 仕事をしてはいないという感じがあ るわけです。それと、自分が興味を もつジャンルの多さもありますね。 だから、作品が変われば、その時点 で気分転換ができているんですよ。 仕事が趣味みたいなものだから、他 に趣味を持たなくてもいいみたいで すし、気分転換は新しい作品にかか ればすむことです」 変身願望 「僕自身はね、最初に 描いたSFものはエスパーものが多 いんですよ。それは自分の非力さに 対してイライラして、もっと力があ れば、こういうとき、こういうこと ができるのに......〟という願望が そのまま僕の漫画になったんです。 もうひとつは、時間のなさ・・・もっ 時間があれば、 もっと作品ができ るのにという状態が二十数年続いて いるわけですよ。そこから逃れたい というのが底にあるかもしれない。 いわゆる"変身ブーム”は、意識し てつくったわけじゃないんですよ」 ヒー・ロー観 「今は自分の好みの 人物をヒーローに仕立てているみた いなところがありますが、むかしは 美男で、力が強くて、人に愛される 男なり女なり、ほりがヒーローだという気 持ちをもっていました。だんだん美 男でないまでも、人間的に魅力的で ある そういったものを描こうと 努力してはいますが、ヒーロー像っ ていうのは変わらないんじゃないか っていう気も一面ではします。 読者 にとっては、自分にない部分を小説 なり漫画なりに求めてみるんじゃな いですかね」

「アニメらしいアニメ 作品がないのが、 原作者として不..」

愛着のあるアニメ作品 「できがよかったという 点では『星の子チョビン』 でしょうね。『佐武と市 物控』も、石森プロとし ては最初のモノクロもの で、なおかつおとなものとしてつく りましたからね、ひじょうに密度の 高い作品になったと思うん ですよ。それから『空飛ぶ ゆうれい船』。これもSFア ニメのはしりというべきも ので、あの頃のものとして はひじょうに夢もあり、で きがよかったと思います。 ディズニーと比較したら”な あんだ"という感じでした が、今のアニメーションと 比較すると、ひじょうに緻 密につくってあったんじゃ ないかな」 影響を受けた外国アニメ 「いち ばん感受性の強い中学生のときに観 たということで、やっぱりディズニ ーの諸作品、特に『白雪姫』と『ピ ノキオ』にはひじょうに強い影響を 受けました。それから、これがアニ メーションと思ったのは『ファンタ ジア』、今でもアニメーションの最高 傑作という気がしますけど。 フランスの『やぶにらみの暴君』。 これも、アニメーションでここまで できるのかというくらいキャラクタ の表情が生きていた。文芸映画み たいな香りが濃厚にあり、〝あっ、こ ういうのを創ってみたいな”と思う ほど魅きつけられました。 ところが、最近はアニメーション らしいアニメーションがな いような気がしますね。と いうのは、アニメじゃなき できない世界があるはず なんですが、そこを外して、 むしろ『未知との遭遇』と 『スターウォーズ』のよ うに、かつてはアニメでや ったことを、今は特撮でやってしま うでしょ。だから、アニメはアニメ 独特のジャンルを切り拓かなければ いけないんじゃないかという気がす るんですよ」 六〇~七〇点 「僕のモノはアニ メにしにくいみたいですね。原作者 としては、キャラクターがひじょう にポコポコ変わっちゃうので不満に 思っています。だから、僕自身がも っと突っこんで演出までやらないと、 本当に気に入ったものは創れないと つくづく思いますよ。だから、これ までの作品は単に原作を渡しただけ で、出来としては六〇点から七〇点 しかあげられないという感じですね」 アニメブーム 「アニメーション に強く影響されてこの世界に入った ようなものですから、現在のブーム は大変結構だと思っています。ただ、 ごぞんじのように、アニメづくりは 大変手間暇がかかるものです。それ を最近はぶっ飛ばしながらつくって いる状態でしょ。それだけにキャラ クターへの依存度が高いんですね。 むかし、僕らはマクラレンの実験 アニメーションなんかに夢中になっ たものです。動きのおもしろさから 入っていったわけですね。こうした アニメーションの本当のおもしろさ を、アニメブームに乗っかっている 若い子たちは、まだ知らないはずな んです。キャラクターものでも、そ ういうおもしろさがミックスされた すばらしい作品をもっと観せてやり たいなという気がしますね」 現状への不満 「だから、僕自身 の作品でもいいから、今、いったよ うな動きのおもしろさと、自分があ ある程度までつくるということですね。 そうしないと、永遠に不満が残るん じゃないかな。 たとえば、昨年の『サイボーグ0 09』(超銀河伝説) にしても、こち らがこうしたいというのに、“宇宙も の"が受けているからと、どんどん 変わっていくわけ。原作者はそれ以 上いえないし、あとは演出家の腕次 第になっていくということで、特に 劇場用の作品なんかには不満が残る んですよ」 愛のテーマ 「ひとつの隠れミノ としては使ってるようですね。それ だけ世の中が平和で、愛を唱えてい れば、戦争でもなんでも美化されて しまう。本当の愛が何なのか、僕も 二十数年間、テーマとして愛を描い てきたんだけど、それが今さら”描 二十数年間 テーマとして愛を描 いてきた"なんていえなくなってき たわけ......」

「もし新しい事業を やるとすれば、や っぱりモノ創り・・・」

職業 「漫画家以外の 仕事をやったことがない。 そのへんが僕の弱点でも あるし、ひじょうにコン プレックスを感じていま す。半村良さんみたいに、 いろんな職業を転々として、結果 としてああいう作品が生まれる。 僕はいろんな作品をつくっています けど、全部観念で描いているわけで、 何ひとつ自分の経験がない。そのへ んが自分でイライラする部分ですね」 趣味 「それだけに、自分の仕事 として、ちょっと苦しむことをやっ てみたいという気持ちが強いですよ。 第一志望の映画、小説のほうで苦し む時間、それをつくっていきたいな あと思っています。それがこれから 一生続くであろう趣味といえるかうか..。」 結婚 「結婚前も結婚後でも仕事 に対する考えかたは、まったく変わ っていません。大体、コンスタントに やってきましたよ。 結婚したあと、 僕の描く女性キャラクターは、女房 に似ているっていわれるんだけど、 ああいうキャラクターは結婚する前 から描いていましたからね。結論か らいえば、女房は僕の絵に似たのを 選んだということですよ」 事業「いちばんおもしろかった は"スタジオ"じゃないかな、 企業としてはね。ともかく零から始 まって零に終わった。その間、一時 は大企業にもなり、一〇〇人以上も 従業員がいましたから会社ごっ こも、最後には会社ごっこでなくな り、はらはらどきどきしましたよ。 仮の話ですが、もし、新 しい事業をやるとすれば、 やっぱりモノを創ること、 たとえば映画を創るための 独立プロダクションとか。 要するに、映画のフィルム カメラ機構が持っている ものをフルに活用したもの を創りたいと思ってい るんです」 嗜好あれこれ 「タ バコは一日に一〇〇本 ぐらい吸いますね。酒 はレミーマルタン(ブ ランデー)を一晩に一 本くらいあけちゃいま す。コーヒーはブラッ クで五杯以上というと ころかな」 食事 「食糧難時代 に育っていますから、 それが今の食習慣にな っています。だから、 食べものの好き嫌いは あまりありません。ど ちらかといえば、肉類が好きです。 果物も大好物のほう。食事回数は昼 夜の二回で、夜食はまったくとり ません」 一日のスケジュール 「午前四~ 五時に仕事を終えて、ビデオを一本 くらい観て、それから読書をし、寝 睡眠時間は五~六時間という ところ。昼には起きています。 そして午後一~五時くらいまで、 ここ(喫茶店ラタン)にいまして、 それから帰宅して絵入れをし、夕食 をとり、あと描いていますね。まっ、 一週間に二日間はテレビ関係の仕事 なんかがありますので外出にあてる …そんなことの繰り返しという ところですよ」 体調 「現在、どこも悪くないで すね。身長一六〇センチ、体重は六 五キロで、すこし太め。だから、五 キロほど減らしたいところ。実は、 この間、六二キロまで減量したんで すけど、みんなにやせすぎだといわ れまして、また太っちゃったんですよ」 スポーツ 「コンスタントにやっ は、 月に一~二回のゴルフ だけ。野球も時々はやりますが、運 動になるほどはしていません。それ 以外は何もやっていないですよ」 好きな言葉 「ひじょうに単純で すが、『石の上にも三年』。 ペンネーム が石森〟だから......。『待てば海路 の日和あり』じゃないけども、石の 上に三年の心境になって努力してい れば、必ず何かものになるものだし。 それで、いろいろな意味をこめて、 これを色紙に書いたりするんです よ」 最近の若者について「若者を批 判しはじめると、年をとった証拠だ といわれるし、僕はなるべく若い人 の考えかたを理解したいと思ってい るわけですがね。僕らも若いときは そうだったんでしょうけど、古いも 一所懸命壊して、それが新しい ものになって出てくる。 ところが、最近の若者 たちは壊したままで、 そのエネルギーを創造 的なものに結びつけな いという感が若干なき にしもあらずですね。 だから、最近問題に なっている校内暴力な んかも、一口で批判で きないんですよ。本当 はおとながもっと夢の ある生活をしなければ いけない気がするんで すけどもね。僕らの世 代まで夢を持っていら れる人は幸せなんです。 今の仕事を通じてなるべくそういう 人を増やしたいなという気持ちがあ りますね。

Stargraph: Yū Mizushima

僕の動機、不純なんです

幼い頃私、小坂恭子が夢見た職業は、獣医 さん、それに花屋さん(実に女の子らしい!)。 動機は? というと何の事はなくてただ単に いつも猫たちや動物たちに囲まれていたかっ たから獣医さんになりたいとか、いつも花の 中に埋もれていたいから花屋さんがいい、と いうきわめて単純な理由だった。けれど、な ぜか今、音楽道路を自然に歩み続けている。 なぜ音楽でなければならなかったのか。動機 は定かではないけれど、幼い頃、人前で歌う 必ず、お菓子の包みやお小遣いをもらえる ので、父の宴会席上には必ずくっついていっ たものだった。こういうのはやはり、不純な 「最初、妹がNHKの児童劇団にはいってい たんですよ。それで、僕の両親はあまり子供 たちの事をうるさく干渉しない人たちだった から、僕が妹の父兄がわりに劇団の催しもの、 例えば課外授業だとか、遠足だとか、全部つ いていってたのね。つまり、楽しい場面しか 見ていなくて、子供心に〝ああ、劇団って楽 しいんだな"そう思った訳。それに僕、小学 だけで6回も転校してるんですよね。だか 遊び友達もほしかったんです」と、彼流に言 えば、不純な動機で彼も劇団に入団した。 小学校時代から、進学のゼミに足しげく真 面目に通っていた動機も、可愛い女の子がた くさんいたからという、これまた素直という か、天真爛漫というか、結局不純な動機。 ロボット博士になりたかったという彼。幼 い頃は、きっと老成たガキ大将だったのでは ないだろうか。ふとその面影が、少し照れな がら話す横顔に、時折しのばれる。

弱者だからこそ、今日の日を爆走するんです。

彼とのインタビュー・テープを聞いて、ビッ クリした。テープから聞こえる彼の声。一瞬 西城秀樹かと思ったほど、甘くて少しハスキ ーな声。とにかく良く似ていた。 彼の声優としての初仕事は中学1年の時で、 ウォルトディズニーのアニメ映画「熊のプー 「さん」中のクリストファー・ロビンという少 年の役。彼は早くも中学時代からプロダクシ ョンに在籍し、声優を生活の一部として歩み 続けてきた。 彼は年少の頃から自分でも気付かないほど、 自然に自分の進むべき道を選んでいたといえ る。不純な動機で入ったとはいえ、演劇をお 休みしたのは、自活し始め、アルバイトに奔走 大学時代の後期くらいのもので、少々写 多いんじゃないかと思う。それは保障がある 訳でもないし、はっきりと形を残せるもので もない、つまり明日がどうなるか分からない、 とても不安定なんです。その中で仕事をやっ ている人って、よっぽど強いか弱いかのど ちらかだと思う。僕はどちらかというと後者 で、とても気が弱いんです。だから、その日 その時を突っ走るしかないんです」 彼はひどく言葉を大切に受け止める。あな たの夢は?という質問にも安易に答えたり はしない。 彼の恋も愛も夢も、すべて"仕事"、この言 葉に語り尽くされる。

老人になったら茶飲み友達になろうね といった若き侍

「恋人? いないんです。暇がないんです。 男の子としてみっともないと思いますけどね。 勿論、女の子大好きですよ。でも、昔と違っ 執着心がないし、昂揚が薄れてきてるみた い。今は仕事に対する昂揚の方が強いんですよ」 芝居とは自分が楽しんではいけない。どん なに悲しい場面でも100%泣いちゃいけない。 でなけりゃ大衆に伝わるものも伝わらないと 彼は言い切った。 役者にとっても歌手にとっても、一番幸せ なのは、お客が楽しめて自分も楽しめる事 水島裕は、芸人でいたいと言った。 「明日をもしれない貧しい役者が、血の出る おもいで芸を磨き、粗末な小屋で大衆に演じ て見せ、投げられたおひねり(お金)だけでそ の日の身をたてる。そんな芸人でいたい」 言った。そこに彼の演劇にかける凄まじいま での情熱を感じた。 「僕ね、頑固じじいになりそうだよ。恭子さ んも頑固婆さんになりそうだね。そうなった ら、茶飲み友だちでいようか。でもね、 事をしていたいんだよね。だって若者には若 者の、老人には老人の仕事があるでしょう。 まあそんな中でも、ゆっくりお茶飲むゆとり だけは持っていたいけどね」 とにかく、弾丸のように仕事に向かって疾 走してゆく彼。唯一の楽しみも、仕事だと言 った彼。 イヤイヤ、きっと仕事からも、そし 自分からさえも解き放たれて、ただぼんや りとやり過ごす時こそ、一番充実して楽しい 時なのだという事も、きっと彼は知っている にちがいない。 9月には「グリース」というミュージカル でがんばるんだ、と目を輝かせて話す彼は、 都会の中にザックリと切り込んでゆく侍のよ うに頼もしく、凜々しい勇者に見えた。

Shuichi Ikeda Feature

芸能界には、なぜか片親だけで育 ったという境遇の人が多い。 今日、少年少女のアイドルとして、 頼もしいお兄さんとして慕われてい 池田秀一も、小学校一年生の時か そんな家庭の子として育った。だ が、現在の彼からは、淋しさのカゲ は微塵も感じられない。彼に会った 人はだれもが、明るく快活、という 印象を受けるに違いない。 彼がそんな魅力ある青年へと成長 していったのは、陰に演劇の力、名 作の力があったからだといえるだろ う。 文豪の辛苦の労作の主人公を演 じているうちに、人生をたくましく 力強く生き抜いていくことを学びと っていったのかもしれない。

池田秀一、昭和二十四年十二月二 日、東京・中野で生まれた。彼が小 学校へ入学した年、両親は事情あっ 離婚、兄妹とともに母のもとで 育てられることになった。 父親がいないことは淋しいことに は違いなかったが、やさしい母もい たし、兄や妹もいて、家庭内は明る く、屈折したものは何もなかった。 小学校三年の時、活発でチャンバ ラ好きの秀一少年を見て、近所の人 児童劇団 こまどり"に紹介して くれた。お母さんは、彼の健やかな 成長のためには、そういう所に入っ て伸び伸びと明るく日々を過ごすこ とが一番いいのでは・・・・・・と考えて、 すんなりとそれを許してくれた。 そうした母の切なる願いもこめら れて入団した彼は、すぐにNHKラ ジオの「朝の口笛」「おはようトコち ゃん」などにレギュラー出演して、好 評を博した。 昭和三十八年、中学三年生の時に はフジテレビのドラマ「がしんたれ」 に主演、主人公の和吉を演じたが、 どんなにつらいことがあってもじっ 耐え忍ぶ、負けん気で不撓不屈の 精神を持った菊田一夫の少年時代を みごとに演じ、視聴者を泣かせたも のだ。 彼が入団したころのことをよく記 憶している劇団の先輩、声優の辻村 真人は当時を振り返り、「目立たない 静かな子だったが、当時の”こまど "の子たちは、抑えても飛び出し てしまう、しゃしゃり出る、といっ たエネルギーのあり余った活発な子 が多かっただけに、かえって、ふだ おとなしいのに、やらせれば必ず 期待に応えてやってくれたことが、 強く印象に残っている」と語る。 また、マネージャーとしてよく彼 を観察してきた薗部光伸は、「うまい 子役でしたね。いや、うまいという 表現は適切じゃない。与えられた役 の、その人物そのものになっちゃう んです。人間をつかんでしまうんで すね。物を見つめる目、人間を見つ める目が鋭くて、確かなんでしょう ね。あんな子役は、そうめったには 生まれてこないんじゃないですか」 と、彼の優れた観察力、洞察力、創 造性を高く買 っている。 テレビ主演 につづいて、 東映映画化 された山本有 三の原作、「路 傍の石」の主 役、吾一少年 に選ばれ、こ れもみごとに 演じ、 家城己 代治監督を驚 さらに、N HKテレビ「次郎物語」の主役次郎 これまた次郎少年の心をとらえ てみごとに演じ、二年間にわたり好 演した。 和吉も、吾一も、次郎も、それぞ 作者が心血を注いで創り上げた人 物、後に名作といわれる作品の登場 人物で、その人物像はみごとな筆致 描かれている。 彼は、その人物像を原作のとおり に、いや、その心をとらえて原作以 上に生き生きと創りあげた。それは 思わず目をみはらせるほどの人間創 造であった。 上手に演じようとしている風でも なく、その人物をとらえ、 スーッと、何の抵抗もな その人物になりきって しまう、という感じであ る。素直な心でものを見 つめる目を持っている人 間でなければできないこ とだ。 彼は家庭環境に左右さ れることなく、生まれた ままの、純粋な、素直な 心を持ちつづけて成長し ていったのだろう。

高校三年生になった時、 彼は悩んだ。「ぼくはドラマを理解し て演じているのではない。ただ、演出 者の言うとおりに演じているだけで はないか。このまま続けていたらダ 「メになる!」と。彼は演劇や映画 基礎から勉強しよう!と決意。 "こまどり"を退団、受験勉強一本に しぼり、目指す日大芸術学部映画科を 受験、みごとに合格した。 だが、彼の名子役としての評価はい つまでも制作スタッフの脳裏にとどめ られていて、大学へ入ってからも仕事 は追いかけてきた。テレビや映画の仕 事が後から後から飛び込んできた。彼 は悩む間もなく、子役から青年役の俳 優としてたくましく成長し、内面的演 技のできる数少ない若手俳優として歓 迎されるようになった。 そして、大学二年の時、もうこれ以上 は仕事と大学の両立はムリ、どちらか を選び、どちらかを捨てなければなら ないという状態にまでなった。男子一 生のこととして考えたら、やはり、何と してでも大学は卒業しておきたい。し かし、俳優の仕事も捨てたくはない。 彼は迷いに迷ったが、しかし、意外に 早く結論はでた。時あたかも日大は学 園紛争の渦中に巻き込まれ、学生スト が続き、学園封鎖となったのだ。彼は 迷うことなく大学を捨て、俳優修業に 専念した。 名作のドラマ化作品に多く起用され ていた彼だけに、その後、「氷点」「越前 竹人形」などの文芸路線のテレビドラ マへの出演がつづいた。 昭和五十二年、初めて外国映画の アテレコをやる。だが、やってみて 驚いた。いくらフィルムに合わせよ うと努力してみても、サッパリ画面 の口の動きとセリフが合っていかな い。「こりゃあ、大変な仕事だ。オレに はできっこない。もう、アテレコはい やだ。もう絶対にやるまい!」と心 に決めたが、その後すぐ、「ルーツ」 のクンタキンテの役が彼にまわっ てきた。 渡された台本を読んで彼は心を打 たれた。クンタキンテの心は「が しんたれ」の和吉の心であり、「路傍 の石」の吾一の心ではないか。彼の 役者としての魂がムラムラと騒ぎ出 し、燃焼し始め、断るどころか、い つになく燃えて、体ごとこの役にぶ つかっていった。 「ルーツ」は放映されるやたちまち 話題となり、クンタキンテの名は 大人から子供までが口にするように なって大ブームを呼び、高視聴率を 上げた。 彼の声優としての評価も確かな のとなり、NHKの外国テレビシ ーズ 「アトランティスから来た男 に主人公役でレギュラー出演した そして、「無敵剛人ダイターン3 で初めてアニメの仕事をすることに なった。小学校の先輩であった「ダ イターン3」の松浦ディレクターが、 熱心に出演を薦めてくれて、チャン スが得られたのである。 だが、やってみて、また彼はガック りした。人の演じる洋画とは違い、 アニメはやたらテンポが速い。気持 ちをこめてセリフを言おうと思うこ ろには、絵のキャラクターはしゃべ り終えて口をつぐんでいる。「やはり、 ぼくには声の仕事は向いていないの だろうか......。ぼくにはとてもでき ない......」と、あきらめかけた時、 またまた、松浦ディレクターから、次 のシリーズ作品のオーディションを 受けるようにとの連絡が入った。 重い足を引きずるようにして、オ ーディションのスタジオに出かけて いった。そこで見せられたフィルム は、「機動戦士ガンダム」であった。 彼は、主人公アムロの好敵手、シ ャア・アズナブルに……。この後の ことは読者諸君の方が詳しいに違い ない。 「ガンダム」は「ヤマト」「999」 を追いかけるようにして、人気作品 にのし上がった。

彼は今、シャア・アズナブルを演 ずる声優として、 突然、爆発的な人気 がまき起こったことに驚いている。 そして、彼は、「シャアにめぐり会えた ことは、ぼくにとって本当にラッキ なことであった。シャアはぼくに とって取りくみやすい役であったし、 やりがいもあった。ぼくはただシャ アの心をとらえて、シャアの絵にそ れを吹き込んでいっただけのこと。 シャアの爆発的人気は、すべてキャ ラ設定をした安彦良和さんへのもの。 ぼくはただ役者として演じただけに すぎない……………」と言う。 いかにも、好漢・池田秀一の言葉ら しい。彼は巷の人気にとらわれるこ となく、おのれの足もとをしっかり と見つめ、一歩一歩、俳優としての 確実な歩みを進めている。 めでたく結ばれた、同じ「ガンダム」 のマチルダ役の戸田恵子も、そんな彼 の姿を見て、頼もしく思い、生涯の伴 たらんと決意したのかもしれない。 (文中敬称略)

Anime Free Talk: Masaki Tsuji

Guests:

Haruka Takachiho
Masaki Tsuji

アニメの醍醐味は コンテ切り!

「クラッシャージョウ」でお馴染のSF 界の新星、高千穂氏が全国数千万SF アニメファンになりかわり、斯界の第一 人者に直撃インタビュー。 トップバッターは、郷里名古屋の大 先輩でもあるアニメ脚本の大御所中の 大御所、辻真先氏に御登場願った・・・!

時報から 芸術祭まで
アニメの醍醐味は コンテ切り!

「クラッシャージョウ」でお馴染のSF 界の新星、高千穂氏が全国数千万SF アニメファンになりかわり、斯界の第一 人者に直撃インタビュー。 トップバッターは、郷里名古屋の大 先輩でもあるアニメ脚本の大御所中の 大御所、辻真先氏に御登場願った・・・!

時報から 芸術祭まで


Takachiho. 辻さんはNHKへは正式 に入社なさったんですか?

Tsuji. ええ、名古屋の方から入った んですがね。2000人の中で4人 だけ合格というと、ものすごくカッ コイイんだけど、2000人中、テ レビをやりたいと言ったのは僕一人 で、フリーパス同然だったんです。

Takachiho. 名古屋というと、あのテ レビ塔の下で。

Tsuji. いや、あのころはまだ塔はな かった。柱が建ちだしたころじゃな いですか。昭和28年の秋のことです。 から。

Takachiho. そのころ、僕はまだ2歳 ですよ。

Tsuji. ほんと、そういうことになり ますか。 29年4月に、NHKの名古屋局が テレビ電波を流しだしたんです。

Takachiho. 民放は?

Tsuji. 日本テレビが東京にあるだけ でしたね。

Takachiho. の時期、うちにはもう テレビがあったんです。

Tsuji. はーっ、すごいですね。

Takachiho. 親父の話だと、ま、親父 の話は冗談が多いから信用できない かもしれないけど、27年に25万円で 買ったと......。

Tsuji. しかし、27年はまだ放送して ないんじゃないかな

Takachiho. ええ、だからイロハのイ の字が映ったなどと......。

Tsuji. ああ、それは映ったでしょう。

Takachiho. それはアメリカのMPが 買えといったもので、戸のついたア メリカ製でした。

Tsuji. なるほど、お仏壇みたいなね。

Takachiho. うちは洋服屋だったの で、よくGIが服を作りにきたん です。

Tsuji. 洋服屋さんてどのへん?

Takachiho. えーと、中区のど真ン中、 仲ノ町。 グリーンビルってご存知ですか、 東宝のむかいにあった。あのグリー ンビルの横です。

Tsuji. ほう、いい所ですね。名古屋 の目抜き通りじゃないですか。

Takachiho. ええ。 で、NHKに入社されて......。

Tsuji. なんでもかんでも、それこそ 時報から芸術祭まで手がけました。

Takachiho. 名古屋局の制作ってあっ たんですか?

Tsuji. いや、まだ無いんです。素人 のあさはかさで、名古屋で入社した からてっきり名古屋にいられると思 ったら、実はこっちではまだ作っと らんから、おまえ東京へ行けって。 半日で転勤。

Takachiho. それは大学を出られてす ぐですね。役職はなんだったのです か。

Tsuji. えーと、芸能局の……、はて 下はなんだろうな。なにもなかった ですよ。

Takachiho. ディレクターとか?

Tsuji. ディレクターって、まだ存在 しないんですよ。プロデューサーと いうものがありました。

Takachiho. NHKをやめたのは?

Tsuji. 3年の8月ですから、8年と 4カ月いたことですね。 一応ちゃんと、1時間ドラマなん かやりました。

Takachiho. それはディレクターとし ですか

Tsuji. いえ、プロデューサー・ディ レクターとしてです。 あのころは我 々が、企画、演出、予算、役者のめ んどうをみていたんです。 小さな番組、たとえば「バス通り 「裏」なんかになると、加えて、お弁 当、お茶、タクシーのめんどうまで みなくちゃならなかった。

Takachiho. 『マイアニメ』の読者は「バ ス通り裏」って聞いても、わからな いでしょうね。

Tsuji. そりゃ、知らないでしょう。 しいていえば十朱幸代とか、岩下志 麻が出演していて、十朱が15歳、岩 下が17歳といえば少しはわかるでし ょうかね。 そのころ「不思議な少年」 なんか やりました。SFのはしり。あれが 35~36年だったと思います。

Takachiho. NHKでは、それが皮切 りだったんですか。 今、延々と続く 「時をかける少女」とか、ああいう ドラマの。

Tsuji. ええ。そりゃSF関係なんて あれが最初だし、ましてタイムパラ ドックスなんていうのは、まるで初 めてだろうと思います。

Takachiho. あれは手塚さんのマンガ が先にあったんですか。

Tsuji. いえ、こちらが先生の所へ持 り込んだんです。「新世界ルルー」をや りたかったんですよ。でも、それじ ちょっとおそすぎたので。

Takachiho. 覚えてますよ。四次元の 世界だといって、ネガがパッと映る の。 アニメとのかかわりはこの「不思 議な少年」が初めてですか。

Tsuji. そうです。手塚先生を引っぱ り出したかかわりですね。

Takachiho. それで、シナリオを書か ないかということに?

Tsuji. ええ。でも、手塚先生の作品 の前に、平井和正さんのを。

Takachiho. そうすると、それは「エ イトマン」。

Tsuji. そうです。これは「不思議な 少年」の思い出話をSFマガジンに 投稿したら、平井さんから返事をい ただいて、一度会いたいと。それで。

Takachiho. NHKはどうしてやめた んですか。

Tsuji. たまたま横浜に家を建ててい ある時に、名古屋へ転勤しろと言われ まして、それで、家をしょってはい けないから、ま、やめさせてもらっ わけです。

アニメは全部 手がけたかった

Tsuji. 僕はもともと、マンガをやり たかったんですよ。で、小学校の3 年か4年でコマまんがを一生懸命に 描いて、正式の絵描きさんとこへ行 ったんですよ。そしたらケチョンパ で、それで挫折してそれっきりや めました。

Takachiho. そうするとSF作家にな れるんですよ(笑い)。 テレビアニメは「エイトマン」か 乱立の時代に入っていくわけです が、月にどれくらい書いていたので すか。

Tsuji. あのころはアニメがそんなに ふえるとは思わず、できる限り自分 が手がけようと思っていたので・・・・・・。

Takachiho. それはまた、えらいタイ ヘンなことで。

Tsuji. だから「エイトマン」「スーパ ジェッター」「宇宙少年ソラン」「遊 「星少年パピー」とやってまして、つ いにバンザイしたのが「宇宙エース」 なんですよ。 これが竜の子さんから電話がかか った時には、アトムを書いて3時に もうろう状態で、ハッと気づいたら ソラン、ソランと書いてあるのでび つくりぎょうてんしたような事態が ありましてね。こりゃダメだって大 反省して「宇宙エース」を断らせて いただきました。 あれが初めてです、仕事をおりた のは本当に申し訳なかったと思い ます。 月に何本くらい持っていたかは、 ちょっとわからないですね。

Takachiho. リストを作ったらすごい それだけいろいろアニメをやって こられて、どれが一番かわいいです か。

Tsuji. あっ、かわいいという質問は とてもいいですね。 よく、どれが一番好きか、とか言 われるけど、かわいいとなると、で きの悪い子ほどかわいいというのも ありますでしょ。 一生懸命にやった んだけど、恵まれなかったものとか。 そうすると昔のNHKでは「不思 議な少年」が、まさにそれだけど、 アニメでは「デビルマン」が、2、 3本を除いて全部自分でやってるか ら、良くも悪くも自分が一番でてい るということで。 育千穂 シリーズ構成をなさった 作品というのは、なんでしょう?

Tsuji. 僕の場合、企画書を頭の2、 3本頼まれて、あとはずっとおざし きがかからないというスタイルなので...。

Takachiho. それはなにか理由がある んでしょうか。

Tsuji. そう、あいつ忙しそうだとか、 他の人より多少ランク上ギャラが高 いとか。番組によっては、そこそこ の視聴率を取ったから、あいつに頼 む必要ないとか、ま、いろいろね。

Takachiho. 「Drスランプ」は、まだ だいじょうぶですか。

Tsuji. いえ、東映動画さんは他の新 番組がいくつかあるでしょ。「Drス ランプ」も頭何本かで、今はほとん ど御注文いただいてませんね。

Takachiho. 「Drスランプ」で、僕がだか 出演している作品もあるんですよ。

Tsuji. えっ、ああ、タカチホ、タカ チホってね。 このあいだ、だれかが いってましたよ。これ高千穂さんの ことだろうかって。

Takachiho. 似顔絵になってて、もう 二度出てるんです。

スポンサー、金は 出しても口出すな

Takachiho. 昨今のアニメはどうです か。昔の方が、必死さがあったと思 うのですが。

Tsuji. 昔は、スポンサーや視聴者、 テレビ局のそれぞれの思惑をくぐり ぬけて、自分はこういう作品を作り たいんだというものを作ろうとする 必死さがありましたね。今は、それ が少なくなっているような・・・・・・。 「エイトマン」にしても「鉄腕アト ム」にしても、とにかく厳しかった んですよ。 平井和正と三輪プロデ ューサーなんて、一方の鬼ですか らね。

Takachiho. 特に平井さんは。

Tsuji. ええ。でも、おもしろかった ですよ。彼が口角泡をとばしてスタ ッフとやりあってるのを聞いてて、 こちらはずいぶんためになりました からね。

Takachiho. 今、そういうのが無いと ころがありますね。

Tsuji. あります。ナアナアでわかっ ちゃう。 ま、アニメもこれだけブームにな って市民権を得ると、偉い人たち、 つまりスポンサーが親身になって見 るようになる。それはありがたいこ となんですが、でも一方では困った こともおこりますね。それだけ、作 品にいろいろ注文がつけられますも の彼等のモノサシで計った寸法の 注文がね。

Takachiho. これは人から聞いた話で すが、「クムクム」のスポンサーの社 長は、あまりの低視聴率に、作品を持 ってこさせて見たところ、こんなに スバラシイ作品の視聴率が悪いのは 宣伝が悪いせいだと言ったとか。

Tsuji. 「クムクム」なら、ありそうな 話ですね。 「エイトマン」のスポンサーの社長 は、我々と会うとひたすら握手をた まわって、視聴率が15%の時は20% にと、20%の時には30%にしてくだ さいというだけでした。これはこれ で、スポンサーとして正しい態度だ と思うんです。内容に関しては一切 何もいわないんですから。

Takachiho. でも、視聴率だけでいわ れるのは、作る方はシャクですよ。

Tsuji. 私のように昔のNHKにいた 人間は、数字の方がよっぽどいいん です。 今のNHKはそういうことも ないのですが、昔は、たとえばある 番組など高視聴率をあげていたにも かかわらず、内容がNHKらしくな いと叱られたり、それじゃやめると 言えば、それは困るから続けろって いうかんじですから。 数字でわりき ってくれた方が、よほどいい。 ところで、今のようにアニメの内 容がワンパターンのマンネリになる と、視聴率も、そうはとれなくなっ てきますね。

Takachiho. なにかというとロボット もので。でも僕は、巨大ロボットも のっていうの、わりあい好きなんで すけど、まずいのはストーリーの安 直化、パターン化ですね。 何話までいけばロボットのニセ物 が出てくるとか、そういうことが作 品をどんどんスポイルして、「ガンダ ム」をロボットものとよばれることに 屈辱を感じる世代が生まれてくる。 こういったことは僕は、ちょっとよ くないと思うんですが。

Tsuji. そうね、ワンパターンでもこ れだけ数が多くなると、忙しいスタ ッフなど見てないでしょ。だから自 分ではオリジナリティーと思いこん じゃうことになる。 ま、「サザエさん」なんかはマンネ リの極致なんですが、あれは逆にマ ンネリズムでやっていこうと開きな おっているんですよ。 だからSFロボットものも変にこ って、自分だけがわかっておもしろ がってて視聴者を離れさせてしまう というのじゃなく、マンネリでいい から、似たようなものでも、ある一 点は絶対のオリジナリティーを、プ ライドを持って入れてくれれば、あ はむしろ開きなおっていいと思う んですよ。 テレビの場合は特に、全編これマ ンネリというのはやらない方がいい。 時代劇の手をSFに使うとか、そ の逆もまた真なりで、いろいろ方法 はありますよ。

Takachiho. 小池一夫さんは「ゴルゴ 13」と「子連れ狼」で、同じストーリ がありますものね。ただ、もう、 ああいうことができればりっぱなも のですよね。

Tsuji. ええ。強い奴がしてやられた かと思うと反撃に転じる 「ターザン の逆襲」スタイルが一番うけますっ て、小池さんがおっしゃってました けど、僕もそう思います。 こういったパターン化でも〝悪し き類型〟と〝良き典型"というのが あるから、そこのところさえちゃん 押さえてもらえれば、マンネリど んどんけっこう。でも、マンネリと いわれて怒る程度のものではいかん と思う。

Takachiho. そうそう、華があるとい うかんじにね。水戸黄門が印籠を出 すシーンとか、遠山の金さんが桜吹 雪を見せるシーンとか、ああいう華 があるかたちで番組を終了させる。 僕は、水戸黄門をおきかえた「ダ イオージャ」ね、実にいいと思うん です。

Tsuji. うーん、あれね。僕も感服し た。

Takachiho. 僕、あとアニメに「桃太 郎侍」をほしいんですけど。

Tsuji. (笑い)。 ところで今度、「水戸黄門」をアニ メでやるでしょう、こうなっちゃう とね。

Takachiho. しらけたりしますね。

Tsuji. ええ。

ライターの必須条 件は教養呂教養

Takachiho. 辻さんは、若手シナリオ 作家の育成をしてらっしゃいますね。

Tsuji. 放送作家組合としても、食べ ていかなけりゃならない。そこで教 育事業として始めたわけです。 あれが始まった時には、同業者か ら、なにも商売仇を自分で作らなく てもと、笑われまして。そりや、確 かにそうですよね。 もうかなり、おびやかされていま すけど。

Takachiho. それは頼もしいですね。 僕は、アニメ界には優秀なライター が少なすぎる気がするんです。優秀 というのは頭の良し悪しではなく、 教養のあるなし。 小松左京さんなどはスゴイ。ま、 あそこまでいくと巨大すぎるけど、 教養の無さが作品を乱しているとい ラムードもあるわけで。

Tsuji. うん。デモシカって、ひとこ よく言われましたけど、他にやる ことがないからアニメのシナリオで 書くかとか、アニメのシナリオし か書かせてもらえないから、という のでは。 井上ひさしさんと一緒に書いたの は「忍者ハットリ君」が初めてだっ たんですが、あの頃のシナリオライ ターというのは、みんな巨大という か、鋭い感じがしましたね。井上さん の場合は、ムムッできる、という感 じでね。

Takachiho. 井上さんは、教養すごい でしょ。

Tsuji. すごいですね。 その、見えな いものがね。なにかヘラヘラフラフ ラしていて、全然そんな感じがしな いけど。 で、アニメの世界にも、表側だけ でなく裏側に、いろいろなバック・ グラウンド・ミュージックの流れて らっしゃる人がたくさんいてほしい ですね。

Takachiho. アニメーターには、すご 教養のある人が多いんですけどね。 最も教養があるだろうと思われるシ ナリオライターの人たちが、スポイ ルされてる感じで。

Tsuji. それは、どうしてだろうな。 シナリオの分野というのは、一段遅 れている。かろうじて映画のライタ ーなんかが多少よくなったと思った ら、映画そのものはアウトになって きているし。

Takachiho. コンテで直されすぎる、 というのがあると思うんですよ。

Tsuji. あれもしかし、時間がなけれ ばどうにもならないことになるんで すね。 ある局でね、私が書いたシナリオ に注文かなにかあるだろうと思って だけど、なにもいってこない。あと でプロデューサーに聞いたら、偉い ライターになにか言うと恐いからっ て、なにも言わなかったそうなんです が、じゃあ頭から一字一句、私が書 いた通りにやったからといっても、 頭からコンテ切っていって、終わり の方は秒数が足りないからと、なく なってるんです。

Takachiho. (笑い)。

Tsuji. これには驚きました。だから もう、オチが無いんですよね。僕は それよりは、直す人の方がまだ好感 を持てますよ。 ま、僕自身がプロデューサー・デ ィレクターだったとき、メチャクチ に直しましたけどね。

Takachiho. 僕も今度シナリオを書い たんですがね、それだってコンテを 切っているある人が大幅に直します が、それがまた実に絶妙に直されて いて、おれはこんないいセリフを書 いたのかと、自分で書いたシナリオ のコピーを見てみると、そんなセリ フはどこにも無いわけで。やっぱり おれの才能ではなかったか、と思っ たりして。

Tsuji. いやあ、でもシナリオライタ ーにとっては、ずるく考えれば、上 手に直してくれるならその方がいい んですよ。だけども下手というか、 わからずに直されたら、これはもう 怒り心頭に発しますもの。 演出なんかは、本来コンテなども 当然切らなければいけないのに、今 は絵コンテだけって別に独立しちゃ うでしょ。それだと絵コンテ切る人 って、わびしかろうと思うんですよ ね。あるいは、演出の人が絵コンテ 切らずに演出だけっていうのも、こ れはまたつらいなあって。

Takachiho. いや、今演出っていうの は、秒数はかって、カットだしをす る人をいうんで、だからカットだし だけするのは、それはもちろんつま らないでしょう。

Tsuji. そりゃ、そうですよね。 僕はやっぱり、演出していて絵コ ンテ切っているのが一番楽しかった もんです。ああ、絵コンテじゃない や。僕は絵が描けないから、ただの コンテですけど。あんな楽しいもの なかったですね。

Takachiho. 長浜さんなんか、喜んで 描いてたじゃないですか。

Tsuji. あっ、そうだそうだ。

Takachiho. やっぱり絵コンテっての は一番いいですよね。ダイナミック で楽しめるところなんか。

Tsuji. いいですよね。しかし実写の 段になると、役者さんが自分のコン テ通りに歩いてくれないんですよね。 いわゆる大役者なんかになると、な んで俺そこで立つのってなこと う から。そうするとまた、最初からや り直しになっちゃう。特に、犬や猫、 子供なんてのはどうしようもないん で。その点、アニメのコンテは楽し いですよ。

Takachiho. そりや、こちらの思う通 りになるから。 こんなやりがいのあ るのはね。

Tsuji. ええ。

Takachiho. だから結局、コンテ作家 がそれなりのやり方でやってしまう と、シナリオ作家ははじき出される わけですね。

Tsuji. 僕が比較的長くやってる「サ 「ザエさん」は、プロデューサーがう るさくて、コンテやなにか全部に口 出ししてきてね、だからわりあい脚 本を中心にしていますよ。それから 「一休さん」の場合も、チーフディ レクターと直談判をしたりしてます から、「サザエさん」と「一休さん」 の場合は、コンテの段階でメチャク チャになっちゃうなんてことは、そ んなにないんですよ。

Takachiho. なるほど。でも大方のも のは、にわとりが先か卵が先かで、 シナリオがひどいからコンテががん ばるのか、コンテが直しすぎるから スポイルされるのか、わからないと ころがありますね。まあ、僕が見た 限りでは、あのシナリオではコンテ ががんばらざるを得ないなあ、とい うのが多かった気がします

Tsuji. しかし、コンテで直されるん だったらシナリオはいいかげんに、 というなら、シナリオライターの自 殺行為ですしね。むしろ、コンテで 直そうと思っても直せないというく らいのものを書かなければ。

Takachiho. 野田さんとフジテレビで エネルギー関係の番組を作った時、 星新一さんのショート・ショートを 一本絵物語にしたんですが、長いの で切ろうとしたけど切れなくて、全 部流しましたよ。

Tsuji. そうでしょう。そういうのが 名人芸というのでしょうね。はまる べきところにはまっていて、ぬきさ しならないという。こんちくしょう というような原作に、ごくまれにぶ つかると、本当にああーって。

Takachiho. それ、わかるんですよね。 それだけのアイデアが、小説だとい くら、シナリオだといくらっていう 小説へいっちゃう。

Tsuji. ああもう、それを考えたらそ れこそ、アニメはおろかテレビも冗 談じゃないということになるわけで すよ。

SFアニメに 銭形平次?!

Takachiho. シナリオライターの待遇 の問題がちゃんとして、もっと毅然 とNGを出せるプロデューサーがい れば、今のアニメ界ももう少しなん とかなるのに。 とにかく、腹にすえかねるのも多 いんですから。たとえばSF。SF がアニメになっている例っていうの は、近年ゼロに近い。

Tsuji. だから、あれをSFと思われ まがいというと失礼だ け ど、僕はSF的とかSFに準ずると かと言ってますが、あれを入り口に してSFに入ってくれる方向もある と思うんです。

Takachiho. 、あれでも完全に満足 できてしまうということも.....。

Tsuji. なまじよくできてるからね。

Takachiho. そうなんです。

Tsuji. しかし、本当の意味でのSF というのは、テレビやなんかでは非 常に作りにくい んですがね。 ないかと思う

Takachiho. そうですね。「キャプテン・ フューチャー」では、大分苦労され たんじゃないですか。

Tsuji. あれ、なまじ一生懸命良心的 に作るから。あれこそ逆に開きなお って、非良心的に紙芝居万才という かんじでやったら、おもしろかった と思いますよ。

Takachiho. そうすれば、もっとウケ たでしょうね。「未来少年コナン」の ように作るといいんですけど。

Tsuji. あれはもう、マイッタ、マイ ッタです。 僕は、SFで捕物帖みたいなのを やりたいなあ。「銭形平次」 やったっ ていいんですよね。

Takachiho. 「桃太郎侍」だってね(笑い)。

Tsuji. (笑い)そうです、そうです。

Takachiho. 、なんとかそういった あたりのリーダーシップを、辻さん に期待しているわけなんですがね。

Tsuji. ウーン、これだけアニメがブ ームになってしまうと。僕は、次に ブームになる、ブームを作るという 方に行きたいくちですんでねえ。 それこそ、高千穂さん、あなたが おやりになれば。シナリオも書いた ことだし。

Takachiho. いや、僕には、もちはも ち屋というのがありまして。シナリ オも、たぶん二度と書くことはない でしょう。

Tsuji. さんが、こうこうこういう企画 これこれのスタッフでやりたいか と、スポンサーを見つければなん て思ってるんですが。そういうこと、 組織的に辻さんがやりやすいから。

Tsuji. ああ、そういうことならね。 30分の連続ものと思っていたので。 スペシャルなんかワクがふえたんだ から、可能性もふえたわけで、それ ならやりたいと思うものが二つほど あります。 しかし、自分の見たいアニメがふ えてほしいなあ。最近すっかり見な くなっちゃったから。これでアニメ のシナリオを書いてていいんだろう か。でも、テレビドラマやってる時 だってテレビは持っていなかったん だし。まあ、いいよね。

Takachiho. ええ、僕も似たようなも のですよ。

Tsuji. ああそうだ。そういうテレビ の情報は、アニメ雑誌を見て収集し ましょう。

November

My Anime Life: Kunio Okawara

「与えられた条件の中 とにかくベストをす」

「アニメの世界へ は、まっ たくの で、軽い気持ちで 入ったー」
メカいじり 「健忘症かどうかわ かりませんが、あまり小さい頃のこ とはよく覚えていません。だから、 いつからメカいじりに興味をもった のか...... ただ、人間の意識として残 っている時から、もう好きでした。 それも作るというより、壊すことが 好きでした。作るというのはずいぶ ん後になってからです。蓄音機、柱 時計、目覚し時計、ラジオと、いく つも壊したものです。それも壊れた からというより、あけちゃうんです よね。たとえば、真空管がいくつあ るなんていうこともよくやりました。 あの時代は、子どものことなどあま り構っていられなかったんでしょう ね。そのへんが幸いして父や母に叱 られるようなこともなかった。 それがずーっと現在まで続いて います。 今はちゃんと組立てられま すけども。ガス風呂を分解しちゃっ たり、ガス瞬間湯沸し機とかね、だ けど、ああいうのはこわい・・・・・・」 大学時代 「学校ではテキスタイ ルデザインをやってました。 東京造 形大学なんです。僕は第一期で、学 校はまだ建設中だったんですよ。そ の時、試験がありまして、どうせだ ったら先輩がまったくいないほうが おもしろいだろうということで......。 それで大学三年の時、卒業制作だ けクリアすればいいということで、 オンワード樫山という紳士服の会社 に入りました。染色の知識が仕事に 活かせるのではないかと。ところが 一年もしないうちにきちゃって、 ああいう大きい会社じゃおもしろく ないということで辞めてしまった。 けれども、技術があまりないので、 今度も同じようなおとぎの国という ベビー服の会社に行きまして、子ど も服の企画のほうに入ったんです。 ところが、そこの本社は神戸なもん で、東京店では企画・デザインとい うのはあまりさせてもらえないんで すよね。それでおもしろくなくてま た、辞めたんです」 アニメの世界入りの契機 「くじ 引きじゃないけど、まったくの偶然 なんですよね。今言ったおとぎの国 を辞めた時には結婚が決まっていて、 たまたま受けた化粧品会社ーそこ は給料がよかった、そっちが落 っこちてしまった。じゃ、あとひと つあるな、早くしないと結婚式は近 づくしということで決めたのが竜の 子プロだったんですよ。卒業後すぐ の昭和四十七年四月二日からです」 絵心 「絵は小学校の時から好き でしたね。ただ僕は鉛筆で描いても こまかく描きすぎて、色をつける時 にはみんな失敗しました。 漫画は見 なかったし描かなかったですよ。ま 美大に入るには絵はある程度で きないと実技試験で落ちますので、 人並みには・・・・ だから、竜の子プ ロに入った時も、どうにかできるん じゃないかと思って行っただけで。 はじめからだれでも描けるわけじゃ ないし、教えてもらおうという気持 ちがあれば、そのうちに描けるんじ やないかというくらいの軽い気持ち でした」

「アニメでは平面 のものを、いつも に考え ている」 メカデザイン 「竜の子プロの美 術部に入った人間は、必ず背景の練 習をするんですよ。僕も一週間ぐら い、練習をさせられました。美術部 門の一部にメカデザインがあり、本 来、それは美術部の仕事だったんで す。ところが、ちょうどその頃、『科 学忍者隊ガッチャマン』が企画段階 で、この作品はどうしてもメカを売 り物にしたいという事情があり、 に美術の一部門として扱うには荷が 重すぎる、ということになりました。 それで専門的にだれかやったほうが いいということになり、海のものと も山のものともわからない段階だっ た、この僕に同じ苦労するならやっ てみないかと。それから始めたんで す。だから、最初のメカデザインの 作品は『科学忍者隊ガッチャマン』 ということになります。同時に、ア ニメーションのふつうの絵のほうを なにもやらないうちに、これをやっ たわけです。ですから、メカデザイ ンのどこに魅力を感ずるというより、 それをやらされてずっと走ってきた わけで、その時はただ苦しいだけで した。今は、この仕事から離れられ なくなってしまいましたが......。」 竜の子プロ時代の作品 「破裏拳 ポリマー、 テッカマン、ゴーダムの メカデザインを担当しました。 『科学忍者隊ガッチャマン』 『破裏拳 ポリマー』『テッカマン』の三作はメ インメカを中村光毅さんがやられて、 あとのメカを僕がサブでやり、ゴー ダムからすべてやるようになったの です。このゴーダムを最後に竜の子 プロを辞めたわけです」 メカデザイナーの苦労 「アニメ ーションでは平面でよくても、実際 には立体化するという前提で考えな ければならない。つまり、メカはア ニメーションから離れて、おもちゃ になるので、立体にした場合の遊び まで全部考えないとスポンサーがつ きません。そのへんがいちばんメカ デザイナーとしては苦労しますね。 どういうわけか、立体にした場合の 遊びまでが僕たちの範疇に入っちゃ ってるんですよ。 ただ、それは僕が勝手につくって きちゃったきらいもある。先輩がい ませんし、自分で切りひらいていく よりしようがないので、そのへんま で僕の仕事の一部にしちゃったんで す。本来、これはおもちゃのメーカ ーがやるべき仕事なんですよね」 メカマンの設立 「現在、社長を やっておられる中村光毅さんとは、 僕が竜の子プロに入って、メカデザ インの担当になった時から、そうい う話があったんです。『将来、みん なでこういう事務所が持てたらいい ね』という話はね。竜の子プロを辞 めてから、僕は外で仕事をしていた んですけど、いろいろの事情もわか ってきたので、美術設定デザインの 事務所をつくっても大丈夫じゃない かと考えていたわけです。そこへち ょうど中村光毅さんも一人でやりた いという話があり、それなら共同経 営でいこうじゃないかということに なったんですよ。当初二人で、メカ に関するデザインと美術の専門会社 ということで、五十一年に発足しま した。 当時、メカデザインを専門にやっ ている会社としてはスタジオぬえが ありました。これはSFマニアのグ ループで、ちょっとそれとは毛色が ちがうと思うんですよ。メカデザイ ン会社で、アニメーションのほうか ら出てきたというのは、あまりきき ませんね」 フリー第一作「メカマン設立後、 ちょうど一年で、中村さんにわがま まを聞いてもらい、一人になりまし た。フリーになってからの第一作は 『ダイタン3』 ン3』です。以後、『マ ン飛竜』『ヤッターマン』『機動戦士ガ ンダム』、そして今は『太陽の牙ダ グラム』のメカデザインにかかって いるところです」

「メカのアイデ アは、車 の中と、布団の で浮かんでくる」

自由発想「一人だと気が楽です から、精神的にはまったく楽になり ましたよ。ただ、食っていかなけれ ばなりませんから、すこしは苦労が ありましたけど、仕事に関してはか えって楽しくできました。特に、『機 動戦士ガンダム』を契機にして、モ ビルスーツの型と、ウケた年齢がち よっと高かったということで、スポ ンサーの意識もすこしずつ変わり、 デザインも大幅に制限がゆるやかに なったんです。 ただ、やはり最終的にはおもちゃ にしますんで、最低の売れる線とい うものは、どうしてもデザインで抑 えていかなくてはなりませんが、今 回のダグラムについてはスポンサ の方と考えていたことが同じだ たんですよ。話も早くまとまりまた」 SF(映画) 「こういう仕事に タッチしているわりに観ないですね。 好きなことは好きなんですよ。ただ マニアみたいにどうこうするほどの 情熱はない。ふつうの観客的な立場 と同じで、観ていれば楽しいなとい うくらいですね」 メカアイデアの発想 「僕の場合、 案外早いんですよ。企画会議でこう いうものをという方向が出ますと、 二日くらい後にはできちゃうんです。 考えている時間というのは、企画会 議が終わって家に帰るまでの車の中 夜、床に入って朝、うとうとっと している間で、それが意外と的を得 ているんですね。だから、メカを生 みだすために悩んだということが、 まったくない もっと真剣に考えなくちゃいけな いのかもしれないけど、僕にとって は考えているときが楽しいんで、結 構それでおもしろいアイデアが生 まれるんですよ。もちろん、まる? きり寝ている時は駄目ですよ。一度 目が覚めて、布団から出るのがいや だなあっていう時にかなり出るもの ですね」 スランプ 「ストーリーの中に ると、アニメーションを流し 場合のデザインと、おもちゃを決め る場合のデザインと、その両方があ るわけです。その流していくほうの 段階になった時、さきほども言った ようにSF的知識があまりないので、 いろいろ本を調べないと間違ったこ とをやるので、そのへんは逆に調べ ていますけど。そうです ね、メインメカそのものを決める時 は何も調べないで自由にやっていま す。アイデアそのもので壁に突きあ たったというようなことは、まだあ りません。それよりも、ただ、絵が 下手だなあと思って、それにはかな り悩みますね。実際、僕のまわりに いるスタッフは、みんな絵がうまい んです。一所懸命やっても、いつま でたっても追いつけない。それで、 かなり悩みます」 仕方なく描く 「メカデザイナー というのは、イメージを伝えるため の絵を本来は描かなくてもいいんで す。これまではデザインだけの仕事 でよかった。ところが、『機動戦士 ガンダム』の時に、キャラクターデ ザインの安彦良和)さんがもう滅 茶苦茶にうまいわけです。それでメ 力も同じように描かないと、並べて 貼るにしてもまずいんで、本当は恥 ずかしいんだけれども、それから描 かせてもらうようにしたわけ。仕方 なくっていう気持ちで描くようにな ったんです」 自作でいちばん好きな作品 「や いまやっているダグラムで これまではどうしてもおもち てはいけないという制約 のほうが先に立っていた……………。 とにかく、自分がデザインしたも のが画面で動いているのを観ますと、 ああ、やっていてよかったという感 じがします。自分でアニメにするこ とはできませんし、他人に動かして もらうわけで、それが観たくてやっ ているわけですよ。だから、いつも 話が楽しみです」 尊敬する先輩「僕の上司だった 中村光毅さん。仕事に対する姿勢が まず第一に、あとはセンスですね。 僕よりずっと高い位置にいますので、 なるべく早く追いつきたいという意 識はあるんですけど。人間的にも、 ものすごくすばらしい人なんで、あ あいう人はめったにいないんじゃな いかなあ。とにかく仕事の上でも人 間的にも......。 僕も早くああなりた いと思いますね」

「アニメ10年、出てくる ものすべてをメカにが、だ・・」 アニメ十年を振りかえって 「ー 時、シリーズ五本をもってやり狂っ たことがあったんです。その時は、 机に座りっきりで、かなり精神的に まいりました。ちょうどフリーにな る前後でしたか。今でしたら二本、 多くても三本。乱発している時はや っぱりよくないですよ。 ところが、一本だとちょっと時間 が余るから、最高の状況はハードな メカものと、ギャグもののメカの二 本を並行してや るといいなと思っ ているんですが......」 メカデザイン以外への興味 「あ ります。竜の子プロに入った時、ち ょうど『田舎っぺ大将』をつくって いたんですけど、ああいうのも好き ですし、『サザエさん』もしょっちゅ う観ています。『母をたずねて三千 里』とか『アルプスの少女ハイジ」 なども好きでよく観ました。 同業の ロボットアニメ、あれは一話だけは 必ず観ますが、それでおもしろくな ければ、もう観ません」 取り組みたい作品 「出てくるも の全部がメカというのをやってみた い。主人公もメカロボ、木も地面も メカで、石ころだと思ったらネジだ ったという、そういう五分ものの短 いものでもいいから、やってみたい なと思っています」 現在のアニメ状況 「メカデザイ ナーの立場から言わせてもらえば やっぱりおもちゃメーカーの力が強 すぎるというのは、まだやりにくい ですよね。しかし、それは割り切っ て、おもちゃが売れて喜ばれるの 僕の喜びのひとつです。また、気持 ちの持ちようで、子どもに楽しいお もちゃを提供するには、こういうこ とも必要なんだという考えでね。た だ、おもちゃ メーカーが全面的に デザインして、それを作品の中に入 れろというのには抵抗しますが・・・」 おもちゃのロボット「興味のな いおとなが見たら、みな同じに見え るでしょうね。僕がつくったおもち ゃについては、僕の子どもはわかっ ています。もちろん、『これはお父 さんがやったのだよ』といって渡し ますんで。おじいちゃん、おばあち ゃんが近くに住んでいますので、 子 どもがねだると買ってきてくれるん ですが、大体、僕がやっていないの を買ってくる。おとなはロボットの 差がわからないんではないでしょう か。たしかに、僕も毎回やっていて、 同じようなおもちゃを出すのは抵抗 感がある。しかし、どうしても似ち ゃうんですよ」 おもちゃのロボット2 おもち やのロボットというのは、遊びを優 先しますと、デザインでいじれる部 分というのが、どうしても限られて くる。たとえば曲がるところが大体 決まっている。その組み合わせでか たちを変えていく わけで、いじれる ところはほんの部 分的なんです。 すから、当然、似 てきてあたりまえ なんですよ。 だから僕の場合 は変化ですね。ど ういう風に曲げて、 どういう具合いに くっつけたらかた ちがこれだけ変わ ったとか、パズル のようなものにな る。ロボットとい うのは、あまりに も想像がつかない ようなものをつくると、逆に売れな いんですよ。いちばん売れるのは安 心感があって、前例があること。そ れをちょっと目新しくして、遊びを 多くする。そして、その遊びが派手 であるということです。アクション が大胆に変化するというか、そうい う点が大事なんです」 「仕事は〆切り前 に終わらせ、対に一気にやる」

趣味 「今はアーチェリーですね。 まだ、半年くらいですけど。それ以 前は小学校の頃からずっとローラー スケートばかりやっていたんです。 特に十八歳くらいから大学時代まで やっていたくらいですから、馬鹿に されて......。とにかくクラブに所属 したこともありますし、本格的にや りたくて入ったんですけど、練習が きつくて長続きしなかった。今は全 然やっていません。 アーチェリーのほうは近所にある メーカーのアーチェリー部の人がい まして、その人がいろいろ教えてく れるんです。 あとは仕事に関連して作ることが 好きですね。作るものならなんでも いいんですよ。ただ、プラモデルみ たいに組みあわせるだけのはいやな んです。全部自分でやらないと。 人 が持っているものはいやで、なにか らなにまでオリジナルでやらないと 気がすまない。ですから、一週間に 一度は必ずDIY店に行っています。 そういえば、学生時代にライフル をやっていました。銃についてはマ ニアというほどではないんですが、 鉄でできたものが好きなんですよ。 僕の持っていたのは、ボルトアクシ ョンなんですけどね。結局自動より は砲を動かして装填するのが好きで した」 仕事 「たとえば、長距離のドラ イブに行くでしょ。そうすると子ど もがいやがるんです。目的地まで途 中休まないものですから......。『あ つ、あそこに見えたな』というとこ ろで休むわけ。最後を残しておく性 格なんですよ。 仕事もそうです。切りがあると、 ぱっと前にやっちゃって、あと一日 の分だけ残しておくんです。 そして 〆切りの前に一気に仕上げるところ がある。僕は切りに遅らすという のは想像もつかないんで、これまで 遅らしたこともないし、そういうこ とがこわいんで先にやっちゃうんで すよ。趣味の場合は、これはもう絶 対に残さないでやってしまう」 交友関係 「仕事に関係のある人 は、みなさんお忙しいですから、あ まり深くつきあえません。だから、 あんまりいないですね。親しくつき あう人は近所の人が多い。自分で商 売をやっておられる方とか」 嗜好品 「タバコは、もうやめま した。以前は一日三箱くらい吸って いたんですが、翌日になると苦しい ……………。といっても、最近また吸い だしまして、一日一本。その一本も、 一日の仕事が終わって、『あっ、こ れで終わったな』と寝る前に吸うん ですよ。あとは、酒を飲んだときな どに多くて四本がいいところですね。 アルコールはタバコをやめてから 弱くなりました。それでも近所の人 たちと家で飲むと、やっぱり午前三 時くらいまでやっています。 よく団 体でくるんですよ」 睡眠時間 「食事は規則的でない 代わりに、寝ている時間は長いんで すよ。最低八時間、多くて十時間。 その上、昼寝もするんです」 仕事時間「それでもふつうのサ ラリーマンよりは多いんじゃないで しょうか。起きている時間はすべて 仕事に没頭しているわけですから」 これからの目標「当分はメカデ ザイナーのほうをずっと。僕はこれ じゃなきゃ食えないと思うんです。 やりたいことはいっぱいあるんです けど、あまり言いたくはないですね。 言うとどこかで先にやられてしまう おそれがあるから………」 身長、体重、体調「身長は一七 ○センチ、体重は六十二キロ。体調は よくないです。肩から上がいつもこ っています。だから、指圧をずっと やってもらっていたんですが、ここ のところやっていなかったからすこ しおかしい。内臓も疲れているんで、 ちょっと養生したいなと思っている ところです」 人生信条 「結局、与えられた条 件の中でベストを尽すということ すね。ベストを尽していれば悔いは 残らないし、なにごとにも真剣に取 り組めば、なにかが見えてくると思 うんです」 好きな言葉 「特にないですね。 なにしろ流されて生きているから、 あまり大それたことを考えて生きて いないんです」

「趣味と仕事ものでもやっ とでは、司作るぼり違う…」

再び仕事について 「描いている 時も、自分でやりたいことがいっぱ いあるので、それがたまります。 く遊びに行きたいなあ、なんてこと を考えてやっているんですよ。 僕はあまり仕事、仕事っていうの は好きじゃない。むずかしそうに見 えてデザインなんて単純なんですよ。 アニメのシリーズが流れだしちゃう と、結局、『ピストルをデザインし てくれ』、『自動車をデザインしてく れ』ということで、かといって先端 的なものをやっても支持されないか ら、ある程度事務的に処理してしま うことがある。そういう場合は、そ れほど頭を使っていない。だから、 たえずどこかに行って刺身が食いた いとか、一杯やりたいとかって考え ています」 趣味と仕事の一致 「仕事以外に 好きでやりたいことがあると、さっ き言ったのは、とどのつまり趣味の ことなんですよ。同じ作るものでも、 やはり趣味でやるのと仕事でやるの とは違います。作る、という行為は 同じですけど、作るものが、違いま す。ロボットを作っていても作る ことに変わりはないから、もちろん 嫌いじゃありません。だから、仕事 だと思ったら楽しくはなくなる。 かといって、趣味に走りすぎると、 凝りすぎて商売にはならなくなって しまう。でも、そういうのが作れた 楽しいですね。しかも、おカネを もらえれば、なおいい。 結局、僕たちがアニメーションで やっていることは、技術の発展をみ て、それをアニメーションにしてい るわけで、まったくフィクションの 世界ではない。すぐそうなっちゃう ものをアニメーションでやっている わけですから。ものを作るっていう のは、モデルを作る時は大きいか小 さいかなんですよ。あたりまえのも のではだれも飛びつかない。 たとえば、プラモデルひとつにし ても、それをいかに小さくして再現 するか、とか、あるいは人が持てない のを作ろうとか、どうし てもそっちのほうに興味が向かって しまいます」

Stargraph: Yoko Asagami

野菊の如き君なりき

晩秋のある日、京都でのコンサートを終え た私は、一日休みを取って、嵐山から嵯峨野 路あたりのお寺を歩き回ってきた。 苔むした階段を登りつめ、小さな滝の流れ を見てゆくうちに、身も心もすっかり洗われ てゆくようだった。 本堂の前で手を合わせてまた歩き始めた時、 麻上洋子さんの事を思いだした。というのも、 初めて洋子さんに逢った時、雨にうたれ、風 に吹かれても、しっかりと大地に根を張って 薄紫の花を咲かせる可憐で愛らしい野菜を連 想していたからだ。 さて、小学校時代から放送部の部長をして いた彼女は、自分でラジオドラマを作っては コンクールに出品したりする女の子だった。 「とにかく私のお話を聴いてもらいたい。そ して、そのお話の中に人を引き込みたいと思 っていたの。私ね、うまい、声の、俳優にな りたい の。顔の表情や体の動きを使わずにマ はなれないと思ってるのよ。でも、うまくな る事と稼げるという事とは違うと思うけど、 気持ちが納得できるというのは、やっぱりう くなる事でしょ。だからうまくなりたいの」 彼女は幼くして自分の天職を選び、そして その天職に生きてきた。彼女自身の人生を支 えてきたものは、やはり本物の声優になるた めに……とかたむけてきた努力と情熱だろう。 今でこそ声優という職業がとりざたされて いるけれど、彼女が声優を志した時代には、 まだまだ縁の下の力持ち的立場の職業だった のである。「声優って職人だと思ってる」と言 って笑った彼女に、何かしたたかなものを感 じた。 ジャンヌ・ダルクの如き君なりき 彼女をインタビューした日の午前中、彼女 は、自動車の仮免試験に見事一回で合格して いた。一見すると、どうも車の運転より手芸 をしたり、絵を描いたりしている方が似合う ようなのに、かなりの行動派なのである。 「自分がやりたいと思った事は、とことんや りぬくの」。18歳の時、パスポートからホテル の手配まで自分一人でやってのけ、沖縄まで の独り旅を楽しんだりもしたそうである。 「私の夢はね、世界中を車でドライブして回 ってね、きれいな海があったら、その海でダ イビングしたりして……。それで私の場合、 人前にパッと出て、といった仕事はあまり好 きじゃないから、例えば文章を書いたり、声 を送る仕事をしながらあちらこちらを回れた らいいなって思うし、その時、近況報告を手 紙で送れる愛する人がいればもっといいなあ、 と思ってるの」 その日のために、彼女は今着々と準備を進 めている。車の免許を取ることはもちろんの こと、語学の勉強まで始めているのである。 英語、フランス語、イタリア語の三カ国語を 喋れるようになりたいそうである。 人は大人になるにつれて夢を夢で終わらせ てしまうことがある。けれど彼女は、大きな 夢のために小さく地道な努力を始めているの である。男と女の枠を越え、大きな愛のため に勇敢に死んでいったあのジャンヌ・ダルク のように、麻上洋子さんも、自分の夢と自分 の未来を、より確かなものにしていってほし いと思う。

鐘の音の如き君なりき

彼女は、暇を見つけてはお寺を巡る。お寺 の階段を登りながら、彼女はいつも何を想っ ているのだろうか。 「強く生きるより、やさ しく生きてゆきたいの。誰も独りでは生きて ゆけないものね」。彼女に逢って、私はひさび さに、女性としての原点を持っている女性を 発見したような気がしていた。私の心に麻上 洋子さんの打ち鳴らした心の鐘の音がいつま でも響いていた。 作家として、歌手として、もちろん声優と して、大忙しの洋子さん! 今度はあなたの 書いた「女の子の冒険手帳」を片手に、一緒 にお寺巡りでもしたいですね。

Yasuo Yamada Feature

声優仲間にはインテリが多い。誰 はどこの大学、彼はこれこれの大学 と、その出身校を並べあげると、「ヘ えー」と目をむいて驚くアニメフ アンが多い。 山田康雄も、その「へえー」と 驚かれる組の一人かもしれない。 山田康雄、現在、劇団”テアトル・ エコー"の幹部俳優。 昭和七年九月 十日、東京の閑静な住宅街、大田区 雪ヶ谷で生まれた。父は当時、日本 銀行に勤めていた堅いサラリーマン。 後に局長にまでなられた方であった が、彼が七歳の時惜しくも病をえて 亡くなられた。 幼少のころはひ弱で、気の小さな お坊っちゃん。大事大事に育てられた からかもしれない。それが小学校三 年生の時、扁桃腺の手術を受けてか ら何もかもがコロッと変わってしま ったとたんに体がすっかり丈夫に なり、それまで怖かった水がなんで もなくなってスイスイ泳げるように なれたし、足も速くなってチョイと ダッシュをかけると猛スピードで駆 けられ、たちまちリレーの選手にも った。また、それまでおとなしく お姉さんと一緒に習っていたピアノ の稽古が、急につまらなくなって、 稽古の日には逃げ回るようにもなっ た。いいとこのボンボンから、急に エネルギーを持てあますイタズラ小 僧への変身が始まったのだ。 都立一中に入学したころは、完全 に腕白少年になっていた。一中は後 に学制改革により日比谷高校となる が、当時、東大進学率全国第一位の 名門校であった。康雄少年は腕白で はあったが、頭のいい子であったに 違いない。 友人の多くは東大に進学した。だ が、彼は国立大をきらって早大文学 部英文科に進んだ。東大進学、そし て日銀へ、将来は日銀総裁。それが 亡き父の願いであったようだが、彼 は自由の世界を求めて、自由の殿堂、 早稲田の大隈講堂で入学式を迎えた。 堅苦しいことは大きらい、徹底し たリベラルな人生観が、彼にワセダ を選ばせたようだ。ここ数年、国立 大よりも私大を選ぶ若者が増えてい ると聞くが、彼はその風潮を先取り したともいえる。 高校時代、野球部でセカンドとし 大活躍していた彼は、大学に入学 するとすぐに野球部入りを志した。 早大入学の目的の一つには、WAS EDAのユニホームを着て、六大学 野球の花形選手として神宮球場の土 を踏む、という夢があったのだ。 だが、いそいそと野球部新人歓迎 会の合宿に出かけて行ってみて驚い た。見まわしてみると、いずれも地 方高校のグラウンドでタップリ鍛え あげてきたような、真っ黒に日焼け した大男ばかり。頑健、屈強そのも のの若者ばかりであった。都会育ち のヒョロヒョロした男は、自分以外 には見あたらなかった。 ガーン! 早大入学時の夢はか くして入学そうそうにしてこわされ た。合宿を一日で「失礼させていた だきまし す」と、か んべんし てもらっ て、その 足で早大 生たちで 結成して いた 団・自由舞台”に飛び込んだ。変わ り身の早きことルパンのごとしだ。 演劇は前々から好きではあったが、 あれは女子供のやることと、心中、小 バカにしていたところがあった。 が、野球がダメだとすると、いささ か事情は変わってくる。演劇がにわ かに魅力ある存在となって浮かび上 がってきたのだ。 ならば、ちょいと演劇とやらをか じらせていただこう。教えていただ こうと、ごくごく、かるーい気持ち で、スーッと〝自由舞台”に入り込 んだのだ。 それがやってみたらバカバカしく 面白い。八方破れの無手勝流で演じ てみせると、先輩たちがゲラゲラ笑 って喜んでくれる。どうやらボクっ 才能があるみたい。さほど努力し なくっても、なんとか役者になれる んじゃないかしらん。そんな気 分にもなって きた。彼がそ んなふうに思 ったのも、生 来のオポチュ ニスト(楽観 主義者)だか らとも言い切 れない。 彼は目にしたもの、耳にしたもの を素早く捕える鋭い観察力と、豊か な表現力を持っていた。回転の速い 頭脳と、柔軟な肉体、そして並はず れたリズム感が、彼独特の演技を創 造させてくれた。事実、彼にはその 才能があったのだ。 演劇に熱中するにも金がいる。彼 はよくアルバイトをやった。金にな るのでキャバレーのバンドで働いた こともある。だが、バンドマスター から「お前が弾くと音をはずすから、 ベースを抱えて立っているだけでい い」と、バカにされただけで教えても もらえなかった。一人前に弾けるよ うになりたかったら、先輩の芸を盗 むしかない。プロになりたかったら 自分の力ではい上がるしかないのだ ということを、音楽の世界で学んだ。 芝居の稽古とアルバイトに熱中し ていたために、気がついてみたら 位をかなり取りそこなっていた。こ いつは留年間違いなしと観念した時、 ちょうど劇団民芸"が新人を募集 していることを知った。 よし、一丁受けてやれ!と、 るーい気持ちで応募してみたら、こ れがなんとスンナリ合格。早々に大 学を中退〝民芸〟演技部研究生の生 活が始まった。念願のプロの俳優と しての修業が始まったのだ。 だが、通ってみると、何となくし っくりしない。早い話が、どうも新 劇というやつが肌に合わないのだ。 新しがっているクセにやることが古 めかしい。セクト的で妙にオツにす ましているところも気に入らない。 新劇なんて名ばかりだ・・・・・・。こんな 気分でいた時に、日本舞踊の稽古を するから浴衣を持ってらっしゃーい、 ときた。とたんに夢がスーッと覚め て、もう行く気がゼーンゼンしなく なってしまった。予想通り一年後に は整理されてチョンとなった。 することがなくて困っていたら、 大学時代の先輩から新しいグループ を結成して演劇活動を始めるから参 加しないかと、誘いを受けた。早速 加入。若いグループとしてラジオや テレビ局から歓迎され、仕事もでき るようになってきた。昭和三十二年 ごろのことである。 まだ駆け出しの新人だから、どこ へ行っても共演者はこの道の先輩ば かり。その先輩の一人にテアトル・ エコー"の熊倉一雄がいた。この熊 倉先輩が、仕事の帰りによく彼に声 をかけてくれて、銀座界わいの高級 な店で飲ませてくれた。初めて見る 上等のウイスキーを熊倉先輩は軽く あける。「オレもいつかはこんな酒を 飲めるようになれるのだろうか......」 と感激しつつもグラスを傾け、遠慮 なくドンドン飲んだものだ。 そんなある日、テレビの仕事が終 わった後、例によって、「ヤスベエ、 今晩オヒマ!!」と、熊倉先輩にささ やかれた。ヤスベエ、いそいそと、 「ゼーンゼンヒマ、ナーンニモナイ ノ」と答えた のが運のツキ。 いや、開運と なったのだ。 早速、熊倉 先輩、タクシ を拾うと ヤスベエを押 し込めてスタ ート。「アレレ、 今日は方角が 違うかな?」 と気がついた 時には、もう 目的地に着い ていた。そこ は"エコー" の稽古場、ち ょうど舞台稽 古の真っ最中 であった。 そして、彼 がポーッとし ている間に、 彼はその舞台 に出演する人 となってしま った。 こうして、 彼の”エコー" 入団が決まった。彼に言わせれば、 先輩、熊倉一雄は〝人さらいのクマ ちゃん"なのだそうである。しかし、 もし彼がこのクマちゃん"に会っ ていなかったら、山田康雄の〝ルパ ン三世〟は誕生しなかったかもしれ ない。 彼が〝人さらいのクマちゃん"に さらわれて〝エコー"入りしたから こそ、後にルパン三世にキャスティ ングされる幸運をつかむことになる のである。 "エコー"に入ってから、アテレコ の仕事をやるようになった。「アニー よ銃をとれ」「ローハイド」など。こ の「ローハイド」では、若き日のク リント・イーストウッド演ずるカウ ボーイ役にキャスティングされ、名 前が新聞にものるようになった。 そ して、「コンバット」にもレギュラー 出演した。 次から次へと打たれる劇団公演に も彼は連続出演。エコー"の新人と して注目を浴び始める。彼の演技は スピーディーで一見ハチャメチャだ が、他の誰も真似することのできな い世界を創造していく。 その彼の創造性を十分に生かし、 活躍させてくれたのが、井上ひさし 作品であり、熊倉一雄の演出であっ た。 「日本人のヘソ」の公演中のことだ。 楽屋に日本テレビのディレクターが 訪ねてきた。新たに始まる「ルパン 三世」のルパン役にぜひ、という交 渉であった。ルパン役を求め探し歩 いていたら、ルパンそっくりの役者 が舞台いっぱいに跳びはねている。 そこで、早速出演交渉となったとい うわけだ。こうして、彼の「ルパン 三世」 出演が決まった。 昭和四十六年十月放映開始。しか し、わずか五カ月のはかない命で「ル パン三世」は消えた。作品が時代を 先取りしすぎたのである。それが、 五十二年十月、再び登場すると今度 はバカ受け大当たり。たちまち山田 康雄の名は、アニメファンなら誰一 人として知らぬ者のないほどに有名 になった。まさにドンピシャ、その ものズバリという好配役であったか らだ。彼自身、今後あれほど自分に フィットした役にめぐり合えるかど うか......と懐かしむ。 俳優は誰しも一生に一度でいい、 自分を存分にぶつけられる役にめぐ り合いたいと願っている。彼はその チャンスを捕え、みごとに大輪の花 を咲かせてみせてくれた。山田康雄 は本当にラッキーな男である。 (文中敬称略)

Anime Free Talk: Yōichi Kotabe

日本画をやって、 アニメ界に入る・・・

Takachiho. お名前を初めて見たのは TVの「アルプスの少女ハイジ」で でした。

Kotabe. そうですか。あの時はキ ャラクターデザインというか、作画 監督でしたね。

Takachiho. 私、あの名作シリーズの 大ファンでして、マルコ少年とか...。 それで、その制作に携わった方とお 話ししたいということで、今日、そ の願いが叶って、とてもうれしいで す。 まず、お生まれになったのはい つでしょうか?

Kotabe. 昭和十一年、台湾で生ま れ、終戦後引き揚げてきました。

Takachiho. それで、アニメのほうに はどういうきっかけで..?

Kotabe. 引き揚げてきた頃は、 わゆる何もない時代でしたから、親 戚をたよって日本中をぐるぐる回っ ていたわけですよ。そう、小学校三 年生ぐらいの頃ですか、茨城県の日 立市にいく時に、ちょうど学校の引 率で初めて見たのがディズニーの作 品だったんです。 「白雪姫」とか、 それで具体的に漫画映画というもの を意識した。それと日本の・・・・・・。

Takachiho. 「桃太郎・海の荒鷲」で すか?

Kotabe. それは台湾の頃に見てた んですよ。でも、実際に日立市で同 じ頃に見たのは、政岡憲三さんの短 編で「くもとちゅーりっぷ」。あれな んか、さすがに印象的というか、 近も見たんですが、いいですね。す ばらしい......。

Takachiho. そうですね。それで、そ の後は?

Kotabe. とにかく絵が好きという ことで、東京芸大の日本画に入りま した。だから、なんで今、漫画なん かやっているんだろうという感じな んですよ(笑い)。

Takachiho. そうすると、大学へ進ま れる時には、アニメーションをやろ うという意識で行かれたわけじゃな かったんですね。

Kotabe. いや、こういう仕事もあ るのかと、だんだんそういった気持 ちも募ってきたわけなんですよ。

Takachiho. 当時、アニメーションの 仕事は、まだそんなに一般的ではな かったんでしょ?

Kotabe. 違いますね。こういう仕 事をやるにはどうすればいいのか、 ほんとアメリカに渡ってディズニー に聞かなきゃいけないのかと、真剣 に考えましたね。 ま、漫画の絵を写 したりは好きでやってましたけど。

Takachiho. 手塚治虫)さんが「フ ィルムは生きている」を出版された のは、その頃じゃなかったかと思う んですけど、あれはごらんになりま したか?

Kotabe. あっ、読みました、読み ました。手塚さんのものは好きでし たから、だいぶ読みましたよ。 で、アニメーションというのがは じめてわかったのが「白蛇伝」 れが新聞の広告とか映画の雑誌に出 たんですよね。日本でもアニメをや ってるというんで、びっくりしちゃ ってね、それで落ちつかなくなり・・・。

Takachiho. すぐに行かれたわけです か?

Kotabe. すぐというわけじゃなか ったんですが、就職シーズンで求人 票が貼りだされていまして、その中 にあったんですよ、東映動画が

Takachiho. で、これ幸いと。

Kotabe. ええ。でも、実際の現場 を見せられたら、どうだったか。 業とか給料とか......(笑い)。

最初の仕事は猿飛 佐助の消える場面

Takachiho. やっぱり"動く"という ことが魅力でしたか?

Kotabe. やっぱりそうですね。考 えてみると、小さい頃から動きのあ るものとか、それが基本にあったみ たいですね。

Takachiho. 動くということは病みつ きになるみたいですね。

Kotabe. ま、そこが魅力でもあり、 危険なところでもあるんですよ、ア ニメーションというのは。いろんな ことが表現できるし、動きのおもし ろさに、つい引きずりこまれてしま うということですね。

Takachiho. さっきの話に戻りますが、 東映はすぐに......?

Kotabe. その当時は就職が困難だ ったでしょう。だから、クラスメー トを誘って、みんなで受けようと。 そうしたら、なんと受かったのはそ っちのほうで、実は僕が落っこっち やって、ま、がっかりしました。と ころが、何ヵ月か後に、第二次募集 があり、それで入ったわけなんです よ。東映も、これから前進、前進と いう最高に盛りあがった時期だった んですね。だから、動画部門にも、 三十人以上入ったんじゃないかな。

Takachiho. 東映の大躍進時代に入っ たわけですね。それで最初の仕事は なんだったんですか?

Kotabe. 入社して養成期間が三カ 月ぐらいあり、はじめて本物の動画 をやったわけ。「猿飛佐助」をやり ました。それも最後のほうをちょこ っと。

Takachiho. それは〝中割り"にあた るわけですか?

Kotabe. もちろん、そうです。 映はその頃、原画が終わった後、第 二原画というところに移して、ラフ 原画をちゃんとトレースし、それで その間を埋めるということをしてい ました。で、僕が最初にやったのは 佐助がドロロンと消えたり、煙みた いな姿になったりというところです。

Takachiho. それが映画になってから、 ちゃんと動くのを見たとき、やっぱ り気持ちよかったんでしょう。

Kotabe. ええ、はじめてですから 感激しましたよ。

Takachiho. 待遇なんかは、その当時 どうでしたか?

Kotabe. そんなによくなかったで すね。ふつうの初任給の平均よりは 下がっていましたから。

Takachiho. 東映動画では何本ぐらい 手がけられたんですか?

Kotabe. 「猿飛佐助」をやってから、 「アリババと四十匹の盗賊」まで。

Takachiho. 動物を使ったやつですね。

Kotabe. ええ、猫だとかが出てくる..。

Takachiho. 動画から原画に移られた のはいつごろなんですか?

Kotabe. 「わんわん忠臣蔵」から です。 はじめて原画を任せられました。

Takachiho.  あ、そうですか。僕が確 実に憶えている、見に行った映画と いうことになりますが、動きがすご くよかったことを覚えています。そ の後は?

Kotabe. いわゆる合理化で、作品 的にも盛りあがりがなくなるという か、沈滞気味だったんですね。自分 のまわりでも大塚康生)さんなど、 力のある人は出ていっちゃう...。 作 品の質は落ちている、そんなことで 悩んだりしたんですよ。

Takachiho. TVのほうは、その間、 全然おやりにならなかったのですか。

Kotabe. いや、月岡(貞夫)くん がやっていた「狼少年ケン」なんか を手伝ってね。虫プロの「鉄腕アト ム」なんかもやりました。 その時、 はじめて三コマどりを見ました。

Takachiho. 劇場用だったら、ニコマ 以上だとさびしくなりませんか?

Kotabe. でも、「わんぱく王子の 大蛇退治」なんか、火の神、火山が 爆発するところでは、四コマや六コ マどりをしたんですよ。「安寿と厨子 王」なんかでも、家がくずれるとこ ろはそうですね。その時、これでも 見せられるんだなあと思いましたね。 ただ、ふつうの動きに三コマどりを 使うというのにはびっくりし、とま どいましたけど。

Takachiho. それを月岡さんが仕切っ ていたと......。

Kotabe. そうです。それでTVっ て、こんなに手を抜いてもいいのか と(笑い)。でも、ただ手を抜くんじ やなく、効果とかポーズを考えなき ゃいけない......。

Takachiho. TVは顔のアップが中心 ですからね。全身入れると見えませ んから......。

Kotabe. まっ、そういうことをだ んだん発見していきますね。TVC や、こまかいことをやっても効果が でないとか。そんなことで一度、T V専門にやったのが「風のフジ丸」。 楠部(大吉郎)さんが始めた関係で、 そっちの班に入ったんです。サブチ ーフという肩書きで。

「パンダコパンダ」 は、ピッピの世界

Takachiho. ところで、東映を出られ るきっかけになったのは、どういう 事情からだったんでしょうか?

Kotabe. 具体的には大塚さんがや らなきゃいけなかった「空飛ぶ幽霊 船」を、彼が出ていってしまったの で、僕が作画監督をやらなければな らなくなった。ちょうどその作画の スタッフも、そのまま引きついでや ることになったんですよ。それで、 その後、「アリババと四十匹の盗賊」 で自分の気持ちが落ちこんでいる時 に、大塚さんと楠部さんから、「長 くつ下のピッピ」をやろうという話 があったんです。当時、ロボットも の全盛で、東映では考えられない企 画でしたし、それで出たわけです。

Takachiho. その時、まだ大塚さんは 「ルパン三世」はやってなかったんで すか?

Kotabe. いや、何話か進んでいま したよ。その時、東映を出たのが高 畑(勲)さんとか宮崎 (駿)さんで した。

Takachiho. それでAプロに行かれた わけですね。

Kotabe. そうです。 すでに大塚さ んは準備にかかっており、楠部さん はパイロットフィルムをつくったり していたんですよ。だけど、大塚さ んは「ルパン三世」があってできな いから、高畑さん、宮崎さん、そし て僕がその具体的な準備をはじめま した。宮崎さんが場景から設定まで なにもかもやってましたので、彼が 全権を担って原作者に会いに行った んですけど、なんと版権がとれなく て.......。

Takachiho. 理由はなんだったんです か。キャラクターがだめだとか・・・・・・

Kotabe. いやいや、その時はね、 エコノミックアニマルにはやらさな い(笑い)ってことだったらしいで すよ。絵柄も見てないうちにおこと わりなんだから、みんなガックリき ちゃってね……。その代わりになっ たのが「パンダコパンダ」なんです。

Takachiho. ちょうどパンダブームが 湧き起こった……?

Kotabe. いや、全然関係ない。あ のブームでつくったと思われると、 まちがいですね。

Takachiho. そういえば、すでにパン ダは東映動画の「白蛇伝」でも出て いたんですね。

Kotabe. そうなんです。 宮崎さん 高畑さんが、頭をひねってつくっ ちゃったんですよ。

Takachiho. 僕はあの「パンダコパン ダ」をずっと見てなくて、今年の正 月 (東京) 池袋の文芸座地下でや った時に、安彦良和)さんと見に 行ってきました。あの動きのリズム は実にいいですね。

Kotabe. 当時としては、あれでノ ンビリした世界だったんですよ。そ れがもっともだという時代だったん ですね。

Takachiho. たしか、怪獣ものと併映 だったですね。

Kotabe. 「ゴジラ」のなんとかとい っしょだったでしょ・・・・・・。 あの「パ ンダコパンダ」の世界は、ピッピの 世界でやろうとしていた世界なんで すよ。

Takachiho. その当時は堕落した怪獣 ものを見るのがいやで、行こうかど うか悩んで、結局、見逃しちゃった んです。 この間見て、中編のよさを つくづく感じました。

Kotabe. そうですよ。

Takachiho. ディズニーなんかも、 編をたくさんつくってますよね。

Kotabe. ほどよくまとめられ、チ ームもそう大きくしなくてすみます から......。 最近、ああいうのがない のは残念ですよ。

アニメづくりでは 初めての海外ロケ

Takachiho. 「パンダコパンダ」の後 は、TVのほうに......?

Kotabe. 「ルパン三世」の手伝い に行ったり.....。

Takachiho. 第一期の、ですか?

Kotabe. そうです。その後、「赤胴 鈴之助」で楠部さんのサブにつき、 「荒野の少年イサム」なんてのがあ ったりして....。

Takachiho. ずっと(東京) ムービー 系列ですね。

Kotabe. ところが、やろうとした 作品が出そうもないとか、Aプロと しても抱えた人間をなんに使ってい いかわからない事態になってきた。 そんな時に、ズイヨーから「アルプ スの少女ハイジ」の話があったんで すよ。辞めるのはいやだったんです が、やっぱり何かやりたいという気 持ちが強くって、また、三人まとま って出たんです。だから、ハイジに もピッピの精神が流れているんです。

Takachiho. この作品も、当時のアニ メでは考えられないくらい完全なロ ケハンがなされたということで、僕 なんか度肝を抜かれました。驚いた のは、〝兼高かおる世界の旅”でい イジのふるさとをやったことがあり ましてね。それとまったく同じ水飲 み場が、ちゃんと絵で表現されていた りしたことですよ。

Kotabe. アニメのためのロケハン で、海外へ行ったなんて、あれが初 めてでしょう。

Takachiho. 何人ぐらいで行ったので すか?

Kotabe. 総勢六人でしたか。当時 は見たものを作品に表さなければ、 という意気込みがあり、緊張したも のです。それ以降は、なにかロケハ ンが通例になってね(笑い)。たしか に、それはやっただけのことはあり ました。

Takachiho. 髪型ひとつにしても、そ れまでのハイジのイメージとはずい ぶんちがうものにされていました。

Kotabe. そうです。やっぱり原作 をちゃんと読み、その上で現場を見 たり、いろんなものを参考にしてい ったら、ああなっちゃうんですよ。 絵ハガキからくるイメージではなく やっぱり生活感というものを出そう と、努力しました。

Takachiho. 特にペーターなんかよか った。それからペーターのおばあさ ん。原作者にはわるいけれども、原 作よりずっとよかった。

Kotabe. でも、ある面では危険な ことでもあるわけ。いつかラジオで なにげなく聞いていたら、ある人が せっかく少女時代から描いていたイ メージが、あれで壊されました(笑 い)、といっていました。それ聞いて わるいなあって思いましたよ。そう いう功罪はあります。でも、僕らも 最初は不安だったんです。

Takachiho. ハイジの後がすぐ「母を たずねて三千里」でしたね。あんな 短い原作を、みごとにふくらまして ・・・・。画家の立場としては、想像力の 広がりをどのように発展させていっ たわけですか?

Kotabe. 画家のほうはいいかげん でもいいんですけどね(笑い)。ちが ったキャラクターをつくるとか・・・。

Takachiho. たとえばアメディオとい う猿ですね。あれはどなたが考えた んですか?

Kotabe. 僕なんですけど、あれは 僕自身もおもしろいと思っているん です。でも、あれだって実はピッピ の流れを汲んでいる。ナントカシュ て猿が出てきたでしょう。

Takachiho. うちの会社にはアメディ オのファンがいまして、私もそうだ ったんですが、アメディオ人形を買 い集めたんですよ。カルピスでもプ レゼント用に使ったし、大小とりま ぜて三十匹ぐらいが彼の机の前に、 今も飾ってあるんです(笑い)。

Kotabe. あの人形はつくりにくか ったんじゃないのかな。こちらに一 回持ってこられたらよかったんです よ。ハイジの時はヨーゼフの人形を つくって人形屋さんが持ってきたん です。 そこで僕らがここをこうやっ たら似るとかアドバイスしました。

Takachiho. 私のほうでも全部つくり なおしましたよ。 あんなに目玉は小 さくないですから......。

Kotabe. そうですね。大きくて、 キョロってしている......。

Takachiho. 「ハイジ」と「三千里」の二 作で、あとあのシリーズにはタッチ なさらなくなりましたが......?

Kotabe. 「三千里」がシンドかった んです。路線的には、もうさかさまに しても新しいものは出せないって・・・、 それで今度はフリーになってみんな の手伝いでもしようと考えたわけで す。そしたら、東映のほうから、「龍 の子太郎」の話がきたんですよ。

浦山監督との出会 いは貴重な経験・・・

Takachiho. 実写の監督と組まれたの は、この作品が初めてですね。いか がでしたか、その違いは?

Kotabe. 最初は不安だったんです。 それも監督に対する不安ではなく、 「龍の子太郎」に対する不安があっ たんですよね。実は東映にいる頃、 この企画を大塚さんと高畑さんが出 していたんですよ。それが企画段階 でポシャって、代わりに「太陽の王子 ホルスの冒険」になったといういき さつがあるものですから、高畑さん をさしおいてやるということがいや だったんですね。

Takachiho. 結果はどうだったんでし ょうか?

Kotabe. いや、よかったですよ。 やっぱり自分にとっていい経験にな りました。監督の浦山 (桐郎)さん ていえば、僕は「キューポラのある 街」しか知らなかったんですが、演 出らしい演出というのかなあ、作品 を考えぬいてくれる人は、僕、尊敬 しちゃうわけです。シナリオを見て、 アッと思ったですよ。 高畑さんもす ごいけど、 浦山さんもとにかくすご かった......。

Takachiho. 監督っていえば、小田部さんは演出をされたことは?

Kotabe. いや、とんでもない。 監 督っていうと、 いかめしい感じがし て(笑い)。演出と呼び慣れてきまし だけど、それでもおそろしくていや です。

Takachiho. すると、絵一筋、作画一 筋という......。

Kotabe. 自分として精一杯かかれ るのは、絵だけですし、それを離れ たら何もできないと思いますから、 とっても演出ってのはね。そんな器 じゃないですよ。

Takachiho. いやいや、ずっと作画を やられ、わりとリズムというか、そ ういうことから演出が可能ではない かと思うんですが。

Kotabe. そんなこともできないわ けじゃないんでしょうけど・・・

Takachiho. ところで、最近の作品と いえば「じゃりン子チエ」が「龍の 子太郎」のあとにくるわけですか?

Kotabe. その間にもう一本あった んです。それで海外ロケまでしたん ですよ。ところが、それがポシャっ ちゃいましてブラブラしていました から、大塚さんのところに遊びに行 ったんですよ。そしたら、「こんな 作品があるんだよ」 「アッ、それ、 おもしろいですよ」なんていってい るうちに、「やってよ」ってなことに なった。それが「じゃりン子チエ」 なんです。

Takachiho. 劇場版のものですね。ジ エットコースターのシーンなんかも おやりになったんですか?

Kotabe. いや、僕が描いたのでは ありません。あれはテレコムの人の 原画なんですよ。

Takachiho. では、キャラクターだけ なんですか?

Kotabe. ええ、そうです。あとは 設定図にして、その作画チェック。 それをやってたんですよ。

Takachiho. 現在はどんな作品にかか わっておられるんですか?

Kotabe. 今のところ、NHKで放 映中の「名犬ジョリー」を手伝って いるんですよ。

動きの点検ができない体制が不満だ

Takachiho. ずっと作画のほうでやっ てこられてどうですか、日本のアニ メ界は?

Kotabe. 長さでいえばね。でも、 自分としてはいっこうにうまくなら なくて。アニメーションって、すぐ 描けるものであって、それでなかな か.......。

Takachiho. こんなに脚光を浴びると は思われなかったんじゃないですか。

Kotabe. いや、まったく想像しな かったですね。だって、最初にいっ たように、僕は漫画ってのはわから ないし、むしろ馬鹿にされたほうで すから。おまけに、むかしは動画 ていったんですよ。しかもドウがっ ていえば、童画と思われた。それで いちいち説明したりして…。 それ が最近ではアニメっていえば通じる んですから(笑い)。

Takachiho. 仕事はだいぶセーブされ ているようですね。

Kotabe. 今のところ、うまくいっ ているというか、いやな作品にはあ たっていない。幸せみたいな感じで すが、僕みたいにフリーっていうの は、華やかにみえるでしょうけど、 そうじゃないですからね。

Takachiho. 全般的に不満は多いです からね。私も今は小説書いてやって いますけど、アニメの仕事をやって いた当時は、かなり不満をもってい ましたよ。本人はそのつもりでなく ても、いいかげんにやってしまうと いう人がすごく多かった......。

Kotabe. そう、そこなんだ。本人 はそのつもりじゃなくても、やっぱ りそういう場がないと。 アニメーシ ョンっていうのは、一人でいくら一 所懸命やろうとしてもだめなんです。 大事なのはスタッフ。でも、いい脚 本がなければ、それも生きませんし、 総合芸術っていいますが、その通り なんですね。

Takachiho. 恵まれるかどうかっての は、運・不運もあるでしょうし......。

Kotabe. ある芯ができれば、スタ ッフがただのスタッフじゃなくなる んですよ。ある作品づくりのために 人が集まってきて、一人一人が熱中 しだし、よしっていう気になったと きがいいんです。自分があれをやっ た、これをやったじゃなく....。 つ まり、苦しくても、できたものにつ いては、それぞれ動画にしろ、仕上 げにしろ、それぞれの努力が作品の 重要性につながっていく…。

Takachiho. それが骨になって、 肉に なって、かたちができていく・・・・。

Kotabe. そういうつくりかたね。

Takachiho. 全体的に見れば、もうと にかく一つのレベルに達してしまっ ているという......。

Kotabe. そうなんですよ。

Takachiho. それは、いわゆる共同で 作業するいちばんいいかたちですね。 その意味では、理想的なかたちで仕 事をやっておられるという感じで・・・。

Kotabe. 僕は、今のアニメーショ ンは、せっかくいいものができそう なのに、まだ足りない問題は、もう 一回見直そうとする余裕がないこと なんですよ。スケジュールに追われ すぎて、フィルムテストもできない。 手探りで、自分の経験だけでやって いかざるをえないわけですよね。や はり、なにかをつくる以上、アニメ ーターの側からいえば、動きの点検 がもっとできるシステムになれば、 もっといいものができると思うんで すよ。だから、そういう体制ができ るといいですね。

Takachiho. なにか、最近はビデオに 撮って、それをすぐに映して見れる というシステムがあるそうなんです けど......。

Kotabe. だけど、それも聞いてみ たら、ほんとに活用しきってないと いうんですよ。

Takachiho. 今度、私の作品で「クラ ッシャージョウ」っていう作品がア ニメになるんです。安彦良和)さ んが監督で、それにできる限りそう いうシステムを導入して、チェック してやっていきたいと思っているん ですが。

Kotabe. それはすごいですね。で、 ちゃんと機械はもう...?

Takachiho. ええ、手配できるように なっているんですよ。安彦さんもい っているんですが、目標を「カリオ ストロの城」において、ああいうア ニメーティングでつくっていきたい と考えているんですよ。

Kotabe. あれだって、まったくの 手探りだったですもんね。もっと、 そういうのを駆使したら......。

Takachiho. そうですね。あの塔の上 から滑り落ちていく展開のリズムは、 ものすごいテンポでしたから......あ あいったものを、とにかく表現でき たらって話しあっているんですよ。

We're Anime People: Jiro Saito

ボクはテレビっ子世代のアニメ人間!!

いわゆるテレビっ子世代ですから、子供のころ から子供番組を見て育ちましたね。とりたててア ニメが好きだということはなく、虫プロの作品や 「巨人の星」が記憶に残っている程度ですね。 浪人 時代に見た「岸辺のアルバム」には大感激しました。 それで、演出に興味と野望をいだいて横浜放送映 画専門学院に入学しました。そこでは、CMゼミ をとって、CFの演出ばかり考える日々を送って ました。好きなCMは、サントリーの中国編シリ ーズや、アカプルコなどかな......!? 別にアニメ のCMに気をつけて見ることはないけれど、ユー モアのある演出感覚が感じられる作品に会うとう れしいですね。 演出をやる手段としてアニメ界へ!!

今年の2月に日本アニメーションに入社しまし た。「フーセンのドラ太郎」の演出助手が初仕事で す。 アニメのファンというわけでもなかったし、 アニメの制作も知らないで入ってきたので、とに かく単純なミスも多かったですね。 使わないカッ トをリテークに出したり、ロパクのリテークを動 画に持っていかなきゃいけないのに、仕上げのほ うに持っていったりと、今でもあの恥ずかしい気 持ちがよみがえりますね。現在の「ふしぎな島の フローネ」にきたのが今年の7月です。 「ドラ太 郎」の時は動物が主人公だったから、「フローネ」 の人間ドラマには最初とまどったものです。それ に、アフレコに画面が間にあわず、線どり(セリ フを時間にあわせて画面を見ないで録音すること) も初体験で、毎日が勉強の日々ですね。これから、 「フローネ」には新たな漂流者が加わり、展開が複 雑になって、内容がより充実してくると思います。 演出の感覚をみがくために映画を観たい!!

ひまができれば映画を観たいですね。といって も、ほとんど泊まり込みのような日々だからなか なか行けないけれど、「エレファント・マン」「ブリキ の太鼓」「コンペティション」などが最近観た映画 です。音楽はリンダ・ロンシュタット、イーグル ス、ジャクソン・ブラウンかな。 夢は30秒のCFの演出だ!!

演出といっても、映画もあればテレビドラマも あるし、アニメもマンガに演出が加わったものと いう気がするので、何の演出でも、それなりに特性 を生かしてと思いますね。その中でとなると、学 生時代から30秒のCF作りが好きで、この短い時 間で完璧な演出をやってみたいとあこがれますね。

December

My Anime Life: Hiroshi Sasagawa

ギャグよりも冒険 探偵ものに熱中・・・

紙芝居
「子どものころはからだ もあまり丈夫ではなかったし、背も 小さいほうだったんですよ。けっし 内向的な性格ではなかったんです けど、室内で遊ぶことが多かったで すね。 たとえば、近所の子どもを集めて 紙芝居を見せてやったりしました。 だれも見にこないと、お菓子を配っ て見にきてくれと。それを食べたく てくる子どもがいっぱいいると思っ ていたんですよ。それで得意になっ 自分の描いたものを見せてやった りしていました。何かを描いて他人 に見せるのが好きだったんです」

いちばんくやしかったこと
「そ れだけに、そうやって描いたものを 破られたこと 呼ばれて、すぐ行 なかったので、兄貴が怒って破っ ちゃったんです。おとなにしてみれ ば、なんだ、こんなもの…〟と思 うんでしょうけど、本人にしてみれ ばくやくて、今でもそ れが鮮烈に残っています」

最初の進路決定
「中学二、三年 のころだったかなあ・・・漫画家になろ うか、さし絵画家になろうか、ずい ぶん迷いました。結局、さし絵とい うのは人の考えたものに対しての絵 ですし、漫画だったら自分のアイデ アが入りますので、漫画家になるほ うがいいのではないかと 」

漫画との遭遇
「手塚治虫さんの 漫画と、島田啓三さんの漫画本『冒 険ダン吉』とかね、あのへんが漫画 との出会いでした。特に、昭和二十 五年に出た『漫画大学』は、かなり の刺激になりました」

プロ漫画家へのきっかけ
「それで描きだしたんです けども、いまほどそういう 情報がありませんし、(福島県の会 津若松なんかにいると、仲間もいな いんです。だから描くだけなんです よ。それが手塚治虫さんの『漫画大 学』を見まして、ペンはこういうの を使うんだなといったことを知った のです。 とにかく見よう見真似で描いてい るだけでしたから、投稿の仕 方も何も知らない・・・。それで 僕の場合は手塚治虫さんに直 接、しかも大量に描いたもの を送っていたんですよ。だか ら、絵がうまいへた よりもこいつは熱 心な奴だ"と先生は 思われたかも知れま せん。先生から手紙 をいただきまして、 "どこにも出さない で描きなさい”と言 われたのです。それ 勇気が出て、描い ては送り、描いては 送りを繰り返していました」

はじめて観た漫画映画
「僕が観 た最初の漫画映画は、『ポパイ』で す。当時、一年に一回か二回短編が きまして、それをふつうの劇映画の 間にポッとやる ー。また、ギャグ作 品では『のらくろ』の映画なんかも 観てましたね。それから何の作品だ ったか忘れてしまいましたが、サー カスの場面で、丸い太鼓を破ってブ タが飛びだしてくる・・・あの意外性が 強烈に残っています」

熱中した本
「漫画のネタを探そ うという特別の気持ちで読んだこと はありません。ただ、ちょっと生意 気になってきて、横溝正史)さん のものとか、江戸川乱歩)さんのも のを熱心に読みました。本は結構読 んだほうだと思います。 南洋一郎さ んの『吼える密林』なども好きだっ たですね。ギャグ的なものより冒険 もの、それにミステリーものが好き でした」

漫画の世界に入る前
「うちのほ うは漆器業が多いんですよ。町中が 漆塗りをやっていましたからね。漆 絵を描いたりといった、そういう 仕事をちょっとやっていました」

漫画デビュー作も やっぱり探偵もの

上京
「そんなときに、手塚治虫 さんから出てこい”ということに なったんです。でもね、僕みたいの ということで、親はもちろん反対 です。大体、そういう仲間がいない から、皆目見当もつかない・・・。 前後しますが、それでも漫画家志 望の同志を会津で呼びかけたら、四、 五人は集まりました。当時、東日本 漫画研究会を主宰していた石森章太 郎さんのお名前はすでに知っていま した。しかし、別の場所のグループ ということで、あまり意識はなかっ ですね。 まっ、僕たちのグループの中で上 京したのは、僕と平田昭吾) 君、 そしてもうひとり(いまは、どこに いるかわからないのですが)、順番 に手塚先生の門を叩きました。昭和 三十一、二年にかけてのことで、手 塚先生が新宿の初台におられたころ ですよ」

漫画家との交友
「当時、手塚先 生のところにはいろんな方が見えま してね。 古谷三敏君とか松本零士さ んなんかにも、よくお話をしてもら ったんですけど…。 つのだじろうさ んね、彼がいちばん先に僕に手紙を くれたんですよ。上京してから何回 会って、彼は理髪店のビルの下か なんかで描いてましたね。それから 高井研一郎さんなんかにもよく会い ました」

自立
「手塚先生のところにいた ということがよかったんでしょうね。 いろんな雑誌の編集の方と知りあい になったし、よく増刊号みたいのに ちょっと描いてみないかと言われて、 スペースをもらったり、付録なんか の漫画もずいぶん描きました。デビ ュー作は『少年画報』に掲載の『探 『偵学校』です。僕にとって初めての 連載でもあり、それがきっかけとな って少年画報社の専属になったんで す」

ギャグ漫画の動機
「しばらくは 手塚流で、アクションといっても、 今みたいにハードなものではありま た。その後の『鉄腕ベビー』 『魔犬ゴロー』にしても、まだまだ SF調、冒険調みたいなものだった んです。そして『少年マガジン』に 載せた『少年社長』 ―これは久米 みのるさんの原作で、少年サラリー マンものだったんですが、これもあ まりギャグ調にならなかった・・・。 ギャグ漫画のきっかけになったの は『ワンワン刑事』(『少年マガジン』 連載)。こういうものが体質的に合っ ているんじゃないかと思うようにな りました。描いたらみんなが喜んで くれて、ギャグ漫画というのはおも しろいもんだなって…」

アシスタント時代の想い出
「さ っきも言いましたように、編集者と 先生の間にはさまって、それが辛か ったですね。〝先生、二階でやってい る?"なんて聞かれて、実は二階に いなかったり、先生が寝るとき、〝何 時に起こせ"というんです。ところ カ 起こしても起きない。起こさな ければ叱られるでしょ。 いっしょに 仕事をやっていると、起こすのもか わいそうだし、起こすと”あと二分、 あと五分"という調子でしたから、 そのへんが本当に辛かったですね。 また、当時、先生は大阪に通われ ていて、原稿を向こうから送ってき ていたんです。それをこっちで着色 するわけですが、その指定を電話で するんですよ。"何コマ目のヒゲ親 父の洋服はグリーンの何号〟とか、 右端の部分はピンクの二〇"とい った具合に・・・、それも大体手塚先生 が決めたもので、今のアニメみたい に絵の上に番号がふってあって、そ れを塗れば間違いないというのでは なかった。それを一コマずつ、 "一回しか言いませんから、よ く聴いていてください"と言っ て、パッパッパッと電話で送っ てくる。それで塗りあがったこ ろ、先生が東京に戻って見え、 原稿を見る ちゃんと覚え ていて、 “ピンクなんて言いま せんよ、黄色って言いました" なんてことが、ずいぶんありました。 色の塗りかたなんて、本当にきたえ られました」

制作受注してから 動画養成所に入門

漫画からアニメへの転進
「これ には二つの理由があるんです。ひと つはアニメのほうが立体的になるで しょ。 その魅力がたまらなかったこ と。もうひとつはテレビが盛んにな ってきて、廃刊になる雑誌が当時増 え、その将来が危ぶまれ、そういう ものがなくなってしまうんではない かと思ったんです。〝これからはテ レビの時代ではないか"と、本当に 思いこんだんです。仲間からは〝横 道にそれることになるんだぞ”って 言われました。 しかし〝漫画である ことに変わりないんだから"と決心 したんです」

竜の子プロ
「同時に、チャンス の場というのがあったんです。亡く なった吉田竜夫さんと話をしている うちに、彼も同じような悩みと夢が あったんですね。彼はもともと絵の 描きかたでも、手塚先生のように全 部自分でやる方式をとっていなかっ た……。たとえば、主人公の顔にして も、あらかじめ横向き、前向き、後 ろ向き、大きいのや小さいのをとっ ておいて、ハサミで切り 貼りするといった具 合いに、合理的とい うかテレビ向き だったんです。 そういう人で したから、僕ら よりも事業にし たいという気持ちが強 かったんでしょう。そ れがきっかけになって、 アニメをやろうという ことになったんです」

第一作まで
「ところが、絵がす こし描けるというだけで、アニメ制 作のルールも何も知らないまったく の素人。たまたま、吉田さんのとこ ろに東映動画からアニメをやってみ ませんかという話がきて、原作、絵 コンテ、キャラクターまでやりまし ょうということになった。それにし ても何も知らないですから、東映動 画の養成所に特別入門させてもらい ました。準備かたがた、六ヵ月ほど 動画を一からやりなおしたんです。 そしてできあがったのが『宇宙エー ス』なんですよ」

TVアニメ制作の苦労
「いちば んきつかったのは『マッハGO、 O、GO』のころでした。竜の子プ ロにとっては第二作目で、初めての カラー作品だったでしょ。未知への 挑戦とはいえ、いろいろ問題があり ました。 カラー作品でありながら、当時 はまだ白黒TVで視聴 している家庭が多かったわけですよ。 だから白黒で視聴している場合を考 えた色つけをしないといけないんで す。失敗は「紅三四郎」で、目立つだ ろうと赤い柔道着にしたんですよ。 ところが白黒では赤が灰色に見えて しまう。恰好よくもなんともなくな ってしまいました。 それと『科学忍者隊ガッチャマン II』も苦労させられました。これは 竜の子プロの看板ですから、第二作 をやるか、やらないか、やろうと思 うと企画倒れになったんです。スケ ジュール的にも技術的にも大変では ないかと。 第一作の監督はもう燃え尽きて 無理だ"と言うんですよ。当時の僕 そこの長でしたから、やらざるを 得なくなって。あれはホントにしん どかった…」

ギャグアイデアは ギリギリまで待つ

アイデアの発想
「みんなとしゃ べっているときに出てきます。だか ら、いつも”何かないか"と言って から始まります。当時、何もないわ けです。それで、こっちから言いだ しますよ。〝これでやったらどうだ ろう”って。それに対しての手応え がありますよね。それに対して、ま さらに追いかけていく・・・。 漫画家 時代も何かないかい”って、身内 の者にいつも言っていましたから。 アニメの場合、一週間一本となっ てきますと、たえず"何かないか" の連続です。その点、ディスカッシ ョン・システムでやっていれば、ギ ャグのアイデアが枯渇することは、 まずないかもしれません。ちょっと したヒントをグーッと広げることは 訓練でできるんじゃないでしょうか」

ギャグの演出
「アイデアが出な いときは、みんな苦しんで下を向い ていても、とにかく追いかけ、しつ こくやります。まっ、テレビの場合、 スケジュールというのが絶対でしょ。 これに負けないというか、とことん まで、ギリギリまで待つということ ですよ。 "まあ、いいやっ" というときは必ず あります。 それをもうちょっと我慢して今日 は何も生まれなかったけれど、 は何か生まれるかもしれない” のしつこさ"が大事だと思うんで す。本当はそこまで時間があるはず なんです。 とにかく今日のものが絶 対じゃないのですから、明日のアイ デアへの期待感を持つように心がけ ています」

演出記念作
「机上アイデアでは なくて、映画的なテクニックのアイ デアというのがありますね。『ドカ チン』の放送分は残念ながら白黒だ ったんですけど、実は二、三本をカ ラーでつくっているんです。 これなんか大きな模型を造っ 実写と合成したんですが、 ひじょうによくできていて、 合成が気づかれないくらい融 和して、そのへんが実に楽し た。『おらあグズラだ ど』なんかヘリコ プターで撮影させ てもらったり、その意味では 想い出に残っていますよ」

好きなジャンル
「映画づ くりでテクニック の楽しさはギャグもののほうが少な い。 平面的というか、作画上のテク ニックは必要ないですから・・・。 その 点、SFものはいくら追っても奥が ない。まっ、ギャグもそうかもしれ ませんが」


ロングラン作品の秘密 「タイム ボカンシリーズの場合、一年ずつ まわりが変わってくるでしょ。です から、視聴者の底辺は同じですが、 パターンが変わってくるので、ちょ うど飽きてきたり、慣れてきたとき に新しいものがでてくる。その意味 で、一年というのはいいサイクルじ ゃないかと思うし、それが新しいん じゃないですか。それから悪役だけ を残して、あとは全部代えるという やりかたは、他にありません。 声優 さんでも、主役を新しい方に代えて もらっている、そんなところに人気 の秘密があるんじゃないでしょうか」

新ジャンルへの挑戦作
「制作ス ケジュールのきつさと、子どもっぽ を取り払ったという点では『怪盗 ルパン813の謎』は苦労しました。 推理ものだけに、ひじょうに理屈っ ぽいわけですよ。ダラダラしてしま うと離れられますし、ずっと引きず っていけるようなテンポにもっとし たかったんですが。 また、『青い鳥』については、い 勉強をさせてもらいました。とい うのは、僕自身、この作品について はよく知っていたつもりだったんで すよ。ところが、実はあんまり知っ ていないことに気づいたんです。始 める前に、専門の学者、研究者に会 って話を聞くと、みんな解釈が違う んです。青い鳥とは自由である" という方もいますが、〝真実である" という方もいて、どれが本当だかわ からない。それで、僕らサイドでは "真実"にしようとしました。 帯番組 だったので、哲学的なことを言って もわからないと冒険ものにしたが、 けっしてチルチルミチルという人 形劇でやる世界はやめようと...。 昔、書かれたものだから、世の中に はわからないことがいっぱいあるわ けで、それをわからせまいとする何 か、たとえば努力とかね、それをア ニメで表現するむずかしさを思い知 らされました」

好きな作品
「ちょっと極端かも しれませんが、『日本昔ばなし』で すか、あれはいいと思います。芸術 的にいいことはもちろんですが、ま 竜の子プロのリアルさというか、 しつこさというか、これも他にちょ っとなく、作品としては好きです。 これが竜の子プロの体質で、それを 失って欲しくありませんね」

これからの布石
「SFがかった ミステリーものをやってみたいです。 というのは、SFものはともすれば ヒーローものになり、肉弾戦になり がちでしょ。もうすこし頭脳プレイ でハラハラさせられるものがあって もいいんではないでしょうか」

無理をしない"で 流れる風に任せる
同業者として一言
「このごろの アニメ制作は、ひとつの作品づくり が始まると、連合スタッフになるん です。そのため、特色がなくなって きています。スケジュール上、そう せざるを得ない状況なんですが、ス タッフが三本くらいかけもちでやっ ているでしょ。ですから、ゆっくり 議論なんかする時間もなくなってい ます。たとえば”打ちあわせします" と言えば、いろんな人が見えますね。 ところが、必ずしも、その人が描く わけではない。持ち帰ってだれかに やらせるわけです。合理的というか、 分業化されたというか、電話一本で どんなスタッフでも集まるわけです が、どこで、だれが、どういう状態 で描いているか、まったく見当もつ きません。指揮者がいくら指揮棒を 振っても、演奏者がどこにいるかわ からない。それでいて慣れというの か、作品ができちゃうんだから。た しかに、技術は上がっているし、ひ とりひとりがプロフェショナルにな っています。しかし、それじゃ血が 通いません。アニメは手づくりの味 なんです。それを失ってしまった というもどかしさは、どうしようも ないですね」

自分の職業
「そういうもどかし さとは別に、この職業を選んでよか ったと、つくづく思います。おおげ さに言えば、いつ死んでもいいとい った心境・・・趣味が職業になっちゃっ ていますから。他に、趣味と言える ようなものがありません」

気分転換
「昨年、麻雀を教えて もらい、それが楽しみになってきま した。まだおぼえたてですが、スト レスの解消には実にいい。今日勝て ば、明日いいことがあると思ってや るでしょ、気分がよくなってギャグ の出方も違ってくる。ここは進んだ ほうがいいか、後退したほうがいい かということがあるとするでしょ。 僕は漫画家になるときと、アニメに 向かったときと、そういう経験を二 回していますから・・・それが麻雀の場 合、瞬間的に判断を迫られる。そこ になんか人生と相通ずるも あっ ていいんですね。 あとは映画を観に行ったり 目的 もなしに東京中を歩き回ることくら いが、僕の気分転換法といったとこ ろですか」

嗜好品
「タバコはまったくやり ません。アルコールも軽くたしなむ 程度で、雰囲気だけを楽しむほう」

睡眠時間と食事 「平均五、六時 間といったところ。アイデアに苦し んだりして月に二回くらい眠れなく なることがあります、食事はひじょ うに規則的です。漫画家のほうが不 規則ですね。アニメのほうは大勢で やっていますから、いざという場合 代役がき きますから」

スポーツ
「健康のた めに、水泳をちょ っとやる程度。週 に一度ぐらいは行 くようにしていま す。冬でも温水プ ールがあれば、そこに行きますね」

家族
「高校一年の男がひとりと、 小学五年の女の子がひとり、それに 家内の四人家族。長男が学校でアニ メーションクラブに入っているんで す。だんだん描きだしてきていると ころで、それが不気味・・・。(笑い) しかも、僕がつくっているものは あまり観ていないんです。 最初、『宇 宙戦艦ヤマト』に凝って、それが終 わったと思ったら『機動戦士ガンダ ム』。そして現在は『宇宙大作戦』に 夢中になっています。同時に、パロ ディ漫画を描いていますから、アニ メということではなくて、創作の面 が好きなのかもしれません。そのへ んが似ていると言えますね」 先輩・交友関係
「手塚先生は恩師で すし、いちばん尊敬 しています。あとは 仕事の仲間たち、久 里さんなんかも深いですね。 あとは僕の部下だった人たち ピエロの布川君とか鳥海 さんといったところですか」

生活信条
「無理をしないという こと。これは竜の子プロの社長が若 くして亡くなられたときに痛切に感 じたんです。あの方は、本当にいろ いろな波を自分で受けとめていた。 それが相当なストレスになったと思 うんですよ。それ以来、この考えか たが強くなってきまして、流れる風 といっしょに流れるという心境にな りました。だから、転んだときは転 ぶようになっていたんじゃないか、 転んだことでよくなることだってあ るでしょ。九九%うまくいって、あ ピシャッとなれば完全なものにな る。でも、その一%はわからない。こ の不思議さが人生には付きものだと 思うんです。それがおもしろいとい ったら変ですけど、ギャグって、こ の不思議要素をつくって見せるわけ でしょ、その意外性が人生なんじゃ ないでしょうかね」

Star Graph: Kaneto Shiozawa:

若き放浪者

コンサートやラジオ出演などで、国内は、 余す所なく回り、旅慣れたはずの私にしては、 ちょっとおかしな話だけれど、 先日、この年 齢にして初めて一人旅を体験することになっ た。今まで、幾度となく利用した新幹線で 乗る時は必ずだれかと一緒だった。 乗り継 ぎの事、食事の事、何ひとつ心配することな 旅をして来ていた。 使い慣れない時刻表と 駅弁とお茶を握りしめ、見つめた窓の外し だいに東京の景色が薄らいでゆくほどに、不 安で胸がいっぱいになり、本当にイイ年して、 思わず泣き出しそうになった。 そんなわけで 今回、塩沢さんにお会いして、中学生時代か ら一人旅をしていたという話を聞いて、すっ かり尊敬の眼差しを送ることになってしまっ たのである。 東京に生まれ、東京に育った彼が初めて一 人旅に選んだ所は、京都だった。それ以来彼 は、暮れもおし迫ったころになると、フラリ 京都まで出かけ、そこで年を越して、数日 過ごし、東京に戻ってくるというのが、13歳 ころから22~23歳ころまでの習わしだったそ うである。「僕が行ってないのは、四国と沖縄 ぐらいかなあ。僕の場合、 観光案内にのって る場所とか、名所といわれてる場所には、ほ とんどといっていいくらい興味がないんです よね。自分の足で歩いて、感動する場所を探 してゆくのが好きなんです。まあ早くいえば 放浪癖があるんでしょうねェ」。最近は忙しく て、フラッと旅行に行く機会も少なくなった しいけれど、暇を見つけては秩父あたりま 一人散歩に行くそうである。そしてもっぱ 以前、石神井公園の釣り堀で釣りあげてき クオレとパトラという名の、金魚鉢から溢 れるほど育ってしまった金魚を眺めながらゆ っくりグラスをかたむけるのが、旅行に代わ る楽しみの一つになっているようである。彼 は、おそらくいくつになっても若き放浪者の 心を抱いて、色々な土地を旅してゆくに違い ない。あんなやさしい眼差しをして、ちょっ ぴり孤独な匂いのする放浪者、塩沢さん。そ んなところに、やっぱり憧れちゃうのよね。

したたかな挑戦者

「僕が俳優を選んだわけっていうのはね、 が働いている時に、なんとなく遊んでる格好 をしていられるっていうか、ちょっと変だけ どそういうところにやたらひかれたんです。 それで中学の終わりころには、だいたい進路 は決めてました。 高校では勿論、演劇場に所 属して、大学は、日大の芸術学部に進みまし た。でも学園祭で僕が演出した芝居を、演劇 部の先生にあんなのは芝居じゃない” とし かられましてね、結局一年で中退しました」。 彼は、大学を中退した後、俳優の勉強を深め る為にということで、演劇学校の試験を受け ることにした。「とにかく基礎からやりたかっ たわけ。でもなぜか窓口で断られましてね、 しつこく粘っていた時、たまたまそこを通り かかったそこの学園長の口添えをもらって、 とにかく試験だけでも受けられるようになっ て合格したんです。だから、あの時学園長が 通りかかってくれなければ今の僕は存在して いないかもしれないんです」。物静かな口調の 中に感じ取られる強さと実直さて、知らない うちに彼の話の中にどんどん引き込まれてゆ 学園を卒業後、彼は塩見龍介氏に促され て、グループエイトに席を置いた。そのグル ープエイトには、現在活躍中の稲葉実さんや あつ子さんたちも在籍していた。 声優としてスタートしはじめた彼が最初に 得た仕事は、洋画の中で、崖から落ちる男の、 ワァー"という叫び声だけだった、と笑う。 でも、今やジョン&パンチから、アニメのブ ライガーまで大活躍中である。 「明日はだれに会えるかな、と毎日思ってる んです。声優として、僕以外の人を演じなき ゃいけないわけだから、まず僕自身はおいと いて出会う人になりきって仕事をすれば、よ り楽しくなると思うんですよ」。彼は、静かに、 着実に一歩ずつ、目的に向かって突き進んで ゆくしたたかな挑戦者だ。

穏やかな勝利者

ひとりっ子の彼は、13歳の時父親を、そし て、14歳の時母親を相次いで失った。 その後 ずっと祖母に育てられた。 しかし、彼の横顔 は、そんなショッキングな運命に出会ってき たとは思えないほど、屈託なく明るい。「この 世界に入ることを、一時は猛反対していた祖 母でしたが、僕がここまでこうしてこられた のは、やはり芝居をやっていたからだと言っ てます。僕にとって、やはりすべてでしょうね エ。まあ心配ばかりかけてますが、心配かけ るのもまた、親孝行だと思ってますよ」。その 大切なおばあさんとともに、年四回ほど、 両 親のお墓まいりに出かけるという。彼にも、 そして、彼のおばあさんにもはかり知れない 悲しみがあったのだろうと思う。でもこうし て、やさしく温かい彼を見ていると、人の生 き方というものを改めて、教えられるような 気がしてならなかった。「夢は・・・・? と聞か れても莫然としすぎていて答えられないんで すよね。それより現在を自分で納得できる生 き方をしていることの方が大切だと思ってい ます」。淡々と話す彼には、すばらしい説得力 があった。孤独を嫌というほど知ってきた人 だろうと思う。だからこそ、生きる強さも、 大切さも十分わかっているのだろう。 まず一 人であることを知らなければ、二人はあり得 ないと思う。そういった意味でも、彼は、人 生の、そして人間としての勝利者である。 都会を見てどう思うかという問いに「冷た 「いと思う」と、一言答えた彼に魅力を感じる のは、私だけだろうか。 塩沢さん、今度、一人旅の楽しみ方、それ 金魚の太らせ方を教えてくださいね。

We're Anime People: Mutsumi Inomata

子供のころ、アニメの仕 事に携わるとは全然思わな かった......。

子供のころは、特にアニメや マンガが好きというほどのこと もなく、ごく普通にアニメを見 てました。 「狼少年ケン」なんか が記憶に残っています。マンガ も時々、少女マンガを買っても らったぐらいかな・・・・・・。 ごく普 通に小学生、中学生時代を過ご した感じです。 ピアノなんかも 少し習ったりして。テレビとい えば、NHKの人形劇「八犬伝」 は好きでよく見ました。辻村ジ ュサブローの人形はいいなと思 います。先日も、「魔界転生」の ポスターが目的で、前売り券を 買って観ました。 「魔界転生」に 関して言えば、ジュリーも好き ですね、タイガースのころから。 「モナリザの微笑」「シー・シー・ シー」が好みかな。 高校生になって3年の時、友 達に誘われて、アルバイトでア ニメの仕上げの仕事をしました。 それがアニメに携わった初めて の作業です。作品は「スタージ ンガー」「宇宙戦艦ヤマト」など です。学校が終わるとアルバイ トをするという、変な生活をし ていた時期がありました。

高3の時、進学するのも たいへんだなあと思ってい たら、アニメの仕事が・・・・

アニメのアルバイトも意外と 続き、学校が進学や就職の話題 で持ちきりになった時期でもま だやっていました。私は進学す るのもたいへんだし、どうしよ うかなと思っていたら、アルバ イト先の人から、プロダクショ ンを紹介しようかと言われ、そ こで葦プロダクションを知った わけです。 葦プロダクションには新卒で 入ったことになります。最初は 仕上げの作業が中心で、動画の 練習をホソボソとしていました。 本格的に動画にタッチしたのは、 「くじらのホセフィーナ」でし た。 半年くらい続いたかな。高 校の時、美術系の大学を受けて もいいなと思っていたので、や はり、アニメでも原画を描きた いと思いまして、「ドンデラマン チャ」の動画の作業をやりなが ら、また練習に励みまして、「バ ルディオス」の途中から原画が 描けることになりました。そし て、現在の「ゴーショーグン」 に続きます。 原画を描くという 作業では、アクションにしても ギャグにしても、動きのある作 品を描きたいですね。家の中で 食事をしているというようなシ ーンはちょっと・・・・・・。最近では、 ケルナグールの妻とカットナル の母を描きましたが、私の原画 は全体的に見ると、男は女っぽ く、女は逆に男っぽくなってし まう傾向があるみたいですね。

これからも何でも描いて みたいけど、とりあえず休 暇がほしいな......!! 今、睡眠時間が3時間くらい なんです。 「ゴーショーグン」と 映画の「バルディオス」の仕事 がかさなったので。横浜から通 っているので、家には寝に帰る だけの生活になってしまって。 このところ休みもないから、と りあえず眠る時間がほしい。低 血圧なので朝起きるのもつらい ですね。少し暇というか、ゆと りがでれば、ロック音楽でも聞 きながら仕事をしたいですね。 今は仕事に追われているから、 音楽をかけようという気にもな れないですね。持っているレコ ードはロック中心で、60枚くら いかな。「クイーン」「ローリング ストーンズ」「矢沢永吉」が好み ですが、 ブンドルの耽美主義と 似ている部分があるかも..!?

Nachi Nozawa Feature

昭和五十六年九月四日の夕刻、東 京・水道橋の労音会館の玄関前に、 高校生、OLなどの女性を中心とし 長い列が続いていた。開場がすで に三十分以上もおくれているため、 行列は後の人たちに押されて団子の ようにふくれ上がっていた。 会館ホールでは、この日から始ま 劇団薔薇座”公演「グリース」 の舞台稽古がまだ続けられていて、 この舞台の演出者、〝薔薇座〟の総帥 野沢那智の叱咤する声が場内に響き わたっていた。やがて客入れとなり、 ロックンロール・ミュージカル「グリ ース」が、オープニング・ミュージック も高らかにスタート。期待に胸はず ませたヤングたちの視線が、一斉に 舞台に注がれた。井上和彦、戸田恵子 らアニメでおなじみの声優たちが、 薔薇座”の劇団員らと共に激しい ロックンロールのリズムに乗って、 ステージいっぱいに飛び跳ね、踊り、 歌い、躍動感あふれる世界を創り出 し、ドラマが展開していく。観客席 いっぱいのヤングたちは、三十分も たたぬうちにはや興奮し、手拍子を 打ち、体を前後左右に揺すって、舞台 と混然一体となり酔いしれていた。 そして、舞台はグングンとヤマ場に 向けて盛り上がっていく―。。 客席最後部にいた野沢那智の握り しめた拳に、知らず知らず力が入っ ていた。エンディングとなり、感動 した観客の割れるような喝采がいつ までもいつまでも続いた。ほおを紅 潮させ、興奮を語り合いながら帰っ ていく若い観客たちを送り出した後、 彼はポケットからタバコを取り出し て大きく一服すると、夜空を仰いで 静かにくゆらせた。 「…………やっぱり、やってよかった」 煙の行方を見つめていた彼の唇か らふと、そんな言葉がもれた。

あれは六年前のことだ。アメリカ 演劇をこの目でしっかりと確かめて みたいという、かねてよりの念願が やっとかなえられ、ニューヨーク・ ブロードウェイへ旅した時のことだ。 初日に、それが、ミュージカルで あることも知らずに飛び込んだ劇場 で上演していたのが、この「グリー ス」だったのだ。ロックンロールの 強烈なリズムに乗って、無名の若い 俳優たちが、若さをぶつけてエネル ギッシュに歌い、踊り、そして演じ ていた。 その柔軟な肉体、伸び伸びとした 歌唱力、それでいて的確で豊かな人 間の創造。……彼は目を見はって驚 いた。それは今までに感じたことの ない新鮮な驚きであった。 「これが、本当のミュージカルなの か!」。彼はこの時、この感動を何と しても日本の若者たちにも分かち与 えたい、いつかきっと自分の手でこ の「グリース」を東京で上演してみ せるぞ!と、震えながら心に誓っ たのだった。 あれから六年もかかったが、つい に上演権を買 い取り、東京 での上演にこ ぎつけること ができたのだ。

「……みんな よくやってく ダンスの特訓 に歌のレッス ン、そして、ド ラマの稽古。 みんなをムチ 打つようにし てやってきたこの三ヶ月のハードな 稽古を振り返ってみて、彼は思わず 感傷的な気分になっていた。 「さあ、次だ。次の公演の準備だ!」 彼はそんな感傷を振り切るように タバコの火をもみ消すと、足早に事 務所のほうへ消えていった。 この後、劇団若手の研究発表会、 そして、十二月にはアトリエ公演が 控えている。彼には片時のヒマとて ないのだ。

野沢那智、昭和十三年一月十三日、 東京は下町の浜町河岸で生まれた。 父は大衆小説家、母は小唄のお師匠 さんであった。 彼と演劇との最初の出 会いは、中学一年生の時。 母に連れられて、自宅近 くの明治座に新国劇を見 に行った時のことである。 舞台では、新国劇の両 雄、島田、辰巳が熱演し ていた。……だが、彼が 身を乗り出すようにして 見入ったのは、なんと役 者の演技ではなく、次々 に変わる大道具の転換で あった。一瞬にして屋体 崩し(セットが崩れ落ち ること)となり、セットが変わり、二 重舞台が回り、場面転換、背景が上 にとび(上がり)、左右にはける。た ちまちのうちに屋内が屋外に、冬景 色が春景色に変わる。まるで大仕掛 けのマジックを見る思いがした。 彼は家に帰るや、早速、ボール紙 やベニヤ板や割りばしを使って、い ま見てきたばかりの舞台のミニチュ アを作り始めた。どん帳(幕)も上げ 下げできるように作った。それ からの毎日は、まるで憑かれたかの ように、ミニチュアセットの製作に 熱中した。 と同時に、明治座通いが始まった。 学校から帰ると、カバンをほうり投 げるようにして明治座へ一目散。 母 のお弟子さんには役者さんが多かっ たので、楽屋への出入りは楽にでき、 楽屋番のおじさんたちともすぐに仲 良しになれた。明治座はたちまち彼 の勉強部屋か、遊び場のようになっ てしまった。 裏から見る演劇の世界は、客席で 見る感じとまるで違っていた。裏で 働く人たちは、役者とは違うところ で苦労し、工夫をこらして研究をす る。そうした裏方の苦労により、華や かな舞台が創り出されていくのを知 った。彼は急速に、舞台装置家にな る夢を育み始めていた。 中学を卒業、都立白鶴高校へと進 む。もと、良妻賢母教育で有名な女 学校、戦後、男女共学とはなったも のの、校風は伝統となって根強く生 き続けていて、生徒数は女子が圧倒 的に多く、男子は女子の半数にも満 たなかった。 彼は迷わず演劇部へ。ここでも部 員はもちろん、女子のほうが多かっ た。彼は、演出から舞台装置や照明、 そして役者と、忙しく駆けずり回っ た。彼のユニークな活躍ぶりを見て、 先生が朝礼の訓辞に、彼の多才な活 動ぶりを取り上げて絶賛したほどで あった。 「いやあ、あれがいけなかったんで すね......」と、彼は当時の〝熱狂 " ぶりを思い出して苦笑する。先生に ほめられたばかりに、ますます調子 に乗って学業を怠り始めるようにな ってしまったのだ。午後の物理や数 学の授業などはもう出席せず、裁縫 室に立ち込もり、タチ台を舞台にし て、演劇の稽古に熱中。「彦市ばなし」 などを上演した。 担任の先生もそれを半ば認めて、 しかりもせず好きにさせてくれた。 彼はそれをいいことにますます授業 をサボリ始め、演劇活動をしていた。 ・・・・だが、当然の結果として、やが 無残な日が訪れることになる。 期末試験。物理、生物、数学は白 紙答案。問題そのものがなんのこと やらわからないのだから、答えられ るはずもなかった。重ね重ねの追試 も結果は同じ。彼に好意的だった先 生でさえ、あきればててしまったよ うだ。そして、3年生の時の学園祭 でのことだ。クラスで何かハデなこ とをやろうということになった。 の発案で、浴衣姿で盆踊りをやろう ということに衆議一決。 学園祭の前 夜、やぐらを組んだ。当朝、出勤し てきた校長と教頭は腰が抜けるほど 驚いた。真っ白に化粧して、真っ赤な 口紅をぬった女生徒たちが、裾から 赤い蹴出しをチラチラさせて、浴衣 姿でウロウロしているではないか。 良妻賢母教育で有名な我が校の伝統 をけがす一大事件発生・・・・・・とばかり に、真っ青になった教師たちの手に よって、たちまち、やぐらは崩され、 生徒たちは制服に着替えさせられて しまった。 一度は、活動的で個性があり、 力もある高校生として絶賛された彼 であったが、今度は白紙答案の劣等 生、伝統ある校風を乱すフラチな生 徒として、放校に近い退学勧告を受 ける身となってしまった。 学校側の呼び出しに、母は驚きも せず、しかりもせず、素早く転校先を 見つけてくれた。「もう、これ以上お ふくろに心配かけさせるのはやめに しよう。今度こそ、一生懸命勉強す るぞ!」と心に誓って転校してみ たら、新しい高校は何をやってもい っさいおトガメなし、授業はサボル のが当たり前のよう。それどころか、 エスケープをクラスメイトに誘われ て、断ったらブンなぐられた。いつ しか誘われるままに授業をサボリ、 盛り場などをウロックようになって、 補導を受けるようにもなってしまった。 こんなことをやっていたら、おれ はダメになる。といって、演劇活動 に打ち込みたくても演劇部もない。 「そうだ!どこかの劇団に飛び込 んで、プロの演出家になる修業をし よう」と、真剣に考え始めた。 折しも受験期、母親たちは、早稲田 大学への進学を執ように勧めるよう になってきた。父も兄たちも、早大出 身だったからだ。彼は劇団に入るこ と主張し、あくまでも大学進学を 拒み続けたが、両親たちは頑として それを認めてくれようとしなかった。 火の気のない部屋に閉じ込もり、 彼は自問自答した。「おれの人生はだ れのためにある。おれの人生はおれ のものだ。おれの人生は一回限り。 おれの人生はおれが決めるのだ。お れから演劇を取り上げたら何が残る だろう。おれは演劇の世界に生きる しか能のない男だ」。青年だ!やり たいことをやれ、人間一匹、どうやっ たって生きていけらあ・・・・・・。そう考 えたら、あっさり結論が出た。 「母さん、ゴメンよ……」とつぶや くと、ボストンバッグ一つ抱えて、 彼は家を飛び出した。 外は凍てつくような寒さだったが、 その夜は東京には珍しく、星が降る ようにまたたいていた。 以下次号。

(文中敬称略)

Mourning Yoshinori Kishimoto

去る十月二日、日本サンライズの代表取 締役社長 岸本吉功氏が心不全のために急 逝されました。弊誌では、高千穂遙氏の追 悼文をもって氏の偉大な足跡をしのぶとと もに、哀悼の意にかえさせていただきます。 氏の御冥福を心からお祈りいたします。 ぼくのように他人の顔や名前を覚えるのが 苦手な者にとって、岸本吉功さんとの出会い はすでに忘却の彼方にあり、いつどこで最初 に言葉をかわしたのかは、もうまったく記憶 にはない。 ただ、これだけははっきりしていることだ が、ぼくが岸本さんと二人きりで会い、仕事 の打ち合わせをしたのは、わずかに一回きり だということである。他の人を交えて話をし たのも、おそらく五回とはないだろう。 さほど親密な間柄ではなかったのだ。 しかし、ある意味では岸本さんは、ぼくと きわめて密接なつながりを持っていた。いさ さか極論になるが、ぼくの一部分をそっくり 岸本さんに預けてあったといってもいい。 ぼくの発表した作品のアニメ化権は、日本 サンライズに委託してあるのだ。 ぼくが現在、唯一信頼し、関係を保ってい アニメ制作会社は、日本サンライズのみで ある(スタジオぬえは、まったく別。ぼくは ぬえの役員だが、SF作家としての高千穂遙 はスタジオぬえからは独立している)。 そして岸本さんは、日本サンライズの社長 だった。 日本サンライズが天国のような会社だとは、 ぼくは思っていない。むしろ、その逆で、か なり根性を据えてかからねばならない大変な 会社である。小さな花はなんとかいくつか咲 くが、それがなかなか大きな実になってくれ ないのだ。実にならないという結果は、ぼく たちにいうにいわれぬ無力感を抱かせた。 しかし、問題はあきれるほどの難産の末に 咲いた花が、けっこう魅力的で美しいという ことだった。 これが、ぼくを日本サンライズにひきとど める最大の要因となった。 日本サンライズには花を育てる名手がいた。 富野喜幸、長浜忠夫、安彦良和の三氏である。 それぞれ立場、思想の異なる三氏だが、ぼく がかれらから得たものは驚くほど大きい。そ して何よりも、注目すべきことは、かれらが 日本サンライズで長く仕事をつづけていると いう事実だった。 労働面についてのみいうならば、はっきり いって日本サンライズの条件はあまり良くな い。企画は滅多に通らないし、通っても五時 台などという信じがたい時間帯だし、予算も 耳を疑うほどに低かった。 なのにかれらは日本サンライズにいるのだ。 いや、いるだけでなく、作品としてのエポッ クをきわめようとまでしていた。 日本サンライズの日本サンライズたるとこ ろを見たのは、「ザンボット3」の制作過程で のことだった。 異例の時間帯、低予算、地方キー局。 いい 材料がひとつもなかったこの作品の条件を逆 手にとり、富野喜幸氏をトップとするこの作 品のスタッフは常識破りの大バクチを打った。 一貫したストーリーを事前に確立し、しかも 主人公のグループをアンチ・ヒーローとして 描いたのだ。そしてつくったスタッフもスタ ッフなら、この設定を呑んだ会社も会社であ る。「ザンボット3」は制作され、放映された。 これが、いかに画期的な名作であったかは、 見た人ならばすべて御存知であろう。 長浜忠夫氏も存分に腕を揮った。「闘将ダイ モス」ではついにロボットが三十分間一度も 登場しない話をつくるという快挙をやっての けた。作品が一つの完結したストーリーを持 つのならば、ロボットものとはいえ、ロボッ トが登場しない回があっても不思議ではない のだが、しかし、これはやはりタブーであっ た。そのタブーを長浜氏はあえて破り、日本 サンライズはこれを認めたのである(「ダイモ ス」は東映の下請け作業だったから、あつれ きは想像以上にあったのではないかと思われ る)。 いってみれば、日本サンライズは破天荒な 会社だった。条件面は破格に悪かったが、か わりに与えてくれる機会も、また破格であっ た。 こういった会社の性格は、その要となる社 長の性格によって決まる。良くも悪くも岸本 さんのキャラクターが、会社のカラーに反映 されていたのだ。それは、クリエイターにし てみれば、意外になじみやすい性格であった。 読者の皆さんにはとくに言っておきたい。ク リエイターは、金のためだけではけっして良 い仕事をしない。クリエイターは自分の創作 意欲の具象化のためにのみ良い仕事をしよう とする。日本サンライズは、それをさせてく れた。皆さんが高く評価している多くの作品 は、岸本吉功という人が社長をやっていた日 本サンライズがあってこそ生まれたのである。 これを絶対に知っていてほしい。 演出家もアニメーターもライターも仕上げ の人も、すべて素晴らしいクリエイターたち だ。だが、かれらクリエイターたちが素晴ら しい作品をこの世に残すためには、岸本吉切 という人がいなければならなかったのだ。 通夜の二日後、岸本さんと「クラッシャー ジョウ」とのことを聞かされた。しばらくプ ロデューサー業から遠ざかっていた岸本さん だが、死の直前まで、「クラッシャージョウ」 のアニメ化は俺がやるのだ、と言っていたそ うである。そういえば、ただ一度、岸本さん と二人で打ち合わせをしたのも、「クラッシャ ージョウ」のレコード化の件であった(アニ メ化は、ここから発展した)。 病床で、ぼくの書いたシナリオを読み、安 彦さんの切ったコンテを検討して、岸本さん はアニメ映画「クラッシャージョウ」の完成 に思いを馳せていた。 「クラッシャージョウ」は、岸本さんの遺作 となる。

Coverage of "Urusei Yatsura" in 1982 (Animage, The Anime, My Anime, Animedia)

This post will consist of the coverage in various magazines for "Urusei Yatsura" and preliminary coverage for the first movie, ...